2011年7月15日金曜日

日本周遊紀行(152)吾平 「吾平山稜」

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 日本周遊紀行(152)吾平 「吾平山稜」   、




「吾平」と「姶良」は同じ”あいら”と読むのだが、その関連性は・・?  、
 
 
佐多岬の断崖絶壁からの展望を満喫して戻ることにしよう。
R269の大根占までは先刻見慣れた風景である。 

大根占町(旧)の東隣の町に「吾平町」(あいらちょう)がある。 
ここで、先般「薩摩川内」の項でも若干記したが、「吾平山稜」(あいらさんりょう)について更に述べてみよう。

吾平町の中央部に、あの薩摩・鹿児島県の神代三山稜の一つで「吾平山稜」が鎮座している。山陵とは、一般に天皇・皇后の塚墓のことであり、吾平山稜の祖霊は、神武天皇の御父君・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、 そして御母君である玉依姫(タマヨリヒメ)のものとされている。

境内は清流と神聖な樹木が鬱蒼として清々しく、数百米にわたり玉砂利が敷き詰められていて、別世界のような静かな世界を形成している。
雰囲気が伊勢神宮の内宮に似ている処から「小伊勢」とも呼ばれているという。 


拝殿の前は沼池が配してあり、その向こうに本殿御陵が岩窟の中にあって、神代三山稜の中で随一岩屋の陵になっている。
その窟内に大小二つの塚があり、大きい塚が神武天皇の御父君、小さい塚が御母君の御稜とされている。 

この御陵山を鵜戸山(うどさん)といい、窟を 鵜戸窟と称している。 
鵜戸というと日南の鵜戸神宮と同じで、こちらの神宮は鵜草葺不合を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの六代の皇祖神を相神として奉っている。 
この神宮へは本日、この後訪れる予定である。


吾平山稜は大戦直前の昭和10年11月、昭和天皇が御親拝になり、昭和37年5月には皇太子(現、今上天皇)、同妃殿下が御参拝されている。 
正月、初詣には近郷近在から、数万の参拝者がお参りされるという。



ところで、薩摩には「吾平」と「姶良」というの二つの「アイラ」という自治体が存在する。 

姶良は、鹿児島市の北、両半島(薩摩、大隈半島)の付け根に当る地域に姶良郡姶良町である。 
一方、こちら吾平と書くと、普通「ごへい」と読んでしまいそうだが、この二つの「アイラ」には何か関連性があるのだろうか・・?。 


この吾平山稜の脇を流れているのが姶良川(あいらがわ)で吾平町中心を北流している。
そして吾平町は、以前は姶良郡姶良村という自治体名であったという。 


古代、この地方の大隅国では四つの郡があり、その中に姶羅郡(あいらごうり)というのがあったらしい。
一方、始羅(しら)郡と呼ばれていた地域があったそうで、これらの地名に使われている「姶」と「始」の文字は似ているので紛らわしく判別が付き難い。 
その為、近代以降単純化して「姶良郡」に統一されたとも言われている。 

吾平山稜の周辺地においても姶良村や姶良川等の地名、固有名が存在した。
そして、姶良村は1947年(昭和22年)町制施行の際「姶良」を「吾平」と改めているのである。

吾平という町名は、吾平山陵が由縁であることは確かだが、尚且つ、神武天皇の妃(きさき・妻)の御名が「吾平津姫」(アヒラツヒメ)と称し、故に吾平山稜、吾平町が誕生したともされている。 

吾平津姫は、字のごとく「アヒラツヒメ」と呼んでいたが、旧地名に因んで語呂も良く、吾平は次第に、或は町が誕生した時に「あいら」と読むようになったのかも知れない。


しかし、「吾平町」は周辺の鹿屋市、輝北町と2006年1月1日対等合併し、新市制による鹿屋市となっている。
又一つ、歴史ある町名が消えることになった。



相変わらず見通しの良い海岸道の一本道が続く、R269から一部県道を乗り継いで、R220を行くことになる。 

鹿屋市の高須、天神、古江、垂水市の新城、宮脇、柊原、浜平、垂水と大隈半島・錦江湾沿いの地名が連なるが、かってはこの地を鉄道が走っていたらしい。
日豊本線・国分駅から鹿屋を巡り、高須から大隈半島を横断する形で吾平町を通り、日南線・志布志迄行く国鉄・大隈線であった。 
結局は国鉄合理化の一環として1987年に廃止された路線であり、全通してからわずか15年目のことであったという。 

当時は、鹿児島市と鹿屋市を結ぶ幹線鉄道であったが、鹿児島湾をぐるっと廻る為に鹿児島湾を渡る船便の方が速く、移動するには致命的な欠点があったとされた。 
又、沿線は人口が少ないうえ、自動車の普及が盛んになり、国鉄経営再建のためにも廃止につながったようである。


次回は、「鹿屋



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2011年7月14日木曜日

日本周遊紀行(151)佐多 「佐多岬」

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日本周遊紀行(151)佐多 「佐多岬」





写真:本土最南端の佐多岬



向いの大輪島に建つ「佐多岬灯台」



日本本土最南端の地・「佐多岬」は、有料観光地・・?


