google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-04-24

2011年4月30日土曜日

日本周遊紀行(123)深江 「唖然、深江の道の駅」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




 日本周遊紀行(123)深江 「唖然、深江の道の駅」   、




ドーム内の原型のままの被災保存家屋




国道脇の「道の駅」に、火砕流で埋まった生々しい家々の痕跡が保存されている・・、

普賢岳と大火砕流跡を観察して深江町の道の駅で一服した。
水無川(火砕流痕)の袂、国道に沿って「道の駅;みずなし本陣ふかえ」があり、平成新山を一望できる比較的新しい「道の駅」で日本最大級の敷地を誇るという。(その理由は・・?) 

島原市から口之津に向かう国道251号線そばにある道の駅で、最近海岸側にバイパスができているが、旧道のそばにあり普賢岳の噴火で多大な被害を出した水無川に隣接してある。
ここからはその普賢岳が正面に見え、道の駅展望台には望遠鏡も備わっていた。 

この道の駅は通常の施設の他に特徴的なのが、被災家屋を現状保存する「土石流被災家屋保存公園」という一角(施設としては、こちらの方が遥かに広大)が在ることである。園内にはドーム状の建物があり、これは風化しないための処置だろうが大きなテントを設けてその中で保存展示しているのである。
そこには、被災家屋が3軒そのままの形で保存されている。その他にも屋外に8棟、合計11棟の被災家屋が保存されている。

それは、見るからにゾッとする光景で、全ての保存家屋が一階の屋根付近まで部屋の内外を問わず土砂にうもれている。 
屋根だけ残して土に埋もれた家々は余りに奇怪で、ある家は瓦葺の広めの日本式家屋で、渡り廊下の上まで大小の土砂、火山灰が流れ込んでいる。
一方では家の一階部分の台所は完全に土砂に埋まり、窓からなだれ込んだ土砂が玄関、居間、子供部屋、寝室と土砂で一杯なのである。 

これら土石流のものすごさを物語っていて、真に痛々しい限りである。
ここにはリアルに訴えて来るものがあり、その凄まじい光景にただ唖然・・!、火山の威力をこれほど雄弁に語るものはないだろう。

この保存家屋群は主に土石流によって起こった災害であり、云わば二次的災害とも言えるだろう。 
土石流とは谷に積もった石や土砂などが長雨などが大量に流出することいい、流れは数十トンもある大きな岩でさえ石ころのように押し流してしまうほど大きな破壊力をもち、日本各地でさまざまな被害をもたらしていることは知られている。

普賢岳では、火砕流で山腹に大量に積もった火山灰などが、梅雨の長雨や台風などが続き、何回も土石流が発生した結果、火砕流が届かなかった下流地域にまで及び民家や橋、道路、鉄道などを飲み込み押し流し、耕作地を土砂で埋めつくしたのである。 
普賢岳の山麓地域は元々、酪農や葉たばこの産地として知られていたが、土石流や火砕流で大きな被害をもたらしたのである。


保存家屋の前に大きな説明版があった。 
今回の被害の状況が詳しく写真付きで(上空写真)説明してあり、これを見る限り火砕流、土石流の被害範囲は太い幾筋もの線ではなく、広大な面となって被害が及んでいることが判る。

道の駅「みずなし本陣ふかえ」は雲仙・普賢岳噴火災害後に、島原地域再生計画の基ずき平成11年4月に開業したもので、普賢岳の噴火災害のすさまじさを後世に伝えるために、土石流によって被災した家屋が、そのまま保存されているこの地に造られたものであった。



道の駅を島原方面に少し行った右手に、広大な公園が在り、この一角に「雲仙岳災害記念館・がまだすドーム」というのが在った。ゆるやかにドーム状をなした、広―い建敷きの近代的建物である。 

がまだすドーム」という奇妙な名は、「がんばる」ドームという意味らしい!。
地元の言葉で「精を出せ」、「がんばろう」という意味だそうで、普賢岳の噴火で大災害を被ったところから復興に向けた合言葉だったそうである。
内部は、「大噴火シアター」の臨場感ある巨大なスクリーンや 被災した文物を集めて当時の町並みを再現した部屋、折れ曲がったバス停や自転車、最後まで陣取っていたマスコミのカメラや車両等々の災害遺品の展示。 


又、「島原大変シアター」は、江戸時代に起きた噴火の際に、島原が壊滅状態になったことに加え、山が崩れて海に流れ込みんだことから対岸の肥後(熊本)に大津波が押し寄せたことを「島原大変、肥後迷惑」(後述します)と言い、その時の様子、エピソードも紹介している。
隣の敷地には、当時の大火砕流で殉職した消防団員の顕彰碑文の立派な石碑が建っている。


