google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2009-11-15

2009年11月21日土曜日

日本周遊紀行(24)  能代・「能代駅と水運」


大都市のわりには、こじんまりした能代駅舎(五能線)



日本周遊紀行(24)  能代・「能代駅と水運」


大潟村から能代へ至った、序に駅舎の様子を窺った。 
秋田を代表する大都市・・?のわりには、JR能代駅の駅舎は1階建てのこじんまりしたもんであった。
時刻表を見ると、能代駅というのは奥羽本線ではなく「五能線」であることに気がついたのである。 

秋田県北部にある比較的大きな街というイメージの「能代」ことだから奥羽本線沿線の街かと思ったが、そうではなかった、隣駅の東能代駅が奥羽本線なのである。


奥羽本線は、福島駅から山形駅、秋田駅を経由して青森駅に至る路線で、東北本線に対比してそれより西側の主要都市を結ぶ幹線のはずである。
本線建設は、明治中期の1894年北の青森~弘前間が先ず開通している。 次に南部の福島~米沢間が開通して、その後、順次北と南から工事が進められ、1905年に全線開通している。

その能代であるが本来、奥羽本線は能代市街地を通すはずであった。
しかし、何故か地元民に反対されてしまい結局、地の利もあって本線は「東能代駅」のみに落ち着いたらしい。 
奥羽本線の東能代は1902年に開通し、そして、能代駅は少し遅れて1908年に能代~東能代間の一駅区間が貨物取り扱いとして能代線、言わば本線の「盲腸線」として開業したのである。 
奥羽本線の青森、福島の間は日に10数本の特急列車が往来しているのに、「能代駅」は特急には無縁の駅なのである。 ただ、能代・東能代間は特別に輸送頻度は多いという。


「奥羽本線には能代駅がない」・・!、
そう、能代市街地の能代駅とは、幹線鉄道・奥羽本線の駅ではなく、いわゆる地方線である五能線の駅であった。 
能代から先の北へ向かう五能線ダイヤは極端にすくなくなり、これはまさに「盲腸線」の状態であった。


能代住民は何故、能代駅という本線駅建設を反対したのか・・?
能代は、米代川流域つまり「野の代」が転じて呼ばれたものであると考えられ、即ち水運により発展したのが「能代」の町であり、川との結びつきが強いのである。

能代市街の北部を、ゆったりと「米代川」が流れる。
奥羽山地の八幡平付近を水源とするが、米代川の語源は「米のとぎ汁のように白い川」と言われている。 
10世紀初頭の十和田湖火山が大噴火を起こし、その火山灰で白く濁った川の色を表現したとも言われているという。 

米代川流域には鉱山地帯が多く尾去沢鉱山、小坂鉱山、大葛鉱山、阿仁鉱山、太良鉱山などが在って、鉱山から出る鉱石は米代川での舟運で運ばれたという。 
鉱山は約1200年の歴史があり、かつ ては金・銀を産出し、近代では銅を産出していたともいう。
また、この地区は優れた材木の産地でもあり、これらも米代川を使って運ばれた。 特に、丸太を筏にして川に流す筏流しは1964年まで続いたという。

明治中期に、鉄道敷設の話が持ち上がったが、地元民というより米代川に携わる水運関係者が、利益流出のための生活権を考えての反対だったといわれる。
水運は、鉄道や道路の整備がすすむとともにしだいに衰退し、いまは往時の面影はない。


その「五能線」は、東能代駅と南津軽郡田舎館村にある川部駅を結ぶJR東日本の鉄道路線である。
殆どが白神山地の西部、日本海沿岸を走るローカル線である。

歴史的には、南部地区は1908年に開業した能代の能代線より始まり、北部地区の青森県側においても、1918年、私鉄の陸奥鉄道が奥羽本線に連絡する川部~五所川原間に開業したのをきっかけに、順次延長されていった。 
昭和大恐慌の影響で、建設が一時スローダウンしたものの、1936年の陸奥岩崎~深浦間を最後に全通し、「五能線」と改称されている。

全通開通した五能線であるが・・、
岩館駅~北金ヶ沢駅間は海沿いを走るため、吹雪や強風、高波で運休することがシバシバ発生する。
このことから地元の人々は、「不能線」、「無能線」とか云って、有り難くないあだ名が付けられているという。
又、臨時列車を除けば岩館駅~鰺ヶ沢駅間では5~7時間も運行されない時間帯もあるとか。


ところで、ご当地ソングの女王と言われる「水森かおり」が、所謂、ご当地の『五能線』を唄っている。 
御蔭さまと言おうか・・!、
五能線の秋田-青森を走っている快速電車「リゾートしらかみ」について、それ以来の年間乗客数が倍増したという。 
JR東日本・秋田の関係者は「水森さんに唄ってもらって、五能線が全国区になった」と喜んでいるようである。


