最上川河口に在する「山居倉庫」:瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群は日本有数の米どころ庄内地方を象徴し、今も現役で活躍している。
日本周遊紀行(18)酒田 「最上川とおしん」
秋候の時期、小生達も数年前「最上峡芭蕉ライン舟下り」を楽しんだ。
戸沢村古口(往時の戸沢藩の船着場)から、舟下り終点・最上川リバーポートまで、最上川の流れに身をまかせ、船上からの景色を楽しみながら、雄大な自然の中を船頭の「最上川舟唄」を聞きながら、ゆっくりと下る。
特に、最上峡の右手の赤の鳥居と緑の木立に見え隠れしながら、最上川に落ちる一筋の滝が、白糸のように流れ落ちるのが印象的であったのを覚えている。
芭蕉もこの光景を舟の中から眺めたのであろう。
白糸の滝の側に戸川神社「仙人堂」がある。
その由来書によれば、仙人堂は、源義経の奥州下りの折り、従者の常陸坊海尊(ひたちぼう・かいそん)が建立したとつたえられる。
その時、傷を負っていた海尊は足手まといになるので、この地で義経と別れ終生この山に籠もり修験道の奥義をきわめ、ついに仙人となったと言われている。
祭神は日本武尊で「最上の五明神」の一つとされ農業、航海安全の神として信仰されているとある。
義経はこの地を訪ねたとき、以下のような和歌を残している。
『 最上川 瀬々の白浪 月さへて 夜おもしろき 白糸の滝 』
さて、最上川といえば近年TVであのシーンを思い起こすのである。
NHK連続テレビ小説(昭58年)、一時は60%を超す驚異的な高視聴率を記録した橋田寿賀子原作「おしん」の故郷は山形県で、(山形県出身の実在のモデルもいる)ロケも実際に県内で行われ、おしん生家の藁葺き民家も今も崩れかけてはいるが、中山町の廃村、岩谷地区に残っていると。
明治34年(1901年)「おしん」は、山形県最上川上流の寒村、貧乏小作の子だくさん農家に生まれ、数え年7歳の春、本来なら学校にあがる年に口減らし(家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数をへらすこと)のため一俵の米と引き換えに奉公に出される。
最初、生家での貧困生活から始まり、奉公先である最上川下流の酒田の材木問屋での辛抱生活が続く。 そして上京、髪結い修行ののち結婚し、関東大震災をきっかけに夫の故郷である佐賀へと舞台が移っていく。
おしん役は小林綾子、田中裕子、乙羽信子と三人が演じ分けたが、特に、おしんの子供時代を演じた小林綾子が注目を集め、幼くして奉公に出された「おしん」が、歯を食いしばりながら苦難に耐えていく姿は、全国に涙を誘い、国内のみならず、中国や東南アジア、中南米、中東でも放送された。
なぜ、「おしん」は、こんなに人々の心をとらえ、人気を集めたのか・・?。
それは、明治・大正・昭和、おしんが生きた八十年余の日本の庶民史を踏まえながら、単なる辛抱物語としてではなく「人間として、どう生きるべきか」という命題を問うていたのである。
因みに、「おしん」のTV放送は世界各地でも放送され、その数何と60数カ国で放映されたという。これは実に世界人口の凡そ3割弱の人々が観たことになるらしい。
しかも、その視聴率は国内では60%を越えたということは知られているが、著名な国では60、70は当たり前でポーランドでは80%を越えたとも言われている。
まさにマンモス・ドラマであった。
庄内の穀倉地帯を山形県内だけ悠然と流れる「最上川」、その河口に有るのが酒田である。
古来より最上川を経由する、陸と海の拠点で、最上川のすぐ横の支流に新井田川が流れている、渡ってすぐ左の中洲に山居(さんきょ)倉庫があった。
「山居倉庫」・・、瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群で、日本有数の米どころ庄内地方の象徴として、今も現役で活躍している。
倉庫は明治26年、酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩主酒井家によって建てられた、いわば、官営の大倉庫であった。 庄内藩により厳しく管理され、倉庫の前には船着場があり、舟で最上川、新井田川から庄内米が次々と運ばれた。
最盛期には15棟在ったが現在は12棟、周囲には数十本のケヤキの大木が繁り、これが、夏は涼しく冬は暖い保温の効果をしているという、内部は真夏でも18~20度のみごとな低温倉庫になっているとか。
保管物は主に庄内米、1棟で1200トン、2万表の米が保管されていたという。
今では減反で米が減少、地酒や大豆も保管されている。 酒田市の歴史を伝える、史跡の一つで、酒田の観光名所にもなっている。
酒田は、古代、「袖の浦」と呼ばれ、この地には平安期、朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡(きのわのさくあと:最上川の下流、城輪・きのわ地区にあり、今から1200年くらい前に東北地方を治めるために建てられた役所のあとと考えられてる)があるように、地域の歴史は古い。