刻文の内容は・・、 
『 碑文 1990年(平成2年)11月17日、雲仙・普賢岳が山頂から白煙を上げ、198年ぶりに噴火活動を開始した。始めの頃は、穏やかであった活動が、徐々に活発になり土石流や火砕流が発生したため、避難勧告が発令され、消防団員が昼夜を問わず、監視活動や住民の避難誘導に当っていた。 翌年6月3日、午後4時8分発生した、予想もしなかった大火砕流に飲み込まれ、監視活動に当っていた消防団員12名を含む43名の尊い人命が奪われるという大惨事となった。 我々消防団員は、同胞の団員が殉職したことに対し、悲痛な衝撃を受け、残された遺族のことを思うと心痛めるばかりである。 我々は殉職した消防団員の崇高な郷土愛と不屈の消防精神を消防人の鑑として受け継いでいかねばならないと改めて決意した。 殉職した団員に対しては、二階級特進がされ、国からは著しい功績が認められ死亡叙勲が授与された。 1996年(平成8年)6月、雲仙・普賢岳の噴火活動の終息を迎え、この功績を末永く顕彰し、安らかなご冥福をお祈りするとともに、後に続ずく消防人の心を奮い立たせるため、この慰霊碑を建立する。 なお、この慰霊碑は全国の消防関係等の皆様から寄せられた心温まる義捐金を浄財にさせて頂いた。 1999年(平成11年)11月17日 島原消防団長 下田信夫 』 とあった・・合掌礼拝・・!!。

碑石の直前には、当時救急、救助に活躍した装甲車とヘリコプターが保存展示されている。又、被災した消防車やパトカー、半鐘などが「農業研修所跡」に保存されているという。

大火砕流で被災死亡した人々は、消防団12人、警察官2人、住民6人、タクシー運転手4人、火山学者3人、報道関係者16人の43名が死亡・行方不明となった。 
尚、深江町での被害は死者・行方不明者・44名、建物の損壊・2,511棟、被害額・2,299億円



深江町(ふかえちょう)2006年3月31日、南高来郡加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、西有家町、有家町、布津町の八町と対等合併して市制を施行し、「南島原市」となった。
従って、島原半島は、雲仙市、島原市、そして南島原市の三市のみになった。(一部諫早市が含まれる)。

次回は、「島原




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2011年4月29日金曜日

日本周遊紀行(123)深江 「雲仙・普賢岳」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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 日本周遊紀行(123)深江 「雲仙・普賢岳」   、



  普賢岳と火砕流跡



雲仙・普賢岳は噴火で山様が一変し、新たに「平成新山」と名付けられた・・、

雲仙の新湯温泉に浸かり、身も心もさっぱりして雲仙高原を後にした。
下る途中、直に仁田峠へ向かう「仁田峠循環有料道路」というのがあり、厳(いかめしい)しい通用ゲートがあって聞くところ700円が通行料として必要らしい。

二度と来る機会が無いかもしれないので大枚を叩いて訪ねることにした。
さすがに良く整備された道路で、まさしく観光地の峠である。雲仙の真っ只中にあり、標高は1080mと半島の中にある峠にしては思ったより高い。
展望地は深江町と小浜町の境にあり、どうやら、急速に天候も回復したようで、島原半島から九州阿蘇方面までを一望できる。
正面に大迫力の普賢岳、反対側には島原湾方面の雄大な景色が堪能できる。

仁田峠の展望所にはロープウェイもあり、更に絶景を楽しむことができるようだが、さすがこちらは遠慮した。
有料道路を一回りして国道57から深江町方面へ下ってゆく、その後、島原から熊本へ向かう予定である。


ヘアーピンカーブが連続する急坂を慎重に下る。
途中、小さな園地があって「新観光100選の地」と記した石碑が建っていた。 下界は島原の沿岸から、熊本、阿蘇の山並みが遠望できる。下る合間にあの普賢岳の荒々しい姿が樹木の間から確認できるようになった。 

下るに従って雲仙山麓の東側の深江町からは、普賢岳(ふげんだけ)の全容が一望できるようになった、道路を選びながら当山と火砕流の跡が克明に見通せる場所を辿った。R57のやや上部、文字通り水の無い「水無川」沿いに車を止めた。


この「水無川」こそ、火砕流の本源・本拠地であった。
普賢岳の山頂付近は、溶岩ドームと言われるどす黒い岩肌が折り重なり、白い噴煙が今も吐き続けている。その下の所謂、富士山型の錐形には流れ皺(しわ)を造って赤茶けた山肌が異様であり、威容である。 

その麓から火砕流、土石流、泥流、地すべり等の様相で眉山、その他の山裾を削りながら流れ落ちている鮮やかな痕跡が今もハッキリ見て取れる。 
直下の小山で二方向に分かれた流れは、下部で再び合体して本来の水無川を乗り越え、大幅な流域を広げながら下部に達している。 

流域幅は、数百米もあろうか・・?、
今も延々とした堰堤、土留め工事が進行中のようである。 

流跡は上部では赤茶けた土砂に大石がゴロゴロ浮き出ているような荒涼たる風景で草木の緑は全く見受けられない。ただ下部堰堤付近では所々、短い草の青が確かめられ、多少の年月は感じられる。 