序ながら・・、

能代といえば、元バスケ選手(中学時代)であった小生にとって能代工業高校のバスケットボールでの活躍が思い起こされる。
特に、日本人初のNBAプレーヤーである「田臥 勇太」(たぶせ ゆうた)である。 

小生同県の神奈川県出身で、ポジションはポイントガード、身長1m73cm、体重75kg、靴のサイズ29cmと、小柄で小生と余り変わらない。


小さな体で大きな選手をすり抜けるスピード、類い稀なパスセンス、視野の広さとジャンプシュートがプレイの特徴で、日本人で初めて世界ジュニア選抜に選ばれるなど、日本人では抜きん出た実力の持ち主である。
速さという点だけで言えばNBAでも通用するレベルであるのは確かであった。

小学校2年生からバスケットボールを始め、神奈川県大道中学校では全国3位の成績を修めた。
名門・能代工業高校で入学後即スタメンとなり、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の三大タイトルを制し、史上初の「九冠」を達成した。 
公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみであるというから驚きである。


能代工業高校男子バスケットボール部は、史上初の三年連続三冠(インターハイ、国体、選抜大会)を獲得し、三冠獲得は9回目、その他にも全国優勝、連続優勝など、全国大会で50回を越える優勝を成し遂げている強豪である。 
「田臥」時代が全盛と言うのではなく、「歴史と伝統と指導」で稀に見る成績を残しているのである。 

尤も、能代市そのものが、特に、1989年度(平成元年度)以来から、バスケの街づくり事業に取り組んでいるので、地域性も含めねばなるまい。 

籠球王国・能代バンザイ・・!である。



次回は、岩崎村・「白神山地」

2009年11月20日金曜日

日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)

日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)


八郎潟干拓について・・、

元々の八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、水深はきわめて浅く、最深4・7m、平均水深3m程度であった。
その湖底のほとんどは軟弱粘土におおわれ、最も深いところでは何と50mにも及んでいたという。

八郎潟の干拓計画は、世界の最新土木技術を導入して「ヘドロ」と呼ばれる超軟弱地盤の上に新生の大地を作り上げようと言う計画であり、その広さは、東京都で言えば国鉄の山手線に囲まれた区域の約三倍にも及ぶ面積であり凡人からみれば、とてつもない計画であった。

ところで・・、

八郎潟の開発計画は古くから立案、計画されてきたという。
江戸安政年間(1854年~1860年)払戸村(現在の男鹿市払戸)の渡部斧松による「八郎潟疎水案」に始まり、その後、大正期(13年)、(昭和16年、23年)と計画されたものの財政、その他の事情により、やはり実現することはなかった。

しかし八郎潟開発の構想はその後も消え去ることなく、昭和29年(1954年)にオランダのヤンセン教授等が来日、それを契機昭和32年ついに着工の運びとなった。
そして足かけ20年、総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、昭和52年3月をもって全ての工事が完了した。

ヤンセン教授によるオランダの技術は、堤防の下5mぐらいまでのヘドロを全部取り除き、幅130mの砂床に置き換えるという大掛かりな工法で、日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が、100%可能になったという。


因みに、「オランダ」という国は、ご存知の通りの低地の国で、国土の4分の1が海抜0メートル以下という。 
そして、風車の国である。
オランダでは最盛期に約九千基の風車があり、主として干拓の排水用として多く用いられたが、風車は、動力源としてその他にも粉挽き、水くみ、菜種油しぼり、製材など、幅広く活用されていたと。

更に風車のすぐれた技術は「造船」などにも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えることになる。

しかし、蒸気機関や電気などが発明されると、風車は建設されなくなり、現在は昔ながらの風車が千基ほど、文化財的に保存されているという。


オランダ第二の都市ロッテルダムの南東10キロの地に「キンデルダイク」というところがある。
平原と運河のこの村には、19基の風車群がずらりと並び、18世紀の美しい風景をそのままに残しているという。
キンデルダイクの長閑な風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として、「世界遺産」にも登録されている。


さて、日本では・・、八郎潟では・・、

この壮大な未知への挑戦に、技術者たちは燃えた・・!!。
だが自然は、彼等をそのまま受け入れてはくれなかった。
悪いことに工事途中で青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と立て続けに大きな地震に見まわれているのである。 
知恵と汗と涙の結晶である堤防に、亀裂や地盤沈下が入ったのであり、その原因は最も恐れていた堤防下部の「砂の流動化現象」によるものであったという。