以降、奥州藤原氏の家臣36人が最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し造ったといわれる。
平安末期の平泉政権・奥州藤原清衡が、平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。
当時、上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊へ運ばれ、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。
後に、頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守る為に、36人の遺臣がこの地に落ち延びた。
その後、遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。 現在三十六人衆の中で、平泉からの遺臣達で家が残っているのは、粕谷という姓(酒田市史)と見られている。
江戸初期、西回り航路(関西方面)が開かれると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、太平洋側の石巻と並び奥州屈指の港町として発展した。
酒田の有力商人からなる36人衆と呼ばれる集団は、北方海運の廻船業を主に、蔵米の諸払いや、材木輸送を行う豪商であると共に、彼らが酒田の自治組織の中心でもあった。
江戸初期、天和年間(1681~84)の記録では入港船数は春から秋口までに2,500~3,000艘もあり、月平均では315~375艘もの船が停泊していたことになるという。
中でも・・、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた本間家は、戦後の農地改革まで日本一の地主だった。
集積した土地約3,000町歩、小作人2,700人といわれ、日本一の大地主の名を馳せていた。江戸時代は藩主への多額の財政援助により500石取りの士分を許されていて、酒田にとっては本間家無しでは語れないほど貢献の数々を行っているという。
酒田は特に関西の京、大阪とは頻繁に交易が行はれ、上方の文化を取り入れた独自の経済、文化を築いている。 酒田の言葉は、今でも京言葉に似ていると言われる。
あのテレビの「おしん」もここから出世していった。
『最上川舟歌』 山形県民謡
ええや えんやえ~ えんや え~と
よいさのまかせ えんやら まかせ
「酒田さ行(え)ぐわげ 達者(まめ)でろちゃ」
よいしょ こらさのさ
「はやり風邪など ひがねよに」
え~や~え~や~え~ えんや~ え~と
あの娘(こ)のためだ
なんぼとっても たんとたんと
えんや~ え~と えんや~ え~と
よいさのまかせ えんやこら まかせ
よいさのまかせ えんやこら まかせ
次回は秋田県・「象潟」
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2009年11月12日木曜日
2009年11月11日水曜日
日本周遊紀行 北海道・「追悼・森繁久弥氏」(2)(特別寄稿)
写真:森繁久弥氏像と「知床旅情」に歌碑が立つ羅臼:「しおかぜ公園」
日本周遊紀行 北海道・「追悼・森繁久弥氏」(2)
羅臼の町の国道から半島沿いの東海岸・道道87号線を行くと、すぐ右側沿いに在るのが「しおかぜ公園」である。
高台にあるので幅広い羅臼漁港の岸壁や最北の太平洋そして、あの「北方四島」の一つ・国後島(くなしりとう)を望むことができる。
羅臼は、森繁久弥氏と「知床旅情」に縁があることは知る人ぞ知る地であろう。
ここの公園は映画『地の涯てに生きるもの』のロケ地で、森繁久弥氏がモデルになった「オホーツク老人」の碑が立っている。
又、同遠地内には森繁久弥氏が作詞、作曲した「知床旅情」の歌碑が立つ。
「知床の岬に はまなすの咲く頃・・・」
から始まるあの歌詞であり、あの有名な昭和の名曲『知床旅情』の出だしでもある。
このことは作家・戸川幸夫が、1959年から知床を訪れたことに始まるという。
戸川氏は昭和期の小説家で、特に、動物を主人公とした「動物文学」、「動物小説」というジャンルを確立させ、動物に関しては正しい観察、知識を元に物語を書いていた。
その知床の旅の道中に立ち寄った番屋で、漁師から聞いた話をもとに書いた小説が、「オホーツク老人」であった。
その小説が発表された後すぐ、これを映画化しようと考えたのが森繁久彌(もりしげひさや)氏自身であったという。
映画のタイトルは「地の涯に生きるもの」で、主人公の老人役を森繁が演じ、しかも知床としては初めての映画ロケということもあって、羅臼は村(現在の羅臼町)をあげて、大々的に歓迎し、村長も全面協力を申し出たという。
そして、村人もエキストラとして多数参加し、村の人たちとも交流の機会も沢山あったようである。
これらに感激して別れの時に作ったのが「知床旅情」のはじまりで、当時は、「サラバ羅臼」という題名であったという。
そして別れに際し、見送りの村民と歌の大合唱となり、感動的フィナーレを迎えたという。
