2011年2月26日土曜日

日本周遊紀行(87)善通寺 「75番霊場・善通寺」

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 日本周遊紀行(87)善通寺 「75番霊場・善通寺」  ,



善通寺・金堂




ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!

琴平の町並みを外れると、すぐに国道319に合流し善通寺方面へ向かう。 
平坦な直線道路で、すぐ左に「土讃線」が並行する。 
程なくして善通寺の町並みに入ったようである。 
後で知ったことだが、ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!。
勿論、善通寺市は弘法大師の誕生寺・「善通寺」の大本山でもあり、市はその門前町であって名称もそこから付されている。 

気がつくと、この辺りは観音寺、琴平、善通寺と由緒ある地名が多くある。
又、「お大師さん」のお膝元だけに四国霊場のうち市内地域に第72番・曼茶羅寺、第73番・出釈迦寺、第74番・甲山寺、第75番・善通寺(真言宗善通寺派総本山)、第76番・金倉寺と五山の寺院が軒並みに並んでいる。

本山・善通寺は町の西方、香色山の麓に静座している。 
寺の敷地は広く、伽藍と呼ばれる東院と誕生院と呼ばれる西院で、併せて45万平方メートルにも及ぶという。 
寺名は父の名をとって善通寺と名づけられたと言われ、寺の背後に五峰がそびえていることから、山号を五岳山と称した。御影堂は四棟からなり、礼堂と中殿は大師の父善通卿、奥殿は母玉依御前の館の跡で、大師はこの奥殿で誕生されたという。


弘法大師・「空海」のこと・・
俗名は佐伯真魚(さえき まお)という、父は、讃岐の豪族である佐伯直田公、雅称・善通卿と称して寺院名、地域名の基にもなっている。
空海は「弘法大師」とも言われ、法師は日本の長い歴史の中で時代を越え、宗派を越え、過去も現在も超えて庶民に尊敬され、愛し続けられている人物と言われる。 
日本史上最大級の宗教家と言われる空海は西暦835年3月21日、(現代の彼岸の中日にあたるのも何かの縁か・・?)大聖地・高野山で死去している。

天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈し、そして 更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう・生前の行いを尊び死後に贈られる位号)を贈り、彼の遺徳を讃えた。 
歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名に及ぶが、一般的に大師といえば殆どの場合、弘法大師を指すとされる。空海を知らなくても「弘法さん」、「お大師さん」を知る人は数多い。 

出家したのは20歳の時、はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗った。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で自ら名乗ったことは先に記した。 
空海は31歳の時、遣唐使として私費留学生で中国へ渡り、この時、第2船には彼の生涯のライバルとなる「最澄」(さいちょう)も乗っていた。
最澄は空海と違って当時既にかなり名を成しており、身分も国費留学生であった。
この時はまだ二人は出会っていなかった。 
留学中、長安・青龍寺の名僧・恵果(けいか)に出会い、密教を会得する。 

密教とは、大日如来を本尊とする深遠秘密の教えで、加持(かじ)・祈祷(きとう)を重んじる仏法として、7、8世紀ごろインドで起こり、唐代に中国に伝わり、日本には平安初期に空海・最澄によって伝えられている。 
空海の真言宗系を東密、最澄の天台宗系を台密とよび、対して通常の仏教を顕教(けんぎょう・密教と対比して、密教以外のすべての仏教を含む)と称している。  
こうして空海は、「修禅の道場」として高野山で真言宗の法灯をかかげる。 
弘仁年間、空海40前後のときに自身と人々の厄難を除くため 四国霊場を開かれたと伝えられる。各札所の縁起にも弘仁年間の開創が記されている。 

一方では彼は中国で学んだ知識を活かし宗教家としてのみでなく、社会事業家、芸術家としても精力的に活動をしたのである。 
彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり・平安時代の書家・官人)と共に三筆と呼ばれる。周知の諺・『弘法、筆を選ばず』は空海のことで、すぐれた力量を持っている人は、どんな道具でもきちんと使いこなすことができるという意味である。 

