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2010年7月30日金曜日

日本周遊紀行(125)君津 「久留里」

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 日本周遊紀行(125)君津 「久留里」 



歴史ある「久留里」は君津市の地域であった・・、

地図を見て確かめると、成る程、君津市域の湾口部は僅か3km程度しかないの近距離の幅である。
そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 
その為でもあろう、現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。

だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。

その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。
そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。
久留里の地名は戦国期から見られるという。



16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 

戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が武蔵から房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 
だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)が行はれる。 このとき秀吉より里見家参戦指示がでる。 だが里美氏は内部事情が生じて参戦に遅参してしまう。
戦局は秀吉が勝利し、小田原北条は滅亡する。

しかし、充分な戦果を出せなかった里美家は、その罰として上総全域および下総南部の所領が召し上げられ、安房一国のみと減領されてしまう。 結果、没収した上総、下総の領地は、徳川家康に与えられてしまう。
従って里見氏は、逆に久留里を最前線とする徳川氏と対峙することになる。

更に、慶長19年(1614年)
大久保忠隣失脚事件に連座したとして、里見忠義は安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となってしまう。
里美家は房総より失脚し、久留里城は最前線としての役目も終わり一時は廃城になりかける。

江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建されている。
以後、久留里は黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していた。
現在は、城山公園として模擬の天主が立つ。



久留里城」は、「雨城」、「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。

久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。
近年はこの水を観光資源として、「名水の里」として宣伝されているとか。
この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。



「上総掘り」について・・、

千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
房総の地域は久留里地方はともかくとして、全体には地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされている。 
このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 

上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという。
人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導も行われているという。

工法は径5~15cmの鉄管が、深さ150~500mの穴が地中に向かって掘られる。
まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量をはずみで地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
現在でも人力による掘削法として使用されている。

上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。



「木更津」・・、

さて、狭い湾岸の君津を過ぎてしまうと、すぐに「木更津」である。
戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 
そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる
木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えたという。
江戸湾を往来する木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)とも称していた。 
「五大力船」は、海上輸送が発達した江戸時代に主に活躍し、昭和初期まで用いられてきた廻船で、主に東京湾内のほぼ全ての輸送に用いられ、穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。
基本は海船造りの構造であるが、河川を航行できるように喫水が浅く船体の幅が狭くなっている。 そのため、海からそのまま河口に乗入れて市中の河岸に横付けすることができる。
海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使用できるよう舷側に棹走りと呼ばれる台が設けられている。


更に木更津については思わぬ伝承があった。 
次回はそれらについてチョット詳しく述べることにする。


木更津甚句』 千葉県民謡

アア・・
木更津照るとも お江戸は曇れ
かわいお方が ヤッサイモッサイ ヤレコリャ ドッコイ
コリャ コーリャ 日にやける

船は千来る 万来るなかで
わしの待つ船 (お囃子、同じ) 
まだ見えぬ


と船乗衆が唄ったのであろう・・、「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい。

次回、木更津の古事



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