苦闘の歴史に終止符をうった後は・・、
干拓に携わった人々の回顧録の主題には「崩れ落ちた自信」、「不敵な挑戦」、「冷汗、油汗」、「血を吐き骨を削る苦労」、「責任の重大さに天を仰ぐ」等などと記されているという。
それだけに湖底が、新生の大地に生まれ変わった当初、干拓工事に携わった全ての人々は万感迫るものがあったに違いない。


オランダのヤンセン博士は、日本の技術陣の能力を誉め上げている。
日本の土木技術の質の良さは、高額の費用を払って私を招く必要はなかった程である。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない」といったという。
この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れないとも言われる。 


次回は、「能代」です。


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2009年11月18日水曜日

日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」(1)


八郎潟の干拓前後(秋田農政局)


日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」(1)


日本最大の干拓地で、地域名を「大潟村」と称している。 

大潟村は、田畑と集落地が分かれており、そこに、ユーモラスな日本一低い山・・ 「大潟富士」がある。高さ3.776mで、無論「三千・・」でなく「三点・・」である・・。
ただ、頂上が海抜ゼロmという貴重な・・?山でもある。
因みに、国土地理院の話では、「現状の小さく造られた山では、山とは認定できない。山とは歴史的認知度・・?も必要だ」とのことらしい。

村の全域が、かつて日本の湖で二番目の面積を誇った八郎潟で、昭和の干拓によって出来上がった人工の土地である。 
合併・分割などで新設されたのではなく、純粋に新しく造られた自治体としては日本最初で、そして最後であろう・・?、
大潟村の誕生は昭和39年10月で、歴史も40年程度しかない。 
村は、山手線よりも二周りほど大きいらしい・・。 

地域的にもキリがよく、北緯40度と東経140度の交点でもあり、日本でも緯経線が十度単位での交点がある地域はここだけであるらしい。    


湖(八郎潟)の中に堤防を造り、堤防で囲まれた中の湖水の排水場から、ポンプで掻き出し(干拓)てできた村である。 
土地は元々、湖の底だったところなので、その殆どが平らで村全体が海面より低く、もっとも低い所では約4~5メ―トルも低くなっているという。
つまり海抜マイナス5mの村である。

そのための周囲は堤防で囲み、村の中に水が入らないようにする大切な役目をしている。 
村の土地の約7割は、田や畑で、あとの3割は道路や水路や集落地となっていて、田畑は集落地の北側、東側、南側に広がっている。 


ここで、「エピソード」を1つ・・、

八郎潟の干拓が始まって初まってからの最初の入植者は、おそらく「ネズミ」だったと云われる。
野ネズミやどぶネズミで、それも、猫も逃げ出すほどの大きさであったそうな・・!!。
このネズミらに、農業を始めたばかりの大潟村では、それは頭を痛めていたという。

そこで思いついたのがイタチであった、
イタチはネズミの天敵で、昭和43年頃奄美大島から58匹のイタチが空輸された。
今度は、イタチの入植が始まったのである。

お蔭で“ねずみ算式”に増えたネズミは、イタチのためにグッと少なくなったといわれる。

巷間人が、「次にイタチが増えすぎたらどうするの?、イタチの天敵捜さなくちゃー。これがホントの『いたちごっこ』だね」と・・、
しかし、実際イタチが増えすぎることはなかったという。

今でも、奄美大島出身の子孫イタチが、運が良ければお目に掛かれる時もあるという。

次回は、八郎潟干拓について・・PartⅡ


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日本周遊紀行(22)男鹿 「なまはげ」


真山山頂付近に鎮座する赤神神社の「五社堂」




日本周遊紀行(22)男鹿 「なまはげ」


「999」の石段と五社堂の縁起伝説について・・、

昔、漢の武帝が五匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた、コウモリは男鹿で五匹の鬼に変わった。
武帝は五匹の鬼たちを家来として使ったが、一年に一度だけ正月に休みを与えた。 
鬼たちは大喜びして里へ降り、畑作物や家畜を奪って大暴れし、しまいには娘まで浚(さらって)ってくるようになった。
困ってしまった村人は、鬼に賭けを申し入れる。 


あの山のてっぺんまで、一夜のうちに1000段の石段を築けば、一年に一人ずつ娘を差し上げる。だが、それができなければ、二度と里へ降りて来ないと約束してほしい」・・と。

鬼たちは、日の暮れるのを待って、さっそく石段造りに取り掛かった。
遠く離れた「寒風山」から空を飛ぶようにして石を運び、あれよあれよという間に石段を築いていった。
これに驚いた村人は、物まねのうまい「天邪鬼・アマノジャク」に鶏の鳴き声を頼んだ。 

