2011年9月16日金曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐八幡・応神天皇」

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐八幡・応神天皇」   、




神社の数のランキングは1位・稲荷神社、2位・八幡神社、3位・神明神社・・、

日本で一番多くある神社はご存知「お稲荷さん」であるが、では二番目に多い神社は?と聞かれたとき、すぐに答えられる人は余程の神社通といわれるが・・?。 

全国の神社のおよそ三分の一、実に3万社が八幡神社だという。 
関西では京都・岩清水八幡宮そして関東では鎌倉・鶴岡八幡宮が代表的に知られているが、その大元締めともいえる総本社が宇佐市にある宇佐八幡宮(宇佐神宮)で、日本史の中では八世紀頃に最も注目を集めた神様だと言われる。


現在の場所に宇佐神宮が正式に鎮座したのは西暦725年(神亀2)頃と言われている。 
その時の主祭神は応神天皇(誉田別尊・ホンダワケノミコト)であり、歴代天皇の中でも「神」という文字が「贈り名」(諡号・人の死後に、その徳をたたえて贈る称号)に含まれている三人(神武、崇神、応神)のうちの一人で、古代史の中でも別格の存在なのであるという。

その母親が、三の御殿に祭られている神功皇后である。 
次に731年に祭神となったのが比売大神であり、いずれも太陽や海あるいは航海を司るのに縁のあるカミサマである。 

では、何故、神功・応神親子と海のカミサマを一緒に、お祭りする必要が当時の九州にあったのか・・?、その理由は、かなり明確に分かっている。



三韓征伐」について・・、
三韓征伐とは、神功皇后が行ったとされる朝鮮半島の新羅への出兵を指し、新羅が降伏した後、三韓の残りである百済、高句麗の二国も相次いで日本の支配下に入ったとされる。

このことは、4世紀後期ごろから倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されていて、倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦っていたことも記されていて、史実を反映したものとする評価もある。


時代は下って、記紀(古事記、日本書紀)などの記述によれば、神武以来、国内全土の平定が紆余曲折を経て進められていたが、7世紀頃には大陸で巨大な統一国家(中国・唐)が生まれていて、強力な先進文明を背景とした大陸、半島勢力が何時、日本本土へ進攻してくるかが問題であり、これが日本の実情でもあった。 

7世紀後半には、その余波をもろに受けて朝鮮半島内が大混乱となり、相次ぐ戦乱、国家の盛衰が日本にも影響をもたらしてきた。
戦乱の結果、今からでは想像もできない規模で人・モノ・技術(それはいかにも文化そのものといってもよい)の流入があり、次に起こり得る事態に備えなければならなかった。 

現実の大問題が発生したのは633年に起こった「白村江の戦」(はくすきのえのたたかい:前記)であり、唐・新羅の連合軍に敗北(百済と日本の連合)を喫した後、日本は半島への足がかりを全く失うことになり、今度は逆に、半島からの進攻を防ぐ手段を真剣に考慮しなければならない事態になった。


政治の中枢に居る人々は先ず、九州の守りを固めるべきだと九州の地に出来る限りの防御陣地を築き上げ、(今でも九州福岡の各地に遺構が残る) 尚かつ最も威力のある「守護神」を最前線に建て、国や土地を守りぬく必要があった。 

その守護神として、神功皇后の三韓征伐を実績に、その帰路の途中に生んだとされる応神天皇(現世の初代天皇ともいわえる)が祭られ、武神として崇めたといわれる。 
幸いなことに宇佐に祀られることとなった応神天皇の威光は強力新たかなもので、異国からの進攻によって国内が混乱することもなく、表面的には平和な日々が続いたとされる。


その神功皇后とは、応神天皇の母ということになっているが・・、
神功(じんぐう)皇后は、戦前は教科書にも登場する古代の女帝であり、皇后は妊娠中でありながら朝鮮半島に出陣し、新羅を討ち、また百済・高句麗をも帰服させて日本の支配下においた。(神功皇后の三韓征伐) その帰国後に応神天皇を産むことになる。 


応神天皇については、日本が未だ倭国又は邪馬台国と言われた三世紀頃、神功皇后の下で若くて摂政職を賜り、後、第15代の天皇となり史的にも実在性が濃厚な最古の天皇といわれる。 
応神天皇自身も、何かしら大陸との関係があり、大陸の史書によれば、倭国の朝鮮侵出を指揮したのは応神天皇の可能性も指摘されている。