普賢岳は1990年11月に噴火、91年6月3日に大火砕流が発生、大災害となったのは記憶に残る。 
地質学上の調査では推測される現象でしかなかったと云われる火砕流が、現実のものになったのである。
当初発生した小規模であるが、現実の火砕流が発生したということ事態、衝撃的だったことから取材競争が過熱し、ここで世界で初めて鮮明な映像として記録された火山としても有名になった。 
そして、その後に発生した大規模な「大火砕流」に、取材陣や警備担当者が巻き込まれた関係者も多く、本当の衝撃的事故が発生したのである。



火砕流とは・・・。
一言で云うと、「高温のマグマの細かい破片が、気体と混合しながら流れ下る現象」。
普賢岳の溶岩は粘度が高く、溶岩流となって流れ落ちるかわりに火口付近に大きな溶岩ドームを形成する。
この巨大溶岩ドームが堪えきれずに崩壊する現象が火砕流である。 

火砕流は高熱の火山岩塊、火山灰、軽石などが高温の火山ガス、そして周囲の空気を取り込み反応爆発を繰り返しながら山の斜面を流れ下る現象で、流下速度は時速100kmを越えることもあるという。
また、極めて高温なため火山の噴火現象の中でももっとも危険なものの一つだという。

雲仙・普賢岳の最初の火砕流は、溶岩ドームが現れた平成3年5月20日から4日後に発生している。 
次の平成3年6月3日に発生した大火砕流は、巨大な黒煙を上げながら水無川に沿って猛スピードで流れ落ち、北上木場地区を飲み込んだ。
避難勧告地区内で警戒中の消防団員、警察官、取材中の報道関係者などが巻き込まれ、死者40人、行方不明3人という犠牲者を出した。

また、人家や農地、山林などを広範囲に焼き尽くした。
火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明者は大半が遺体さえ見つけられないという珍しいケースとなった。


火砕流はその後も続き、6月8日には更に大規模な火砕流が発生、人的な被害はなかったものの火口から6km下流の国道57号付近まで到達し、207棟の家屋が焼失、倒壊した。
9月15日には普賢岳北東斜面で最大規模の火砕流が発生、「おしが谷」を下り先端は上木場地区に到り、白谷町まで達したという。

又、火砕流に伴う広範囲な熱風によって、深江町大野木場地区、島原市上木場地区で住宅・山林火災が発生し218棟が焼失、倒壊した。

その後も火砕流は頻繁に発生し、噴火活動が終息するまで実に9432回の火砕流が発生したという。一日最多の記録では平成6年8月25日の68回が数えられるという。
溶岩の総噴出量は2億4千万立方メートル、福岡ドームの135杯分、東京ドームの190杯分。島原市民は何時果てるともしれない火砕流の恐怖とともに生活が続けられた。



雲仙山系の主峰・普賢岳(1359m)が、山域上部から噴火活動を開始したのは平成2年11月17日頃であった。 
その後、断続的に噴火が起こり溶岩ドームを盛り上げ、新山を形成していった。後に「平成新山」と命名、こちらの方は旧山のそれより高く1489mもある。

現在、噴火活動はようやく収まり溶岩ドームも雄大な景観を持つ雲仙岳の一部となった。
今はまだ両者は別々の山体のように見えるが、やがて新山の方も雑木で覆われて、見る角度によっては双耳峰の様相を呈するようになるのではといわれる。


島原市は小浜町とともに、最初の溶岩ドームが出現して5年目を迎えた平成8年の5月20日に、このドーム部分を「平成新山」と名付け、長く続いた災害と新たな復興の記念としている。 

平成新山の標高は、平成7年6月の1488mをピークに、現在はやや縮小して1482.7m(国土地理院火山基本図より)であり、それでも普賢岳の1359mを抜いて雲仙山系の最高峰になっている。 
平成新山は火口から吹き出した溶岩が冷えて固まったもので、その容積は約1億立方メートル、実に東京ドーム84杯分と言われる熱い岩の固まりが出現したことになる。
噴火活動は終息したが、平成新山の内部はいまだに高温を保っているという。

次回は、火砕流の赤裸々な被害痕跡が保存されてる、深江町「道の駅」





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2011年4月28日木曜日

日本周遊紀行(122)雲仙 「雲仙地獄」

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日本周遊紀行(122)雲仙 「雲仙地獄」  、



雲仙地獄


雲仙温泉の新湯(共同湯)



雲仙には、雲仙地獄を挟んで古湯と新湯がある・・、

昨夜、雨の音を聞いたようだ・・!、 
目覚めて気がつくと、やはり小雨が降っている。 
自宅をスタートしてから10日以上になるが、雨の日を迎えたのは初めてであった。 
何となく水不足、雨を期待している四国、特に瀬戸内拠りのことを思い出した。 
久方ぶりのお湿りで結構なことなんだが、今日の行程は実は雲仙の山地へ向かうため余り有難くはなかった。 
雨模様なので慌てず、ゆっくり出かけることにした。


先ずは、いつものように朝湯、浴衣姿でのんびり朝食そしてテレビニュース。 
来年のサッカー・ワールドカップ・ドイツ大会に向けて、数日後に迫った日本チームの最終予選の情報等盛んに報じていた。 
いやはや実にのんびりで9時少々前の出発であり、体調も充分休んだせいか良好のようである。

