2011年4月9日土曜日

日本周遊紀行(113)伊万里 「伊万里焼」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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 日本周遊紀行(113)伊万里 「伊万里焼」  ,



伊万里焼は、朝鮮から連れ帰った陶工から始まったという・・、

国道204号を南下する。南下といっても湾岸は複雑に入り組んでいて、道路もそれに合わせて振り回されるように西に東に移動しながらの走行である。

地図上で、右手が伊万里湾のはずであるが、なかなかそれらしい姿は見えてこない。
伊万里湾は、東松浦と長崎を含む北松浦の両岸が大きく南へV状に入り込んだ深い浦を成している。 

そのV状の上部は大小の島々や、出張った岬で覆っているし、南端の江の部分は、伊万里川、有田川の大きな河川が流れ込んでいる。 
したがって、この浦・湾は風波に影響されることなく静かで、最奥部は汽水状態を呈している。


この条件の中、伊万里湾は日本最大のカブトガニの繁殖地となっていというのも頷ける。 
伊万里市木須町の多々良海岸は、「カブトガニの産卵を見れる」地として有名であり、産卵期の夏の大潮の満潮の頃は砂浜にあがって雌が砂を堀り数100個の卵を生む、雄はそれに砂をかけてやるという。


伊万里湾は、その他にも色々な顔を持つ。 
江戸時代の記録には、冬になるとイルカの群れが押し寄せ、湾に臨む小高い丘には三百頭以上のイルカが揚がったという記念碑も残る。

昭和初期石炭産業が華やかだったころ、伊万里市山代町と東山代町には五つの大きな炭鉱が集中していた。
久原駅からは何両も連なる貨車が、伊万里湾沿いの桟橋からは機帆船(発動機・エンジン付き帆船の略)が沖合で待つ大型船へ向かって「黒いダイヤ」を積み出した。 

合わせて、軍国風潮の頃は、軍港は南側の入り江である長崎・佐世保に決まったが、伊万里一帯は昭和15年から軍関係の輸送基地となり、20数棟の施設が並んでいたという。 

施設は、食糧や弾薬の戦地への供給基地であり、鉄道や船で運び込まれた物資は、夕暮れに乗じて輸送船団が静かに湾の沖へ移動、護衛艦を伴い戦地に向かったという。 
浦ノ崎には今も、爆薬を乗せ敵艦に体当たりする「人間魚雷」を造った造船所の廃虚が横たわる。



しかし何といっても伊万里は焼き物であろう、伊万里の南隣りに有田町があり、日本の伝統工芸品の一つ、有田焼の産地として知られている。(2006年3月1日、西有田町と有田町が対等合併し、新町制による有田町が発足する)。 

有田、伊万里で焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里焼」と呼ばれていた。 
現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。 
有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もあるという。

有田焼の祖とされる韓国人・李参平(イ・サムピョン、)は、1616年頃に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに焼窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、李参平が日本磁器の祖であるといわれる。

肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まったと言われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本本国へと連れ帰ったといわれる。 

日本ではじめて磁器が生まれたのは、江戸時代初頭、現在の佐賀県有田町であった。 
この日本で唯一の磁器生産地を持った鍋島藩は有田の優秀な陶工を集めて藩直営の窯を築き、御用窯として城内の調度品、また献上、贈答用の磁器を焼かせた。 

1675年頃になって、藩窯は山深い伊万里市「大川内山」に移り、技術の流出を防ぐため窯元を厳しい管理下に置いた。鍋島藩では大川内山の麓に関所まで設けて、人々の出入りをチェックしたという。

当時、大川内山で焼かれたものは「鍋島物」と呼ばれ、日本国内向けに幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた。特に献上品は格調が高く、風格があるといわれた最高級品であったという。 
有田・伊万里・波佐見周辺で作られた焼きものは、船に乗って有田川・伊万里川を下り、伊万里港から国内外に輸出された。 

現在の鍋島焼と言われるものの殆どは、この大川内山で焼かれたものであり、現在も大川内山には30数軒ほどの窯元がある。
又、周辺には、江戸期の関所跡や朝鮮から陶工が来て焼物をつくっていた証とされる高麗人の墓や無名の陶工たちの無縁塔等がある。 

次回は、再び「松浦



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2011年4月8日金曜日

日本周遊紀行(112)呼子 「名護屋」



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 日本周遊紀行(112)呼子 「名護屋」   、



秀吉の行った半島進出は朝鮮の出兵か、侵略か、征伐か・・?