又、応神天皇は、神功皇后の三韓征伐の帰途中に宇瀰(うみ、福岡県宇美町)で生まれたとされていて、成長して大和入りを果たす。 
この事は神武天皇の東征伝説と似通っていて、応神天皇は大阪の「河内王朝」の始祖と見なす説などもある。 
現在、墓陵は大阪府羽曳野市誉田六丁目の誉田御廟山古墳(前方後円墳)がある。  


この時代、海に面したこの地は、大陸との交通も盛んで朝鮮半島から多くの渡来人が渡ってきて、水田開発や酒造などの技術や文化が伝えられたともいわれる。 
その王朝の守護神が住吉大社(住吉三神を奉る)で、神功皇后が加わって御祭神となっている。 
実際の遣隋使や遣唐使は、住吉大社で住吉大神の加護を受け、住吉津(現、大阪浪速)から出発したとされる。


引き続き「宇佐神宮






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2011年9月15日木曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・祭神」

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・祭神」   、




写真:宇佐神宮拝殿(三社祈祷殿)、この奥に八幡造りの本殿が鎮座する




宇佐神宮の主祭神である比売大神は、「女王・卑弥呼」であった・・?

さて、祭神は左社殿(写真)から一の御殿は「応神天皇」(おうじんてんのう:八幡大神)を、中央に位置する二の御殿には「比売大神」(ひめのおおかみ:三女神)が、そして右手の三の御殿には「神功皇后」(じんぐうこうごう)をお祀りしている。 

尚、神宮皇后と応神天皇は母子関係にある。


ここで気が付くことは、最も大きく豪華なのが比売大神の社殿で、意外にも八幡神と同一視されている応神天皇ではない。
やはり太古に降臨し、宇佐を開いた国造(くにのみやこ)の最初の神ということで主神なのであろう。 

この神は三人一組の女神で、元々、比売大神は「宗像三女神」とも呼ばれ、アマテラスとスサノオの娘とされている。 
因みに、彼女達は普通の生まれ方をしていない。 スサノオが持っていた剣を姉のアマテラスが三つに折り、そこから生まれたという。 このことから彼女たちはアマテラスの娘であるとも言われる。 

神宮の資料館にある絵には、三人とも古代の剣を持っている。
この宗像三姫の末姫・市杵嶋姫(イチキシマヒメ)が邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)と言う説もある。 つまり、宇佐神宮の主祭神・比売大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのではと。


宇佐神(八幡神)は応神天皇の神霊であると言われ、一の御殿に祀られているが、拝殿の配置を見ると中心に祀られているのは比売大神で、最も大切に祀られているのが判る。
つまり、応神天皇と神功皇后は比売大神を守る形で左右を固めているように見える。

そう考えると二神ともに八幡であり「武」に関係の深い神であることから、この配置は比売大神を守護しているのだとも考えられている。
比売大神は、筑紫の国(現、宗像市)宗像大社の三女神の主神として祀られていることは周知で、海、航海の安全の神として信仰を集めている。


ところで皇室は、奈良期以降の千数百年の間、ほぼ五年に一度勅使を宇佐に派遣しているという。 
この間、近くの伊勢神宮には参拝せず、国家の大事や天皇の即位時には真っ先に宇佐神宮に勅使が必ず派遣されるという。 
これを「宇佐使い」と呼び、現在も十年に一度、勅使参向(勅祭)が行われている。


宇佐宮は、大陸・朝鮮半島には近い地域にあるが、王朝(大和)の在位する地からは比較的遠い。 にもかかわらず古代から最も多く「天皇の御使い」つまり勅使の奉幣・奉告などが定期的に行われた。 
なかでも最も重要視されたのが、天皇の即位の奉告であり、これを「和気使い」とも言っている。

因みに京の石清水八幡宮に祀られている神は、正殿では中央の神殿に主祭神である応神天皇が置かれ、左右の神殿には西に比売大神、東に神功皇后をお祀りしているという。 
何故か宇佐宮とは違い、比売大神と八幡神の位置が入れ替わっているのである。 