空海の誕生地・「善通寺」と真言密教の根本道場とされる「京・東寺」(世界文化遺産)、そして空海入定(聖者が死去すること、入滅)の地・真言宗総本山「高野山」(世界文化遺産)を弘法大師・三大寺院と言われる。



弘法大師・生誕の総本山「善通寺」は来年(平成18年)、創建1200年を迎えるという。 
それを記念するイベントとして四国霊場88カ所の全長約1400キロを、自転車でリレーし走破する「四国霊場88サイクル駅伝」というのが8月8日から12日にかけて開かれるらしい。
企画・実行委は「四国4県の連携イベントとして、来年以降も開催したい」と話し、意気盛んなようである。 
計画順路として、スタートとゴールは、彼の生誕地・75番札所・「善通寺」をスタート地点として、先ず88番まで進み、次に1番の霊山寺(徳島県鳴門市)から高知県、愛媛県とタスキをつないでいく。
約100時間で全行程を走破する見通しという。結果は如何に・・?、

【追記】
平成18年8月8日午前8時(末広がりの八・・?)に予定通り出発し、参加総勢129名のサイクリストがつないだタスキは8月16日、スタート地点であった善通寺に予定どうり全員無事帰ってきてゴールを迎えたという。 
当初予定されていた「100時間耐久」というテーマに関しては走行者の安全を考慮して、深夜の走行は中止して走ったという。

次回は、讃岐・「寒川町



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2011年2月25日金曜日

日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・さざれ石」

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 日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・さざれ石」   、



さざれ石と“君が代”由来の銘版



大門からの参道の突き当たり、円山応挙(江戸時代中期の絵師、「足のない幽霊」を描いた元祖ともいう)の障壁画でも有名な御書院(表、白、裏の各書院;諸儀式や参拝に訪れた人々との応接の場として用いた広大な客殿)の傍に「さざれ石」が鎮座している。

さざれ石」というのは「細かい石」のことで、鉱物的には長い時間をかけてこれらが集まり堆積して、粘土や砂などと混ざって礫(れき)岩となり、やがて巌(大きな岩)になったものという。

古来、小粒のものが大きく育つ意味合いで、目出度い「」とされている。
勿論、我が国歌「君が代」の題材になっていることは承知である。 
この、さざれ石は他の主要な神社にも鎮座されている所があり、特に京都の護王神社(京都市上京区:京・平安遷都に功績のあった和気清麻呂を祀っている)のものは和歌に詠まれた「君が代」の原点になったものといわれるが・・?。 
さざれ石」は、その他の主要な神社である出雲大社(島根県)、鶴岡八幡宮(鎌倉)、霧島神宮(九州)にも奉ってあり、又、「君が代」を尊愛する関係先では千鳥が淵戦没者霊園(東京都)やさざれ石公園(岐阜県)というのも在るらしい。


君が代」について・・、

わがきみは 
千代にましませ 
さざれ石の    
巌となりて 
苔のむすまで
  、

あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となり、苔が生える先ざきまでも) 新潮日本古典集より


この歌句が、「国歌・君が代」の大元になったとされている。
明治憲法では「万世一系の天皇はこれを統治す」とあり、「君が代」は天皇自身を指すとされていた。 
当時は、この歌の解釈が「富国強兵」に利用されていたが、戦後は国民にある種(軍国主義復活・・?)の思惑で翻弄された。
現在の「君が代」は、天皇を超えて国民を讃美、讃歌する歌として親しまれていることには間違いないとしている。



途中、参道石段の土産屋にユニークな、かなり大きめの「石松っつぁん」の人形が置かれていた。 ご存知、広沢虎造の口演「森の石松・金毘羅様代参」に因んで、石松っつぁんを模作したものである。
石松は次郎長の名代で金毘羅さんへ行くことを頼まれ、大政、小政にも金毘羅代参に行ってくれるよう説き伏せられる。 