宿舎のすぐ手前に、山上の雲仙から反対側山麓の島原方面へ抜ける国道51号線を走る。 
雨に濡れて一段と濃さを増した緑の壁を気持ち良く車は進む。 
フルタイムの四輪駆動車なので山道や濡れた路面、チョットの悪路は平気である。 

ヘアーピンカーブが連続する難路も快調に走りぬく、頼りがいのあるマイカーも出発して既に3500kmを越えていた。 気が付くと空模様も何時しか山中の雲が切れ掛かって明るさを取り戻しているようだ、このまま晴れてくれ・・!。
山歩きを長年経験してきた小生であり、山の天気にかけては敏感である・・、と自認しているが。 

一般に天気が下る時は高い方(山上の方)より、回復する時も高所より・・と山の頂上付近を観察する事により或る程度の予報が叶うと思っている。 
端的に言うと富士山の山頂の天気は、近畿地方の天気と同質であるといわれる。 自宅でも窓から見える丹沢山系の東端・大山の様子を見てて或る程度の予測できる。  

ここは標高700m前後の雲仙山系で、既に山腹から山上尾根に達しようとしていた。 
灰色の雲の動きも急がしそうで、その上に白雲がたなびいている、回復の兆しである。 

どうやら人家が見え始め別荘風の瀟洒な建物も見える。 
既に火山性の硫黄臭が漂う国道をそのまま進むと雲仙のメインタウン・温泉街へ来たようである。 華やかさ、派手さはないが、土産屋や旅館が雰囲気よく並んでいる。 

インフォメイション・センターで様子を伺いながら観光案内書を頂く、雨は上がったようであるがこの様子だと雲仙岳や標高1359m、あの普賢岳、妙見岳一帯の景観は残念ながら望めないだろう。



雲仙温泉には、古湯ゾーンと新湯ゾーンがあるらしい。 
又、温泉街を取り巻くように火山性噴煙の上がる地獄が有り、「地獄めぐり」が楽しめるという、その地獄を覗にいこう。 
新湯方面の最奥部、新湯ホテルの近くの駐車場に車を置く。朝早いせいか、広い置き場も小生の車のみであった。

この駐車場の奥が、地獄巡りの入り口でもあるようだ。
雨に濡れたドウダンツツジや、蓮華ツツジの林の間に石畳が敷かれて、歩き易く良く整備されている。 
進むと火山性のガスが燻って(くすぶって)荒涼とした岩肌が現れた、先ずは「邪見地獄」と銘打ってある。 見学路以外のところは進入防止、危険防止のため柵が施してある。 

続いて「大叫喚地獄」という大層な名前の地獄に来た、鋭い噴気音と共に高々と白煙をたちのぼらせ、風によって左右になびき、こちらに向かってくるときは咽(むせ)そうになる。 
灰色の熱湯地極池はゴボゴボと間歇的に吹き上がる、ここは雲仙で最も噴気活動が活発な地獄であろう。他にも数箇所の地獄があるが、展望地より周囲を眺めながら一旦戻ることにする。


次に古湯側から巡ってみよう・・、 
この辺りは国道を挟んで両サイドが地獄の様相を呈していた。 
すぐ横の「湯けむり橋」からは岩の間からシューシューと噴煙が立ち上る。 
その先には「清七地獄」というのが在った。江戸時代初期のキリシタン弾圧によって、キリシタン信仰の厚かった「清七」が、この雲仙の地において拷問されたときに噴出したといわれる地獄だという。 

この地は江戸期にキリスト教が禁止されていた時代、大叫喚地獄と合わせて異教徒の刑場として使われたところであり、キリシタン殉教の地でもあるという。 
「真知子岩」というのもあった・・、昭和29年、この年は雲仙が国立公園に指定されてから20年の記念の年であった。

当時、最大の話題でもあった映画「君の名は」のロケが雲仙であり、佐田啓二、岸恵子という美男美女が来雲して、この地で撮影があったらしく、これらを記念して命名されたらしい。 菊田一夫の小説・「君の名は」で大ヒットした映画で、我々往年の世代は昭和初期のラジオドラマで、放送が始まると銭湯が空になったという曰く付きの物語であった。岩には記念の石版が埋め込まれている。 

お糸地獄」は江戸時代、お糸という女性が不義密通をし、更に亭主殺したという事件が起こった。このドロドロした状態をなぞらえて命名したのだろう・・?、罰として、亭主殺しの「お糸は」こんな地獄に落されたのかも・・?。 
遊歩道の山肌には、品形良く「ミヤマキリシマ(雲仙ツツジ)」が枝を伸ばしていた。 本来なら今が花の見頃であるはずだが、噴気地獄で気温が高いせいか、既に赤紫の小振りな花は終わっていた。 