つまり、宇佐の比売大神は京都には行かなかった、というより必要がなかったのである。 
石清水八幡宮は、あくまで京を鎮護するために宇佐の神を勧請されたもので、守護神である八幡宮が主神なのである。 
孫神とされる「鎌倉八幡」やその他、全国の八幡社も概ね、主祭神を応神天皇としているのである。 

尚、応神天皇は別名で誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)ともいわれ、各地の八幡社では誉田別尊を祭神としている場合も多い。

つまるところ、宇佐宮は本来、比売大神が地主神であり、女王・卑弥呼の墓所ではないか・・??、と考察される所以なのである。 


卑弥呼についての人物評として、国内においては歴史上特定されてなく諸説あるようだが、「魏志倭人伝」では日本の弥生時代後期において邪馬台国を治めた倭国の女王(倭王)であり、封号(国家が近隣の従属国の君主ないし周辺諸民族の首長に対して傘下に置くために授与した称号のこと、爵号ともいった)は「親魏倭王」と表記されている。
邪馬台国つまり九州王朝の女王とする見方もある。
このため崩御された後は九州の地主神とされ、宇佐神宮の主神となり、この地に墓稜として眠っているとされる。 

更に、「邪馬台国の主要地は宇佐地方である」と言う説も有力で、高木彬光の小説「邪馬台国の秘密」は、宇佐神宮の亀山が前方後円墳であり、これが卑弥呼の墓であると書き、上宮の三之神殿の手前の白砂の中に、卑弥呼の棺が眠っていると熱っぽくと説いている。
そのため、現在でも熱心な信奉者がいるという。 

従って、比売大神は各地に遷座することなく、遷座する必要もなく、強いて言えば、皇室がさせなかったともいわれている。 
比売大神をそれほど大切に祀るということは、皇室の先祖として遇してきた。 つまり、宇佐宮は皇室の始祖の墳墓の地ということになり、歴史上における皇室の大祖ということになるのである。


後述するが「和気清麻呂」が、なぜ伊勢神宮でなく宇佐神宮へ来たのか・・?、 
宇佐に天皇家の宗廟が置かれているのはなぜなのか・・?、 
宇佐地方は天皇家にとって古代にどれほどの聖地であったのか・・?、 
平城京から近いのは伊勢神宮のはずなのに、清麻呂が伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かうのはどうしてなのか・・? 
万世一系が途絶えるかもしれないお国の一大事に・・??。

これ等の謎が幾分かは解けたようだが、更に清麻呂の宇佐使いについては後ほど。

次回は、宇佐宮・「応神天皇




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2011年9月14日水曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・参道界隈」

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・参道界隈」   、



宇佐鳥居
写真:宇佐神宮参道と鳥居(二の鳥居)



全国八幡宮の総元締・「宇佐八幡宮」は、国東半島・六郷満山仏教の源流でもあった・・、

宇佐I・Cから案内板に従って「宇佐神宮」へむかう。 
ナビで確認しながら至近に来ているようではあるが町並みは全くの普通で、特に社寺町といった重々しさは感じられない。 
ほぼ10号線に面して、平坦な地に忽然とその(おやしろ)が姿を現した。

先ず、巨大な駐車場が目に入る。 その横に並んで、初めて門前町らしいお土産横丁が店を並べている。 
土産横丁が途切れたところから、いよいよ大鳥居をくぐり境内に入る。とはいってもこの大鳥居は外境内(第一の鳥居)の門である。 

こちらの一角には、何故か古きよき時代の・・?、蒸気機関車が陳列されている。 
この機関車は明治24年にドイツでが製造され、宇佐参宮線の主役となっていたらしいが、昭和40年8月に廃線、廃止になているという。

道なりに右へ曲がると境内を取り巻くように、清流・寄藻川(よりもがわ)が流れる。宇佐神宮の神域を流れる川で、末端は周防灘に注いでいる。 
朱色の欄干に、僅かに弧を模(かたどる)った「神橋」を渡ると、第二の鳥居がある。

大きさ、形状とも第一の鳥居と殆ど同じであるが、宇佐の鳥居の特徴は「八幡造り」といって、上部両端が湾曲して天に跳ね上がっているとこであろう。 
これは伊勢神宮の水平でシンプルなのに比して、こちらは重々しさを感じる。 
気が付くと普通の神社にある、社名を刻んだ額名がない、それだけ、古式を表しているともいわれる。