名護屋湾が深く入り組んでいる。その途中の大橋を渡ると鎮西の「名護屋」である。
秀吉が晩年、執念をもって外夷に走った有名処であり、方々各所に秀吉直臣だった福島、堀、黒田の各氏、又、徳川、上杉といった大大名の名も連ねる陣屋跡である。

名護屋城は今から400年程前、全国平定をなしとげた豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、明国(今の中国)へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するため、その前進根拠地として築かせた城郭である。
城郭は元々松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であったところで垣副城と称していた。
その跡に秀吉が大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりに築城したものである。

天正19年(1591年)8月に起工、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、九州の諸大名を中心に総動員し、突貫工事で挙行、僅か八ヶ月後の文禄元年(1592年)には完成したという。 
規模は、当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであったらしく、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に五重七階の天守が築かれた。 

城跡からは、金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。 
城郭の周辺には各大名の陣屋が配置され、最近、秀吉の茶室跡等が見つかったと話題を呼んだ。


朝鮮の役は、豊臣秀吉が1592(文禄1)~93年,1597(慶長2)~98年の2度にわたって朝鮮を侵略した戦争である。
全国を統一した秀吉は、国内の支配体制をさらに強化し、領土を広げようとして明(中国)の征服を画策し、朝鮮側(李氏朝鮮)に道案内を求めた。 
しかし朝鮮が断ったので二度にわたって16万人ともいえる兵団を朝鮮へ向かわせた。 

はじめ,朝鮮の都・ソウルを陥落させ北方まで進んだが,後に明・朝鮮の連合軍に苦戦したが、1598年、秀吉の病死によって終戦となり兵を引きあげた。

この戦は近年になって物議をかもし、「朝鮮出兵」と呼ばれることが多いが、朝鮮側が受けた被害に関心をもつ立場などからは「朝鮮侵略」と呼ぶこともある。
これに対し日本側の立場からは朝鮮征伐と呼ばれる場合もあるとか。 

豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、明の征服をも目指していたことから唐入り、唐の御陣、また高麗陣、朝鮮の陣などと呼ばれたこともあるとか。 
又、近年の教科書には、当事国の意を汲んで朝鮮侵略と表記されていることが多いという。
現在、これら陣屋跡の発掘が進んでいるようである。

中でも有力大名であった前田利家が置いたとされる陣屋の発掘調査がこのほど終了したといい、調査では利家の大規模な邸宅跡も確認されている。
又、昨今、名護屋城跡の周辺では、全国から終結した徳川家康ら有力武将の陣屋が、約130箇所程確認されていると言う。


名護屋は、昔は名護屋村と称していたが、今は鎮西町の行政区のようである。 
鎮西(ちんぜい)と聞くと、高校野球の鎮西高校、鎮西学院など熊本を連想するし、それに鎮西といったら九州のイメージになるが。

奈良期、大宰府を改称して設けられた九州統督の役所を鎮西府とした。 
平安期、身内の諍い(いさかい)で九州へ追放となった源 為朝(ためとも:頼朝の叔父)は、九州を制圧したことから「鎮西八郎為朝」と名乗って、その威風を都にまでとどろかせた。 
又、鎌倉期、1185年、源頼朝が家臣を九州地方に派遣して、平家残党や逃亡中の義経の監視及び元平家の九州御家人を統制さする所謂、「鎮西奉行」、「鎮西探題」を設置した(鎮西守護)。
元来、「鎮西」とは、九州の地を鎮めるという形容的意味合いで呼ばれたものであって、地域の固有名ではなかった。

地方の小さな行政名が、故あっての事とは思うが、「鎮西」としたのは些か名前負けはしないだろうか・・?、 
尤も、鎮西町は呼子町など八市町村が合併し、2005年1月1日に新「唐津市」となってる。 
従って、九州地区の自治体名で「鎮西」というのは現存していないらしい。

次回は、伊万里の焼物



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2011年4月7日木曜日

日本周遊紀行(111)松浦半島 「松浦党」

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 日本周遊紀行(111)松浦半島 「松浦党」  .



邪馬台国の時代、この辺りを「末羅国」(まつらのくに・松浦の国)と言った・・、

唐津湾の西側を玄界灘に向かって突き出ているのが、松浦半島(東松浦半島)である。 
この最先端に「呼子」といういう港がある。 

海辺は深く入れ込んで江を造り、浦の両側には山が迫っている。正面には加部島(かべしま)があり、この大きな島が、外洋の風波を避けるために衝立のように港口をふさいでいる。 
こちらの港町も、壱岐、対馬伝いに大陸に向かう古代の交通の要衝だったという。 

江戸期には、廻船が行き交う港町として栄えたところであり、今は入り組んだ入江に大きな照明灯を付けたイカ釣り船が並び、漁港としての朝市も盛んだという。 
呼子大橋を渡ると加部島、江戸期には捕鯨も行われたところでもある。
 

又、北九州のこの辺りは、往年、「松浦党」なる海人、水軍の割拠した地域であった。
松浦氏、松浦党という名称の由来は、歴史上に登場する松浦の地名から生じたことは疑わない。 
現在の地域区分は、長崎・佐賀両県にまたがる東西両松浦郡、及び南北両松浦郡で、ご丁寧に東西南北の松浦郡が存在する。
地名称も松浦半島、松浦市、松浦川などに見られる。 