999段を積み終え、あと一段というところで、アマノジャクが「コケコッコー」と叫んだ。 鬼たちは一番鶏が鳴いたことにびっくりし、約束どおり山の奥深くへと立ち去って行ったという。 

鬼が来なくなって、何か寂しい気持ちになった村人たちは年に一度、正月15日に、鬼の真似をして村中を回り歩くようになったという。 

これが「なまはげ」の始まりだともいう。


ここまでは民話風の空想伝記物語であるが、現実的な二番目の伝説について・・、

古く大陸の国の人々を見る機会のほとんどない時代、漂流民のように男鹿半島の海岸にたどり着いた異国人を「なまはげ」としたのではないか、というものである。 
大身肥満でしかも紅毛碧眼(こうもうへきがん)の異邦人は村人にとって、まさに、「なまはげ」に見えたというのであろう。 

それに彼らがもっていた技術や知識によって驚異的な石段作りが成し遂げられたといい、滑車や特殊な綱によるものであったとする伝えがある。

三番目には男鹿の真山、本山は古くからの修験道の霊場として知られていたことから、修験者は修業姿のまま里に下り、門付け祈祷をして回った。
修業の間の凄(すさま)じい形相や山中の修業後の姿などを「なまはげ」としてみたのが始まりともいうのである。

「なまはげ」の伝承、伝説については他にもあるようだ。



明治後半から戦前にかけて、ナマハゲ役は未婚の若者であった。 
役に当たった若者は,まず神社を参拝してお祓いをしてもらい、そして風呂に入って身を清め、肉、ネギ、ニンニクを断ち、つまり精進潔斎(しょうじんけっさい:肉食を絶つなどして身をきよめること)に勤めると。

現在、一般的に言われるナマハゲは・、
山の神様や正月の歳神様の化身といわれている。

大晦日の晩、赤と青の恐い仮面をかぶり、身には藁で編んだミノをまとい、大きな声で「泣く子はいねが、怠け者はいねが」と家中を探し廻ります。その荒々しさによって家の悪霊や災禍を祓い清めるといわれている。

又、ナマハゲは、お田植祭などに参加した子供たちに「食べ物を粗末にしないように」、「両親の言いつけをよく守るように」と約束させる場面の先導役ともなる。

ナマハゲは、人々を戒める役割を持つと同時に、春の到来を告げ、その年の実りをもたらす神様でもある。


次回は、「大潟村」



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2009年11月16日月曜日

日本周遊紀行(21)秋田 「佐竹氏とおばこ」


佐竹氏の居城・久保田城は城址として千秋(せんしゅう)公園内にあり、現在は、本丸の正面に「一ノ門」が復元されている。(幕府・徳川氏に遠慮して天守閣は造らなかったという)



日本周遊紀行(21)秋田 「佐竹氏とおばこ」


「秋田」については、前述したが開祖は佐竹氏である。

その佐竹氏について・・、

源氏の清和天皇を祖にする新羅三郎義光(兄は奥州の変=前九年の役=で奥州へ遠征した八幡太郎義家)は平安後期の勇猛武者であった。 義光は知謀に富み、武勇に優れ「京」の都の中央官職として任務に当っていた。
その長男「源義業」(みなもとよしなり)に佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を配して、義業は佐竹と称していた。 
その後、源氏の威光を持つ佐竹氏は治政(治世)、軍政を盛んにして、ついに常陸全域から会津地方、現在の福島南部も手に入れ、全国でも有数の大名に成長してゆく。 

戦国期、秀吉の「小田原攻め」(小田原・北条氏政)の時、佐竹義宣はこれに参戦、後に秀吉から54万石の朱印状を貰い、更に加増されて佐竹家一族は80万石の大大名となった。 しかし豊臣秀吉死後、徳川家康が頭角を現し、「関ヶ原合戦」へと時は流れてゆく。

1600年、家康と石田三成らの豊臣方の軍とで関ヶ原で、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分れて戦った。

秀吉から54万石の大封を戴き、子飼(こが)いの石田三成などとも親交があり、その恩義を忘れ去ることは出来ない。さりとて先見の明ある義宣には、東軍・家康の勝利に終わることが必定(ひつじょう)と認識していたらしく結局、義宣は天下を分けた関ヶ原の戦いにも逡巡の末、あえて鳴かず飛ばずの態度で終止したといわれる。

その後の家康の文書には「上杉、島津、佐竹は敵」と書き残っている。
結局、関ヶ原が終わってから2年半以上も経ってから「秋田転封」が決せられるのである。 家康の「佐竹義宣」評を 「今の世に佐竹義宣ほどの律儀なものは見たことが無い、しかし、あまり律儀過ぎても困ったものだ」 と言わしめたという。