その場の一節・・・、

『 文久二年の三月半ば、何処も同じ花見時。 次朗長が石松に、讃岐の金毘羅さんまで使いを頼む。悪(わる)の代官と久六を斬った汚れた刀をお山(金毘羅さん)に納めに行くためである。 すぐに行ってきますという石松に、「待て待て、発つのは明日でいい。それから次朗長が頭を下げてのお願いは、お前という人は酒癖が悪いから、旅の間は一滴の酒も飲んでくれるな、いいか・・」「わかりました、つとまらねえから断ります」「俺がこんなに頼んでもいやか?」「いやです・・」「よせ・・!次朗長には六百何十人子分がいるが、俺の言うことをいやだと言うのはお前一人だ、生かしておいちゃためにならねえ、命はもらった、覚悟しろ」「有りがてーな、わっしゃあ、あんたに惚れて子分になったんだ、惚れたあんたに斬られて死ねりゃ本望だ、さっ、斬っておくんねえ」強情っぱり同士が喧嘩している。 となりの部屋で聞いていた大政、小政が石松を呼びつけて、嘘も方便て言葉を知らねえか、判らないようにこっそり飲んでいいから・・と説教し、判った石松は、翌朝、金毘羅さんへ向けて出発する。 四国・金毘羅さんに刀を納め、讃岐の国を後にして、大阪へ戻る石松は、大阪・八軒屋から伏見へ渡す三十石船に乗り込み、船中でのやりとりで、「飲みネー、食いネー、もっとこっちへよんネエー、江戸っ子だってネー」「神田の生まれヨー」の、やりとりは余りにも有名である・・、 だが、その後の石松の運命やいかに・・・??。 』 
現代の若い人は・・?、無理かな。



帰路、駐車場の御土産屋で、2000円の七福神の置物を購入し金毘羅宮を後にした。

金毘羅船々』  四国・讃岐民謡 

金毘羅船々 
追風に帆かけて 
シュラシュシュシュ
まわれば四国は讃州・那珂郡 象頭山・金毘羅大権現
一度まわれば

お宮は金毘羅 
船神さまだよ 
キララララ
時化でも無事だよ雪洞ゃ明るい錨を下して遊ばんせ
一度まわれば 
 

昔の女の子は、よく次のような数え歌を歌いながら、お手玉で遊んでいたらしい。
その中に、「讃岐の金毘羅さん」の歌詞も入っていた。


わらべ歌風 数え歌
一番はじめが一宮       六つ村々鎮守様
二また日光東照宮       七つ成田の不動様
三また讃岐の金毘羅さん    八つ八幡の八幡宮
四また信濃の善光寺      九つ高野の弘法様
五つ出雲の大社        十で東京浅草寺

次回は、七十五番霊場・「善通寺



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2011年2月24日木曜日

日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・本宮」

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 日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・本宮」   、




金毘羅さん参道鳥居・・「しあわせさん・こんぴらさん」


写真:参道鳥居と金毘羅さん・本殿



本宮地元では、「しあわせさん・こんぴらさん」として親しまれている・・!、

さてさて、本社、琴平町の金刀比羅宮である。
代表的な門前町・琴平の中心に金刀比羅宮の石畳参道がすぐ目に付いた。
主要道路の角の大きな駐車場へ車を寄せて、「お参りの帰りに2千円ほど買い物すれば無料でいいよ」と年配の係員が曰く。 
見れば、奥のほうに立派な店構えの土産屋があった。

先ずは、カメラと賽銭を持って早速出かける。 幅の広い石畳参道の両側にはギッシリト土産やが並ぶ。
やがて名物の石段の始まりである。 
名物「讃岐うどん」の老舗らしいのが二軒ならんでいる、「とらや」という最初の石段のすぐ脇にある店が、実に歴史的な深さを感じる。 

石段横に、「本宮まで785段、奥宮まで1368段、海抜421m」とあった。 
石段を登り始める、両側には、これまた立派な石燈籠や玉垣などが無数に建ちならび、額に汗して上り下りする参拝客に無言の激励をおくっている。 
参拝客が長年行き来した石段は、表面がすり減って磨かれたようになっている。 
それでも最近になって手直しをしたのだろうか、部分的に石の表面を削って滑らないようにしてある、参拝客への心遣いだろう。 
石段の両脇には、軒を接するように土産物屋が並んでいる。 
時折、乗合籠が目に付く、年配者や身障者には有難いだろう。