歴史的に見てみると松浦とされていた地理的範囲はかなり広域だったようで、東西両松浦郡を上松浦、南北両松浦郡を下松浦と呼ぶこともあるらしく、広域には壱岐や五島列島の方まで達していたとされる。


松浦」の呼称は、「まつうら」が一般的であるが、往年の長い間、「まつら」と呼ばれていたようである。 
古代「魏志倭人伝」(中国の魏の史書、日本古代史、弥生期に関する事が納められた最古の史料)には日本を「邪馬台国」(やまたいこく)と称し、この辺りの地方を「末羅国」(まつらのくに)と記されている。

松浦氏は、平安中期の11世紀頃、摂津国(現在の大阪府)渡辺庄の渡辺氏が、肥前国松浦郡の今福(現在の松浦市今福町)に下向し、この地の統治者となって松浦と称した、という見方が一般的とされる。

一方、東北の陸奥の戦乱(前九年、後三年の役)で滅ぼされた安陪氏の支族が福岡・宗像の大島辺りに流されて、それが松浦党の前身であるとの説もある。 


いずれにしても松浦党は海や船のことに関しての知識や技術はかなり発達し、地域、地形的にも海人たちの絶好の住処であったため、松浦党は日本水軍の創始者とも言われている。

松浦党は、平安期は平家の家人となっていたが、日本の歴史上一つの山場となった源平合戦の時は、平氏側として水上戦においてはかなり源氏を苦しめたとされている。 
しかし壇ノ浦の戦いでは源氏側に寝返ったとも言われている。 

その後、鎌倉幕府が成立し鎌倉時代となるわけだが、本来なら、源氏と敵対していたわけだから、処罰を受けてしかるべきなのに、逆に、領土の安堵が成されている。
これは源氏側への寝返りの結果こうなったのか、あるいは松浦党が大多数の集合体(武士団の連合・水軍)であったために、統治者・惣領(中心となる人物、又は、領主)がいないため、責任を誰に押し付ければよいのか幕府側も判らなかった為ともされている。

ただ、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり「地頭」となるが、源頼朝は元平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして島津氏、大友氏を守護として九州に送ったのである。

その結果松浦氏は、同じ環境の秋月氏(平家の家人だったが、壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付いた)などと同じく、これらの新参の東国御家人の所謂、「下り衆」と言われるの統治者の傘下に置かれることになる。


鎌倉中期に、「元」の国から二度にわたる襲来を受けた「元寇」の時も、松浦党は最前線の防衛の役割を担い、そのせいで一部では多大な損害を受けた。 
後に鎌倉幕府に恩賞を求めたりしたが、これも全体の統治者が不確定のためか・・?、
幕府側の対応は厳しく、松浦党側としては不納得であった。

これらが要因かどうかは疑問もあるが、松浦党の武士たちは朝鮮半島や中国沿岸で海賊的な行為をするようになる所謂、「倭寇」として怖れられることになる。
だが後には、対朝鮮との正式な貿易が以前にも増して大きく展開し、国の発展の基となる。 

そして日本は戦国時代を迎え、豊臣秀吉が天下統一を達成した後、それだけでは飽きたらず周りの反対を押し切って、二度にわたる朝鮮出兵を断行する。
この朝鮮出兵に関しても、松浦党は朝鮮本土まで渡り、激しい戦いを繰りひろげたとされていて、ここでも、一族の多数の者が戦死したとされている。 
これにより連合的武士団の松浦党もいくつかに統合され、平戸藩主となった松浦氏(初代藩主・隆信)が、その後中心となって江戸初期(平戸藩6万3千国石)から現在に至っているという。
尚、松浦氏、松浦党に関しては、後ほど更に述べる予定です。

次回は、その朝鮮出兵の拠点、松浦の地元・「呼子の名護屋



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2011年4月6日水曜日

日本周遊紀行(110)唐津 「虹ノ松原・唐津城」

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 日本周遊紀行(110)唐津 「虹ノ松原・唐津城」  .





虹ノ松原と名城・「唐津城」





「虹ノ松原一揆」の円満解決は、唐津藩主・水野氏の英断によるもの・・、

昨日というか、昨夜というか・・、
癒しの温泉、上質の食事に美酒、素敵な和室の泊まりで、尚且つ前の晩の寝不足も手伝って行動記録を執筆中に寝込んでしまったようだ。
従って今朝は、たっぷり睡眠を取ったせいで気持ちよく、スッキリと目覚めた。
時計の針は間もなく6時を指そうとしている。本日も連日と同様、好天気のようなので先ずは朝の散策ウオークと決める。


それにしても「虹ノ松原」は圧倒的な松林であり、殆どが黒松のようである。
太い幹は地面スレスレに変形、曲がりくねったものも有るし、それがかえって奇妙な雅趣と風情を演出している。

冬季に起きる強烈な海風の影響で樹枝は屈曲を成しているという。
樹齢数百年を越える老木から幼木にいたるまで約100万本を数え,松原内を通る国道202号は、さながら緑のトンネルの様相を呈し、特異な雰囲気をだしている。