温泉街の北の外れ、左に向けると、「鴛鴦の池」(おしどりのいけ)とも呼ばれる静観の地があった。人っ子一人いない静寂の地、池は鏡面のように光っていて、周囲は靄(もや)が漂っている。 
鴛鴦の池と書いて何て読むのか、薄学の小生が疑問に思ったが「おしどり」の池と称するらしい。さすがに“おしどり”こそ見受けられないが、この湖畔に立ち静かに瞑想をするとき、先ほどまで地球の胎動、地獄の噴出しを真近に接したので、この「寂」とした自然の好対照さに驚きながらも安堵を覚えるのである。 まもなくやって来るだろうと思われる、湖水に浮かぶ「おしどり」に思いを馳せる。



この後は、初めに訪れた「新湯」の共同浴場で噴煙の垢を落そう。 
雲仙にある3か所の共同浴場の一つでもある。一見したところ民家のような建物で、湯番は常駐しているが、あらかじめ近くの小店で入浴券を買うシステムになっている、入浴料は100円で激安。 

素朴な石張りの浴室に長方形の湯船があり、白濁したお湯が満たされている。
地獄から引き湯したものだそうで、強い硫化水素臭が心地良い。源泉は噴気泉を直接利用しているらしく、ろ過して使用しているので肌ざわりが柔らかい。主に、地元の人々が利用しているらしいが、我々観光客も気軽に利用できる。



雲仙の歴史について・・、
雲仙山系は古くは「肥前国風土記」で「高来峰」(古来より現在まで、この地方を高来郡と称し、島原半島を南高来郡、諫早・大村地方は北高来郡である)と呼ばれていた山であり、温泉についての記述もある。雲仙は、元々はただ「温泉」と表記され「うんぜん」と読ませていたらしいが、国立公園指定の際に現在の表記に改められたという。 

奈良期(701年)に行基(奈良時代の高僧)が大乗院満明寺を開いたことが伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」であることからも、以後、温泉(うんぜん)つまり雲仙は、霊山として山岳信仰(修験道)でも多いに栄えたところでもある。 

又、行基は同時に四面宮(現、温泉の主神・雲仙神社)を開いたといわれている。 祭神は、「古事記」によれば筑紫島(九州)の神をあらわす「一身四面」の神だという。この神社は上古(大和朝廷から奈良期)には温泉神社、中古(平安期)には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻したという。

四面宮(しめんぐう)とは、 地元民より「お四面様、お四面さん」と呼ばれて親しまれている。 四面宮と称したのは、日別命(ヒワケノミコト)と言われる一つの神体に、其々四つの神の面をもつことから言われる。

古事記には、島々の生成説話に伊耶那岐命、伊耶那美命の国生み譚があり、これによると淡路島、四国、隠岐の島の次に「九州島」を生んだとある。
つまり「面四つ」あるとし、筑紫を白日別、豊の国を豐日別、肥の国を建日向日豊土比泥別、熊曾の国を建日別と言うとある。
日別命は、筑紫の国魂であるとされる由縁である。 又、日別命というのは出雲系の神々であり、大国主に関係が有ると言われる。大国主の誕生地は有明海に臨む島原半島、雲仙岳の麓であると言う説もあるらしい・・?。

菩薩と言われる「行基」が満明寺を開いた後、同地に出雲の神に遭遇したことから、畏れながら「四面宮」を造営したともいわれる。 
島原半島の中には出雲系の大国主神を祀る「諫早神社」(四面宮の勧請といわれる)をはじめ、10数の分社があるという。 
邪推であるが、雲仙より出し大国主が、「出雲」と命名して国を拓いたというのは、何か共通性を感ずるが・・?、尤も、出雲を開いたのは大国主の父神であるスサノウであるが・・!。
 

その温泉神社は雲仙温泉郷のまっただ中、隣は噴気の沸き出している地獄巡りの散歩道があるところに鎮座してる。 
此れより少し離れたところに摂社・木花開耶姫神社( コノハナサクヤヒメ:天孫・ニニギの妻)が座している。 当社には男女の巨大なシンボルが鎮座しているといい。この社は元禄の頃より祀られたもので向かって右に女陰、左に男根があって思わずギョッとさせられるという。

男は挙(こぞ)って自分の持ち物が大きく、太く、逞しくあるように祈り、また女性は「あなオソロシ」とため息をつきながら祈る、そうするとご利益が有るとされる。 
この男根女陰崇拝の風習は長く伝えらてきて、参拝者は家内安全、男女和合、子宝また良縁の神として拝むべしと記されている。


国道を隔てた向かい側に古刹「満明寺」がある。
勅許を受けて僧・行基は「大乗院満明寺」を開基し、四面宮(温泉神社)をあわせて祀り山号を「温泉山」としたとされている。
高僧・行基は宝平元年(749年)、雲仙の地で入寂(寂滅に入ること、僧の死をいう)したと伝えられている。 

満明寺は一時、比叡山、高野山とともに天下の三山と云われ、千人の僧を集め、雲仙一帯を霊場として世の崇敬を集めていたともいわれる。 
寛永14年(1637) 島原の乱では、僧の中にも一揆に加わるものが出たため、島原藩主・松倉重政によって滅ぼされたという。「地獄」はキリシタンの弾圧の舞台にもなり、多くの命が失われたのもこの地、この頃だと云われてる。