ここを抜けると、やがて大門が見えてくる、威風堂々たる構えの山門である。 
1650年、初代高松藩主の松平頼重侯の寄贈によるものといい、楼上に掲げられた「琴平山」の名札は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう・明治新政府の成立に至るまで朝廷における反幕府・尊王攘夷派の急先鋒であった)の筆によるという。 
山門のそばには、「五人百姓」の名前を持つ、鼈甲飴(べっこうあめ)を売る店がシンボルらしく、大きな番傘を広げ、古風な姿でお客さんを待っている。
本来は境内では商売禁止だが、昔からの神事への功労により特別に境内で営業を許された五店の商家が「五人百姓」といわれるそうである。


所々に「しあわせさん・こんぴらさん」の大きな暖簾が気持ちをほぐしてくれる。無限かと思えるほどの石段を登り越して、ようように山頂境内に立った。 

本殿境内には、「書院」や「旭社」といった由緒ある建物が並ぶ。特に左手に在る「旭社」は絢爛豪華な社殿で、屋根裏、柱、扉など至る所に彫刻が施され、完成まで約40年の歳月を要したといわれている、あたかも日光陽明門をみるようである。 
本殿の南に建つ、南北2つの「絵馬堂」も吹き抜けの堂々たる造りである。 海難除けのお礼や祈願成就の絵馬をはじめ、大小様々、色とりどりの絵馬が掲げられている。


さて、本殿である、中央拝殿に額ずき、神妙に参拝する「旅の無事安全と一家身内親戚一同、無事安泰、交通事故の無いよう、宜しく見守って下さい」・・と。
本殿は象頭山(ぞずさん)の中腹に鎮座する大社関棟造(たいしゃかんとうつくり)と言われる荘厳な社殿で、大物主大神と崇徳天皇を祀り、海上安全をはじめ、国の繁栄や農漁業、医療など、さまざまな願いを叶えてくれるといわれる。 
讃岐の金毘羅さん」と昔から親しまれ、江戸時代には「お伊勢参り」と並ぶ程の人気であったという。
 


金刀比羅宮は、古くから海、航海の守り神として信仰されていることは衆知である。
瀬戸内海は、古来より海上交通の要衝であり、しかも海流が激しい海難の地域であった。 
讃岐の琴平山はこの瀬戸内海を見下ろし、見守る絶好の地であったため自然発生的に海の祭神が祀られるようになったと思われる。 

金刀比羅宮は大物主神(オオモノヌシノミコト・蛇神であり水神または雷神としての性格を持つ、稲作豊穣、疫病除け、酒造り醸造、国の守護神)を祀り、古時は琴平神社と称した。 
現在の琴平町名はこの社名から起こったとされる。 
又、後に保元の乱(1156)で都を追われ讃岐に流され、この地でで生涯を終えた崇徳上皇を合祀相殿するようになったという。
因みに、金刀比羅宮の主祭神は「大物主神」で「和魂」とされ、元々は大国主神のことであった。 
和魂とは「ニギミタマ」と称され、 柔和、精熟などの徳を備えた神霊または霊魂のことであり、その反対語に荒魂がある。 一般に神霊には両方の性格が有するとされる。(人間もいっしょだね・・!)

不安定な日本の国を安定させるために大国主神が中心となり、粗野であった大地の国造りを行われて来たので、このような状態を大国主の「荒魂」ともいわれた。 
平定した国をよりよく治めるために大物主神の和魂をもって五穀豊穣や平安を祈る力とした。
はじめ荒ぶる魂であったが後に、和やかな魂になったとされ、二つの精神を持った一つの神のことで、日本の国は大国主神の国造りを終えられたところで、大物主神の力に委ねられることになる。
大国主神と大物主神は同一神とされ、記紀(古事記、日本書紀)などの表記によっては幾つかの神名を持つ。


さて、琴平山(象頭山)には、はじめ松尾寺(本尊・釈迦如来、薬師如来)が建立されていた。
その御本尊の守護神として金毘羅が祀られて、これが金毘羅大権現(※)になったという。