一時して、大根占の埠頭に着岸した。
雄川の河口でもある長閑な漁村風の港で、埠頭の周辺には小さな漁船が密集している。 

国道269号を南下すると、程なく道の駅・根占に到着し一服する。 
道の駅・根占」は、本土最南端に位置しているらしい。
やや傾斜地に位置していて、駅舎はその高台にあり、錦江湾・開聞岳の大パノラマを眺められる。
実は、大根占町は2005年3月、田代町と合併して、新しく「錦江町(きんこうちょう)」が発足している。


R269を南下すると間もなく「日英戦争の砲台跡」というのがあった。 
“日英”とあるが、実際は“薩英”が正しい表現であろう、古い石垣からは大砲が錦江湾を睨んでいる、なかなか趣があって歴史を感ずる。


R269はこの先も殆どが海岸沿いの道で、錦江湾の静かなる海原と、その向こうに絶えず開聞岳の円錐形が見守っている。 
こちらは、「南大隅町」といって、鹿児島県(離島部除く)の東南部、大隅半島の南部にある町で2005年3月、根占町と佐多町が合併して発足した新町である。 

根占という町名は大根占町と根占町と在って、何故か、其々が別の町と合併し、其々の新しい町名を名乗っているのが面白い。
何か、曰く因縁でもあるのだろうか・・?。


この海岸道路は、別名「佐多街道」といって諸島を除く本土最南端に位置する「佐多岬」へ通じている。
その、佐多岬へ向かっているのである、佐多の小さな町並みからは、大隈道という内陸を通るようになる、山間部の多少の上下屈曲を繰り返しながら大泊地区へ出た。

ここからは「佐多岬ロードパークウェイ」というチョット長ったらしい名称が付いている。
ところで、ロードとウェイはどちらも「」という意味であり、呼び名が重複しているのでは・・?、
その有料道路の入り口へ来た。  

通行券には「佐多岬有料道路」とあり、大泊から佐多岬までの約10キロのドライブウェイで、有料道路のわりにはかなり古そうな道で、カーブもかなり急であり、云わば、ワインディング・ロードともいえそうだ。 

だが、沿道には並木や花壇はよく整備され、ハイビスカスやブーゲンビリア、ビロウ、ヤシの木などの亜熱帯植物が生い茂り、さながら南国の植物園に来たという醍醐味が感じられる。 

一見、通行料の1000円は高そうに思えたが、この側道南国植物園で納得しよう。 






途中、「北緯31度」の掲示板があり、はて・・この意味はと思ったが、本土最南端の緯度というわけであろうか・・?。 

その下にカイロ、ニューデリー、ニュウオーリンズ、上海、カラチともかいてあり、主要都市の同緯度を示したのであろう。



ところで緯度とは、経度とともに、地球上の位置を示す座標の一つで、緯度は、地図上では上下方向、つまり、その地点における赤道を中心として北極の天頂、南極の天低までの方向と角度で表される。 

赤道が緯度0度となり、北を北緯(ほくい)、南を南緯(なんい)と言い、北極・南極が90度となる。
又、北緯に+(プラス)、南緯に-(マイナス)を付けて表す場合もある。 

緯度10度分の距離は、6370km(地球の半径)×3.14÷180×10の計算によって約1111km であり、当然、1度は111.1kmである。 1度よりも細かい緯度は、1度=60分=3600秒と分割して表現する。 

又、1海里は、緯度1分(経度も同じで111.1km÷60)の地球表面上の距離を元に作られており、正確には1852メートルと定義されている。 


因みに、北海道最北端・稚内市は北緯45°25'N、東経141°40' E、本土最南端都市・鹿児島市は北緯31°36'N、東経130°33'Eであり、円形地球上の稚内市と鹿児島市の直線距離は計算によって1810kmとなる。 

序ながら経度は、同じ経度の点を結んだ線を経線と言い、子(北)と午(南)とを結ぶ線であることから「子午線」とも言う。 
そして、経度は地球上の時間(標準時)を定める基準にもなっている。


