大都市のわりには、こじんまりした能代駅舎(五能線)
日本周遊紀行(24) 能代・「能代駅と水運」
大潟村から能代へ至った、序に駅舎の様子を窺った。
秋田を代表する大都市・・?のわりには、JR能代駅の駅舎は1階建てのこじんまりしたもんであった。
時刻表を見ると、能代駅というのは奥羽本線ではなく「五能線」であることに気がついたのである。
秋田県北部にある比較的大きな街というイメージの「能代」ことだから奥羽本線沿線の街かと思ったが、そうではなかった、隣駅の東能代駅が奥羽本線なのである。
奥羽本線は、福島駅から山形駅、秋田駅を経由して青森駅に至る路線で、東北本線に対比してそれより西側の主要都市を結ぶ幹線のはずである。
本線建設は、明治中期の1894年北の青森~弘前間が先ず開通している。 次に南部の福島~米沢間が開通して、その後、順次北と南から工事が進められ、1905年に全線開通している。
その能代であるが本来、奥羽本線は能代市街地を通すはずであった。
しかし、何故か地元民に反対されてしまい結局、地の利もあって本線は「東能代駅」のみに落ち着いたらしい。
奥羽本線の東能代は1902年に開通し、そして、能代駅は少し遅れて1908年に能代~東能代間の一駅区間が貨物取り扱いとして能代線、言わば本線の「盲腸線」として開業したのである。
奥羽本線の青森、福島の間は日に10数本の特急列車が往来しているのに、「能代駅」は特急には無縁の駅なのである。 ただ、能代・東能代間は特別に輸送頻度は多いという。
「奥羽本線には能代駅がない」・・!、
そう、能代市街地の能代駅とは、幹線鉄道・奥羽本線の駅ではなく、いわゆる地方線である五能線の駅であった。
能代から先の北へ向かう五能線ダイヤは極端にすくなくなり、これはまさに「盲腸線」の状態であった。
能代住民は何故、能代駅という本線駅建設を反対したのか・・?
能代は、米代川流域つまり「野の代」が転じて呼ばれたものであると考えられ、即ち水運により発展したのが「能代」の町であり、川との結びつきが強いのである。
能代市街の北部を、ゆったりと「米代川」が流れる。
奥羽山地の八幡平付近を水源とするが、米代川の語源は「米のとぎ汁のように白い川」と言われている。
10世紀初頭の十和田湖火山が大噴火を起こし、その火山灰で白く濁った川の色を表現したとも言われているという。
米代川流域には鉱山地帯が多く尾去沢鉱山、小坂鉱山、大葛鉱山、阿仁鉱山、太良鉱山などが在って、鉱山から出る鉱石は米代川での舟運で運ばれたという。
鉱山は約1200年の歴史があり、かつ ては金・銀を産出し、近代では銅を産出していたともいう。
また、この地区は優れた材木の産地でもあり、これらも米代川を使って運ばれた。 特に、丸太を筏にして川に流す筏流しは1964年まで続いたという。
明治中期に、鉄道敷設の話が持ち上がったが、地元民というより米代川に携わる水運関係者が、利益流出のための生活権を考えての反対だったといわれる。
水運は、鉄道や道路の整備がすすむとともにしだいに衰退し、いまは往時の面影はない。
その「五能線」は、東能代駅と南津軽郡田舎館村にある川部駅を結ぶJR東日本の鉄道路線である。
殆どが白神山地の西部、日本海沿岸を走るローカル線である。
歴史的には、南部地区は1908年に開業した能代の能代線より始まり、北部地区の青森県側においても、1918年、私鉄の陸奥鉄道が奥羽本線に連絡する川部~五所川原間に開業したのをきっかけに、順次延長されていった。
昭和大恐慌の影響で、建設が一時スローダウンしたものの、1936年の陸奥岩崎~深浦間を最後に全通し、「五能線」と改称されている。
全通開通した五能線であるが・・、
岩館駅~北金ヶ沢駅間は海沿いを走るため、吹雪や強風、高波で運休することがシバシバ発生する。
このことから地元の人々は、「不能線」、「無能線」とか云って、有り難くないあだ名が付けられているという。
又、臨時列車を除けば岩館駅~鰺ヶ沢駅間では5~7時間も運行されない時間帯もあるとか。
ところで、ご当地ソングの女王と言われる「水森かおり」が、所謂、ご当地の『五能線』を唄っている。
御蔭さまと言おうか・・!、
五能線の秋田-青森を走っている快速電車「リゾートしらかみ」について、それ以来の年間乗客数が倍増したという。
JR東日本・秋田の関係者は「水森さんに唄ってもらって、五能線が全国区になった」と喜んでいるようである。
序ながら・・、
能代といえば、元バスケ選手(中学時代)であった小生にとって能代工業高校のバスケットボールでの活躍が思い起こされる。
特に、日本人初のNBAプレーヤーである「田臥 勇太」(たぶせ ゆうた)である。
小生同県の神奈川県出身で、ポジションはポイントガード、身長1m73cm、体重75kg、靴のサイズ29cmと、小柄で小生と余り変わらない。
小さな体で大きな選手をすり抜けるスピード、類い稀なパスセンス、視野の広さとジャンプシュートがプレイの特徴で、日本人で初めて世界ジュニア選抜に選ばれるなど、日本人では抜きん出た実力の持ち主である。
速さという点だけで言えばNBAでも通用するレベルであるのは確かであった。
小学校2年生からバスケットボールを始め、神奈川県大道中学校では全国3位の成績を修めた。
名門・能代工業高校で入学後即スタメンとなり、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の三大タイトルを制し、史上初の「九冠」を達成した。