この金比羅さんというのは、元々は薬師如来の守神である十二神将の筆頭・宮比羅(インドではクンピーラ)のことで、クンピーラはガンジス川に棲む鰐の神格化されたもので海神や竜神といわれる。 
因みに、薬師如来は、西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、東方浄土(浄瑠璃界ともいう)の教主で、その 名の通り医薬を司る仏で、医王という別名もあり、衆生の病気を治し、安楽を 与える仏とされる。 
薬師如来は大陸には存在せず、所謂、東方の日本に主に存在し、飛鳥の時代より信仰されているといわれる。 
脇侍(きょうじ)には御存知の左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩で、十二神将に取り囲まれている。 

この十二神将は言い伝えによれば、時を表す十二支に対応していて、一日を約2時間ずつ交替で守護しているのだといわれる。この十二神将の筆頭の宮毘羅大将が、日本では金毘羅(コンピラ)に訳され海上安全の神となり、大衆には「金比羅(こんぴら)さん」の名前で親しまれるようになったとされる。

(※)序でに権現(ごんげん)とは、仏が化身して日本の神として現れることで、日本の神の神号の一つでお馴染みである。日本の神々は仏教の仏が形を変えて姿を現したものであるという本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ・平安期に起こった神仏思想)の考え方に基づいた神号である。 「権」という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを文字で示している。

又、琴平山が象頭山と言われるのは、お釈迦様が修行した地に似ていたのと、琴平山が象の頭に似ていたので、その名が付けられたとも言われる。 
象頭山金比羅大権現」は、神仏習合によって金毘羅自体に神名が与えられたことを意味する。 
ところが明治の初期、国家神道を成立させるべく、明治政府が神仏分離を発令され、後に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などがおきた)と呼ばれるものが実施された。
その為松尾寺は、寺自体を廃絶させた上で祭神を金刀比羅宮として生き残り、そして現在はこの祭神が踏襲されているという。

日本は海の国、海洋国家である。
海の神様である「金刀比羅宮」が全国各地に分社、分支され多くの国民に愛され祀られているのは当然の事と言えるかもしれない。

次回は、金比羅宮の「さざれ石



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2011年2月23日水曜日

日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅さん」

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 日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅さん」   、



「金毘羅さん」は、小生、幼少の頃より現在に至るまで縁の有る神社である・・!! 、

琴平町・金刀比羅宮のことであるが、その前に・・、
金毘羅神社といえば全国各地に、その分社、支社が存在し、金毘羅さん(こんぴらさん)の名で全国の民衆に親しまれている社宮である。 

そして、小生の生涯の中で金毘羅宮とは幼少の頃より現在に至るまで縁がある神社でもある。小生の田舎、故郷である福島県いわき市湯本には由緒ある神社が2ヶ所ある。 
日本でも古湯とされる湯本温泉の象徴的守護神である「温泉神社」と我が青年時代までの在住地である関船町に鎮座している「金毘羅神社」である。 

この金毘羅宮は幼少の頃、歩いても数分の処にあり、この鎮守様の森でチャンバラごっこや度胸だめし(肝試し)をしたもんである。 
縁日の1月10日(旧暦)は近郷近在の人々がご利益参拝のため大勢訪れ、参道、側道には縁起物や駄菓子屋のテント、見世物小屋が立ち並び、押すな押すなの大盛況である。
我が家でも「ご接待」と称して親類、縁者、知人を招いて馳走を振舞い、大賑わいで小生ら子供たちは訪問者から「おこずかい」をもらって縁日へと出かけたものであった。

当地の「金毘羅神社」は500年の歴史を持つという。
江戸時代に入ると近海で海難事故が多数発生し、その為村人が讃岐の金毘羅神社に出向き安全祈願をした所、たちまち事故が起こらなくなったといい、その為、新たに金毘羅権現を当地に勧請し社殿を造営したといわれる。
金毘羅大権現宮例大祭の1月10日は、いわき市一円、県内、宮古、気仙沼、房総、新潟県など各地から十数万人という大勢の参拝者で賑わう。神社境内をはじめ沿道には約500店舗の露店が並ぶ。



