日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「瑞巌寺」
写真上より:瑞巌寺参道、本堂、石窟群
松島を一段と輝くものにしているのが「瑞巌寺」であろう・・、
先ず、「瑞巌寺の歴史」について・・、
海岸の五大堂に対して、国道を隔てて「瑞巌寺」がある。
年輪を重ねた大杉木立の真っ直ぐな参道を行くと、大きなお城の様な御堂が在った。
「瑞巌寺」(ずいがんじ)は東北地方切っての名刹であることは周知であるが、寺の名称は初め延福寺として開山している。
後に臨済宗・円福寺となり、現在の松島青龍山瑞巌円福禅寺すなわち「瑞巌寺」となったという。
執権統治者も時代によって推移し、奥州藤原二代・基衡から執権北条時頼、仙台藩藩祖・伊達政宗らの名を連ねる。
創建開祖は平安初期「円仁禅師」(慈覚大師)によるものである。
「円仁」は下野(栃木県)の出身で、少年期に比叡山・延暦寺に入山し、伝教大師・最澄の弟子になっている。
その後中国は唐に渡り、五大山で9年間修行を積んでいる。
帰国後、延暦寺の座主となり、諸国遍歴の後、71歳で没しているが、直後、生前の業績によって、円仁に日本で初の大師号・慈覚大師の法号が授けられた。
東国巡礼の旅に出た時を縁に日光山、立石寺、中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、恐山の円通寺、そして、ここ瑞巌寺など、開祖(または中興)とされる有名古刹が数多くある。
平安末期の奥州合戦の際に瑞巌寺(当時は延福寺)は、頼朝の命により義経(源頼朝の実弟)を三千の衆徒で護摩を焚いて呪詛 (じゅそ:うらみに思い相手に災いが起るよう神仏に祈願すること。まじない、のろい) したと伝えられている。
そしてその後、奥州平泉の藤原家は陥落している。
瑞巌寺(円福寺)が最も隆盛を極めたのは室町期で、当時の大伽藍の規模は今の松島海岸と周辺山域一帯がそうであり、東北最大の禅院として栄えたという。
その後は次第に衰え、戦国末期の頃は極度に荒廃していたという。
現在の瑞巌寺の中心は、その当時の境内の北西隅の一角にすぎないとされる。
鎌倉期より縁のあったのは伊達家であり、戦国期の伊達政宗が再建を決したのは慶長9年であった。
正宗、自ら縄張りをして円福寺の再興に着手し、足掛け5年の歳月をかけて今の瑞巌寺が落慶している。
造営にあたっては、紀州熊野から海路で用材が運ばれ、京都や根来衆(ねごろ)から名工130人が集められたという。
本堂内部は桃山様式の粋を尽した作りで、彫刻や襖絵は絢爛豪華、総欄間の彫刻は極彩色で飾られている。
堂内の袖部(そでぶ:本堂、礼拝堂以外の部分)は十数の部屋が仕切られている。
その為、巷(ちまた)では瑞巌寺は伊達家・仙台城(青葉城)の第二の居城、仙台藩の軍事要塞の出城ではないかとも云われていた。
正面に位置する松島湾は暗礁(平均水深10mとも・・)が多くあるため、外来者にとっては航行が困難な海域であるとされた。
そのため、江戸時代には伊達政宗によって暗に「軍港」と見なされ、瑞巌寺を始めとした伊達家直轄施設が軍事施設としも多く建設されていたという。
因みに、松尾芭蕉が、松島を始めとして仙台藩の城や要害、関所などの主要軍事施設を見回っていることから、隠密であるという風説もある。
その為か芭蕉は風光明媚な松島を愛でるどころか、この界隈の施設巡視に夢中になり、松島の美景の一句も詠めなかった、とするのは憶測のし過ぎか・・?。
次回は、瑞巌寺の高僧
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