鳥居の手前右手に、ちんまりした朱色の黒男神社(くろおじんじゃ)がある。 
御祭神は武内宿祢命(タケノウチスクネノミコト)で、この神子は景行天皇(第12代天皇・日本武尊ヤマトタケルの父君)から仁徳天皇(第16代天皇:名前の通り仁徳であったらしい)の五代の天皇に240余年もの間、大臣参謀として仕えたと伝えられ、数多くの功労と忠誠を尽くされたとされる。
ここ宇佐神宮・摂社として御祀りされて、八幡大神(宇佐神宮の本来の名称)に御奉仕された神として祭り古くから大鳥居の外に鎮座し、大神をお護りしているという。


鬱蒼と茂る緑の大木・イチイガシに覆われた参道が長々と延びている。 
右に、日本三沢の池の一つ、「初沢の池」(奈良の猿沢の池、京都の広沢の池と共に古くから有名)を巡って宝物会館、参集殿が並び、神宮庁・斎館と社務の館が並ぶ。 

この先右方向に、西参道と呼ばれる立派な参道が延びていて、寄藻川には神橋・「呉橋」という朱塗りの優雅な宮風の屋根付きの橋が架かる。
こちらは、嘗ての勅使街道の一部であり、国家神としての八幡神に対して、朝廷より派遣された「宇佐使い」と称される勅使が通る専用の道橋だったらしい。

表参道は更に、手水舎、本社・応神天皇の御子神を祀る春宮、須佐乃男尊(スサノオ)を祀る八坂宮などの各末社があり、神聖さをいやがうえにもかきたてる。 

この西側一帯は昔の神宮寺である「弥勒寺」の金堂や講堂の旧蹟があったところで、神宮寺・弥勒寺は、聖武天皇の勅願寺であって、宇佐神宮とともに古い由緒を持っているが、江戸時代末期から廃寺となり、今は旧蹟だけが残っているという。
通称の神宮寺とは、平安初期の日本において、神仏習合思想に基づき神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂のことで、寺院の中で仏が仮の姿となって神(権現)を祀る神社における仏式行方が営まれるようになった。


国東・六郷満山について・・、
宇佐神の神宮寺である「弥勒寺」の創建により、平安時代には宇佐地方にも国東(くにさき:大分県の西側に突き出た半島)を中心としたの「六郷満山」といはれる天台密教の仏教文化が隆盛を誇り栄華を見た。 
国東・六郷満山仏教の源流は宇佐八幡宮であり、宇佐に発生した「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)の思想が神仏習合を醸成し、六郷満山全域に権現(権化・仏が化身して日本の神として現れること)信仰を発展せしめた。

国東半島は、神と仏が複雑に交錯する独得の文化が根付いた地であり、古くは宇佐神宮の神領地で、神宮の神の化身である仁聞菩薩(にんもんぼさつ:実在の人物とする説もあるが、宇佐八幡神「比売大神・ヒメノオオカミ」そのものを人格化したものであるという説が有力である)が開いたとされる寺院が数多く点在し、広く信仰を集めてきた。 
これらの寺を総称して六郷満山といい、現在でも「仏の里」と言われる国東半島の霊場は、宇佐神宮と33ヶ所の札所で構成され、半島一帯に数多くの古刹、名刹、社宮が残り、参詣者、観光客の来訪者が絶えない。 
又、この霊場の特徴は、国東塔に代表される石造文化財が多く残されていて、石像や石塔を特長とする文化が花開いたとする。 
寺院の山門に立つ仁王像も石造りが多くあり、素朴でダイナミックな造形はどこか日本離れした面影を感じさせるともいわれる。

小生H・P「六郷満山と宇佐神宮」;  
http://www.geocities.jp/orimasa2001/ks08-5.htm




門前の賑わいに比べて、境内は参拝者の姿もまばらで、シーンと静まり返り神域と言う雰囲気を醸し出している。 
それにしても広い境内、長い参道である、下宮(摂社 大神祖神社・おおがそじんじゃ)が見えてる辺りから左の方へ進むと、ようやく本殿に到着したようである。 

老松に囲まれた朱塗りの社殿は「八幡造り」と言われる代表的な建物で、荘厳華麗と言う表現がぴったり当てはまる。 
国宝になっているだけあって、その立派さには目を見張るのみである。