その後、「知床旅情」が広まっていくのである・・が、
10年後、加藤登紀子氏が「知床旅情」を歌ったは周知であり、これが爆発的な人気を呼び、これが引き金となって知床観光ブームへと繋がっていったといわれる。
その後も、石原裕次郎、美空ひばりなど多くの歌手たちに歌われた。
「知床旅情」の発祥地とでもいうべき場所が、羅臼町市街地に近い「しおかぜ公園」であり、歌碑や、森繁氏そっくりの「オホーツク老人の銅像」が立っている。
『知床旅情』が巷で歌われた当時の世相は、「ディスカバー・ジャパン」という旅行会社のキャッチフレーズもあって、全国的に旅行熱が高かった時期でもあった。
北海道・知床が特にその風が吹いていたようで、山口百恵の「いい日旅立ち」の曲に乗って、「知床旅情」の唄に引き寄せられるように観光客が訪れたという。
その頃の知床は、人・人・人の山だったといい、景色と言うより、人の後ろ姿を見て歩いた、というエピソードもあるくらいだった・・とか。
「世界遺産」となった今日、第二の知床ブームが押し寄せているというが・・?。
『知床旅情』 作詞・唄 森繁久弥、加藤登紀子
知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるかクナシリに 白夜は明ける
別れの日は来た ラウスの村にも
君は出てゆく 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれ烏(カラス)さん
私を泣かすな 白いかもめよ
御冥福: 森繁久弥氏 (享年・96歳の大往生)
日本周遊紀行 北海道・「追悼・森繁久弥氏」(2)
羅臼の町の国道から半島沿いの東海岸・道道87号線を行くと、すぐ右側沿いに在るのが「しおかぜ公園」である。
高台にあるので幅広い羅臼漁港の岸壁や最北の太平洋そして、あの「北方四島」の一つ・国後島(くなしりとう)を望むことができる。
羅臼は、森繁久弥氏と「知床旅情」に縁があることは知る人ぞ知る地であろう。
ここの公園は映画『地の涯てに生きるもの』のロケ地で、森繁久弥氏がモデルになった「オホーツク老人」の碑が立っている。
又、同遠地内には森繁久弥氏が作詞、作曲した「知床旅情」の歌碑が立つ。
「知床の岬に はまなすの咲く頃・・・」
から始まるあの歌詞であり、あの有名な昭和の名曲『知床旅情』の出だしでもある。
このことは作家・戸川幸夫が、1959年から知床を訪れたことに始まるという。
戸川氏は昭和期の小説家で、特に、動物を主人公とした「動物文学」、「動物小説」というジャンルを確立させ、動物に関しては正しい観察、知識を元に物語を書いていた。
その知床の旅の道中に立ち寄った番屋で、漁師から聞いた話をもとに書いた小説が、「オホーツク老人」であった。
その小説が発表された後すぐ、これを映画化しようと考えたのが森繁久彌(もりしげひさや)氏自身であったという。
映画のタイトルは「地の涯に生きるもの」で、主人公の老人役を森繁が演じ、しかも知床としては初めての映画ロケということもあって、羅臼は村(現在の羅臼町)をあげて、大々的に歓迎し、村長も全面協力を申し出たという。
そして、村人もエキストラとして多数参加し、村の人たちとも交流の機会も沢山あったようである。
これらに感激して別れの時に作ったのが「知床旅情」のはじまりで、当時は、「サラバ羅臼」という題名であったという。
そして別れに際し、見送りの村民と歌の大合唱となり、感動的フィナーレを迎えたという。
その後、「知床旅情」が広まっていくのである・・が、
10年後、加藤登紀子氏が「知床旅情」を歌ったは周知であり、これが爆発的な人気を呼び、これが引き金となって知床観光ブームへと繋がっていったといわれる。
その後も、石原裕次郎、美空ひばりなど多くの歌手たちに歌われた。
「知床旅情」の発祥地とでもいうべき場所が、羅臼町市街地に近い「しおかぜ公園」であり、歌碑や、森繁氏そっくりの「オホーツク老人の銅像」が立っている。
『知床旅情』が巷で歌われた当時の世相は、「ディスカバー・ジャパン」という旅行会社のキャッチフレーズもあって、全国的に旅行熱が高かった時期でもあった。
北海道・知床が特にその風が吹いていたようで、山口百恵の「いい日旅立ち」の曲に乗って、「知床旅情」の唄に引き寄せられるように観光客が訪れたという。
その頃の知床は、人・人・人の山だったといい、景色と言うより、人の後ろ姿を見て歩いた、というエピソードもあるくらいだった・・とか。
「世界遺産」となった今日、第二の知床ブームが押し寄せているというが・・?。
『知床旅情』 作詞・唄 森繁久弥、加藤登紀子
知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるかクナシリに 白夜は明ける
別れの日は来た ラウスの村にも
君は出てゆく 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれ烏(カラス)さん
私を泣かすな 白いかもめよ
御冥福: 森繁久弥氏 (享年・96歳の大往生)
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