次に、現在在住の神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 
こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在にも成り果てている。
小生は今でも毎日のように鳶尾山系へのトレーニング・ウオークを行っているが、この際には必ずこの社を通り、参拝をするようにしている。 

江戸期往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近在の氏子で大賑わいであったと言う。 
特に、鳶尾地区(中荻野地区)は矢名街道(相模原-大磯線と甲州街道に通ずる津久井街道、現、国道412号線)と大山道(現、の八王子や相模原方面)の交差地域に属し、「大山参り」の通行客と合わせて鳶尾山の金毘羅宮を参拝したともいわれ、大勢で始終賑わってたという。 
しかし今は見る影もなく、小生実家(故郷)の宮の賑わいを思うと残念でならない。 
歴史的遺産やそれにまつわる祭礼や行事を存続させることのいかに大事か、そして難事であるかを象徴するようでもある。


蛇足ながら大山は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。
中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。現在でも四季を通じて参詣者が耐えないが、特に、江戸落語に「大山参り」という話しもあり、当時の大山参詣と賑わいぶりは有名である。

現在、鳶尾山の金毘羅宮の古びた社殿の正面上部には縁起・由緒が以下のように書かれてある。

金毘羅子世羅天由来記』・・、
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。 一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。 翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺 世話人 』

続いて、琴平の金刀比羅宮・本宮



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2011年2月22日火曜日

日本周遊紀行(85)観音寺 「観音寺」

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 日本周遊紀行(85)観音寺 「観音寺」   、 


拝むとお金に不自由しないといわれる琴弾山の「寛永通宝」

観音寺市の「観音寺」



田舎町の豊浜に、昭和の宰相・「大平正芳」出現・・、

国道11号の沿線の町役場の前に銅像が建っていた。
この小さな田舎町の「豊浜」に、歴代の総理大臣が出現していたのだ、「大平正芳」氏である。 
昭和50年代の第68・69代の総理大臣で、ずんぐり、むっくりした体型で口ごもって物をいい、演説や答弁の際に「あー」とか「うー」と前置きをする事から「アーウー宰相」の異名を取り、またその風貌から「鈍牛」ともいわれた。 

自民党幹事長、官房長官、外相、通産相、蔵相などを歴任し、派閥領袖だった三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の所謂、「三角大福」の四人での総裁選には敗れるが、その後も今太閤と言われた田中角栄と盟友関係が続くことになる。 
田中内閣の発足で外務大臣に就任し、日中国交を成立させた。1978年に福田赳夫首相に挑戦する形で総裁選に出馬、予備選挙で福田氏を破り、直後に第68代内閣総理大臣に就任している。

朴訥な印象の一方で、「戦後政界指折りの知性派」との評判が示すとおり、政治における知性や言葉に重きを置く政治家であったという。
その政治思想や経済観、国際政治観などの先見性は、今日でも多いに顧みられることが少なくないといわれる。読書家としても知られ、郷里の記念館には1万数千に及ぶ蔵書が収められている。

首相が、靖国神社にA級戦犯が合祀(昭和53年合祀)される前に参拝したことがあり、それに関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁した。 又、「政治とは・・?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。

1980年には、社会党が提出した内閣不信任案が反主流派の欠席によって可決、ハプニング解散となり、憲政史上初めて衆参同日選挙が行われる事態を招来した。
同日選の第一声を挙げた翌日に体調を崩して入院、心筋梗塞で急死した。 

この大平首相の死が国内政治の空気を一変させたという。かねて抗争終結の落としどころを模索していた自民党の主流派(田中派)と反主流派(福田派)は、「弔い合戦」を名分として一挙に結束に向かい、また追悼ムードは有権者にも大きく作用したため、同日選では自由民主党が大勝した。



三カ所の霊場を抱える、名勝・「琴弾公園」・・、
豊浜のすぐ隣が「観音寺市」であり、市名が寺院名と同じなのは珍しい。
四国八十八箇所観音霊場で讃岐の霊場は「涅槃の道場」といわれる。
弘法大師が仏門へ入門され、巡礼の終期の入定(にゅうじょう・精神を統一して煩悩を去り、無我の境地にはいること)に至るといわれるところである。 
涅槃(ねはん)とは、煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態で、仏教における理想の境地をいう。 