地球の自転・1回転が1日に当たるので、15度移動すると1時間進むことになる。
つまり、東経0度から東(又は西)に向かって国際時は決められていて、世界標準時は経度ゼロ(イギリスのグリニッチ)の子午線上の時刻で表され、グリニッチ標準時とも言われる。

日本は明石市が東経135度に位置しているので、日本時間は世界標準時より9時間進んでいることになる。 
言いかえれば、日本時間の午前9時が世界標準時の午前0時に当る。 

日本の標準時である日本標準時(JST・地方標準時)は、明石市を通る東経135度の時刻と決められている。 
つまり、イギリスが午前0時のとき、日本は全国が午前9時を示すことになる。 尚、経度180度の線が国際日付変更線となる。



終点の駐車場から歩いていくと隅の遊歩道の入り口にトンネルがあり、中の入り口に小さな小屋があって、ここで通行料として100円を支払うようになっている・・?。
チャッカリしているが、こちらもトンネル通行料は兎も角、園内の環境整備代と思えば良しとしよう。

トンネルを抜けると遊歩道になり、御崎神社という真赤な屋根の派手な社(やしろ)が鎮座していて、航海の守り神として崇められているとゆう。 

神社の右手の道を行く、岬突端の展望台までは起伏のあり、両側が切り立ったやせ尾根の稜線でスリルもあるが展望もすこぶる良い。 
途中、休憩所・レストハウスという建物の脇を通るが、閉鎖されていた。 

最後に、展望台の建物に着く、「日本本土最南端・佐多岬」と標識が立つ。 すぐ前には大小の島々が並び、一段と大きく屹立した大輪島に白亜の灯台が建っていた。

そして、やや遠くなったが相変わらず薩摩富士の姿が遠望でき、周辺海域は地球の丸さ・・?を実感できりのである。 

地球の丸さ云々は脇へおいて、やはり岬の先端というのは当然ながら絶景なる風景であり、何度見ても良いものは良い・・!。




因みに、日本本土・最北部は北海道稚内(宗谷岬)、最東端は同じく北海道根室市(納沙布岬)、最西端は長崎県佐世保市小佐々町(佐世保市小佐々町の神崎鼻先端部であり、神崎鼻公園と本土最西端のシンボル塔が建っている)で、其々、「四極交流盟約」というのがあるらしい。

次回は、「吾平」(あいら)





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2011年7月13日水曜日

日本周遊紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」

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 日本周遊紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」   、




幕末の1863年、錦港湾で薩摩と英国の互角の海戦があった・・!  、


当時のイギリスは世界の海に覇権を樹立してゆく「大英帝国」と呼ばれ、特にアジアへの進出は顕著であった。 

インドを始め東南アジアの諸国諸島、そして、中国(清王朝)へと覇権を延ばし、これ以降、中国は欧米諸国の半植民地に転落していく。
そして、遂にイギリスは日本へも、その食指が向けられるのである。

又、イギリスが日本への進出を目指した他の理由として、当時イギリスは帝政ロシアと対立状態にあり、イギリスの帝国支配に脅威を与えるロシアの南下政策を牽制する目的もあった。


安政5年(1858年)、イギリスは主に対日通商が目的であったろうが、その真意、背後には中国同様の植民地支配の思惑もあり、その為に日本にやって来たのである。 

来日した外交公使のオールコックは、母国イギリスの軍事力、軍艦を背景に大言壮語、虚勢を張りながら、幕府代表を脅しにかかる。 
弱腰の幕府は遂にイギリスと「日英通商条約」を結び、翌年からイギリス公使は東禅寺(東京・品川)を常宿として使用し始めた。


この頃の日本は、ぺリーやハリスの来日で開国が進むが一方、攘夷論(外国を廃す)も沸き上がり多くの事件も発生している。 

オールコックの強引な外交に業を煮やした攘夷志士(主に水戸浪士)たちが、オールコックとその公使館を襲撃する(東禅寺事件)。 

中でも1862年、江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主・島津久光一行の行列が生麦村(現、横浜市鶴見区)に差し掛かった所、前方を横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま行列を横切った。
これに怒った一部薩摩藩士が斬りかかり、イギリス商人・リチャードソン1人が死亡、他の2人が負傷した、所謂、「生麦事件」である。


この頃、薩摩藩では久光の兄・斉彬の時代から既に西洋列強に対抗するための軍備近代化 (「集成館事業」と呼ばれる) が進められ、斉彬の死後、頓挫していたその事業を積極的に復活・推進させたのが次期藩主となった久光であった。