本殿は三つの社殿から成っていて、向かって左より一之御殿、二之御殿、三之御殿といい、参拝の順序も建物順に行い、拝礼は「二拝四拍手一拝」にて行うとある。 
小生も神妙な面持ちで、小銭を振舞いながら作法に則り参拝を行った。


神社参拝については一通りの作法があるので、ここで略儀ながら記しておきたい。
正参道を進み神域の入り口鳥居に到着、くぐる前にかるく一礼する。 
参道では真ん中を避け、左端を歩くようにするらしく。 これは参道の真ん中は「正中」と言いって、神様の通り道だという。 
神域にある水が湧き出ている小屋、これを「手水舎」と言い、どこの神社にもあるはずで、ここで身を清める。 
作法としては左手、右手の順で、次に左手で口をゆすぐとされる。 
社殿の前では、鳴り物が有るときは鳴らし、賽銭箱に入れて「二拝二拍手一拝」の作法で参拝する。 
この「二拝二拍手一拝」の作法が一般的な作法とされるが、神社によって異なる場合があり、代表的な例ですが出雲大社で二拝四拍手一拝が作法とされ、ここ宇佐神宮も同様である。 
願掛けなど神妙に参拝の場合は、時に自分の住所・氏名を名乗ると良いともいう。


次回も「宇佐神宮」、






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2011年9月13日火曜日

日本周遊紀行(170) 安心院 「ストンサークル」

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 日本周遊紀行(170) 安心院 「ストンサークル」   、





米神山の「ストンサークル」(案内図より)




安心院町熊地区では「米神山巨石祭」という珍しい神事が執り行われる・・、

安心院・妻垣地区から北東の方角、高速道路を挟んで佐田地区があり、この地に妻垣山にも模した端正な「米神山」が盛り上がっている。 
この山の7~8合目以上には、100基にも及ぶ立石遺跡があり、「佐田京石」と言われるが、更に、山頂付近には環状列石・ストンサークルと思しものも存在する。 何れも人間の背丈ほどもある列石で、誰がなんの為に造ったか定かではないという。 

又、一部の石柱の下からは写経が出土しているものもあり、埋納経の標石かとも思われるが、こちらも何時ごろ、何のために納めたかは定かでなく、しかも全部の石柱から出土している訳ではなく、摩訶不思議な石柱だといわれる。 

写経を埋めた石柱は、仏教的には「一字一石経を根本に納める」という思想もあるようで写経石とも呼ばれ、経石から転じて「京石」になったともいわれるが・・?。 

何れも太古の祭祀場、鳥居の原型、埋納経の標石といろんな説があるようで、人が営むための祭祀の場所であったといわれる。 


それにしても、「ストンサークル」というのは、世界遺産にも認定されているイギリスの謎の巨石建造物・「ストーンヘンジ」でも超有名であるのは周知である。
世界各地にも在り、日本でも特に北海道や東北地方のは有名で、縄文中期後半から後期に築造されたものという。 
他にも日本各地で発見例があるが、ただ、九州地方では珍しいと言われる。


米神山の巨石群を縄文時代の人々が何のために造ったかは、実態は解明されていないという。 又、京石(経石)は鎌倉~江戸の遺構とされているが、仏教関係者が何故写経などを縄文時代の石柱に刻し埋めたかは未だ疑問とされている。 

米神山はこれらの遺構、史跡が学術的に未解明の部分が多いナゾの霊山聖地とされ、超古代の巨石文化遺跡として全国各地より熱い視線が集中し、今後も学者の間で研究が期待されているという。

安心院町熊地区では毎年3月、「米神山巨石祭」という珍しい神事が執り行われ、佐田京石群を祭祀し奉るという。



それにしても、安心院の妻垣山一柱騰宮・妻垣神社が建立された伝記・伝承といい、米神山の巨石の遺構建造物(・・?)といい、これらには何らかの関係や繋がりが有るのか・・?、これが究明された時、“あじむ”という妙な呼称も判明されるかも知れない。


安心院町の北隣は院内町であり、いずれも「」の字を含むことから宇佐市を含めて、これらの1市2町を総称して宇佐両院(うさりょういん)とも呼ばれている。 又、安心院町の「」という文字を使った自治体は、全国でもここだけと言われる。


