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日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎と依田勉三」
伊豆松崎・「道の駅・花の三聖苑」の花時計
石廊崎を後にして再びR136へ出た。
道は一層烈しく曲折登降を繰り返し、妻良、子浦から松崎を目指す。
子浦から伊浜辺りはマーガレットの産地で「マーガレットライン」の愛称がついている。
子浦の町営マーガレット畑を中心に沿道を整備し、この辺りの海岸と合わせて眺望ポイントになっているとか。
今は時期外れで見れないが花の見ごろの3月から4月にかけては一見、キク(マーガレットはキク科の花)の様な白い花を青い空と海をバックに美事に咲かせる。
途中、波勝崎への標識看板を目にしたが、波勝崎は東日本最大の野生のサルの生息地という、波勝崎苑を中心に生息している。
所詮は人間が餌をやって育てているらしく、完全な野猿とは云い難いらしい。
伊豆半島は、「山岳半島」とは前にも記したが・・、
この辺り伊豆西南地域も海から山がそのまま始まる様に、急峻な崖がそそり立ち、絶壁を形造っている。
衝立や屏風のような断崖があるかとおもえば、海食された岩肌は複雑怪奇な岩の洞門や洞窟のような奇岩怪岩を造り上げている。
「海金剛」といわれる波勝崎の奇岩が乱立する海域で、和歌山の紀伊大島の東端にも同名の名所が存在する。
元々は朝鮮半島、海の南北境界38度線近くの北朝鮮の景勝地を海金剛と称していて、名峰金剛山から由来していると想像する。
「赤壁」とは・・、
波勝崎の南、松崎町界近くに、衝立岩「赤壁」がある。
文字通りの赤色の断崖絶壁で、これは、かの中国長江の「赤壁」を準えたものであろう、『三国志』の中の「赤壁の戦い」の古戦場として有名になった赤壁は、後漢末期の208年、曹操と孫権・劉備の連合軍が実際に闘った場所である。
だが、当の赤壁自体はそんなに巨大なものではないようで、どちらかと言えば、その後背にある歴史的名所や陳列館が観光的に名を成しているともいう。
小生若い頃、吉川英二の「三国志」を読んでいたが、全く記憶は薄れている。
赤壁は島根県隠岐諸島の知夫里島の西海岸にも存し、高さ50メートルから200メートルにも及ぶ断崖絶壁が1キロにもわたって続いて雄大な眺望と自然の造形美を誇っている。又、姫路市 の海岸、八家地区に小赤壁が在る。播磨灘工業地域のド真ん中に、これだけの自然が残っていた。
赤壁の近くに「蛇のぼり」、「うりもりさん」といった珍名な名所もある。
又、雲見の海岸リエリアも見るべきものが多く、「千貫門」、「烏帽子岩」、「牛着岩」等、沿岸全体に言える。
これら何れも、陸上から望むより、海上船舶のから眺めた方が良さそうだ。
その為か、この地域はシーカヤックやダイビングの一大スポットにもなっている。
そして「松崎」である。
ここ松崎と北海道との関係・・?、
海、山、温泉と自然が豊かな「松崎」は歴史、文化の香りも高い。
それだけに高貴な人物も輩出しているようで、芸術家・入江長八や国鉄総裁・石田礼助、依田勉三・・等々を輩出している。
その「依田勉三」について・・
昨年「東日本一周」で北海道・十勝地方の大樹町を周遊している時、晩成温泉や晩成キャンプ場といった名称に気が付いていた。 又、今年(205年)5月、縁あって、やはり大樹町、帯広を巡った折、十勝地方の開拓については依田勉三氏の「晩成社」によることを知った。
一般に北海道の開拓といえば官主導の屯田兵や旧幕府家臣によるものが大勢である・・、 ところが帯広・十勝地方は一般民間人に拠るもので、静岡県の 「伊豆松崎」出身の依田勉三率いる晩成社(一種の会社組織)一行が明治16年に入植したのが開拓の始まりといわれる。
「晩成」といえば帯広の製菓店・六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」のマルセイは晩成から名付けたと言われ、実際に「晩成」という名のお菓子もあるらしい。