この事件でイギリスは、さも当然の如く薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩はこれをガンとして拒否する。 
新しく赴任してきたイギリス公使代理のジョン・ニールは、既に幕府から生麦事件の賠償金として10万ポンドを受け取っており更に、イギリス艦隊を引き連れて鹿児島湾(錦江湾)沖に到着、生麦事件犯人の逮捕と処罰、および生麦事件の遺族への賠償金2万5000ポンド(現在の3億円程度)を要求している。

しかし、藩主・久光は「 生麦の一件は、武門のしきたりに従ったまでのこと 」と薩摩藩はこれを断固拒否する。 

結果として「薩英戦争」が勃発するのである。


生麦事件後の薩摩藩はイギリスの要求には一切応じず、攘夷実行の準備を着々と進めていた。
実弾射撃演習などの訓練に励み,鹿児島湾内で模擬実戦をも行っている。

この頃、イギリス東洋艦隊七隻が出動して鹿児島・錦江湾に侵入してきた。 
久光は「 粉骨砕身し、夷賊を誅伐せよ 」の号令とともに、湾岸に配した大砲が一斉に激射を開始するに至る。
英国艦隊も応戦し、激しい砲戦が展開された。 

英国艦隊の艦砲射撃で鹿児島城下北部は焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けた。
しかし、イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷するという大損害を出している。 
艦砲の射程はイギリス軍艦の方が上回るも、薩摩藩は先刻前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために、正確に狙い撃ちができた。 

乱戦の中、イギリス艦隊は桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理しながら鹿児島湾を脱出していった。
無論、薩摩は英国の近代的な兵器に驚き、藩士はイギリスの砲弾を見て、生まれてこの方一度も見たことのない砲弾だったと驚かない者は誰もいなかったという。 
結果として、横浜で両者の和議が成立することになる。


戦乱の結果として、藩主・久光は諸外国の近代化された軍備に驚き、「 もはや無謀の攘夷は不可である 」と悟ることになる。

その後、薩摩藩は軍備近代化の必要性を痛感、生麦事件の賠償金の支払いと犯人捜査を約束し、又、イギリスも薩摩藩の実力を再評価して和解することになる。


これ以後,両者の関係は親密化し、イギリスは幕府支持から薩摩藩など西南雄藩支持へと傾き、薩摩主導の明治維新へと進んでいくことになる。 

更には、明治期の最大の大戦「日露戦争」でイギリスの補佐、協力を得て、日本は歴史的勝利を得るのである・・!。


次回は、「佐多岬




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2011年7月12日火曜日

日本周遊紀行(149)指宿  「休暇村と砂湯」

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 日本周遊紀行(149)指宿 「休暇村と砂湯」  ,






写真:指宿国民休暇村の「砂蒸し湯と露天風呂」(小生です)




日本イレブン、2006年W杯サッカー・ドイツ大会へ六大陸で一番乗り決定・・!! 、

指宿国民休暇村は、魚見港から田良岬の一端に広がる一大リゾート地域にある。  
館の前は広大な芝生が敷き詰めてあり、正面に魚見岳の姿がいい。 

通された部屋は正面が青く光る錦港湾で、左右に広がる砂浜は指宿市のサンビーチ海水浴場でもある。
今夜は大事なTV放送があるので、急ぐようにして入浴、食事を済ませた。


ところで、九州でも指折りの温泉地である指宿温泉「砂蒸し風呂」で有名なところである。 
指宿・湯の浜海岸には「砂むし会館」という砂蒸し専門の名物の風呂が楽しめるところもある。

天然自然の砂風呂は、海岸の波打ち際の砂の上にあり、横たわると係の「砂かけさん」が砂をかけてくれるという。 
指宿の砂湯は既に300年以上の歴史があり、しかも、干潮時に砂を被ると効果が有るともいわれる。

こちら、休暇村の館にも“砂蒸し”はあったが、残念ながら天然自然のではなさそうである。 
ただ、砂蒸しは本日・特別サービスデイで、通常1000円のところ先着30名まで300円で入れるらしい、ラッキー・・!。 

渡された専用の浴衣を着て、係員に穴を掘ってもらった所に寝ると、頭だけ残して砂をかけてもらえる。 
最初は砂が重く感じ、しばらくすると身体全体が熱し、次第に痛痒くなってくるが、15分ほど我慢するとサウナのように汗が吹き出してくる。 
終わる頃は体の芯から暖まり、砂を洗い流す頃にはスッキリ・爽快さを感ずる。 

後は大浴場と露天風呂に浸かり、二度目の癒しを味わう。 
浴室は海岸沿いの松林に囲まれた雰囲気のいい場所に面していて、特に露天風呂がよかった。

風呂からでて食堂にて夕食を食す。単品料理のメニューを見て、鰹のタタキを特注、「う~ん、旨い!」ビールにピッタリである、大瓶2本飲んでしまった。
間を見計らって、大満足の食事を終え部屋に戻り、早速、TVのチャンネルを捻る。


