google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。

2009年11月11日水曜日

日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」 (特別投稿)


写真:北海道最北の地・「サロベツ原野」に立つ森繁久弥氏の句碑


日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」
 


天塩町から道道106号線に入ると、しばらくは日本海へ注ぐ天塩川の左岸を走り、日本海とは微妙に距離を置いたところを北上する。

天塩川は、日本海と並行しながら延々と南下するように流れていて、そして天塩町の北端でやっと日本海へ流れ込むのである。 この河は北方の幌延町辺りで日本海へ向っているのだが、直前まで来て砂丘に阻まれ、今度は海岸線沿いを 凡そ10km も南下するためである。

その天塩川が南下しているところを、道道106号線が並行して北上しているのである。 
北海道・北端の地へ至る最後の道であり、道としての最後の導(しるべ)でもある。 5km ほど北上したところで道は左へカーブし、天塩川を渡る。 満々と水を湛えた川は全くの自然のままで、いかにも大自然の北海道をイメージさせるのに充分である。

天塩川と日本海を分け隔てている浜砂丘へと「天塩河口大橋」」を渡る、ここからは左手には「利尻富士」が見え隠れしている。 
ひたすら日本海沿いを北上することになるが、道道106号線の第一幕は、天塩川を渡って浜砂丘へ出ると遠くに見えてくる有名な風車である。 

色々なCMや広告写真などで使われているらしいが、日本とは思えない雄大な風景の中に溶け込むように在るのが風車の列である。 
又、ここが道道と天塩川とが並行してきた最後の地点でもあり、離れる場所でもあるのだが。
風車の数は 29基あまりあって、横一列に日本海に向けて立っている。
東北の北部地方あたりから、あちこち風車のある景色は拝見しているが、ここほど圧倒的な風車の景色はなかったように思う。 
このあたりは見る目にも風が強い地域であることが想像でき、環境に優しい自然エネルギーは北海道の風景にもぴったりである。

その風車の列を過ぎると、いよいよ「サロベツ原野」へ入る。
原野は、余りにも広大な為か南側を下サロベツ原野、北側を上サロベツ原野と称しているらしい。
道は、北への真っ直ぐな道が淡々と進む、本当に「ひたすら」という言葉が似合うほどに続く。 しかも、対向車には殆ど会うこともなく、どこまで続くのだろう、と思うくらいに続く。
左右は、サロベツ原野とは言うけれど、ウネリのような低い丘陵地が続いているようであり、時節柄、枯れた色合いが、その寂寥感に輪をかける。 しかしながら道路は全くの平坦で、直線が無限の彼方まで延びて姿を消しているのである。

周囲は丘陵地から次第に原野らしく平原の様相になってきて、左に時折、真っ青な北の海が見渡せる。 
地図を見ると道路はいかにも海岸、波打ち際を走っているように思われるが、実は7~80m陸側に位置していて、その間は同様に原野になっているのである。 
草原の所謂、枯れ草文様の中に緑の縞模様が見られ、次第に原生花園・原生湿原と言われる様態に変化してきているようだ。


「サロベツ原生花園」と青海に幽かに浮かぶ山・「利尻岳」の三角錐の姿を眺めながらの快適なドライブウェイは続く。 
定規を当てた様な真っ直ぐに延びた一本の道、思わず踏むアクセルに力が入るが、スピードに乗って通り過ぎてしまうにはにはもったいない程の景観が連続している。

「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の広く爽やかな風景を存分に味わいたい・・!!。 
北海道の北の果ての短い夏はすでに終わり、すでに晩秋の気配が漂よい、緑の湿原は褐色の大地に変わっていたが、しかし青い海、澄んだ空は変わることがない。


間もなくサロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た。 道道:稚内天塩線の唯一のパーキングであり、ここで一息入れ、散策を楽しむ。
「こうほねの家」という木造の洒落た休憩施設があった。 屋上からは、日本海にそびえ立つ利尻富士が見られ、美しい夕日も見られる絶好のビューポイントでもある。

「こうほね」という妙な名であるが・・?、
小屋の裏に広がる池塘に浮かぶ水生植物の名前のことで、その名をこうほね・河骨と称する。 睡蓮(すいれん)科の一種で、可憐な黄色い花を付ける。 
川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨と称しているようである。
河骨の根茎は「川骨(せんこつ)」の名で漢方薬としてよく用いられ、二つ割りにして干して、止血剤や浄血剤、強壮剤として使われるという。