次回は、「宇佐神宮



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2011年9月12日月曜日

日本周遊紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」 

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 日本周遊紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」   、




一柱騰宮
写真:一柱騰宮の案内標柱




「安心院」と書いて“あじむ”と読む、この地は「宇佐」の下院でもある・・、

津久見の町外れから高速道が繋がっている。 近年繋がったと見えて、真新しい「東九州道」であった。 
その高速道から一気に「宇佐」まで走ることにした。

大分の町並みを右に望み、更に別府の町並みが遥か下方に見えている。 
別府湾S・Aで小休止をとったが、このS・Aは風光雄大なところで別府市街から別府湾が一望の下である。 
更に、あの懐かしい鉄輪温泉の湯煙がそちこちから漂い、反対側からは明礬温泉の特異な地形が見て取れる。 
ほのかに硫黄の香がするようだが、きっと、そこから漂ってくるのだろう・・?。


日出JCTより安心院、更に宇佐に至る。 
ところで、安心院と書いて「あんしんいん」ではなく「あじむ」と読む。 
大昔は、この辺りは葦が生えてる湿性盆地であったらしく、ここから葦が生える、あしうむ、「あじむ」に変じたという。 だが、どうも納得できない読みと語字である。 
発音からすると渡来語のような気もする、北に位置する、あの八幡様の根源・「宇佐八幡」は渡来の守り神とも言うし、その南側に隠れた様に位置するのが安心院である。 
他に仏教的意味合いの読みではなかったか・・?、尤も仏教そのものが渡来の物であったが・・。


ところで、安心院は豊後国と豊前国の境にある町で、古来、北の隣町・宇佐との関わり合いが深い。
特に、八幡信仰の総本社・宇佐八幡(宇佐神宮)とは関係が深く、宇佐神宮の八摂社の一社である「妻垣神社」が鎮座している。

安心院の中心街から南へ3kmほど、安心院盆地にお椀を伏したような端正な小山・妻垣山が聳える。 
この山裾に、古社とされる妻垣神社が鎮座している。

県道50号線沿いの神社の入口には「一柱騰宮・妻垣神社」と記された大きな案内標柱も建っている。 
一柱騰宮”とは、地元の人は“いっちゅうとうぐうさん”と称しているようだが、正式(古式)には「あしひとつあがりのみや」と、ゆかしい読み方らしく、このことは古代歴史書・日本書紀に記されているらしい。 


日本書紀の「神代」の記載の一項には・・、
日向(美々津)から大和を目指して東征する神武天皇が、先ず最初に寄ったのが筑紫の国の宇佐の地であり、天皇は、一帯を治めている菟狭(宇佐)津彦(ウサツヒコ)と菟狭(宇佐)津媛(ウサツヒメ)の兄妹達とお会いになり、この時、「一柱騰宮」を造って天皇を饗応したとある。 

この「一柱騰宮」があったのが、安心院の「妻垣」の地であると言い伝えられていて、神代の昔から祭祀されていた伝説の宮といわれる。 
又この時、神武天皇は妻垣山に、母である玉依姫(比咩大神)の霊を祀る廟を造営し、侍臣の天種子命(アマノタネコノミコト・神武天皇の侍臣)に廟の守護を命じて東征の途についたという。 


案内標柱の奥には鳥居そして参道石段が連ねて、古社らしい厳かな雰囲気が漂い、その頂上に燦然と朱塗りの神門そして流れ屋造りの本殿が鎮座している。 
本殿横には「磐座」への案内板があり、そして社殿の正面には標高241メートルの妻垣山(ともかきやま・「共鑰山」とも書く)が控えている。 

その山頂直下に、石の囲いが施された苔むした巨岩が祀られていて、これが「磐座」であり、“いわくら”と読むらしい。 
巨岩信仰の一つであろう、神秘的な雰囲気が漂っていて、この磐座が一柱騰宮の奥宮とされている。 

ここには案内板もあって、『 共鑰山の院(御神山)の謂われ、・・比咩大神(神武天皇御母、玉依姫)の御在所(院)である。・・玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、ここは共鑰山の「ご神体の相当する」場所である。従って、「安心院」の名所は、玉依姫が、この磐座(いわくら)の院の内において「安心」された事に由来する訳である。  妻垣神社 』、と記されてある。 