公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみであるというから驚きである。
能代工業高校男子バスケットボール部は、史上初の三年連続三冠(インターハイ、国体、選抜大会)を獲得し、三冠獲得は9回目、その他にも全国優勝、連続優勝など、全国大会で50回を越える優勝を成し遂げている強豪である。
「田臥」時代が全盛と言うのではなく、「歴史と伝統と指導」で稀に見る成績を残しているのである。
尤も、能代市そのものが、特に、1989年度(平成元年度)以来から、バスケの街づくり事業に取り組んでいるので、地域性も含めねばなるまい。
籠球王国・能代バンザイ・・!である。
次回は、岩崎村・「白神山地」
2009年11月21日土曜日
2009年11月20日金曜日
日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)
日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)
八郎潟干拓について・・、
元々の八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、水深はきわめて浅く、最深4・7m、平均水深3m程度であった。
その湖底のほとんどは軟弱粘土におおわれ、最も深いところでは何と50mにも及んでいたという。
八郎潟の干拓計画は、世界の最新土木技術を導入して「ヘドロ」と呼ばれる超軟弱地盤の上に新生の大地を作り上げようと言う計画であり、その広さは、東京都で言えば国鉄の山手線に囲まれた区域の約三倍にも及ぶ面積であり凡人からみれば、とてつもない計画であった。
ところで・・、
八郎潟の開発計画は古くから立案、計画されてきたという。
江戸安政年間(1854年~1860年)払戸村(現在の男鹿市払戸)の渡部斧松による「八郎潟疎水案」に始まり、その後、大正期(13年)、(昭和16年、23年)と計画されたものの財政、その他の事情により、やはり実現することはなかった。
しかし八郎潟開発の構想はその後も消え去ることなく、昭和29年(1954年)にオランダのヤンセン教授等が来日、それを契機昭和32年ついに着工の運びとなった。
そして足かけ20年、総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、昭和52年3月をもって全ての工事が完了した。
ヤンセン教授によるオランダの技術は、堤防の下5mぐらいまでのヘドロを全部取り除き、幅130mの砂床に置き換えるという大掛かりな工法で、日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が、100%可能になったという。
因みに、「オランダ」という国は、ご存知の通りの低地の国で、国土の4分の1が海抜0メートル以下という。
そして、風車の国である。
オランダでは最盛期に約九千基の風車があり、主として干拓の排水用として多く用いられたが、風車は、動力源としてその他にも粉挽き、水くみ、菜種油しぼり、製材など、幅広く活用されていたと。
更に風車のすぐれた技術は「造船」などにも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えることになる。
しかし、蒸気機関や電気などが発明されると、風車は建設されなくなり、現在は昔ながらの風車が千基ほど、文化財的に保存されているという。
オランダ第二の都市ロッテルダムの南東10キロの地に「キンデルダイク」というところがある。
平原と運河のこの村には、19基の風車群がずらりと並び、18世紀の美しい風景をそのままに残しているという。
キンデルダイクの長閑な風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として、「世界遺産」にも登録されている。
さて、日本では・・、八郎潟では・・、
この壮大な未知への挑戦に、技術者たちは燃えた・・!!。
だが自然は、彼等をそのまま受け入れてはくれなかった。
悪いことに工事途中で青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と立て続けに大きな地震に見まわれているのである。
知恵と汗と涙の結晶である堤防に、亀裂や地盤沈下が入ったのであり、その原因は最も恐れていた堤防下部の「砂の流動化現象」によるものであったという。
苦闘の歴史に終止符をうった後は・・、
干拓に携わった人々の回顧録の主題には「崩れ落ちた自信」、「不敵な挑戦」、「冷汗、油汗」、「血を吐き骨を削る苦労」、「責任の重大さに天を仰ぐ」等などと記されているという。
それだけに湖底が、新生の大地に生まれ変わった当初、干拓工事に携わった全ての人々は万感迫るものがあったに違いない。
オランダのヤンセン博士は、日本の技術陣の能力を誉め上げている。
「日本の土木技術の質の良さは、高額の費用を払って私を招く必要はなかった程である。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない」といったという。
この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れないとも言われる。
次回は、「能代」です。
.【小生の主な旅のリンク集】
《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ
《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)
【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観
ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002
【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
八郎潟干拓について・・、
元々の八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、水深はきわめて浅く、最深4・7m、平均水深3m程度であった。
その湖底のほとんどは軟弱粘土におおわれ、最も深いところでは何と50mにも及んでいたという。
八郎潟の干拓計画は、世界の最新土木技術を導入して「ヘドロ」と呼ばれる超軟弱地盤の上に新生の大地を作り上げようと言う計画であり、その広さは、東京都で言えば国鉄の山手線に囲まれた区域の約三倍にも及ぶ面積であり凡人からみれば、とてつもない計画であった。
ところで・・、
八郎潟の開発計画は古くから立案、計画されてきたという。
江戸安政年間(1854年~1860年)払戸村(現在の男鹿市払戸)の渡部斧松による「八郎潟疎水案」に始まり、その後、大正期(13年)、(昭和16年、23年)と計画されたものの財政、その他の事情により、やはり実現することはなかった。
しかし八郎潟開発の構想はその後も消え去ることなく、昭和29年(1954年)にオランダのヤンセン教授等が来日、それを契機昭和32年ついに着工の運びとなった。
そして足かけ20年、総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、昭和52年3月をもって全ての工事が完了した。
ヤンセン教授によるオランダの技術は、堤防の下5mぐらいまでのヘドロを全部取り除き、幅130mの砂床に置き換えるという大掛かりな工法で、日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が、100%可能になったという。
因みに、「オランダ」という国は、ご存知の通りの低地の国で、国土の4分の1が海抜0メートル以下という。
そして、風車の国である。
オランダでは最盛期に約九千基の風車があり、主として干拓の排水用として多く用いられたが、風車は、動力源としてその他にも粉挽き、水くみ、菜種油しぼり、製材など、幅広く活用されていたと。
更に風車のすぐれた技術は「造船」などにも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えることになる。
しかし、蒸気機関や電気などが発明されると、風車は建設されなくなり、現在は昔ながらの風車が千基ほど、文化財的に保存されているという。
オランダ第二の都市ロッテルダムの南東10キロの地に「キンデルダイク」というところがある。
平原と運河のこの村には、19基の風車群がずらりと並び、18世紀の美しい風景をそのままに残しているという。
キンデルダイクの長閑な風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として、「世界遺産」にも登録されている。
さて、日本では・・、八郎潟では・・、
この壮大な未知への挑戦に、技術者たちは燃えた・・!!。
だが自然は、彼等をそのまま受け入れてはくれなかった。
悪いことに工事途中で青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と立て続けに大きな地震に見まわれているのである。
知恵と汗と涙の結晶である堤防に、亀裂や地盤沈下が入ったのであり、その原因は最も恐れていた堤防下部の「砂の流動化現象」によるものであったという。
苦闘の歴史に終止符をうった後は・・、
干拓に携わった人々の回顧録の主題には「崩れ落ちた自信」、「不敵な挑戦」、「冷汗、油汗」、「血を吐き骨を削る苦労」、「責任の重大さに天を仰ぐ」等などと記されているという。
それだけに湖底が、新生の大地に生まれ変わった当初、干拓工事に携わった全ての人々は万感迫るものがあったに違いない。
オランダのヤンセン博士は、日本の技術陣の能力を誉め上げている。
「日本の土木技術の質の良さは、高額の費用を払って私を招く必要はなかった程である。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない」といったという。
この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れないとも言われる。
次回は、「能代」です。
.【小生の主な旅のリンク集】
《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ
《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)
【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観
ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002
【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
登録:
投稿 (Atom)
01.
15.