来年、2006年はサッカーW杯ドイツ大会である。 
現在、各地、各セクションで予選会が行われているが、日本はアジア地区B組の最終予選に進出し今日は、その最終戦で本戦出場の決定戦である。 対戦相手は北朝鮮だ・・!。 今回の試合は本来、北朝鮮の平壌で行われるはずであったが、前回、平壌で行った他の試合で観客が暴徒化しトラブルが有ったため、連盟が「第三国で観客を入れずに開催する」と処分を決定していた。 そして、今日この会場はタイ・バンコクの無観客の試合となっている。 飛んだハプニングの試合であったが兎も角も本日19時35分(日本時間)、いよいよキックオフになった。
日本は序盤からピッチを支配しが、だが今ひとつ攻撃にスピードがなく、北朝鮮DFに守備を固める時間を与えてしう。 好機を生み出すまでには至らず、要所要所でミスが出て、北朝鮮にカウンターの機会を与える場面もあり、まだ油断できない展開であり、後半、早い時間帯で先制点を奪いたいところだ。
本来なら、ジャパンブルーのサポーターが嬌声で賑やかなところだが、やはり、異様に静かだ。小生は一人、遠い九州の果てでの、テレビの前の応援であるが、チャンスになると「イケ、・・イケイケ」と声援を送るが、どうも前半戦は届かなかった様だ。
後半開始から、本大会ラッキーボーイとなっているFWの大黒を投入し、勝負を仕掛けてきたジーコ監督。 大黒の鋭い動きが最終ラインを脅かし、北朝鮮ディフェンスを混乱させ、ついに後半28分柳沢が先制点を奪った。 当然ながら、ここでは観客が大騒ぎするはずであるが全く静かで不気味である、TVのアナウンサーだけが興奮しながら伝えていて、やはり異様であった。 小生は一人TVの前で、「ヨッシャ・・!!、ヤッター・・!!」と両手のガッツポーズの意気軒昂であったが・・。 その後も日本が完全に試合をコントロールし、守備陣はしっかりと北朝鮮の攻撃をシャットアウト。 試合終了間際には、やはりラッキーボーイの大黒がワールドカップ本戦出場を決める追加点を奪った。この時も「よーし、決まった・・!」とテレビに吼える。 
結果は2対0、日本は六大陸の中で最も早いワールドカップ予選突破、ドイツへ一番乗りを果たしたのである。 普段はスポーツ番組は余り見ないほうであるが、高校野球をはじめ本来スポーツ好きの小生である、特に国際大会になると愛国心旺盛で、応援にも熱が入るのである。 いやー有難う日本勢、実に満足である。
こんな訳で昨夜は、名湯、名食事、そして名勝負の一夜で、気持ちよく眠りに就いたのである。



窓の白のカーテンが、朝日を浴びて輝いている、今日も天気は良さそうだ。
TVを点けると何処のチャンネルも昨夜のW杯の決定戦を映し出している。
あの、2得点のゴールシーンは何度見てもいいし、飽きない。 
無観客のせいか、その反動もあろう国内のサポーターが大変な騒ぎで、熱狂的ファンは半ば狂乱状態であった。 という場面をTVが盛んに映し出している。


さて、例によって朝風呂、朝食と済ませて気持ち良く宿を出て、指宿の埠頭まで車を滑らした。 
昨日のうちに、薩摩半島へ渡るフェリーの時刻を調べておいたのだ、指宿発8時の大根占行きである。


ハイビスカスロードと言われる快適道路を指宿市内へ向かい、案内板にしたがって車を進めると海岸よりチョコンと出っ張っている埠頭があり、そこがフェリー乗り場であった。

小屋風の小さな建物に南九船舶・指宿営業所とあり、指宿⇒大根占とあった。 
小型車~マイクロバスの車輌8~9台くらい航送可能のようで、大型車は不可であった。 
通称、ミニフェリー「なんきゅう」 と言い、航行時間は35分で、運賃は普通車で3300円とあった。 

小生のも含んで小型車3台、定刻よりやや早めの出航となった。 
指宿の街並、バックに聳える「開聞岳」の姿が徐々に遠くなる。
正面にはひっそりとした根占の町並みが遠望でき、遥か遠方に桜島も望めた。



この辺りは錦港湾の中でも大海に近い海域であるが、海面は穏やかであった。 
この穏やかな錦港湾で江戸末期、一大戦争が勃発し歴史に名を留めていることは、知る人ぞ知るであろう。 
幕末、風雲急を告げる大事件は「薩英戦争」と呼ばれた。