第69番霊場・観音寺は、地元の人に「おかんおんさん」と親 しく呼ばれている代表的なお寺であり、そのためか市名も観音寺の名がそのまま付いているのである。 
海岸に面して観音寺市民の憩いの場所、自然美と人工美が融和したといわれる名勝・琴弾(ことひき)公園がある。 

瀬戸内海国立公園にも含まれ、白砂青松の有明浜や松林の続く公園は「さくら名所100選」に選ばれており、美しい琴弾山々頂からの展望が見所となっている。 
園内には、珍しく砂で絵が描かれた「寛永通宝」というのがある。
東西122m、南北90m、周囲345mもある巨大な大砂絵の銭形(ぜにがた)で、描かれた理由は定かでないが山頂より拝んだ人は健康でお金に不自由なく暮らせるという。 
ここに琴弾八幡宮神恵院(じんねいん)、観音寺等の名所旧跡が点在している。

琴弾八幡宮」は、縁起によると創建は703年、名僧・日証上人が山頂に草庵を結んで修行していたとき、海のかなたに神船が浮んで琴の音が聞こえた。
これは宇佐八幡(大分・宇佐の神宮で全国八幡宮の総本社)のお告げであり、その神船と琴をひきあげて山頂に祀ったという由緒ある神社とのこと。
屋島の合戦に勝利を得た源義経が、次の壇ノ浦の合戦の勝利を祈願したといわれる。 

この琴弾山は、義経が屋島合戦で勝利した要因の地の一つとされている。
義経が伊勢三郎義盛に命じ、伊予の国から田口佐衛門教能(伊予大洲城主)の一千騎が平家援軍に向かう途中、説得により食い止め、源氏側に味方した所だといわれる。 
屋島の合戦で最悪の場合、平家に挟み討ちされ、形成は逆転していたかもしれないとも言われるところである。

八幡社は琴を弾く神様、つまりは技芸の神様を祭ってあるといい、技芸の神の他に海の安全、戰の神、豊穣の神として奉っている。
神社では技芸の神にあやかって、近年、全国奉納絵馬コンクールなども行っているとか。

第69番霊場・観音寺は寺伝によれば、大師は神功皇后を尊崇し観世音の生まれ代わりであるとして、聖観世音菩薩の尊像を刻まれ、山の中腹に七宝山観音寺を創建して尊像を安置した事から始まるという。併せて七つの宝を埋めたことにより七宝山と号し、第69番の霊場に定 められた。  


本坊の庭園は巍々園(ぎぎえん)」と呼ばれる名園で、様々な形をした巨岩を背景に造られた枯山水の石組みは素晴らしく雄大な眺めてあるという。  
朝廷では桓武天皇以来、歴代の勅願所と定められて信仰も厚く、各武将からも厚い信仰を受け、寺運は永く栄えて現在に至っている。

第68番・神恵院は、行基が722年に訪れた後、弘法大師(空海)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山・神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。神恵院は明治初期までは、神宮寺として琴弾八幡宮に付属して同一境内にあった。
ところが明治政府による神仏分離令により、琴弾八幡は神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来像も移転に伴い観音寺境内の西金堂に移され現在に至っているという。
つまり、其々が独立しながら神恵院は観音寺と同居した形となり、一つの山に、二つの霊場があるという不思議な現象が生まれた。 

神恵院境内の隅に納経所があるが、観音寺の納経所も兼ねているので、お遍路さんにとっては琴弾山界隈の風光明媚な地と相まって、二札所の納経が一緒にできるという有難い札所でもある。

次は、琴平の「金刀比羅宮



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2011年2月20日日曜日

日本周遊紀行(84)豊浜 「名物・讃岐うどん」

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 日本周遊紀行(84)豊浜 「名物・讃岐うどん」   、