実際、雲仙温泉の事始は1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯したとされ、民衆の共同湯として初めて「延暦の湯」を起こしたと石碑にはある。 
雲仙は水蒸気が噴出して硫黄の臭いがたちこめる光景が地獄と形容され、昭和2年頃、日本新八景山岳の部で1位になり、昭和9年には我が国で最初の国立公園に指定された。 

天然記念物の群落である地獄一帯のシロドウダン群落、池の原のミヤマキリシマ群落ウンゼンツツジ)や野岳のイヌツゲ群落と活火山特有の植物など、まるで自然の大図鑑である。 

又、明治以降、ヨーロッパや上海の長崎に住む外国人の避暑地としても賑わった歴史も有る。 の雲仙はピンク色のミヤマキリシマに埋め尽くされ、夏は当たり一面緑の息吹、秋は燃えるような鮮やかな紅葉が山肌を染め、冬は真っ白の世界に輝き、太陽に映えまる。


雲仙は、四季それそれの日本の自然の美しさを楽しませてくれる パノラマスクリーンであり、 又、どの季節も心地好い温泉に浸りながら、存分にリラックスできる世界でもある。

次回は平成の新山「雲仙・普賢岳




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2011年4月27日水曜日

日本周遊紀行(121)小浜 「小浜温泉」




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 日本周遊紀行(121)小浜 「小浜温泉」   、



湯煙がただよう「小浜温泉」の街並



海岸に沿った街中から、100度の源泉が湧く肥前・小浜温泉・・、

千々石町は国見町、瑞穂町、吾妻町、愛野町、小浜町、南串山町の同程度の7町域が大同合体の構成組織となり、平成17年10月11日に「雲仙市」となった。

一走りで小浜の温泉地へ着いたようである、珍しく海岸に湧く温泉地である。
海岸沿いに国道がほぼ直線に走り、海辺に良く整備された公園が細長く道路と平行している、その右はもう波打ち際の海岸線である。 


小浜温泉は、街のいたるところに白煙(水蒸気)が上がっている。 
近付いて視ると民家の(小規模な旅館・・?)すぐ前に、コンクリートとブロックを二階の窓くらいの高さまで造り上げた四角いタワーが在り、そこからモウモウと蒸気が漏れて吹き上がっている。(タワーは温泉水と蒸気を分離する施設)上部から耐熱用の赤い塩ビ管が数本、取り出し用に設置してあり、地中に潜っている。

下には湯溜りが有って、そこには「タマゴ、湯とおしはご自由に、どうぞ・・」とある。 

この小浜には源泉が20数ヵ所確認されているといい、ここはその中の一つであろう。 
商店街の通りから一つ入った小さな路地であるが、水蒸気をあげた源泉のすさまじさに圧倒される。 小浜温泉街は「源泉巡り」の散歩も楽しみの一つかもしれない。


この温泉町には、所謂、高級・大規模のホテルや旅館はあまり見当たらず、観光地化されてない比較的庶民的な温泉、湯治場風の面影を残しているようである。 

源泉温度100度、一日の湧出量15,000トン、泉質はナトリウム含有泉。神経系疾患、婦人病、リウマチ、胃腸病、呼吸器病などに効果があるという。 

昭和37年には既に国民保養温泉地に指定されていて、雲仙温泉の指定範囲拡大の際に小浜温泉も同時に指定されたという。 
尤も、島原半島そのものが、雲仙火山群(昨今では普賢岳の大爆発が記憶に新らしい、後記)で形成されたもので、大活火山の島なのであるから。


町中をゆっくり周遊して、お目当ての共同浴場へ向かう。 
海岸沿いの町営「浜の湯」を訪ねてみた。

自動販売機で150円の入湯券を購入広い浴室内へ、夕刻で適当な時間帯のせいか結構な人数が湯浴みを楽しんでいる。 
浴室はかなり広く、浴槽は二つがつながっている。
左側が「ぬるめの湯」、右側が「あつめの湯」と表示され、源泉の流入口の脇にそれぞれ水道の蛇口があって、水で薄めて浴槽の温度調節をしているようである。
何しろ源泉温度が100度では水で薄めざるをえない。 
小生は、ぬるめの湯のほうが常に適温である、舐めるとやや塩っぱいのは海に近いせいかもしれない、無色透明で無臭のようである。



雲仙岳山麓の橘湾に面した海岸に湧出する小浜海浜温泉の歴史は「肥前風土記」(713年)にも記されているほど古く、既に、江戸時代には湯治場として利用されるようになったと言われている。 
大正12年から昭和13年までは鉄道が開通(小浜鉄道は、1932年に廃線)、多くの観光客がこの地を訪れ、山上の雲仙温泉街までの道路(現、国道57号線)が整備されてきたのもこの時代。

全国の温泉の中でも湧き出す温度が高く源泉も数多い。 
昔は海辺の砂浜を掘ると温泉が湧き出たというが、 かの長崎居留のシーボルトは、著書「ニッポン」の中で、「温泉嶽の麓、島原の西海岸に接して病を癒す効力ありとして名なる温泉あり。その近くなる漁村の名を取りて小浜という。ここは満潮時には海水来り、被うを特異とす。ひびきも立てず沸き立つこともなく、岩の底より湧くを浴場に導き来るなり。温度はおよそ華氏の90度にして色は清く泉水の如く透明なり」と記している。
長崎大学医学部にいた歌人・斉藤茂吉は、この地で湯楽・愉楽しながら橘湾に沈む夕日の美しい風景を詠んでいる。
   
『 ここに来て 落日を見るを 常とせり 
           海の落日も 忘れざるべし 
』 茂吉



海岸国道を更に行った小浜の中心街から、やや外れの海沿いに今夜の目的地・国民宿舎「望洋荘」があった。 
部屋から眺める夕日が素晴らしい! 