また、大樹町の「晩成温泉」は、そのものの名前である。
依田家の歴史を遡ると・・、
依田家のルーツは信濃源氏だといわれ、代々信濃国小県郡依田村(現在の長野県小県郡丸子町)の依田城に居をおく豪族であった。
平家追討の兵をひきいる木曽義仲をこの城に迎え入れたという記録もある。
戦国期依田氏は甲州武田氏に属し、武田勝頼のために駿河と遠江の城を守っていた。
武田信玄病歿後、後を継いだ勝頼も、天目山(山梨県大和村)の戦いで織田信長の軍に敗れ、ついに武田氏は滅亡してしまう。
こうして依田一族は伊豆の松崎へ隠遁し、やがて人里はなれた大沢の里に居を構えたという。
その後、代々庄屋として山林の伐採、炭焼きで江戸との通商を行い、財を成すようになった。
時は移り江戸末期、「勉三」は依田家の三男として生まれている。
家歴、家業を知る勉三は幼少時分より開拓精神を植つけたらしい。
少青年期とり勉学に励み、慶応義塾にて福沢諭吉の講義も受けたという。
やがて未知の北海道へあこがれ、明治初期ついに単身現地へ渡り、人跡未踏の十勝原野の踏査にとりかかった。
そして帰郷後の翌15年、兄の佐二平(松崎町の名士)に十勝の将来性を力説して、農場建設のために兄を社長とする「晩成社」を設立した。
社名は「大器晩成」にちなんだものという。
晩成社開拓団27名は明治16年3月、北海道向け出発した。
十勝地方は秋田県ほどの面積に匹敵し、十勝連峰や大雪山系をひかえ、そこから流れ出る簾のような大小河川が十勝平野の肥沃な大地を形造っている。
そこの中心に在るのが帯広市である。
帯広を含む十勝地方は農業が主産業で、その殆どが大型機械による大規模畑作営農が中心であり、周辺の農家1戸あたりの平均耕地面積は約30haで、北海道の平均17ha、全国の平均1.6haを大きく上回っているという。
伊豆松崎町と帯広市は硬い契りの「友好姉妹都市」を結び、役所前には提携記念塔もある。
平成14年、帯広市は開基120年に当たる。これらを記念して書籍「依田勉三の生涯」を出版(潮出版社)又、この本を元に映画「新しい風・若き日の依田勉三」が昨年大公開された。
松竹映画配給:出演は北村一輝、富田靖子、風間トオル、岩崎ひろみ、曽根英樹、他・・、
尚この映画は第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いている。
伊豆松崎・「道の駅・花の三聖苑」(奥の建物は「かじかの湯」)
松崎町より内陸方向へ4kmほど那賀川沿いを行くと、「道の駅・花の三聖苑」がある。
三聖とは、幕末から明治期にかけて活躍した松崎出身の三人の偉人たちのことで、幕末の漢学者である土屋三余、明治期の実業家として名を馳せた依田佐二平、その弟で北海道・十勝平野の開拓者である依田勉三をいう。
1kmほど先に大沢温泉が在り、、大沢温泉ホテルを営む依田邸の母屋がある。
約320年前、元禄年間初期の建築だろうという、江戸時代の重厚な庄屋建築の面影を残している。
道の駅の公園入口には、直径11mの巨大で且つユニークな花時計があり、時報ごとに違う曲が流れるという。
さらに苑内には、日帰り温泉施設で、男女別の岩風呂と、清流の音を聴きながら入れる露天風呂を備えた温泉会館「かじかの湯」がある。
今夜はこの温泉に浸かりながら。
次回は、西伊豆へ・・、
【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」
「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 北ア・槍-穂高(1968年) 上高地・岳沢・穂高(1979年) 上高地・明神(2008年) 南ア・北岳(1969年) 八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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