次回は、「薩英戦争





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2011年7月11日月曜日

日本周遊紀行(148)頴娃 「幸村伝説・・?」

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  日本周遊紀行(148)頴娃 「幸村伝説・・?」   ,




写真:松原越しに見る池田湖と開聞岳



「大阪の陣」の後、あの真田幸村が豊臣秀頼を奉じて薩摩へ落ち延びた・・?  、



指宿を目指すため、先ず「指宿スカイライン」に乗って頴娃I・Cを目指した。
ところで「頴娃町」・・??、何て読むの・・?、
サッパリ分からない。 

一般に漢字は音読み、訓読みと両方あって普通の漢字なら大抵どちらかが読めるはずであるが、どちらにしても皆目見当が付かない。 
実は、頴娃の2文字で「エイ」と読む。 


地名とか人名の謂れを詮索してもしようが無いが、「頴娃」の2文字の意味はともかく、単字で「頴」は鋭い、秀れる、「娃」は姫、娘、美人、善女などの意味を持っているという。
このような意味合いで付けたかどうかは不明だが、いずれにしても日本的な名称ではなく、古代の渡来人あたりが付けた名であろうと想像は出来る・・?。


近年までは頴娃郡頴娃郷なるものが存在し、中世以降から戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏が領土を支配していたため、その名が付されている。 
現在の頴娃町は揖宿郡(いぶすきぐん)に属し喜入町、山川町そして開聞町などが合併により郡から離れたため揖宿郡唯一の町となっている。 


そして頴娃町は、あの「真田幸村」の伝説地であるとも言われる・・?。

慶長年間・大阪冬の陣があり、そして翌年の大阪夏の陣(冬そして夏の陣で江戸幕府が豊臣宗を滅ぼした戦い)において徳川・豊臣の最後の決戦が行われたが、当の頴娃村の地にも大阪の乱において、豊臣側支援のための軍資、兵員の出費を相当に課せられたという。

夏の陣も終わり、豊臣側の敗戦が決した後、薩摩には豊臣秀頼公を始め、眞田左衛門幸村、木村重成等の上下一千余人の大阪残党が続々と逃がれて来たという。 
真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ち延びたという噂は、童歌にも唄われ流行ったという・・、


『 花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田がつれて 
              退きものいたよ 鹿児(加護)島へ
 』

・・とある。


薩摩では真田を真栄田(真江田)と名乗り、伝説の古書に残っていて墓地まであるという。 

史実的には幸村は1615年5月、夏の陣において家康の本陣へ突撃し討ち死にしている。 
源義経や楠(木)正成もそうであるが、日本人好みの悲劇のヒーローであり、伝説を生んでいるのかもしれない・・?。



車も少なく、展望の良い快適な「指宿スカイライン」であり、時折、池田湖や開聞岳の円錐形の姿が見え隠れする。 

下りきって程なく湖畔に着いた、「レイクグリーンパーク」というサッパリした園地に着いた。 
芝生の先に満々とした湖面が広がる、その正面に円角錐の勇姿「開聞岳」が立つ。 絵になる風景である。 

池田湖は、周囲15キロメートル程の小さい湖であるが、九州では一番大きい湖で、深さも錦江湾と同じ230mもあるという。 

全体に明るく輝くような雰囲気であるが、湖の東側は切り立った岩山が湖面にまで落ち込んでいて、人を寄せつけない険しさもあり、神秘的な佇まいをも見せている。 

池田湖には謎の怪物ネッシーならぬ、イッシーが生息していると昔から言い伝えもあり又、池田湖の東側にある鰻温泉で知られる「鰻池」とは湖底洞窟で繋がっていて名物の巨大ウナギが生息しているいう噂もある。
 


薩摩半島の最南端の海辺から、いきなり立ち上がる「開聞岳」は標高924mの火山で、日本百名山の一つで別名「薩摩富士」とも言う。 
深田久弥氏が百名山を選んだ基準に「品格」、「歴史」、「個性」とあり、これに付加的条件として、1500m以上の高さが加わるという。 

開聞岳は高さこそ及ばないが、いきなり海上から屹立しているというユニークな山容であり、他の、どの山にもこの様な姿は見当たらない特異な山である。 その為に敢えて加えたのだろう。