風呂は、大浴場、穴風呂(単なるトンネル?)、ジェットバス、うたせ湯、露天風呂等があり賑やかである。 
一通りの湯浴みをし、食事は勿論海鮮料理を主体とした「御造り」で、お酒と一緒に美味しく頂きました。

気が付かなかったが温泉街中の海辺に、「波の湯・茜」という新しく出来た町営の温泉場があり、海上露天風呂も在って料金300円で入れるらしい。

次回、今度は雲上の温泉・「雲仙




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2011年4月24日日曜日

日本周遊紀行(120)諫早 「干拓事業」

『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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日本周遊紀行(120)諫早 「干拓事業」



諫早干拓の潮受堤防(左が内浦、右が外浦)と可動式水門



諫早干拓の堤防はやはり巨大だった
、しかし、・・、

眼鏡橋から一旦出島まで戻って、付近の市立病院横に入口がある「出島長崎道」で一路諫早に向かう。 諫早は県の中央部というか・・?、
市域は逆T形の中心に位置し、西側に長崎半島、南側は島原半島それに北側は大村半島・・?のそれぞれ三半島の付け根にあたる。

又、西側に大村湾、東側に有明海(諫早湾)そして南側には橘湾の、何と海域も三つの海に囲まれている。
これはもう、地形的には相当珍しい部類に入るだろう。


そして諫早と言ったら、やはり有明・諫早湾の干拓で、この事業で物議を提供している所でもある。
あの水門が、ギロチンの様に端から閉じられる映像は衝撃的だった・・!」


諫早湾の状態やギロチン水門を見ようと思い、地図を見ながら行ったがなかなか海岸線にはたどり着けない。
国道から海岸線までは遠く、勿論、過去に干拓された広大な農地が広がっているためで、それに海岸・・?へ行くための道は余り整備されていないようだ、場所が違ったかな・・?。 

近所の人に伺うと「この先、車じゃ行けないし、行っても、それからかなりあり堤防は見えないよ、堤防見るにゃ湾の向こう側、国道251を行くだよ」と言う。

言われるままその国道を行く。半島先端の島原へ通じている島原鉄道が並行して走っている。吾妻町の平江地区まで来て、コンビニで堰堤の様子を聞くと・・、
「踏み切り渡って、真直ぐ行くと直ぐだよ」
「車で行けますか・・?」
「車ですって。 堰堤には立派な道路が付いていて、向こう岸の高来町まで行けるようになりますよ」


言われた踏み切りを渡ると真ッ直線に延びた堤防があった。
上部には立派な道路も取り付けられている。入口部には工事用のバリケードが置いてあったが、何とか通れそうなので進めてみた、途中水門近くに大きな駐車場があり、ここまでは進入できたが、水門から先は未だ工事中なのか、完全に通行止めであった。(2007年12月に全面開通)


この堰堤道路は全長7km、この道路は農産物輸送の合理化、新たな観光ルートの開発、地域間交流の促進を目的に潮受堤防を一般交通として利用するもので、島原半島一帯と多良岳山麓一帯を連絡するものであるという。

しかし、ここでは道路の話ではなく、堤防と干拓のことであ。
両海面を見ると明らかにその差異が判る、外洋は普通の青く澄んだ海であるが、閉ざされた内海は灰色に澱んでいた。これらの海水はやがて干拓され広大な新規の土地が出現するのだろう・・?。

堰堤工事は1989年より「国営諫早湾干拓事業」として行われ、1997年に潮受け堤防が完全に閉じられた、例のギロチン閉門である。 
干拓計画では、農用地面積は約816ha(東京ドーム200個分)、作農種は露地野菜、施設野菜、花木、酪農、肉用牛など(やはり米は含まれないようだ)、他に調整池が約2,600ha で事業費は凡そ2,500億円といわれる。

水門が閉鎖されたその後、かつては「宝の海」と言われた有明海は海底への泥の沈殿、水質汚染が生じて有明海全体が死の海と化し、二枚貝タイラギが死滅、奇形魚の増加、海苔の色落ちなど重大な漁業被害が発生したとして、自然保護団体のみならず沿岸の各漁協の猛反対にあっている。

しかし魚類の漁獲減少や水質汚濁には、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や化学肥料による影響との主張もあり、海苔養殖業者と他の漁業者との紛争も発生しているという。
克っての海だったところで干上がった地面には、海の生物の腐った匂い、白いフジツボの死骸、放置されて漁船、養殖用の朽ちた立杭、地面は干からびて、ひびが走っていた。 



