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日本周遊紀行(69)高知 「いごっそう・龍馬」 ,
写真:土佐の高知の「桂浜」
桂浜から大洋を見据える「坂本竜馬像」
“いごっそう” 土佐の龍馬は、政治家より経済人を夢見ていた・・! 、
一旦、はりまや橋の大交差点に戻り、今度は右折して県道34号線を、やや浦戸湾に沿いながら「桂浜」へ向かう。途中、「横浜」という地名に出会った。 神奈川に住む小生にとっては懐かしい名前である。
思えば、東日本を周遊している時、青森の下北半島の付け根部分にあたる所に「横浜町」というのが在った、たしか、日本一の菜の花の名所と記憶しているが。 もっとも、横浜という名称はありふれた名で、浜の近辺なら何処にあってもふしぎではないが・・!
横浜から瀬戸の住宅地を抜けると、突然、太平洋へぶち当たった。標識に従って、左折し、清々した海岸を行くと、間もなく高台の曲がりくねった道より大駐車場へ出た。
桂浜の駐車場で近くには、土産、物産の販売所がある。
本日、土曜日であるが、朝まだ早いことから車や人影は殆ど無い。岬の先端の石段を下ると、箱庭のような桂浜の風景が目の前に広がった、土佐を代表する名勝・「桂浜」である。
大海原と青くこんもり突き出た岬(上龍頭岬)との配置景観が実に良く、ハートに響く・・!、満月の夜景を想像しながら「月の名所は桂浜・・」に納得である。
砂浜に整備された遊歩道をゆく、高台の竜頭岬には土佐を代表する志士「坂本龍馬像」が遥か太平洋を望んで、堂々と建つ。
1866年(慶応2)、京都・薩摩藩邸、奥座敷の一室に長州藩代表の桂小五郎(木戸孝允)が控える。 別室に薩摩藩代表小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が着座して居る。 竜馬が駆け込んで、西郷に向かって「おはん等、未だ思案しちょるんか、くだらん意地でこの同盟を、この日本を、だめにしてしまうんか・・!!」 大きな目を正視していた西郷は、一時して「分かりもした・・」と言って立ち上がり、別室の桂に歩み寄り、深く頭をたれて「よろしゅう、おたの申す・・」と、遂に、ここに坂本竜馬の努力によって薩長同盟が結ばれ、これが歴史の流れの大きな分岐点となり、倒幕・維新革命への大きな流れを起こすことになる。
後に竜馬は、西郷のことを「西郷は馬鹿だ!!しかし、馬鹿さの幅が分からない、小さく叩けば小さく響く。大きく叩けば大きく響く・・」と言わしめた。
坂本龍馬は、高知の城下町に住む郷土(※1)の次男として生まれ(1835年)ている。 青年時代江戸に出、千葉道場(千葉周作)で北辰一刀流を学んだ剣士でもある。
武市半平太(瑞山)卒いる土佐勤王党(※2)に参加し後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し又、長州・木戸孝允、薩摩・西郷隆盛を説いて、慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させる。
龍馬は、この薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古(天皇制)を考え、土佐藩の参政、後の藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。
主君・山内容堂(15代土佐藩主)は、後藤の提案を受け入れて慶応3年将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。 将軍も時勢を察し、京・二条城において、政権返上を朝廷に上奏した。
龍馬は、これを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町「近江屋」で幕府方の刺客に襲われ、同志・中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。
時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。
海援隊を組織し、海事貿易も行っていた竜馬が、もし殺されずに明治時代を生き抜いていたら、岩崎のかわりに坂本家が日本一の財閥になっていたのでは・・?とも云われる。
元々、竜馬は国内の政治家としての立身は望んでいないようで、ゆくゆくは外国貿易に見え置き経済人として望みがあったともいわれる。