この景勝の地は、1771年に「虹ノ松原一揆」の舞台ともなった所であり、松原のほぼ中央「海濱館」の片隅に平原村の大庄屋・冨田才治の顕彰碑が昨年(2004年)、子孫たちや関係者によって建てられたという。

事件は三河の岡崎から唐津藩へ転封してきた「水野氏」が発端となった。 
水野氏は財政改革として、税の増収対策を講じた。

しかし、領民は明和年間の凶作も重なって不満が一挙に高じ、一揆へと発展するのである。 虹ノ松原に2万5千人の農・漁民を集結させ、指導者・冨田才治数名が城内で直談判すること数回、農漁民と藩との静かな睨み合いが続いた。
一揆は府内への進軍はなく、虹ノ松原に座して動かず、抑制の効いた無抵抗運動であり、遂に唐津藩は税制改正の全面撤回という譲歩を行なったという。

通常の一揆は大方、流血の騒動になるのだが、一滴の血も流すことなく成功に導いたのは極めて稀有であり、又、農漁民の動員規模においても唐津一揆は、江戸期における最大規模の農漁民一揆の一つという。
しかし、一揆の首謀者が死罪になるという、幕藩体制下での掟は唐津藩でも例外ではなく、富田才治を指導者とする数名が自首し処刑せれたのであった。


虹の松原は、「三保」、「天橋立」と並んで日本三大松原の一つ、日本の特別指定名勝になっている。幅500m、長さ5Kmに及ぶ松林で、NHKが21世紀に残したい「日本の風景」で全国第5位にも選ばれている。



のんびり朝食を摂って、宿を出たのが7時半を回っていた。
虹ノ松原の尽きる所の西端部は、一級河川の「松浦川」の河口になっている。
尤も、河口から奥まった所まで、松原砂州の西南地域は広大な水域をなしている。 
唐津城の築城主の寺沢氏が慶長7年から13年にかけ、松浦川の大改修など土地の改良に努め、現在の姿になったという。 

河口の先端に水に写して「唐津城」が立つ。 
松浦川河口に架けられた舞鶴橋、洒落た造りの欄干の端に石灯篭風の石柱に、平仮名で「まいずるばし」と刻してある。 
この橋を手前に配して、緑の小山(舞鶴公園)の頂きに唐津城天守閣が毅然と立ち上がっている。実にすばらしく、一服の絵をみるようである。 

この城は、東に虹ノ松原と西側に西の松原が広がり、左右両翼に広がる松原があたかも「鶴が翼」を広げた姿に似ていることから、「舞鶴城」とも別名で呼ばれている。
城域の下部へ到って、海抜43mの高度がある石段を息せきって登る。 
入城門まで達したが、やはり時間外で城内入城は出来なかった、写真で我慢しよう。 
見上げると、そそり立つ石垣の上に白亜の天主が朝日に輝いていた。




唐津の北方松浦半島の先端に、「文禄・慶長の役」に際し築かれた豊臣秀吉築城の「名護屋城跡」が在ったが、時過ぎて江戸・徳川期には無用の長物となって廃城になっていた。 

この城を石垣までの取り壊し、その解体資材を用いて慶長13年(1608)に築城されたのがここ「唐津城」だったいう。 
代官を任せられたのが克っての秀吉の側近の一人、唐津藩初代藩主・寺沢広高であった。
唐津湾に面した小高い満島山に配置され、松浦川の流れを引き寄せて南側には堀割を造り、東側には河口を開き防御と舟運の便を図った。
これら唐津城の築城技術は特筆すべきもので、広高によって7年の歳月を掛け築城された。


戦と無縁の現代においては、その景観の素晴しさが最大の魅力である。 
城をシンボルとして唐津の風光明媚な町並の基礎を築いた初代藩主・寺沢広高の功績は多大なものがあると言える。
初代寺沢家の後、大久保家、 松平家、 土井家、水野家、 小笠原家と徳川譜代の大名衆が引継ぐが、水野家の初代忠任(ただとう)の時に「虹ノ松原一揆」が起こったことは先に述べた。

唐津藩主・水野家第4代藩主忠邦(ただくに)は、藩政の傍ら幕閣入りの活動も積極的に行い、希望が叶って徳川家のお膝元・浜松へ転封した後、大坂城代・京都所司代などを経て江戸出府、幕府・老中と出世している。 忠邦が行った「天保の改革」は有名であり、天保10年(1839年)に老中首座となっている。

唐津城は、時代が流れて明治の廃藩置県によって廃城となったが、昭和41年(1966)に現在のものとして復元されている。

次回は、「松浦半島



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2011年4月5日火曜日

日本周遊紀行(109)能古島 「元寇」


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 日本周遊紀行(109)能古島 「元寇」   。



日元決戦の「文永の役」と「弘安の役」、結果は・
・?、

太宰府を後にして、福岡の外環道である高速2号線・立花寺JCTより5号線に乗り移り、一旦下りて国道202号線から再び、高速福岡前原道に乗り上げ佐賀・唐津方面へ向かう。 