有明湾干拓について・
・、
干拓の目的は防災と優良農地の造成なのだそうだが、防災は高潮などに伴う低地の浸水を防ぐこと、農地については長崎県は三方を海に囲まれ、まとまった平野がないため水田・畑作のための農地不足の解消が長年の課題であった。 

諫早の干拓事業の歴史古く、江戸時代や明治~昭和期には既に行われていて今は農業用地、住宅等に既に利用されている。 
最も古い干拓は、推古天皇の頃(593~629年)に開かれたともいわれている。 

平成の干拓は国の公共事業の一つで非常に大規模なものであり、「潮受堤防」は全長が約7キロもあるという。 
同湾の堤防が閉め切られてから9年(1997年)となるが、閉め切り当初は沿岸から堤防までの海域は6 ,7kmあったが、現時点では1km前後と干潟が発達してきているという。

有明海・諫早湾の潮の干満変動差は日本でも有数で、最大約6m(我が国最大といわれる)もあるという。
因みに、東京湾では2m程度しかない。
このため、諫早湾は日本においても独特な海域であり美しい自然と海の幸を提供してきた反面、この干満の大きさと遠浅な地形のために湾奥部では有明海から運ばれる土・粒子が堆積しやすく、干潟が発達しやすい。 

干潮時には海岸線から5~7kmの沖合にまで干潟となって露出し、干潟は多いところでは年に約5cm、平均でも数cm成長するという。

因みに、「干拓」と「埋立て」の違いは新たに土を持ってくるか、来ないかにあるとされる。

干拓は字の如く新たな土壌を持ってくるのではなく、海底土を乾かして耕土にする、そのため海水の塩分を多く含んでおり除塩の為の土壌改良が必要になる。 
一時騒がれた海苔の不作、有明海の環境変化など、この干拓事業との因果関係については様々な説が飛び交い、一時期、工事停止の司法判断でも「関係がないとは言い切れない」ということで、誰も、はっきりとした事は判らないといわれる。
平成の諫早干拓は、まだまだ物議が出そうである・・!。



諫早干拓の地、堤防を後にして国道57号(国道251と一部併用)まで戻り、今夜の泊まり小浜温泉へ向かう。
国道57号は、長崎市から大分県大分市へ至る一般国道で、島原半島の雲仙山域から島原市へ到り、熊本県宇城市三角町までは有明・島原湾の海上ルートを通っている。 
小生が辿る予定の小浜から、明日の熊本方面への予定のコースでもある。

愛野町の橘湾の海岸近くから251号線がY字路になって合流し、このまま小浜方面へ向かう。

気が付くとこの辺りは霧島半島(島原半島)の付け根にあたり、この国道(R251・島原街道)は半島をグルッと一周りして、又この地へ戻っているのである。 久しぶりに、奇麗な砂浜の千々石海岸を見た。
今朝から、激しい入り江や出島の入り組んだ海辺や高低差のある断崖の所謂、リアス形の海岸を見慣れてきただけに、小波が寄せる、輝く白砂の海岸は気持ちが広やかになる。


千々石と書いて「チチイシ」と読むと思ったが実は「チジワ」と読むらしい、難解である。 
海岸から一時、内陸、山間へ向かうようである。ここから望む霧島山系の高峰が美しい。 
気がつくと霧島の火山岩であろうか石を積み上げ、垣を造り上げ、きれいに整備された棚田群である。 
田圃の畦や段差は今ではすぐにコンクリートで固めてしまうのが普通であろうが、こちらではほぼ同じ大きさの石を積み上げることで土地を上手に使っているのが分かる。 
一望すると民家の周りはほとんど棚田の田圃で、かなり高方まで山の端をかけあがているのが判る。 

棚田の田圃は緑の稲波が風にそよいでいる、一部畑もあるようだが。
清流にも恵まれた「棚田」では、山あいの昼夜の気温差が大きく、美味な米が収穫されるという、特に千々石町の「棚田米」は県内でも高い評価を得ているという。 

また、「じゃが芋」は北海道に次いで全国第2位の生産量を誇る。長崎県では「ばれいしょ」と称しているらしいが、ここ千々石町においても春と秋の二期作を基本として育成に取り組み、ほぼ一年中おいしい「ばれいしょ」を提供できるという。


千々石の棚田は水田枚数約6500枚、傾斜度は20度から40度、大体180年の歴史が有るという。「日本の棚田百選」に認定され、岳地区の棚田、清水の棚田とある。

棚田は食料を生産する場としてだけではなく、山から流れ込む水を蓄え、ダムの代わりをなし土砂崩壊防止も果たしている。 
同時に山の斜面や丘陵地に段々と折り重なり、側溝からは、せせらぎを見聞きすること出来、四季折々の風物を見せてくれる。 
棚田の美しさは、心にやすらぎを与えてくれる日本人の原風景でもあろう。

次回は、「小浜温泉


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01. 15.

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