それが大洋(外国、太平洋の先にはアメリカがある)に目を向けて建つ「竜馬像」の姿であり、志であった。
※1 長宗我部時代、一領具足という半農半士の制度を制定する。このことが上下関係のない自由で闊達な土佐人を生んだ。山内一豊が入府してからは、山内侍(上士)と旧士との間に区分が生まれ、旧士は上士に差別され、侮蔑され、馬鹿にされた。 そのうっ憤は、自然と文武両道の錬磨に打ち込み、旧士達は長年の間に土佐の反骨精神を高め、幕末維新の立役者となる原動力を身に付けたのであった。一般に土着の長宗我部時代の遺臣を郷士と称している。
※2 一藩勤王を唱え、攘夷に立ち上がるため、武市半平太(瑞山)が文久元年(1860年)8月に結成した結社。 坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。そのメンバーのほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されている。武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は土佐勤王党の四天王といわれた。
『 みよやみよ みな月のみの 桂浜
海のおもより いづる月かげ 』
土佐出身の大町桂月が詠う。
裏山の浦戸城趾は戦国の昔、長宗我部元親の居城として四国統一の中心となったところである。また、山頂には国民宿舎桂浜荘、坂本龍馬記念館がある。
桂浜を望む龍頭岬の北側対岸は、浦戸湾口を跨ぐ巨大な浦戸大橋で結ばれ、種崎の岬に到っている。
歌でも知られる「浦戸湾」は、入江状になって高知港を形成している天然の良港であるが、現在の浦戸湾は広範囲に埋め立てられ、かなり縮小しているといわれる。 だが、昔は高知の市街地を含んだ広大な湾域であり、流入河川も多く半汽水湖を形成して、魚の種類も多かったという。
「よさこい節」に言われる・・、
『 言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
潮吹く魚が泳ぎより 』
回遊する土佐湾名物の鯨が浦戸湾に入り込んできて、暫しの休息をしながら,多くの餌魚を漁っていた、こんな風景は、まんざら作り話しでもなさそうである。
次回は、宇佐、「横浪の道」
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2011年1月25日火曜日
2011年1月24日月曜日
日本周遊紀行(69)高知 「山内一豊と千代」
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日本周遊紀行(69)高知 「山内一豊と千代」 、
山内一豊の妻 千代は、土佐・「はちきん」の起源になっている・・? 、
戦国期、土佐及び四国一帯を治めていた長宗我部氏の居城は、現在の桂浜に沿った高台にあたる「浦戸城」であった。
往時は、ここが土佐の中心であり、地元で四国土佐の人物はといえば坂本龍馬を指すと思うが、地元の人は、実は「長宗我部元親」(ちょうそかべ もとちか)を指す場合が多いと言う。(理由は後ほど・・、)
長曽我部氏は、泰氏の後裔と称している。秦氏の一族でとりわけ著名な秦河勝は、聖徳太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国を賜っている、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。
平安末期の「保元の乱」、更には、鎌倉初期に起った「承久の乱」に、幕府方に味方した信濃の秦氏の子孫・秦能俊がその功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説が有力とされる。
長宗我部氏の初代とされる秦能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは長岡郡宗部郷(宗我部郷)であり、能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、長岡郡の一字をとって「長宗我部」と名乗ったという。
長宗我部能俊の子孫は、官領・細川氏(土佐の荘園主)の庇護のもとに次第に勢力を拡大、戦国時代には大雄・長宗我部元親を輩出する。
元親は土佐を統一し、勢いで四国制覇を成し遂げる。 しかし、中央で制覇を確実なものとした秀吉や家康に刃向かったため、次第に没落していく。
