白馬村から白馬三山(左下にジャンプ台が見える)
日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」
我が第三の故郷になった「白馬村」
白馬村は信州・長野の最北部に位置し、西側山岳部は三千米級の北アルプス北部が連なる。 名峰「白馬岳」の白馬三山、五竜岳、唐松岳などに代表される山並みは、全国から登山者が耐えない。 又、そこから伸びる八方尾根、遠見尾根、岩岳などの山腹には、わが国を代表するスキー場が南北に並ぶ。
その白馬村の中心を、今は副道となった「塩の道」が通っている、昔の国道である。
信州には、塩の道と呼ばれる街道がいくつか存在する。三州街道(伊那街道)とも呼ばれ、三河方面(赤穂事件の吉良家の領)から塩や海産物を信州方面へ運ばれた。又、秋葉街道(南信州街道)は太平洋側の相良から、その名も塩買坂を通って信州へ到った。
そして、こちらは松本から新潟・糸魚川市へ至る凡そ120kmに及ぶ街道で「千国街道」と呼ばれた。松本からは敬意を表して「糸魚川街道」と呼ばれ、越後・糸魚川側からは「松本街道」と呼ばれた・・、これを通称「千国・塩の道」といっている。
日本海側から塩や海産物を海の無い信州に運び入れるために、又、信州側からは麻、タバコ、米など、中世~昭和初期まで主として使われた生活の道である。 こちらの特徴は、大名家などの武家による参勤交代などはなく、庶民によるボッカ(歩荷・人々が歩いて物資を運ぶ)や牛馬が通り、道路は蹄(てい、ひづめ)で踏み固められた生活物資の生活用流通路であった。
又、この街道は、「敵に塩を送った義塩の道」としての逸話が有名で、上杉謙信が敵将・武田信玄に塩を送るために通った道としても知られる。
武田信玄の本拠・甲斐は内陸地で、塩を他国からの輸入に頼っていた。
戦国期は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河の北条・今川義元(氏真)の時代である。 上杉謙信と武田信玄(信州松本は信玄の支配下であった)が川中島で争っている時、同時期、武田は南の海に面した駿河・今川とも衝突してしまう。そのため今川氏真は1567年、甲斐と駿河の国交を断絶し、往来を禁止をしてしまう。氏真は信長に桶狭間で倒された今川義元の子である。
このため駿河・今川から求めていた塩が甲斐に入ってこなくなり、信玄は本当に困り果ててしまう。おまけに氏真は越後の謙信にも謀って、信玄に塩を送らないように依頼する。ところが謙信は「そのこと卑劣なり・・!」と申し出を拒否し、更に戦闘中でもあるライバルにむかって、上杉謙信は「貴公とは弓矢を交えても、塩を絶ってまで甲斐の人々を窮乏に貶めようとは思はない。今後は越後から好きなだけ塩や物資を送るので輸入してほしい」と信玄にしたためたという。
ところで、地形的に信州から甲斐の国は南北に長い。
駿河から甲斐へは富士川を遡ると平坦で短いが、逆に越後から信州松本までは国内でも有数に海から遠い距離にある城下町であり、しかも険しい山中が大部分を占めている。
武士道精神にたった謙信の取り成しに、信玄が感服したのは言うまでもない。信玄公は「我が亡き後、国危うければ越後に託せ、謙信は頼りになる男だ・・!」と言い残している。 実際に、多くの武将は武田家滅亡の後、越後に向かったという。
改めて上杉謙信の偉大さに敬服するのであるが・・、実際、謙信が信玄に塩を送ったという話は歴史的に確証はされていないとも言われるが・・?。
因みに、現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。
ただ元より、信玄がまだ信濃攻略以前の甲斐しか治めていなかった頃は、謙信はライバルとしての意識はしていなかったようである。 謙信が信玄を敵視し始めたのは、信濃の主・村上義清が信玄に敗れて謙信に頼ったときからで、義清が前の領地を取り戻したいという、願いを受け入れて謙信は武田家と戦う意思を固めたのである。このときの最初の戦が「川中島の戦い」で、それから10年ぐらいをかけて信玄とは川中島の戦いを5回も行うことになるが。
この戦いを謙信自身は「義の戦いなり」と称している、つまり、領土的野心のある戦ではなかったのである。ここにも謙信の「人となり」が表れているし、“義の人”のイメージが見えてくるのである。
余計だが、我が別宅はこの白馬「塩の道」に面している。 そして毎年五月の初旬(連休)には、往時を偲んで「塩の道祭り」が行われ、大勢の人が練り歩く、中には当時の服装、仮装をして参加している人もいる。
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2009年10月26日月曜日
2009年10月25日日曜日
日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」
信州・「松本城」
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日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」
西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。
薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。
明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。
ここで「石川数正」について・・
若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。
「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。
徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。
この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。
その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。
石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。
秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。
次回は、安曇野から白馬
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日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」
西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。
薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。
明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。
ここで「石川数正」について・・
若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。
「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。
徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。
この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。
その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。
石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。
秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。
次回は、安曇野から白馬
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