佐竹氏の居城・久保田城は城址として千秋(せんしゅう)公園内にあり、現在は、本丸の正面に「一ノ門」が復元されている。(幕府・徳川氏に遠慮して天守閣は造らなかったという)
日本周遊紀行(21)秋田 「佐竹氏とおばこ」
「秋田」については、前述したが開祖は佐竹氏である。
その佐竹氏について・・、
源氏の清和天皇を祖にする新羅三郎義光(兄は奥州の変=前九年の役=で奥州へ遠征した八幡太郎義家)は平安後期の勇猛武者であった。 義光は知謀に富み、武勇に優れ「京」の都の中央官職として任務に当っていた。
その長男「源義業」(みなもとよしなり)に佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を配して、義業は佐竹と称していた。
その後、源氏の威光を持つ佐竹氏は治政(治世)、軍政を盛んにして、ついに常陸全域から会津地方、現在の福島南部も手に入れ、全国でも有数の大名に成長してゆく。
戦国期、秀吉の「小田原攻め」(小田原・北条氏政)の時、佐竹義宣はこれに参戦、後に秀吉から54万石の朱印状を貰い、更に加増されて佐竹家一族は80万石の大大名となった。 しかし豊臣秀吉死後、徳川家康が頭角を現し、「関ヶ原合戦」へと時は流れてゆく。
1600年、家康と石田三成らの豊臣方の軍とで関ヶ原で、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分れて戦った。
秀吉から54万石の大封を戴き、子飼(こが)いの石田三成などとも親交があり、その恩義を忘れ去ることは出来ない。さりとて先見の明ある義宣には、東軍・家康の勝利に終わることが必定(ひつじょう)と認識していたらしく結局、義宣は天下を分けた関ヶ原の戦いにも逡巡の末、あえて鳴かず飛ばずの態度で終止したといわれる。
その後の家康の文書には「上杉、島津、佐竹は敵」と書き残っている。
結局、関ヶ原が終わってから2年半以上も経ってから「秋田転封」が決せられるのである。 家康の「佐竹義宣」評を 「今の世に佐竹義宣ほどの律儀なものは見たことが無い、しかし、あまり律儀過ぎても困ったものだ」 と言わしめたという。
国替えの命を受けた義宣は、禄高不明と先行き不安のなかで、最小限の家臣を随行し、慶長7年(1602)、出羽の国に到着したという。
天下を分けた関ヶ原で不覚をとり、心機一転して悲壮感のこもる義宣の秋田の国づくりが開始されたのである。
秋田は古くから米どころとして名高く、「秋田こまち」で知られる。
又、美味しいお酒の産地としても知られている。 だがなんと言っても、秋田と言えば「秋田おばこ」と言うくらい、美人が多いことでも有名である。
小生の知ってる秋田出身の美人の中でも「藤 あや子」は代表格と思える、ポッチャリした瓜実(うりざね)、こけしの様な丸顔で、何より色が透き通るように白く、いわゆる餅肌である。 一般に、秋田美人は、鼻の尖った研ぎ澄まされたような顔ではないようだ・・?。
「秋田音頭」に・・、
『秋田のおなご、なんしてきれだと聞くだけ野暮だんす、小野小町の生まれ在所、おめはん知らねのげ』 と歌われている。
小野小町は秋田美人の祖である。
小野小町は平安時代の伝説の歌人であり、その美貌はクレオパトラ,楊貴妃とならんで,世界三大美人といわれる。
小野小町は県南 雄勝郡雄勝町福富桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)で生まれたと言われている。 父は出羽の国の郡司として京から赴任してきた小野良実,母は土地の豪族の娘・大町子とされている。
二人の間に生まれた娘は「小町」と名付けられた。
福富の荘はいつしか「小野の里」と呼ばれるようになったという。 このようなことから,当地は小野小町の出たところ「小町の郷(さと)」として,全国的に有名になり,今なお,小野小町はこの地に息づいている。
「秋田美人、秋田おばこ」と言われるには俗説、通説があるようだが、確説はないとされる。 しかし、これら総合したものが秋田美人と言われる所以かも知れない、「秋田美人のウェブサイト」もあるくらいである。
常陸の国(茨城)は、京との繋がりも深く古来美人の国だった。
それが、佐竹氏が徳川家康により、常陸から出羽国秋田へ国替えになったとき、佐竹氏を慕って常陸の国中の美人という美人が秋田へ行ってしまったという。
それ以後、秋田が美人の国になり、常陸の国はカスばかりになってしまったという、これは俗説であろう。
些か時代調になるが・・、
東北が西日本の大和政権に屈服、征服される前までは、東北は「内なる外国」として位置づけられていた。 そこでは独自の文化が存在し、そして大和政権に抵抗し続けた蝦夷・エミシを中心とする国家が形成されていた。
西日本は弥生人系、つまり渡来系で中国、朝鮮半島の人種で、どちらかというと黄色系の顔立ちである。
対して東北人は縄文人系の顔立ちが多いと言われ、その蝦夷の原点は縄文人なのであり、古来より大陸系と繋がりが多い。 一部ではユーラシア北部の民族が北日本日本海側に移住し、混血したためとも言われる。
元々、縄文人は魚貝草種を主食とし、季節的にも雪の多い風土であり、こんな縄文的風土が色白で、きめ細かい肌の「秋田おばこ」(秋田小町、秋田美人)を多く育くんだ、という説は説得力がある。
田沢湖畔に伝説の美女の「辰子姫の像」が立っている。
辰子姫は秋田美人の代表とされ、秋田出身の文章家の野口達二氏は、喩えて『 ふさふさした黒髪は,黒鳥の濡れ羽のように艶やかであった。つぶらな瞳は,うるおいがあって碧い湖のような神秘な光を底にたたえていた。すうっと通った鼻筋は,雪をいただいた白くたおやかな峰のように人を引き付ける気品さがあった。また,桜の花びらのような唇は,愛らしく,なんとも魅惑的であった。そして餅のような肌は,なめらかで,透き通るように白かった。 』 と美文で描いている。
田沢湖に立つ「辰子像」のイメージである透き通るような白い肌は、老女になっても変わらないのである。
『秋田音頭』 秋田県民謡
コラ秋田音頭です
いずれこれより御免なこうむり音頭の無駄を言う
あたりさわりもあろうけれども
サッサと出しかける
コラ妻君ある御人
秋田に来るなら心コ固く持て
小野小町の生まれ在所
美人がうようよだ
コラ秋田の女ご
何してきれいだと聞くだけ野暮だんす
小野小町の生まれ在所
お前(め)はん知らねのげ
次回は「男鹿」
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