江戸期には、新興の山内武士団により圧迫されながらも、長宗我部の残存武士団は一領具足という半農民などに身分を変え、後に郷士となって幕末に坂本竜馬などの志士を生み、明治の革命を起こす原動力にもなる。 このあたりが歴史の妙味でもあるが。
関が原の合戦後、長宗我部氏に代わり徳川家康によって土佐一国を拝領したのは山内一豊であり、遠州・掛川からの移封し、1601年(慶長6年)に土佐へ入国した。
初め浦戸城入城であったが1603年、新城の普請工事を突貫で挙行、領民を総動員してこれに当たらせ、完成したのが現在の高知城である。
高知城は掛川城にそっくりだといわれる。
一豊が掛川城から高知へうつり、城を築くときに「掛川のとおりに築城せよ・・!」と命を下した。 現在のお城は、宝暦3年(1753年)に創建当時の姿のまま再建され、250年後の今日まで本物の城の持つ偉容を保ち、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿を残している。
山内一豊は戦国期の武将で、織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えている。
小田原の役の後、遠州掛川6万石となり、関ヶ原合戦では徳川家康につき、土佐24万石を拝領している。
妻の内助の功により、駿馬を買って信長の好意を得、出世する話は有名である。 その内助で知られる妻・千代ではある。
戦国時代の女性は「主人の無事を祈り、家を守る」という重大使命があり、特に重職にある妻は「陰の参謀」とまで言われ、これが夫の出世に多大な影響を及ぼしているのである。
山内一豊は案外、真面目で凡庸な武士であったらしく、妻・千代の陰の力、思考力、洞察力、行動力が有ってこそ、一豊を大名たらしめたともいわれる。
裁縫が得意な千代は、小袖を仕立てて秀吉に献上した。 所謂、小袖外交もその1つであるが、関が原合戦の直前、秀吉子飼の大名が西に付くか東に付くか思案している時、妻・千代は書簡を夫・一豊に送り、更に一豊は家康に差し出して、家康側(東側)に付くことを宣言する。 秀吉子飼の大名達もこれに倣ったという。
合戦後、家康は「この度の合戦の功は、第一に一豊にあり・・!」と評されて、土佐一国を賜ることになるのである。
無論、妻の陰の力と愛があったわけで、家康も当然承知していたのであった。
高知の女性を称えるのに「はちきん」という言葉があるという。
男勝りに働く女性を意味する言葉で、俗っぽい言い方をすれば、「 男には弐金付いていて、4人で八金である」。 つまり、「はちきん」というのは男4人分の仕事をする女性を表す。 この女性のはしりが「一豊の妻・千代」であると言われる。
ところで、山内一豊の妻 千代は、「千代紙」の名前の起源になっていることは、その真偽はともかく余り知られてない。
一豊が未だ50石どりの貧乏小武士だったころ、千代は不要になった小袖を切り込み、四角い破切れにして縫い合わせ、継ぎ接ぎ小袖として着用していた。 周囲の女どもは、始め妙に眺めていたが、意外とそれが洒落てて見た目も綺麗に映った。
その内評判になり、やがて秀吉の妻・ねねや信長の妹・お市の方、そして秀吉自身にも創作、縫い合わせして進呈したというが・・?。
この歯切れの形や色柄(今で言うパッチワーク)が、和紙にも普及し、これがやがて千代の名を付けて「千代紙」になったという。
因みに、「千代紙」と「色紙」について、
分類すると千代紙は和紙、色紙は洋紙である。 日本古来の紙はむろん和紙であり、「千代紙」の折り紙は日本の伝統技術であり、千代紙自体、日本の伝統的な図柄として和服にも使われる事が多かった。
洋紙が導入されるに及んで、和紙では比較的高価であり、厚薄の不揃いで折り目がつきにくい理由て次第に、単色の洋紙の「色紙」、折り紙が普及していったという。
風合いを楽しむ和紙・千代紙は障子紙や「色紙・しきし」等に使われている。
因みに、和紙の効用として、埃を吸い取る(微小な隙間が、微弱電気を帯びてプラスのほこりを吸い取る)、湿度を調節する、臭いを吸着する、UV (紫外線)をカットする、目に優しい、和紙の服はいい、和紙の寝具等々・・。
起源としては他に有力なのが京都で、千代紙のことを「京紙」とも称し、京都の伏見宮あるいは閑院宮の千代姫が愛好されたので名付けたという説もある。信憑性についてはどちらでもよいが、一豊の妻の「千代紙」が納得性があるかもしれない・・?