国替えの命を受けた義宣は、禄高不明と先行き不安のなかで、最小限の家臣を随行し、慶長7年(1602)、出羽の国に到着したという。 
天下を分けた関ヶ原で不覚をとり、心機一転して悲壮感のこもる義宣の秋田の国づくりが開始されたのである。


秋田は古くから米どころとして名高く、「秋田こまち」で知られる。
又、美味しいお酒の産地としても知られている。 だがなんと言っても、秋田と言えば「秋田おばこ」と言うくらい、美人が多いことでも有名である。 

小生の知ってる秋田出身の美人の中でも「藤 あや子」は代表格と思える、ポッチャリした瓜実(うりざね)、こけしの様な丸顔で、何より色が透き通るように白く、いわゆる餅肌である。 一般に、秋田美人は、鼻の尖った研ぎ澄まされたような顔ではないようだ・・?。



「秋田音頭」に・・、

秋田のおなご、なんしてきれだと聞くだけ野暮だんす、小野小町の生まれ在所、おめはん知らねのげ』 と歌われている。 
小野小町は秋田美人の祖である。
 
小野小町は平安時代の伝説の歌人であり、その美貌はクレオパトラ,楊貴妃とならんで,世界三大美人といわれる。
小野小町は県南 雄勝郡雄勝町福富桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)で生まれたと言われている。 父は出羽の国の郡司として京から赴任してきた小野良実,母は土地の豪族の娘・大町子とされている。 
二人の間に生まれた娘は「小町」と名付けられた。

福富の荘はいつしか「小野の里」と呼ばれるようになったという。 このようなことから,当地は小野小町の出たところ「小町の郷(さと)」として,全国的に有名になり,今なお,小野小町はこの地に息づいている。



秋田美人、秋田おばこ」と言われるには俗説、通説があるようだが、確説はないとされる。 しかし、これら総合したものが秋田美人と言われる所以かも知れない、「秋田美人のウェブサイト」もあるくらいである。

常陸の国(茨城)は、京との繋がりも深く古来美人の国だった。 
それが、佐竹氏が徳川家康により、常陸から出羽国秋田へ国替えになったとき、佐竹氏を慕って常陸の国中の美人という美人が秋田へ行ってしまったという。
それ以後、秋田が美人の国になり、常陸の国はカスばかりになってしまったという、これは俗説であろう。



些か時代調になるが・・、

東北が西日本の大和政権に屈服、征服される前までは、東北は「内なる外国」として位置づけられていた。 そこでは独自の文化が存在し、そして大和政権に抵抗し続けた蝦夷・エミシを中心とする国家が形成されていた。

西日本は弥生人系、つまり渡来系で中国、朝鮮半島の人種で、どちらかというと黄色系の顔立ちである。 
対して東北人は縄文人系の顔立ちが多いと言われ、その蝦夷の原点は縄文人なのであり、古来より大陸系と繋がりが多い。 一部ではユーラシア北部の民族が北日本日本海側に移住し、混血したためとも言われる。 

元々、縄文人は魚貝草種を主食とし、季節的にも雪の多い風土であり、こんな縄文的風土が色白で、きめ細かい肌の「秋田おばこ」(秋田小町、秋田美人)を多く育くんだ、という説は説得力がある。


田沢湖畔に伝説の美女の「辰子姫の像」が立っている。

辰子姫は秋田美人の代表とされ、秋田出身の文章家の野口達二氏は、喩えて『 ふさふさした黒髪は,黒鳥の濡れ羽のように艶やかであった。つぶらな瞳は,うるおいがあって碧い湖のような神秘な光を底にたたえていた。すうっと通った鼻筋は,雪をいただいた白くたおやかな峰のように人を引き付ける気品さがあった。また,桜の花びらのような唇は,愛らしく,なんとも魅惑的であった。そして餅のような肌は,なめらかで,透き通るように白かった。 』 と美文で描いている。

田沢湖に立つ「辰子像」のイメージである透き通るような白い肌は、老女になっても変わらないのである。



秋田音頭』 秋田県民謡

コラ秋田音頭です
いずれこれより御免なこうむり音頭の無駄を言う
あたりさわりもあろうけれども
サッサと出しかける

コラ妻君ある御人
秋田に来るなら心コ固く持て
小野小町の生まれ在所
美人がうようよだ

コラ秋田の女ご
何してきれいだと聞くだけ野暮だんす
小野小町の生まれ在所
お前(め)はん知らねのげ


次回は「男鹿」

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01. 15.

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