開聞岳の北麓に枚聞神社(天照大神を祀るが、祭神には諸説がある)がある、「ヒラキキ」と読む。 

枚聞大神の神霊が宿る御神体山で、古代より信仰の山として崇められ、開聞岳は古くはヒラキキ岳と呼ばれた。 

枚聞岳は薩摩半島の南東端に突出している若い休火山で、鹿児島湾の門戸に位置し、即ち海の門である。 
その雄姿は海の門、即ちカイモンであり、一時は海門岳とも言われたそうで、ヒラキキは開聞で音読みでカイモンとも読むので、自ずと両方の意味合いを取って「かいもん」が開聞と呼ばれるようになったという。

薩摩には大壮な三つの山が在る・・!、
  
『 開聞に 西郷南州 桜島 』  小生



夕刻も迫ってきている。
県道28号(開聞岩本線)で一旦海岸へ出て、案内に従って今夜の泊まり魚見岬の先端に位置する「指宿国民休暇村」へ急いだ。


次回は「指宿温泉




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2011年7月10日日曜日

日本周遊紀行(147)知覧 「特攻の真実」

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 日本周遊紀行(147)知覧 「特攻の真実」  ,



薩摩富士と呼ばれる「開門岳」と池田湖




彼等は、古里の「開聞岳」を二度旋回して死地に向かったという・・!  、

第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)末期の日本で、戦況不利な状態下、陸海軍あげて大規模で特別な計画作戦として、「特攻作戦」が計画、実施された。 

その理由として、先ず、優秀な搭乗員の減少により、通常の航空攻撃は既に充分な戦果を得ることができなくなった。
そして初めて行われた特攻作戦はあくまで志願制ではあったが、幾ばくかの戦果を上げることができた。 

しかし、末期に至っては事実上強制的な特攻隊の編成が行われ、攻撃目的も精神論的なものが主眼となり、アメリカ軍の対応強化もあってその有効性が大幅に減じられたといわれる。


知覧では、昭和14年頃から陸軍飛行場としての調査がはじめられ、昭和16年、陸軍飛行学校知覧分教所として正式に開校された。 

少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていたが第10期生の頃から、この飛行場は、ほぼ三年間にわたって特攻基地としてその役割を果たすことになる。 

中でも、戦いの終盤、沖縄決戦において「特攻」という人類史上例のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となって突撃していった。
一機一艦の突撃を敢行した「特攻機」は全部で2500機といわれ、そのうち1900機が沖縄に押し寄せた米機動部隊に突入したとされるが、その中心が知覧飛行場であった。 

特攻は、知覧基地の他にも万世基地(知覧から西へ約15kmの吹上浜に面する位置に万世飛行場という特攻基地)や都城基地(宮崎県都城市)などから出撃し、1036人の隊員が戦死したのである。


知覧基地を飛び立ち、南へ向かう特攻隊員たちが見た風景は,薩摩半島南端の開聞岳,左手に池田湖,その向こうに大隅半島であったろう。

彼等の一番つらかった瞬間は、飛行機に乗り込むときに残った足が地面を離れる刹那、そして飛び立った後、振り返る度に見えていた開聞岳が見えなくなった瞬間、その2回だったといわれる。
そして彼等は「薩摩富士」と呼ばれる三角錐の際立つ秀麗な「開聞岳」を、二度旋回して死地に向かったという。



特攻という戦法の自殺的行為」に就いては、戦中の国民皆兵、軍人教育、そしてあの有名な皇国教育は、国のために命を捧げることを徹底して教えこまれていたから、元々、戦争へおもむく兵士は生きて帰れることなど考えていなかった。 

たまたま終戦、或いは不時に着任出来なかった特攻パイロットの中には帰郷が許された者もいたが、その時は軍から「特攻の任務については極秘にせよ」と厳命されたといい、当の本人も家族を悲しませたくないという思いもあり、大半の特攻パイロットは、家族には語らず死んでいったともいう。 

遺書にも親や残された者が悲しむことのないように、気遣った文面が多く目立つのはこのためであった。


1944年10月、第二次世界大戦中(太平洋戦争)にフィリピン・レイテ島沖で行われた、通称「レイテ沖海戦」が行われた。 
日本海軍とアメリカ海軍との、両国海軍が総力をあげて戦った史上最大の海戦としても有名である。

戦艦大和」、「戦艦武蔵」を主軸とした水上部隊が参加し、日本側の作戦名は「捷一号作戦」(しょういちごう:捷は勝の意味で勝利に通ずる)と呼称した。 
アメリカ軍によるフィリピン奪還作戦(米側ではマスケティーア作戦と呼ばれた)の阻止を目的として行われた。 
日本海軍はこの海戦を最後に、組織的抵抗を終えたとも言える。