遠くに博多湾の今津浜と市街が望め、福岡湾の湾口に位置するところ、洋上にやや霞んだ「能古島」が浮かんでいた。 
能古島は、人口800人ほどの島で、周りは海水浴場やリゾート施設などがある行楽地の島である。

往時は、島の北面は玄界灘、「那の津」(博多の湊)から大陸に向かう船舶交通の要衝であった。言い換えれば、逆に外敵の侵攻に晒されやすい。
刀伊(とい:平安時代の後期頃、対馬・壱岐・筑前を襲った朝鮮族で、大宰府の官人に撃退された。
日本でこれを「刀伊の賊」と呼んだ)の侵攻や元寇などでしばしば島は蹂躙され、7世紀には白村江(はくすきのえ:朝鮮半島南西部を流れる錦江の河口にあった地名。

現在の群山付近とされる)において、日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れると、海防の必要に迫られ、対馬や壱岐とともに防人が置かれたところである。
又、今宿から北へ延びる糸島半島の東岸、今津、長浜海岸そして名勝・生の松原あたりは「元寇」のあった地点で著名ある。
この辺りの松原は、海に向かって上り勾配になっているという。


元寇の頃、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士達が築いた防塁が有ったところである、否、有ったのではなく、今でも有る。 
防塁は、石で築かれ、高さが2m位であったが、その後、土砂に埋まり4, 5mの丘状をなしているという。そのため石塁は風化されずに、今でも当時のままの真新しい状態で発掘され、掘れば松原のどこにでも有るという。



さて、時は鎌倉期、執権・北条時宗の時代である。
そのころ、(げん・中国)のフビライは、日本を征服する意図でたびたび使者をよこしたが、時宗は強い態度でこれを拒絶した。 
広大な領土を支配した元のフビライ-ハンは、高麗を征服したのち、日本を従属しようとして使者を送ったが、執権・時宗はこれを拒否し九州の防備を固めた。

1274年、元・高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸した。元軍は火薬を使い、戦闘具や戦闘力は彼らが圧倒的に優れていて、しかも、集団戦法で日本軍を苦しめた。 
浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士たちの死者塁々とした惨状を呈した。
死者の数は元軍2万人、九州の武士団はせいぜい1万足らずとも云われるが、日本軍の敗戦は明らかで、遂には後方の大宰府の水城近くまで退却した。
幸い、日没前後に元軍は艦船に引揚げ、その夜半、一大暴風によって艦船の殆どが転覆、元軍は大打撃をうけ、侵攻は頓挫したのである。
これを「文永の役」という。

この経験をもとに主要な沿岸各地に武士はもとより、老若男女総動員で2m足らずの石塁を延々と築いた。 
この今津の浜は主に南九州の大隈、薩摩の武士が受けもったという。
そして予想通り7年後に、再び彼らはやって来た。


1281年、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。 
元は14万の大軍を二手に分けて、再び対馬・壱岐・博多湾を襲った。
一っ飛びすれば飛び越せそうな2m足らずの石塁で、世界最強の帝国・侵略軍を防ごうというのであった・・が、この防塁は実によく役立ったのである。 
元の上陸軍は悉くこれに引っかかり、内陸侵攻を阻まれたのである。 

その日の戦闘が終わると、船に戻らざるをえなかったし、夜は日本軍の小船によるゲリラ戦に悩まされた。 
2度、3度と上陸侵攻を試みたが、日本軍は先の経験を生かし、善戦し、又々、防塁に阻まれた。 
遂には、再び大暴風雨の神風が襲い、自然の猛威によって蒙古軍を殲滅するのである。
これを「弘安の役」と称した。


元寇』 作詩・作曲  永井建子 (明治25年)
四百余州を挙る 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝して世に示す

こころ筑紫の海に 浪おし分けて行く
ますら猛夫(たけお)の身 仇を討ち還らずば
死して護国の鬼と 誓し箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし



 唐津の虹ノ松原(wiki)


今宿辺りより「西九州道」、唐津街道を経て、「虹の松原」へ向かう、今日の泊まり地である。
糸島半島の付け根部を横断して、二丈町あたりから唐津湾の沿岸を行くようになる。 
低い山並みが海岸に迫り、過ぎ去ると再び唐津湾、否、松浦湾の紺碧の海原が光る、この地域は既に、筑前・佐賀に入っていた。

そして海岸線の渚には、鮮やかな緑の絨毯が弧を描いて延びている、「虹の松原」である。 
この湾の東端を走るR202(唐津街道)は海面からかなり高く、ここから遠望すると松の密林が如何に長大かがパノラマのように判る、もとは「二里の松原」と称していたらしい。