処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。 
「 ハマナスの花の色は北へ来るほど赤味が増す 」といわれる。

森繁久弥氏も映画ロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであるった。

『 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの
            砂丘の涯の 海に立つ富士
 』

「富士」とは、無論、利尻富士のことである。

ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたるらしい。 
又、この地は大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか。 
森繁久弥は、この原野でどのような題材の映画をロケしたのか定かでない。 もしかしたら、映画のロケではなく周遊に来ていたのかもしれない。
いずれにしても、このサロベツ原野の美観溢れる絶景の地に到って肝を奪われ、思わず一句ひねったのかもしれない。

サロベツ原野、特にここの湿原地帯は日本低地における代表的な湿原といわれ、高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く咲き誇り、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が、季節を華やかに咲き競うという。  
そこに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物群が100種類以上も植生しているといわれる。

気がつくと道標に「稚内26km」とあった。
北端の地の稚内や宗谷岬へはあと一息である。

引き続き、「追悼・森繁久弥」氏 


.

日本周遊紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」


三山神社の一角に立つ芭蕉碑


日本周遊紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」




芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、江戸を発ったのが元禄2年(1689)3月27日であった。これは旧暦の日付で現在の陽暦では5月16日に当る。  



奥の細道の有名な冒頭の一文 ・・、

『 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛け置く・・、 』

芭蕉の出だしの第一句に



 『 ゆく春や 鳥なき魚の 目はなみだ 』

と江戸・千住大橋ぎわで詠んでいる、長道中の覚悟の一句が見てとれるという。

俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、「出羽三山」への前に最上川を船で下っている。

元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は新庄市の本合海(もとあいかい)から立川町清川(現、庄内町)まで舟で長道中の水上を下った。 

文中に・・、

『 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。 ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 』
といっている。 
そして船中で・・、



 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』

と余りにも有名な一句よ詠んでいる。 
他に・・、



 『 暑き日を 海に入れたり 最上川 』

と合わせて詠んでいる。

激流の最上川の景を楽しみながら、一転して天台宗修験道の霊山霊地としての出羽三山の山域に入山したのは、6月初旬(陽暦7月下旬)であった。 芭蕉は出羽三山、鶴岡に概ね10日間滞在している。 
先ず・・、



 『 雲の峰 幾つ崩れて 月の山 』

と月山を詠み、月山の山小屋に一泊している。 

湯殿山では行者の作法として、山中の出来事などの他言を禁じていることに発想を置き、



 『 語られぬ  湯殿にぬらす 袂(タモト)かな 』

の句を読んでいる。 

芭蕉らは羽黒山の中腹にある南谷(みなみだに)の別院に宿をとり、南谷に6泊し、6月10日(陽暦7月26日)に酒田に赴くまでの7泊8日を出羽の霊山で過ごしている。 

その羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山には中腹に湯殿山神社と夫々祭神が鎮座しているが、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して三神合祭殿と称されて、その本坊において俳諧興業を行い、芭蕉は



 『 有難や 雪をかをらす 南谷 』

の句を詠んでいる。

句は「このお山は晩夏の6月というのに山肌にはまだ雪を残していて、それが南風にのって薫るかと思われるほどであり、ありがたいことだ」というほどの意味という。 
南谷の南は「南風」の意があり夏の季語となっている。 
併せて・・、



 『 涼しさや ほの三日月の 羽黒山 』

と詠んでいる。

その後、一行は、羽黒山から鶴岡に向かい酒井14万石の城下町、酒井藩の家臣「長山重行」の家に三泊している。 
重行は、江戸邸に勤めていたころに芭蕉の門人になったといわれ、鶴岡駅前の市街地の中、現在ではその邸跡だけが残っており、その一角にこの地で詠んだ四吟歌仙(芭蕉・重行・曾良・呂丸)での芭蕉の発句の碑が立っている。



 『 めづらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび) 』

「山をいで羽」は、出羽を意味する。

専門家によれば、芭蕉はこの羽黒山、月山、湯殿山の修行(登山)で、不易流行(※)を打ち立て、句風が変わったという。
 
※「不易流行」とは、芭蕉が提唱した俳諧理念・哲学の一つ。

「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神、「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するという意味。相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考えである。

湯殿山神社の左手に、曽良と芭蕉の句碑が建つ。

次回は、「酒田」




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