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2011年4月7日木曜日

日本周遊紀行(111)松浦半島 「松浦党」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 日本周遊紀行(111)松浦半島 「松浦党」  .



邪馬台国の時代、この辺りを「末羅国」(まつらのくに・松浦の国)と言った・・、

唐津湾の西側を玄界灘に向かって突き出ているのが、松浦半島(東松浦半島)である。 
この最先端に「呼子」といういう港がある。 

海辺は深く入れ込んで江を造り、浦の両側には山が迫っている。正面には加部島(かべしま)があり、この大きな島が、外洋の風波を避けるために衝立のように港口をふさいでいる。 
こちらの港町も、壱岐、対馬伝いに大陸に向かう古代の交通の要衝だったという。 

江戸期には、廻船が行き交う港町として栄えたところであり、今は入り組んだ入江に大きな照明灯を付けたイカ釣り船が並び、漁港としての朝市も盛んだという。 
呼子大橋を渡ると加部島、江戸期には捕鯨も行われたところでもある。
 

又、北九州のこの辺りは、往年、「松浦党」なる海人、水軍の割拠した地域であった。
松浦氏、松浦党という名称の由来は、歴史上に登場する松浦の地名から生じたことは疑わない。 
現在の地域区分は、長崎・佐賀両県にまたがる東西両松浦郡、及び南北両松浦郡で、ご丁寧に東西南北の松浦郡が存在する。
地名称も松浦半島、松浦市、松浦川などに見られる。 

歴史的に見てみると松浦とされていた地理的範囲はかなり広域だったようで、東西両松浦郡を上松浦、南北両松浦郡を下松浦と呼ぶこともあるらしく、広域には壱岐や五島列島の方まで達していたとされる。


松浦」の呼称は、「まつうら」が一般的であるが、往年の長い間、「まつら」と呼ばれていたようである。 
古代「魏志倭人伝」(中国の魏の史書、日本古代史、弥生期に関する事が納められた最古の史料)には日本を「邪馬台国」(やまたいこく)と称し、この辺りの地方を「末羅国」(まつらのくに)と記されている。

松浦氏は、平安中期の11世紀頃、摂津国(現在の大阪府)渡辺庄の渡辺氏が、肥前国松浦郡の今福(現在の松浦市今福町)に下向し、この地の統治者となって松浦と称した、という見方が一般的とされる。

一方、東北の陸奥の戦乱(前九年、後三年の役)で滅ぼされた安陪氏の支族が福岡・宗像の大島辺りに流されて、それが松浦党の前身であるとの説もある。 


いずれにしても松浦党は海や船のことに関しての知識や技術はかなり発達し、地域、地形的にも海人たちの絶好の住処であったため、松浦党は日本水軍の創始者とも言われている。

松浦党は、平安期は平家の家人となっていたが、日本の歴史上一つの山場となった源平合戦の時は、平氏側として水上戦においてはかなり源氏を苦しめたとされている。 
しかし壇ノ浦の戦いでは源氏側に寝返ったとも言われている。 

その後、鎌倉幕府が成立し鎌倉時代となるわけだが、本来なら、源氏と敵対していたわけだから、処罰を受けてしかるべきなのに、逆に、領土の安堵が成されている。
これは源氏側への寝返りの結果こうなったのか、あるいは松浦党が大多数の集合体(武士団の連合・水軍)であったために、統治者・惣領(中心となる人物、又は、領主)がいないため、責任を誰に押し付ければよいのか幕府側も判らなかった為ともされている。

ただ、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり「地頭」となるが、源頼朝は元平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして島津氏、大友氏を守護として九州に送ったのである。

その結果松浦氏は、同じ環境の秋月氏(平家の家人だったが、壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付いた)などと同じく、これらの新参の東国御家人の所謂、「下り衆」と言われるの統治者の傘下に置かれることになる。


鎌倉中期に、「元」の国から二度にわたる襲来を受けた「元寇」の時も、松浦党は最前線の防衛の役割を担い、そのせいで一部では多大な損害を受けた。 
後に鎌倉幕府に恩賞を求めたりしたが、これも全体の統治者が不確定のためか・・?、
幕府側の対応は厳しく、松浦党側としては不納得であった。

これらが要因かどうかは疑問もあるが、松浦党の武士たちは朝鮮半島や中国沿岸で海賊的な行為をするようになる所謂、「倭寇」として怖れられることになる。
だが後には、対朝鮮との正式な貿易が以前にも増して大きく展開し、国の発展の基となる。 

そして日本は戦国時代を迎え、豊臣秀吉が天下統一を達成した後、それだけでは飽きたらず周りの反対を押し切って、二度にわたる朝鮮出兵を断行する。
この朝鮮出兵に関しても、松浦党は朝鮮本土まで渡り、激しい戦いを繰りひろげたとされていて、ここでも、一族の多数の者が戦死したとされている。 
これにより連合的武士団の松浦党もいくつかに統合され、平戸藩主となった松浦氏(初代藩主・隆信)が、その後中心となって江戸初期(平戸藩6万3千国石)から現在に至っているという。
尚、松浦氏、松浦党に関しては、後ほど更に述べる予定です。

次回は、その朝鮮出兵の拠点、松浦の地元・「呼子の名護屋



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