秀吉の時代に、唐津城主となった寺沢氏が防風林として築いたものであり、その当時は二里の松原と呼んでいたらしい。 
この松原は夕刻になると海面に映る夕景色の赤味を帯びた色合いと、松原の緑が相俟って、これが適度に弧を描いたいるので、まるで、虹のように映った。
これが何時しか、語呂合いも良い「虹の松原」になったのだろう。


この「虹の松原」の、ど真ん中に今夜の宿・国民宿舎「虹の松原ホテル」が在った。
寛ぐ前に宿の主人が「近くに、いい温泉が有りますよ・・!、通常600円のところ、当館と提携しているので僅か100円で入れます」と案内してくれた。

願ったり、叶ったりとはこの事で早速出向く。筑肥線の「虹の松原駅」前の踏み切りを渡り、国道202号線沿いに温泉は在った。
鏡山温泉茶屋 美人の湯」といい、開業して間もないらしくピカピカの温泉場である、これが100円とは嬉しい限りである・・ビバ・・!。

広々とした室内浴槽の他に、和風の半屋根に大石を設え、石灯籠を配した風流な露天風呂、樽風呂や打たせ湯もありで、何とも極楽である。やや茶色味をおびた人肌湯の温泉で、泉質は天然ラジウム温泉、 糖尿病、リューマチ、痛風、動脈硬化などにきき目があるという。 

戻った後のお待たせ料理も七色、虹色で配色され、いやはや・・、夕刻以降は虹一色であった。  
実に満足、満足・・!!。

次回は、唐津・「唐津城



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2011年4月4日月曜日

日本周遊紀行(108)太宰府 「天満宮と菅原道真」

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日本周遊紀行(108)太宰府 「天満宮と菅原道真」


 道真公祭神の大宰府・天満宮本殿と飛梅」



「心字池」に架かる三つの赤い橋は、一つ目が過去で、二つ目が今、 そして三つ目の橋は・・、

さだ まさし」の「飛梅」という歌は、太宰府天満宮を唄った詩である。 飛梅というのも実際に存在し、天満宮本殿の正面右側に木の柵に囲まれ、小枝を大きく広げて価値充分の「御神木」である。 
大宰府に左遷された「菅原道真」のことを想って、「京の都の梅が一夜にして大宰府まで飛んできたと・・」、という逸話のある年期の入った梅の大木である。


飛梅』 詞・曲・歌・さだ まさし
心字池にかかる 三つの赤い橋は
一つ目が過去で 二つ目が現在
三つ目の橋で君が 転びそうになった時
初めて君の手に触れた 僕の指
手を合わせた後で 君は神籤を引いて
大吉が出る迄と も一度引き直したね
登り詰めたらあとは 下るしかないと
下るしかないと 気づかなかった
天神様の細道



『 東風吹か ば匂い遺せよ 梅の花 
           主なしとて 春な忘れそ
 』  菅原道真
(春になり東風が吹いたら、その風に乗せて、花の春を私が流されてゆく西の太宰府まで 送ってほしい。梅の花よ、主がいないからと言って春を忘れてはならぬぞ)

道真が九州の大宰府に流され、その悲しみを庭の梅に寄せて詠んだ歌である。


菅原道真、道真といえば天神様、天神様といえば「梅の木」である。 
江戸・東京、「湯島の白梅」で知られる「湯島天神」は太田道灌が、ここ大宰府より勧進し、天正18年(1595)徳川家康公が江戸城に入るに及んで、特に当社を崇敬すること厚かったという。 

祭祀によって泰平永き世が続き、文教大いに賑わい、学者・文人の参拝も絶えることなく「菅公」の遺風を仰ぎ奉ったという。 
」は、その生命力の強さから昔より霊性を持って人を守る花として、大宮人(宮中に仕える都人)に好まれた花であり、中国から伝えられた頃は「白梅」で、奈良期にあっては花と言えば梅を指したようである。


菅原道真は天神様と呼ばれて学問、受験合格の神さまとして親しまれている神であることは周知であり、受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。
若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神を於いて他にはない。


道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人、それに政治家として卓越した能力を発揮した人物であった。 
幼少の頃から文才に優れていたといい、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文書(モンジョ)博士となる。 

以後、その才を遺憾なく発揮して順調に出世し、醍醐天皇の時に55歳で、最高官位である「右大臣」にまで上り詰めた。 
ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのである。

道真の異例の出世が、権力者・藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言(ざんげん:人をおとしいれるため、事実をまげ、目上の人に、その人を悪く言うこと)によって失脚し、北九州の太宰府へと転勤(左遷)されてしまったのである。 
都を去るとき、道真が詠ったのが、「東風吹かば・・」である。
道真の愛した梅と一緒に、門弟によってその墓所として建てられたのが「太宰府天満宮」なのである。


学者、文人という平和的なイメージを持つ菅原道真であるが、一方、政治家でもあったことから死後の魂が怨念に支配されることになる。 
知られているように“神としてのデビュー”してからは、日本でも最強レベルの恐ろしいパワーを発揮する怨霊神でもあった。 
道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。 
京の周辺は疫病や日照りが続き、数年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子もすぐに亡くなり、人々はすべて「菅公」の怨霊の祟りとして恐れた。
極めつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。

これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになる。
元々京都の北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神(じしゅじん)が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものと云われる。 
そこで怨霊の怒りを鎮めるため天暦元年(947)、京の地に「北野天満宮」が創祀されたのであった。

元より日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあったという。 
道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるように成ったといわれる。

海の神とか山の神などとは違って天神様には何となく親しみがある。 
やはり人が神になったという事実が一番の要因であろうが、特定の人間が神になった例は、たとえば豊臣秀吉や徳川家康(東照権現)などの政治的実力者をはじめ数多いが、ドラマ性や霊的パワーにおいて道真が代表格でこれに勝るものは無い。
道真の怨霊は、生前の業績がプラスされて更に強力な霊的パワーを発揮し、都の人々が認めたことによって神、天神となったのであった。


社殿、境内は一見豪華といえる楼門と本殿と、それを繋ぐ回廊のみで極めてシンプルである。
楼門の手前に「心字池」があり、この池に三つの赤い橋が架かり、それぞれ過去、現在、未来を表しているという。己の心を三つの橋で確かめ、心字池の鏡に映し、清真なる気持ちで御参りすれば天神様の霊力を多いに授かることが出来るかもしれない。

参拝前、個人宅の駐車場に車を預けたが、帰路、運転席の窓ガラスにガムが2個貼り付け置かれてあり、「気を付けて、お帰りを・・」とメモがシタタメてあった。

清々しい気持ちで、天満宮を後にした

次回は、「元寇



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2011年4月3日日曜日

日本周遊紀行(108)太宰府 「大宰府政庁」

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 日本周遊紀行(108)太宰府 「大宰府政庁」   、


 大宰府政庁跡(太宰府市)


大宰府は、「天下之一都会也」と称された・・、

福岡高速2号線をそのまま南下すると、間もなく九州道に合流する。
ここは既に「大宰府市」である。

市の西側に大野城市があり、南側には筑紫野市がある。 
市内には、また水城や国分といった地名が残っていて、いずれも古代に名を連ねた地域名称である。 
昨今、由緒ある史的名称が無くなりつつあって、さみしい気になっていただけに嬉しくなる思いである。

大宰府市と云うと、すぐ「大宰府天満宮」を思い起こすが、どっこい、「大宰府」そのものが大いなる歴史の拠点であったことは先にも記した。  

九州を縦断する主要国道3号線が走っているが、すぐ横の旧道を行くと「大宰府政庁跡」が左側に現れた。
今は草生した土面が広く空き地の様になっていて、天気の良い日曜日なんかは家族で野球したり、お昼寝したり、犬を遊ばせたりしている広々とした空間である。 
所々に建物の礎石、基礎石らしいものがぽつぽつと並んでいる。
入口正面には三柱の石碑が建ち、中央には「都督府古址」と記されて往時の面影を示している。 地元の人達は「都府楼跡」(とふろうあと)の呼び名で親しんでいるそうで、無論、一帯は最重要の保存地区である。


古代の大宰府は政庁を中心に、その周辺には官衙域(官庁)、そして東側に学校院、観世音寺を配し、約2km四方にわたって方形のプランを呈する条坊制を敷いていたと考えられている。条坊制とは、中国(唐)・朝鮮半島の王城都市に見られる都市形態で、南北中央に朱雀大路を配し、そして南北の大路を「条」と東西の大路を「坊」とし、碁盤の目状に組み合わせて左右対称による四方形に都市のプランを形成するものをいう。

大宰府は、八世紀の「続日本紀」にも「天下之一都会也」と称されるほどの大都市であったと考えられ、古くより南北22条、東西24坊の規模が推定されている。 実際の発掘調査においても、条坊制を証明するような道路の遺構が太宰府市と筑紫野市にまたがって約20箇所以上で検出されているという。

それらの発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、路面幅約35~36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右方に位置するいくつかの南北の道路は八世紀頃に成立しているという。 
大宰府の条坊制については未だ全容が確認されていないが、かなり大規模な遺跡であることには確かな様である。

大宰府政庁としては、既に、七世紀後半頃から置かれたと想像されていて、奈良期から平安期の凡そ500年に亘って御殿が建っていたらしい。 
詳細な全容については、今後の調査に委ねられている。(大宰府展示館や歴史資料館に復元模型あり)


当時の時代背景としては、漸く奈良に平城京を置き、国主が決まり、日本という国の形が出来上がりつつある時期であった。
北部九州の地は日本と大陸の接点に位置し、国内はもとより東アジア全体の動向を敏感に反映し、歴史上重要な役割を担ってきた。
又、中国の後漢の皇帝・光武帝より、「漢委奴(かんのわのな)国王」の金印が与えられた倭国の時代より、大和朝廷統一後も変りなく、中国、朝鮮半島の情勢を色濃く影響され、その重要さも増してきていた。

