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日本周遊紀行(56)湧別 「廃線と屯田兵」
紋別の「道の駅」を出ると間もなく「コムケ湖」、「シブノツナイ湖」のすぐ横を通る。
いかにも北海道らしい清々とした地柄であるが、尤も、地図を見るとこの先、巨大な「サロマ湖」、「能取湖」、「網走湖」、「藻琴湖」そして「濤沸湖」とオホーツク海に面していて、同様の風景が展開しているのである。
オホーツク沿岸の国道238を別名「オホーツク国道」ともいい、雄大な道で大草原、原野の広がりは眼の保養になること受け合いである。
この先、これら主要な湖の岸辺を行くようになるが。
湧別町、上湧別は概ね湧別川を挟んでいて、ユッタリした家並が広がっている。
「ユウベツ」とはアイヌ語で「鮫の住む川」という意味だそうで、これは昔、湧別川河口から近海にかけて相当数の鮫が生息していたことから、この名で呼ばれていたとも言われている。
北海道の地名・名称が、アイヌ語から発生しているのが大多数有る中、それにしても「鮫が住む川」とは何とも驚きである。
湧別は湧別町、上湧別町と二つの行政域に別れ、上湧別町には中湧別という地域もあるようだ。
湧別町はオホーツク海沿岸のほぼ中央部に位置し、東に道内で一番大きな湖であるサロマ湖を擁している。
それに対し「上湧別町」は内陸地域に位置し、海面、湖面には接していないようで、「鮫の住む川」である湧別川の下流域の全域を有しているようである。
昨今の政府号令の「平成の大合併」で湧別町、上湧別そして佐呂間町の合併話が起きたようであるが、今現在は実現していないようである。
「オホーツク国道」・国道238号は、この町域を東西にクランク状に横断しながら佐呂間に至っている。
この国道は、湧別町のシンボルロードと言われる道で、愛称を「オホーツク・リラ街道」と称しているようである。
町では、このリラ街道を春先から花を楽しめる道路にしようと、平成11年から道路の両端に、町民の皆さんの手で千本桜の並木や湧別町に昔から自生していた「リラの木」(仏語読み:ライラックのこと)を植え、その間隔に花を植栽して「花いっぱい運動」を展開しているのである。
ところで、この「オホーツク・リラ街道」は、JRの跡地に整備されたものという。
一昔前はこの地・湧別町には国鉄・名寄本線の支線である名寄線や湧網線が走っていたが、こちらも国鉄再建法の施行により1989年(平成元年)に廃止されたようである。
国鉄「名寄本線」は、名寄市の名寄駅で宗谷本線から分岐し、網走支庁管内の興部町、紋別市を経て上湧別町の中湧別駅に達し、更にサロマ湖、オホーツク海、能取湖等の沿岸を巡って網走市の網走駅に至る「湧網線」が走っていた。
又、遠軽町の遠軽駅より中湧別駅までの「名寄線」も接続していて、云わば湧別町は鉄道の拠点だったのである。当時の表現を借りれば「天塩国・奈与呂ヨリ北見国・網走ニ至ル鉄道」であり、道央とオホーツク海沿岸方面を結ぶ幹線鉄道として建設されたもので、1920年頃(大正9年)に全線開通している。
しかし、現在の「石北本線」が全通すると、名寄線は遠軽を境に幹線鉄道としての役目を石北本線に譲ることとなり、その後、財政事情により名寄本線、湧網線など全線が廃線に追い込まれたようである。
一時は第三セクター化して部分存続させる案も浮上したらしいが、全線存続を強く主張したため、結局1989年に全線廃止されたという。
時代の趨勢とはいえ、廃止された特定地方交通線ながら唯一「本線」を名乗っていたし、その鉄道の拠点が一気に無に付してしまう・・、過酷と言えば過酷であったろう。
湧別町の近代歴史の始まりは江戸末期(1808年)、滋賀県人が現地の人を使役し、漁業に着手ことにより始まると言われる。
その後、明治27年には高知団体や広島団体が入植するが、中でも、1897年(明治30年) 屯田兵第1次200名が移住し、更に、1898年(明治31年) 屯田兵第2次199名移住してきたことから町としての発展がなされたという。
先にも記したが、「屯田兵」とは明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊のことであり、明治7年(1874年)に制度が設けられ、翌年から実施、明治37年(1904年)に廃止されている。
日本では、300年続いた徳川幕府が滅び、明治維新が起こり、各地で内乱が起きたが、こちら北海道ではロシアとの間に領土の争いがあり、「北海道を守るべし」として北海道の開拓を兼ねた「屯田兵制度」が生まれたのであった。
屯田兵の条件は先ず士族であること、17才から35才までの男子であること、15才から60才までの農業に従事できる家族が二人以上いることなどであった。
屯田兵には、3年間、扶助米、塩菜料、必要な農機具などが支給されたが、屯田兵の生活規則は厳しかったという。
屯田兵は家族を連れて入地するのが基本とし、入地前に建てられ用意された「兵屋」なる家と、未開拓の土地とを割り当てられた。
兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られ、当時の一般庶民の住宅よりは良かったという。
生活規則として起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要し、通常の軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援などにも携わったいう。
また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ね、湧別町では、この時リンゴの植え付けに成功していて、リンゴの北限の地であるともいわれる。
町内には現在も、北兵村、南兵村、屯田市街といった屯田兵に因んだ名称が残り、平成17には「屯田兵村と兵屋」と題して、道民が選んだ「北海道遺産」にも認定されている。
『屯田兵の詩』
屯田魂、心の中にひそかに眠る
飛翔の街、上湧別を遠くに思うとき
心揺れ動いたことがある
未開の地に鍬を入れ
湧別原野に汗が沁みる
みんなで拓った(やった)
次回は、 あのカーリングの「常呂」です
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