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日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(5) ,
『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂 』 松蔭
松蔭は、萩の獄舎で囚われの身となっているが・・、
「野山獄」は現在の北古萩町、萩城址とJR山陰線の東萩駅を結ぶ主要道路の中間地・本行寺付近に在って、今も「獄舎跡」として記念碑などとともに残されている。
野山獄の向い側には、「岩倉獄」という獄舎もあって同様に獄舎跡があり、隣同士向かい合った二つの獄舎址を目にすることが出来るという。
野山獄・岩倉獄の発祥のいきさつは、江戸・天保年間初期、岩倉という藩士が隣家の藩士である野山宅に酔って押し入り、家族を刀で殺傷する事件が起こった。
この事件で藩士・岩倉は死罪、一方、切り込まれた藩士・野山家も取潰しになってしまい、それ以降この両家の屋敷は萩藩の獄舎になったという。
野山獄は上牢と呼ばれ、藩士、武士の身分の者が入獄する、一方、岩倉獄は下牢と呼ばれ、庶民が入獄するものとされていた。
さて、松蔭とともに密航を計画し、行動をともにした「金子重輔」のことであるが、彼はこの岩倉獄で結核のため病死している、松蔭より1つ年下の享年25歳であった。
金子は松蔭と違って足軽の出であった。 そのため江戸伝馬町の獄でも、“ごろつき”などを主として収容する下級階層の牢獄にいた。
環境はきわめて劣悪で、屈強な金子もさすがにこの環境には勝てず次第に心身が蝕まれ、労咳(結核)におちいった。
しかも、江戸から萩への護送は冬の最中に行はれ、寒風の吹きすさぶ中、更に体調は悪化していった。
松蔭は盛んに金子に気配りをしたが、獄舎の違いもあって充分にその意思は伝わらず、金子は岩倉獄の獄舎で静かに息を引きとったという。
金子は松蔭に、「もう私は永くなく、日本の行く末を見ることは適わんでしょう。だが、先生と渡海を決めた時から命は捨てておりました。今生きているのは“おまけ”のようなものです。後は一目、父母の顔さえ見れれば、全て良しとします。」
松蔭は間際の金子に、釈迦の前世、現世、来世の教えを説いた。
「現世は一瞬である、前世は一瞬の前の長い過去であり、来世は一瞬の後の長い未来である。 現世の永さなど、どれほどのものか・・!、この道理を理解せず、短い苦に耐えかねて永遠の喜びを失う者のいかに多いことか。 君は幸せなり・・!!」、これが師弟の最後の便りとなった。
獄吏のはからいで、金子は父母と「末期の再会」を果たす事ができ、体力の消耗は激しかったが意識は明瞭であったという。
幕末の安政年間、この時期、井伊直弼が大老に就任、開国思想を持つ大老は攘夷派に対して弾圧を始める。
所謂、「安政の大獄」が進行してゆくのである。
大老の懐刀・長野主膳は、松蔭の動きをつぶさに観察している。
松陰は5年前、渡海(未遂)という、死罪に値する国禁違反をおかしたが、「実家で蟄居」という寛刑ですんでいる。 にも拘わらず過激な尊皇思想を説き、御政道に異見をさしはさんでいるとして「吉田松陰は悪謀の働き抜群」と直弼に報告している。
そして、井伊政権は、「吉田松陰、更に御吟味の筋これあり」として、遂に吉田松陰の江戸召喚を決定した。
野山獄にいる松陰に、「江戸移送」の報を最初にもたらしたのは兄・杉梅太郎だった。
この時、松蔭は「拙者このたび、江戸に移送されるとのことで、すでに覚悟を決めております。たとえ一命を捨てても国家のためになるのならば本望というもの。ただ、父上と母上には不孝の限りですが、」と、したため併せて、死を予知していた松蔭は臆することなく遺書を書き始め、それは翌日の暮れにまでおよんだという。
冒頭に・・、
『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂 』
の歌を置き、全編を「留魂録」と命名した。
安政6(1859)年5月14日、松陰を乗せた篭は萩・松本村の杉家を出立した。
萩城から南へ約5キロ、山道に1本の大きな松の木が立っていた。
他国に向かう旅人はここで見えなくなる萩の景色と名残を惜しみ、帰国する人は長い旅の終わりを知る。
いつしかこの木は「涙松」と呼ばれるようになったという。
松陰を乗せた篭がその前を通りすぎようとしたとき、松陰は護送役に声をかけた。「これが萩の見納めじゃ。ちょっと外を見せてはくれまいか」 罪人用の駕籠であるが、護送官は承知して戸を開けた。
「忝(かたじけ)ない、これで大安心」、そして萩の城下町が遠くなっていった。
6月25日、長州藩江戸藩邸に到着している。 直後から尋問がはじまる。
尋問中松蔭は、「私には死罪に値する罪が二つあります。死罪の一つは、藩主・毛利敬親に勤皇策を説こうとしたこと、もう一つは同志とともに京都に上り、朝廷を惑乱していたご老中・間部詮勝(あきかつ)を詰(なじ)ろうとしたこと」、
「しめた!」と尋問者たちは思惑を抱きながら、快哉(かいさい・痛快なこと)を心中で叫んだ。
そして、「そちには国を思う真心がある。しかし、大官であるご老中を斬ろうとした。大胆にもほどがある、覚悟しろ・・、吟味中、伝馬町獄入りを申し付ける・・!」。
暫くして遂に松蔭に「断」が下った。
「不届きにつき打首申し付ける・・!」。
安政6(1859)年10月27日、この日の正午ごろ吉田松陰は江戸・伝馬町獄の刑場で打ち首に処せられた。
享年・若干満29歳であった。
「松陰刑死」の報を聞いたとき高杉晋作は号泣し、「仇討ち」を誓った。
その後、師・松陰と同じように「猛」(たけだけしさ)を発し続けてきた。
元治元年(1864年)、松陰が火をつけた尊皇攘夷の炎は、ここで最初の頂点に達しようとしていた。
藩は、いくつかの小変を経て「幕府と対決してでも京都に上り、尊皇攘夷を実現すべし」という「暴発論」が長州藩の大勢をしめるようになっていった。
京では新撰組が三条の池田屋を急襲し、「武装蜂起を決行しようとした」として斬り殺された尊皇派志士の中に、松陰のまな弟子、吉田稔麿や親友だった宮部鼎蔵がいた。
この事件が引き金となり、長州藩は暴発する。
翌7月、長州軍は三方から京に攻め上がったが、幕府、薩摩、会津の連合軍に撃退される。
所謂、「蛤御門の変」である。
この時から彼らは一つになり、特に晋作は、身分制度を打破した「奇兵隊」を創生し、旧体制に挑んだ。
そしてその後、その推進力によって吉田松陰が夢見た新しい政治体制が確立され、「新しい日本」が誕生するのである。
松陰の一生は、豊作だった。
次回、「松蔭と松下村塾」
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祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
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