その頃の大陸中国は、南北朝時代(5~6世紀の宋、斉、梁など)、から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の時代であった。 
建国された唐は、国内を統一すると更に領土拡大、覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。朝鮮半島にも進出しようとし、唐は新羅と同盟し、その連合軍の攻撃によって「百済」は攻め滅ぼされた。

七世紀の663年、百済は当時親交のあった倭国へ救済を求め、倭国・日本はこれに同意して朝鮮へ出兵上陸し、連合して戦ったが(日本では白村江・はくそんこうの戦いといい、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることも多い。)、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。

そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬・壱岐及び筑紫に防人(さきもり:古代、筑紫・壱岐・対馬など北九州の防備に当たった兵士、初め諸国の兵士の中から三年交代で選ばれ、のちには東国の兵士が最も強いということで、東国出身者に限られるようになった)と烽(とぶひ・狼煙:古代、外敵襲来などの異変を知らせるために、火を燃やし、煙を立てた施設)を置き、筑紫には大堤を築いた「水城」を造る。 

又、百済の亡命貴族と防衛の為、大野城、椽城(きじょう)などを築くのである。
このような防衛施設の大土木工事が次々と着手される中、これらに守られた地、北部の沿岸より内陸に入ったこの地に「大宰府」が設置されたのであった。 
大宰府は、九州総督府のようなものである。

「大野城」(おおのき)は、白村江の戦いで日本が大敗した後、665年(天智4年)、天智天皇の命令により、現在の市域内にあたる大野山(現在の四王寺山)に百済人の設計による朝鮮式山城を築城し、大宰府防衛を図った。 
因みに、市制施行前は「大野」という地名であったが、1972年の市制施行にあたり、すでに福井県に大野市存在していたため「大野市」とすることができず、この城の名にちなんだ「大野城市」という市名にしたという。

「水城」も、現在の大野城市から太宰府市にかけて、大野城と同様の目的で古代の防御施設として造られた。
博多湾から大宰府に攻め込まれるのを防ぐために築いたとされ、同様に朝鮮式山城が築かれたとされる。 
用途について単なる城壁ではなく、名前の如く「いざという時に御笠川をせき止めて、外側に掘ってある空堀に敵兵が入ってきた所へ急激にせき止めておいた水を放流して、一気に敵兵を押し流すものであった」とする説がある。 
国指定特別史跡で、いずれも実際に戦いの場となることはなかったが、現在どちらも地名として残っている。

やがて戦禍が収まり、緊迫した中で置かれた大宰府も、日本が律令国家へと体制を整えるに従い、官の組織っも整備され、当初の対外防衛的色彩の濃いものから、外交そして九州全体を治める律令制下の最大の地方官衙(かんが・地方の主要政庁、役所)へと変っていく。
大宰府は、平城京に倣い中心の建物は礎石を使い、瓦を葺いた大陸風の立派なものに変わる。
そこに働く官人は、令に規定されている者だけでも50名に及び、その他雑務に携わる者などを入れるとその数は1000名を超えたといわれる。 
歴史的には、七世紀初めの日本書記に「筑紫大宰府」の名で登場している。

尚、百済と親交のあった時期は、仏教をはじめ様々な文化が百済を経由して日本に流入した。このような良好な関係から百済と古代日本(倭)は元々同種民族であったとする見方もある。いずれにしても、百済滅亡によって百済王と王族、貴族を含む数万の「百済人」が倭国に亡命し、王族、貴族をはじめ技能を持った民達が大勢上陸し、それらの人々は多方面に登用され、朝廷にも仕えたという。


日本は、後に仏教様式の文化が大きく華開くが、渡来人・百済の民の影響力が大きかったことは確かで、九州はその着地点であり発信地でもあった。
政庁の南側には「榎社」(えのきしゃ)というのが在って、かの菅原道真(右大臣)が大宰権帥(だざいごんのそち・府政を総監する役で、納言以上の者が多く任ぜられる)として、大宰府へ任地されて(一種の左遷とされる)から亡くなるまでの期間(901年~903年)を過ごした「府の南館」跡である。


ところで、“だざいふ”は「大宰府」と「太宰府」の両用の書き方がある、何故異なるのか・・?、
この地には奈良時代の昔、「大宰ノ府」(おおいみこともち の つかさ)というのが置かれ、大宰とは、官職名として「大宰(おおみこともち)」、つまり天皇大君の命(みこと)を受けて任地に下り、地方の政務を司った官人のことをいう。府は役所のことで、朝廷の出先機関が置かれ、天皇の詔(みことのり:天皇の命令を直接伝える文書、詔書)で動く役所の意味であった。

現在、太宰府市では史跡や当時の役所を意味する歴史的なものには「大宰府」、現在の地名など太宰府天満宮や固有名詞の時には、「太宰府」を使用しているようである。 
ワープロで文字検索をすると、二文字が出てくる。

次回は、「太宰府天満宮」



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01. 15.

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