要約すると、「御神山(共鑰山=妻垣山)は、玉依姫命が降臨された御在所であり、この院の内において玉依姫命と共に利生(りしょう・仏用語:仏が衆生に御利益に叶うこと)についての語らいをされた。つまり、この磐座は、妻垣山の御神体に相当する。安心院の名前の由来も、玉依姫命がこの磐座で安心されたから」ということになる。

「磐座」は、原始信仰という形で聖地とされ、古代より現在まで引き継がれ、残されているものであろう。 
つまり、現在の妻垣神社は、上社・下社の二社からなっていて、山宮・里宮とも呼ばれる。 

山宮とされる山中にある「磐座」は、神の依代として古代より奉祀していたものだが、(元より古代は社殿を持たない)、時代が下り麓の村里が発展するにつれて、身近な山麓に勧請して建てたのが社殿を有する妻垣神社であり、里宮とされている。


妻垣神社の祭神は、主祭神を比咩大神比売大神と同じ、玉依姫命・・?)とし、相神を応神天皇(八幡大神)とその母君・神功皇后であり、これは宇佐神宮の祭神と全く同じである。 
「妻垣神社由緒記」には、『神武天皇東征の砌(みぎり・とき、おり、ころ、時節)、宇佐国造の祖菟狭津彦(うさつひこ)此ノ処ニ宮殿を建立、奉饗シ旧跡デ、当時、天皇、天種子命ヲ以テ比咩大神ヲ祭ラセ給ウ。当社ハ比咩大神ヲ祭ッテ八幡宮ト号シ云々』、と記され、つまり、比咩(ひめ)大神が八幡神であると伝えている。

「比咩大神」については、次項の「宇佐」でチョッと詳しく述べるが・・、
比咩神(ヒメノカミ)は、神道の神で、神社の祭神を示すときには、並んで比売神とも書かれるともいう。
これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神の総称を指すものともされている。 最も有名な比咩神は、八幡社の比咩大神である。 
この比咩大神は宗像三女神、又は三女神の母后ともされ、三女神の末姫が三人の男子を生み、それぞれ成人すると長男は伊予国へ、次男は土佐国へ、そして末っ子の「ウサヒコ」は母とともに残って宇佐の国造りを始めると言う伝説が残されている。 

宗像三姫の末姫は「イチキシマ姫」(弁天様で知られる)といい、邪馬台国の女王・卑弥呼と言う説もある。
つまり、宇佐八幡宮の祭神・比咩大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのでは・・、という説である。


ところで、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん・中国の正史・「三国志」の中の「魏書」に書かれている日本に関する条項)によると、邪馬台国(昔の日本)の中心は大分県中津市から宇佐市にかけての一帯に位置していたという表記がある。(豊前説)

邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒメコと訓む)は、宇佐神宮の比売(ヒメ)大神であり、宇佐神宮の亀山の地が卑弥呼の墓であるとも言われる。
更に、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大神(アマテラスオオカミ)であるという説もある。 
いずれにしても、神代よりまします比咩大神は、かくと断定され得ない神ともされている。


妻垣神社は、元より八幡信仰の総本社・宇佐神宮とかかわりが深く、「宇佐神宮行幸会八社」の一社で境外摂社とされている。 
大神(邪馬台国の女王卑弥呼ともいう)の降臨の宇佐島はこの妻垣山であり、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はこの安心院であり、女王・卑弥呼の墓は妻垣神社の境内にある一柱騰宮であるという史家もいるほど謎のある神社でもある。

古代、九州の政治・経済・文化の中心は筑紫、日向にあり、ここから豊後の国東半島を経て瀬戸内海へむかう位置に「宇佐」がある。 
ここから潮流に乗って大阪にあがり、奈良の都へ出る古代の海の道があったことは、伝記・「神武天皇の東征」と一致する。 
一柱騰宮-妻垣神社-玉依姫-宇佐-神武天皇-大和という繋がりは、たとえ神武東征説話が架空だとしても、古代史の謎を解く鍵としては、歴家たちは興味津々であろう。


今は亡き推理作家の巨匠・松本清張は、代表作の一つと言える短編・『陸行水行』を残している。 
当時の歴史世評は邪馬台国のブームと言ってもよく、この時、清張自身も安心院の妻垣神社を訪れ、日本の古代史に興味を持ったとされている。