2006年、NHK大河ドラマ、司馬遼太郎原作の「功名が辻」・「山内一豊の妻」が放映された。
主人公・千代は、夫の立身出世を支えた「内助の功」の人物として有名。一豊が織田信長に仕えていた頃に、嫁入り支度のお金で夫のために馬を購入。心を込めて手入れをしたその馬が信長の目に留まり、夫の出世を助けたエピソードで知られている。
千代に仲間由紀恵、一豊に上川隆也。
一豊の家臣に武田鉄也演ずる「五藤吉兵衛」がいる。 先代から一豊のいわば守役として幼い時から仕え、放浪時代にもつき従ってきた。
賤ヶ岳(秀吉と柴田勝家)の合戦直前、伊勢亀山城攻めの際、主・一豊に手柄をとらせようと奮闘、壮絶な最期を遂げる。
この吉兵衛の子孫が高知市内に在住で、古風格な居を構え現在、高知城近くで本屋を営んでいる、と噂できいたが・・?。
次回は、土佐の“いごっそう”・龍馬
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山内一豊の妻 千代は、土佐・「はちきん」の起源になっている・・? 、
戦国期、土佐及び四国一帯を治めていた長宗我部氏の居城は、現在の桂浜に沿った高台にあたる「浦戸城」であった。
往時は、ここが土佐の中心であり、地元で四国土佐の人物はといえば坂本龍馬を指すと思うが、地元の人は、実は「長宗我部元親」(ちょうそかべ もとちか)を指す場合が多いと言う。(理由は後ほど・・、)
長曽我部氏は、泰氏の後裔と称している。秦氏の一族でとりわけ著名な秦河勝は、聖徳太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国を賜っている、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。
平安末期の「保元の乱」、更には、鎌倉初期に起った「承久の乱」に、幕府方に味方した信濃の秦氏の子孫・秦能俊がその功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説が有力とされる。
長宗我部氏の初代とされる秦能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは長岡郡宗部郷(宗我部郷)であり、能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、長岡郡の一字をとって「長宗我部」と名乗ったという。
長宗我部能俊の子孫は、官領・細川氏(土佐の荘園主)の庇護のもとに次第に勢力を拡大、戦国時代には大雄・長宗我部元親を輩出する。
元親は土佐を統一し、勢いで四国制覇を成し遂げる。 しかし、中央で制覇を確実なものとした秀吉や家康に刃向かったため、次第に没落していく。
江戸期には、新興の山内武士団により圧迫されながらも、長宗我部の残存武士団は一領具足という半農民などに身分を変え、後に郷士となって幕末に坂本竜馬などの志士を生み、明治の革命を起こす原動力にもなる。 このあたりが歴史の妙味でもあるが。
関が原の合戦後、長宗我部氏に代わり徳川家康によって土佐一国を拝領したのは山内一豊であり、遠州・掛川からの移封し、1601年(慶長6年)に土佐へ入国した。
初め浦戸城入城であったが1603年、新城の普請工事を突貫で挙行、領民を総動員してこれに当たらせ、完成したのが現在の高知城である。
高知城は掛川城にそっくりだといわれる。
一豊が掛川城から高知へうつり、城を築くときに「掛川のとおりに築城せよ・・!」と命を下した。 現在のお城は、宝暦3年(1753年)に創建当時の姿のまま再建され、250年後の今日まで本物の城の持つ偉容を保ち、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿を残している。
山内一豊は戦国期の武将で、織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えている。
小田原の役の後、遠州掛川6万石となり、関ヶ原合戦では徳川家康につき、土佐24万石を拝領している。
妻の内助の功により、駿馬を買って信長の好意を得、出世する話は有名である。 その内助で知られる妻・千代ではある。
戦国時代の女性は「主人の無事を祈り、家を守る」という重大使命があり、特に重職にある妻は「陰の参謀」とまで言われ、これが夫の出世に多大な影響を及ぼしているのである。
山内一豊は案外、真面目で凡庸な武士であったらしく、妻・千代の陰の力、思考力、洞察力、行動力が有ってこそ、一豊を大名たらしめたともいわれる。
裁縫が得意な千代は、小袖を仕立てて秀吉に献上した。 所謂、小袖外交もその1つであるが、関が原合戦の直前、秀吉子飼の大名が西に付くか東に付くか思案している時、妻・千代は書簡を夫・一豊に送り、更に一豊は家康に差し出して、家康側(東側)に付くことを宣言する。 秀吉子飼の大名達もこれに倣ったという。
合戦後、家康は「この度の合戦の功は、第一に一豊にあり・・!」と評されて、土佐一国を賜ることになるのである。
無論、妻の陰の力と愛があったわけで、家康も当然承知していたのであった。
高知の女性を称えるのに「はちきん」という言葉があるという。
男勝りに働く女性を意味する言葉で、俗っぽい言い方をすれば、「 男には弐金付いていて、4人で八金である」。 つまり、「はちきん」というのは男4人分の仕事をする女性を表す。 この女性のはしりが「一豊の妻・千代」であると言われる。
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一豊が未だ50石どりの貧乏小武士だったころ、千代は不要になった小袖を切り込み、四角い破切れにして縫い合わせ、継ぎ接ぎ小袖として着用していた。 周囲の女どもは、始め妙に眺めていたが、意外とそれが洒落てて見た目も綺麗に映った。
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因みに、「千代紙」と「色紙」について、
分類すると千代紙は和紙、色紙は洋紙である。 日本古来の紙はむろん和紙であり、「千代紙」の折り紙は日本の伝統技術であり、千代紙自体、日本の伝統的な図柄として和服にも使われる事が多かった。
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