「道の駅・とよはま」の「浜っ子茶屋」


全国区になった「讃岐うどん」には、仕掛人がいた・・、

伊予の「川之江」を過ぎると、国道11号は間もなく讃岐の香川県である。 
土佐とか、伊予とか、讃岐とか、四国四県は何れも古来から藩政時代までの呼称が良く似合う。 
今でも、各地域や施設には、旧名称が好んで付されているのである。


県境の「道の駅・とよはま」で一息いれる。 
昼時でもあり、讃岐に到ったからには早速、讃岐名物の讃岐うどんを食する。 
かなり広めの「浜っ子茶屋」という和風レストランがあったが、先ずメニュウを見てビックリ、300円からと「讃岐うどん」が安いのである。
先ずは、440円の山かけウドンを食する。
ズルズルとほうばると柔らかさの中に芯があり歯ごたえがあり、その汁(つゆ)も関西風の薄色、薄味で何とも美味なのである。
値段のことを言うのも何だけど、これだけの品質、旨さだと首都圏では倍額はするだろう・・?。

ところで、遍路さんが弘法大師に親しむ香川県では「うどん」は、大師さまが唐から伝えたと語られているともいわれている。
これは伝承に過ぎないが、うどんは、遍路が道々、簡単な食事を摂るのに適している食物であることは確かである。

江戸時代には金刀比羅宮への参拝客を相手にした旅籠が増え、その一階がうどん屋となる例が多かったという。
店頭に茹で釜が置かれ、鉢にうどんを盛り、ショウガやネギとだし(麺つゆ)を入れた器に、つけて食べる形式が一般的となった。(今で言う“つけうどん”で、地元讃岐では「湯だめ」ともいうらしい)

又、参拝客が船で到着する丸亀や多度津にもうどん屋が作られ、名所図会などにもその記録が残っている。
だが、往時の一般庶民や農民にとっては引き続きうどんは贅沢品とされ、田植えや法事の祭り事に振舞われる特別な存在だったともいう。 
近代の明治になって一般庶民も食するようになるが、その頃は、所謂、「夜なきうどん」という行商が高松市内に増え、天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部にランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていたともいう。
以降、香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が食べられるようになり、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉まであったという。 


最近では健康食も相まって、空前の「讃岐うどん」のブームだそうである。 
我家の近く(神奈川県厚木市)にも最近、そのものずばりの「讃岐うどん」という名のうどん屋が出来たようで、大繁盛のようである。

そこにはやはり仕掛け人がいたようで・・、
全国最小県のタウン情報誌「TJ・Kagawa」初代編集長が、食文化・讃岐うどんを連載企画したところ、圧倒的人気を得、一気に全国区に押し上げたという。 
お陰でTVのグルメ番組でも、讃岐うどんは度々取り上げられるようになったようである。 

讃岐うどんの、その特徴は安さにあるという、香川県外の人には、讃岐うどんの値段の安さがにわかに信じられないというが、1杯100円や200円はざらで、それも極めて人気店がそうであるという。 
県下で讃岐うどんの時間帯別動向を調べると、午前11時から午後2時の間に全店の95%以上が開いていて、売上げもこの時間帯で大部分を占めるという。
その後の夕方から夜にかけては、どんどん店閉いをするため、讃岐のうどん店は圧倒的に、「昼型仕様」なのである。 しかも、昼時にうどん店に入ると、これまた圧倒的にサラリーマンの客で溢れているという。


つい最近、『UDON』と言うTV映画を見た。 「うどん」である。
主人公・香助(名前が思わせぶりでいい:ユースケ・サンタマリア)が挫折して、海外から故郷の田舎町に戻ってきた。 借金を背負い人生のどん底にいた香助の前に、地元の雑誌社で働く美人の編集者・恭子(小西真奈美)が現れる。 香助は恭子や地元の人々と触れ合ううちに地元の名産品である「うどん」の魅力に目覚め始める。
「うどん」という日本独自の食文化を通し、日本の魅力が存分に表現されているのである。共演者にはトータス松本、小日向文世、鈴木京香ら個性豊かな面々が出演している。
ああ、うどん食いテー・・!、今夜はうどんにしよう。

次回は、昭和の宰相・「大平正芳



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01. 15.

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