又、この海戦で「神風特別攻撃隊」による攻撃が初めて行われた。
海軍として最初の組織的な「航空機特攻作戦」は、大西瀧治郎海軍中将により提唱されたという。

大西は生還を全く期さない戦法を自ら「特攻は外道の統率」であると認識していて、この作戦に応呼すべきは1回限りの奇襲策と考え、決断したはずであり、アメリカ空母を一時的に行動不能にするためには有効な戦法と判断し、それを命じている。 

しかし、1回限りの奇襲策が意外な程の戦果を挙げたことから、特攻作戦の継続、拡大することになる。


大西中将はかねて「特攻に狎(なれる)れてはいけない」が口癖であったといい、「特攻が日常化すると、命ずる方はそれを単に事務的に処理しがちで、命じられた方の心理や不安、心の葛藤や恐怖心、そして何よりも彼らの献身や犠牲の大事さを忘れがちになる」とも言っていたという。 


しかし、実態は、陸海軍とも初期戦果に目を奪われ、たちまち、「特攻に狎らされてしまった」のであった。 

その後、全軍特攻へと拡大し、狂気の自殺攻撃の兵器を生み出し、全軍特攻から全国民特攻へと暗黒の道を辿ることになり、行く手には日本民族そのものの玉砕による滅亡が危ぶまれる事態へとなっていった。

特攻隊生みの親」は大西海軍中将と言われるが・・、
一方、既に、海軍内では検討されてきた事案で、大西中将は発案者ではなく実行者であるとも言われる。 

いずれにしても彼は終戦の昭和20年8月16日未明、一切一身の責任を負い、介錯なしで割腹自決している。 

大西は「特攻隊の英霊に曰く(いわく)、善く戦ひたり深謝する」ではじまる、特攻隊員に感謝し、遺族に詫びた遺書を残している。

ある新聞記者が、特攻の生みの親とされる大西中将にインタビューを行った。 その中で『 わしはな、神風攻撃で戦局を覆せるとは思っていなかった。今も、そう思っている。それにもかかわらず、わしは、次から次へと、若い人たちを死にかり立てている 』、 『 わしはな、この日本が破れようとしている時に、若い人たちが喜こんで敵に体当りをして死んで行ったという歴史をつくりたかった。つくっておきたかったと言った方が正確だな(中略)そういう歴史がないと・・、後世の日本人はどんなに淋しいことだろう 』・・と。「現代史の証言」より・・!!。



当時の戦争責任者・・?の「内心の暴露・・?」を我々はどう解釈していいのやら・・??、
一人の過去の人間に対して、一方、二方・・多方と種々の見方ができる。 

歴史も同様で、歴史の一つの事象に対して一方、二方・・多方の見方ができ、戦争の責任問題にしても然りである。 

戦争を発祥し、命令し、命令されて戦地に赴く・・!、
特攻を発案し、命令し、命令されて特攻機で戦地に向かう。 

命令するものと、命令されるものの一線を何処に科すのかは常に曖昧である。 
歴史(過去の事象)というものは概念的な結果であって、多くの曖昧さが含むものであろう。 

命令するものも、命令されるものも、一線共通しているのは、結果を望んで使命感に溢れ、純粋に、実務を遂行したことであろう。 
つまり、戦争の責任を同国民として何処に科すのか、誰に科すのかという事は非常に曖昧のような気がするのである。 
曖昧さゆえに現世の人々は、結果に対して如何様にも考えられ、如何様にも発言できるのである。 

大事なことは「過去の経過、状況もさることながら、その結果であって、その結果を現在に生かし、未来にどう繋げていくか」という事であろう。 



現在、多くの「特攻隊員」が祀られている「靖国神社」は、その参拝について多々の物議を醸し出している。 
他所様(よそさま:外国、中国、韓国))が靖国のことで色々言っているが、それはある意味で仕方がないが(勝手であるが・・)、日本国民の知識人や責任階級者が、それに乗じてかどうか確かではないが、靖国神社に「参拝するな」とか、「分祀せよ」とか、宗教法人を取り払えとか、果ては別の慰霊所を造れと物議が湧き上がっている。 

この優秀な(・・?)日本人は「 歴史を、どう断罪しようとしているのか・・? 」、そこに見えるのは歴史の多様さ、曖昧さへの認識の疑問と思考的傲慢さが透けて見えて仕方がないのである。 



やや陰鬱な気分で記念館を出、直線の桜並木へ戻る。 
この「直線の桜並木」は当時、死出の旅立ちの、片道だけの滑走路だとされる・・!。 

今年は(2005年)戦後60年の節目を迎えて、知覧特攻平和会館への訪問者は、さすがにいつもの年より多いと言われる。


次回は、「頴娃」・・?




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01. 15.

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