物語は、『東京の大学で歴史科の講師をしている私は、「宇佐の研究」のため安心院の妻垣神社へやって来る・・、』から始まり・・、宇佐神宮が最初のテーマとなり、安心院の風景があり、宇佐神宮の奥宮とされる妻垣神社のことが描写されている。 

そして、耶馬台国はどこにあったか・・?、など、古代の旅路を自ら辿りながらスリラー風に描かれている。


次回は、安心院・米神山




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2011年9月11日日曜日

日本周遊紀行(169) 津久見 「大友宗麟」

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 日本周遊紀行(169) 津久見 「大友宗麟」   、




津久見は、大友宗麟の最後の居住地であり、終焉の地でもあった

向かう道路は番匠大橋で国道10号線と別れ、佐伯市内は海岸沿いの国道217号線となっている。
市内を去って程なく海岸の高台に至ったとき、佐伯の町並みが鮮やかに望下できた。
その正面遠方に元越山(もとごえざん・582m)であろうか、尖がり山が佐伯の町を見守っているようだ。 山は国木田独歩が佐伯に滞在中数回登り、あまりの景色の素晴らしさに感涙したという。

変化の激しい海岸道を行くうち、こちらは、ほぼ三角形の「彦岳」が眼前に迫る。 その裾野の海岸ギリギリのところを日豊線と国道が走っている。 
これらの地域は、山腹がいきなり海岸に落ち込んでいる険しいリヤス海岸で、所々、トンネルが貫通して無理やり通ってる感じでもある。 


程なく津久見へ達している。 市域としては比較的小さなエリアのようである。 
平成の大合併で自治体の数が少なくなり、その分、各自治エリアが広くなっているはずでがあるが、そんな中、津久見は隣の市町、臼杵市、上浦町に対して合併協議を申し入れているが、いずれも合併に対して、慎重な姿勢を変えていないという。


ところで、九州のなかでも大分県は、日本の「懐」というべき瀬戸内海や豊後水道に面し、台風の襲来や冬の厳しい季節風から守られているため、比較的温暖な気候に恵まれているという。 そういえば、九州地方が台風や梅雨時の大雨による被害が報告される中、大分地方は意外とニュースになっていないのに気が付く。 
津久見は、この温暖な気候と地形を利用してのミカンの栽培が盛んで、「津久見ミカン」は全国でも有名ブランドでもある。


その津久見は、戦国期には大友氏の支配下にあり、大友宗麟が津久見を最後の居住地と位置づけ、宗麟(1530~1587)終焉の地でもあるという。 

宗麟は、大友家の嫡男として豊後府内城に誕生、世に言う「大友二階崩れの変」(豊後大友家での御家騒動)で家督を継いだ。 
その後、毛利氏や秋月氏等との抗争を続けながら、その最盛期には豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向と四国・伊予半国を支配し、強大な戦国大名となった。 

ところが、九州の関が原といわれる「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人達の反乱が相次ぎ、島津義久などの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。 
こんな中、天正14年(1586年)宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請し、了解した秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破っていく。 
だが宗麟自身は戦局が一気に好転していく中で病気に倒れ、豊後国・津久見で病死している。享年58歳であった。

九州征伐後、秀吉の計らいで長男・義統(よしむね)には豊後一国を安堵した。
その前に秀吉は宗麟に日向の地を与えようとしていたらしいが、宗麟自身は既に統治意欲を失っていて、これを辞退したという。 もしくは直前に死去したとされている。
だが、義統自身も朝鮮の役で秀吉に咎められ豊後を改易されている。
宗麟の墓は津久見市内と京都市北区の大徳寺にあり、さらに津久見市上宮本町の響流山・長泉寺に位牌がある。



キリシタン大名としても知られる大友宗麟である。
天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との最初の出会いであった。
その後、キリシタンに帰依(洗礼名をフランシスコ・ソウリン)し、キリスト教の領内での布教を許可したり、施設団をローマ教皇のもとに送ったりしている。 
宗麟がキリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。 

一方では、領主・宗麟がキリシタンになったことから大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人衆の蜂起という形で、不利な立場に置かれ国を滅ぼすことに成ったのは皮肉である。 

宗麟は信仰を深めるほど、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世との間で葛藤し続けたともいう。


次回は、安心院(あじむ)





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01. 15.

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