2009年12月19日土曜日

日本周遊紀行(39)松前 「松前城と永倉新八」

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松前城の天主閣に本丸御門




日本周遊紀行(39)松前 「松前城と永倉新八」

渡島半島の先端、北海道最南端の岬は「白神岬」である。 

案内看板に近寄ってみたが、北海道の記念すべき「南端の地域」にしてはサッパリしたもんであった。
 
この白神岬は、昔は断崖がせまる急峻な山岳地帯であり、人を寄せ付けない所であった。 
松前・函館を往来する「松前街道」はこの山中に在り車馬、人足、旅人等は脚を棒にして急坂の峠道を登り降りした。 

しかし暖かく、天気晴朗、波静かな時は、白神山道の急峻な道を避け、この地の「白神岬」の海岸の道のない波打ち際を歩いたらしい。
だが、この沿岸も崖が海に迫っていて、満ち潮の時などは、どうしても海中徒歩を余儀なくされ、この時ばかりは男も女も荷物を頭にのせて裾をたくし上げ、ほぼ素っ裸で歩いたそうである。


「松前」の家並みも、すぐそこに見えていた。

松前は、松前半島の突端にある日本最北の城下町である。 
車だと函館から約2時間前後の距離だろうか、しかし、往時は、はるか遠い道のりであった。

松前町に入り、商店街の道を進むと、松前城の天守閣が鮮明に目に飛び込んでくる。 
15~16世紀に開かれたという寺院も多く、一見歴史の浅いと思われる北海道の中で、松前藩は中世から江戸時代を生きてきた特異な存在となっていることが判る。

御城を覗いて見ると、白亜の三層の天守閣が天に聳えている。その横に大手門(本丸御門)が構え、城内や城の背景に広がる静かな寺町は、春には一面の桜花で覆われる桜の名所でもある。 
城門の手前に「土方才三も上った坂」と記した看板が有り、この看板に合わせて京都・池田屋事件で活躍した「永倉新八は元松前藩士」ともあった。



「永倉新八」は、新撰組の幹部として活躍、激動の幕末・明治・大正を生き抜き、77歳で天寿をまっとうしている。 
新八は後に回想録「新撰組顛末記」などを著作し、史的資料としても貴重な書といわれている。

つい最近の2004年度、NHK大河ドラマ「新選組!」が放送されたが、「永倉新八」役にコマーシャルでもお馴染みな「グッさん」、こと山口智充が中々のはまり役であった。 
近藤勇や土方歳三の後ろに居て、やや影の薄い新八であるが、剣の腕は、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤一」ともいわれた程だったといわれる。


「永倉新八」は、松前藩・江戸上屋敷で藩士の子として生まれている。
神道無念流剣術道場に通い、18歳で元服し新八と名乗る。
後、脱藩して剣術修行しながら、天然理心流の近藤勇に食客として入門する。 

新撰組結盟以来の中核をなす隊士で2番隊組長を務め、1864年の「池田屋事件」では、近藤勇、沖田総司らと共に奮戦する。
沖田が倒れ、藤堂平助が負傷する中、永倉は獅子奮迅の働きをみせた。
又、京都の鳥羽伏見の戦いでは、決死隊を募り官軍の銃弾に対して刀一つで突撃する豪胆さも見せている。 

戊辰戦争では各地を転戦するが、会津藩の降伏を知り、その後江戸から松前藩への帰藩が許され保護されてる。

その後は藩医の杉村介庵の婿養子となり北海道に渡る。 
明治初年、家督を継いで杉村治備(のち義衛)と名乗り、樺戸集治監(当時は日本国)の剣術師範に招かれ19年間その職に当っている。

晩年は小樽で過ごしているが、盟友・土方歳三にとって北海道は最期の戦いの舞台となったが、新八にとっては長らえて蝦夷地が生涯に場所となった。
小樽の家では近藤勇と土方歳三の写真に、毎日のように手を合せていたという。


松前藩箱館戦争では新政府軍側、永倉個人は旧幕府軍という相反する微妙な立場にいて、松前では生きにくい面もあったのだろう。 

松前から小樽は遠く、藩のしがらみの薄い漁師や商人の町の小樽で、同士たちに思いを馳せながら余生を送ったのかもしれない。 

維新後、数少ない新選組幹部の生き残りとして、板橋に近藤勇、土方歳三の墓を建立している。  
大正4年1月5日、小樽市にて死去、享年76の生涯であった。
新八の遺骨は、小樽と札幌の杉村家の墓と、新選組慰霊碑の立つ東京・板橋の墓に分骨されているそうである。
近藤勇の眠る板橋に埋めて欲しいといのは新八の遺言でもあり、新選組隊士・永倉新八は北海道では家族とともに、東京では同士とともに眠っている

小樽でのエピソードの中・・、
或る時、孫を連れて縁日を散歩していると5、6人の若い男衆に絡まれた。
彼はその時、鋭い眼力だけで相手を退かせたという話もある。



「松前城」は、日本における最後の城郭である。
戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)と攻防を繰り広げ、落城させられたことでも有名である。 
幕末の築城で、北の果てに位置するにも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験、展開しているのである。


明治元年(1868年)秋、蝦夷に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。

松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城している。 
これは、函館湾からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためといわれる。 

海からは軍艦・回天が、艦砲射撃で城を狙っていたが、城はすぐ間近に見え何の障害物もなく、砲撃には、まさに絶好のポジションだったという。
これらの弱点を土方軍によって巧みに衝かれた形となってしまった。
現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っているという。

しかし、翌年には榎本らの暫定政権は新政府軍に降伏し、再び松前城は松前氏の領有となった。
明治4年(1871年)の廃藩置県の施行により、城は明治政府の領有となり、明治期の「廃城令」によって、明治8年(1875年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。



現在のものは、昭和34年(1959年)から36年にかけ、松前城資料館として鉄筋コンクリート造で再建されている。
創建当時から現存する建築物としては、本丸御門と本丸表御殿玄関及び旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみであり、本丸御門については昭和25年(1950年)に国指定重要文化財に指定されている。
また、曲輪・石垣などもよく残っており、旧城地一帯が国指定史跡となっている。

 
現在の松前城は、春には道内有数の桜の名所として名高く、250種・8000本の桜がある。 4月下旬から5月中旬は桜が満開となり、道南の各地から大勢の見物人がおしよせるとか・・。



松前町は、北海道・渡島半島の最南端に位置し、西は日本海、南は津軽海峡に面し、後背は深い山地に囲まれている。 
町並みは海岸に面して細長く延びていて、地柄としては発展性の乏しい町の様にも思える。 しかし、松山城をはじめ城下町は、400年以上の長い歴史をもち、全国、250以上の諸藩のある中、広い蝦夷地・北海道でも唯一の藩として存在感を示し認められてきた。

松前は本州・津軽に一番近い地域で、海峡を隔てて僅か20数キロである。


次回も引き続き「松前藩」


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