日本周遊;温泉と観光(9)知内・福島 「歌手と横綱」
歌手の横綱と相撲の横綱の地・・、
国道228の海岸の際を走る。
車窓を開けて気持ちよい潮風を吸いながら、「道の駅・しりうち」で一息入れる。
気がつくと「北島三朗の故郷」と大きな看板が目に入った。
そうなのだ・・!ここはサブちゃんのふるさと・出身地である。
小生も含め、演歌好きの大多数は、北島三朗のファンでもあろう・・?。
演歌ひとすじ三十余年・・、「女シリーズ」、「仁侠シリー」、「一文字シリーズ」をはじめ、ヒット曲多数。
長年に亘る舞台公演やTV 時代劇など出演し役者としても高い評価を受ける。
新宿・コマ劇場の公演を二度ほど拝見したが、その情熱と豪華絢爛の舞台には思わず拍手を送った。
海外公演も多く、文化人としても国際交流に貢献しているともいう。
観客の拍手を勲章とし、終りなき芸道を今も現役で歩み続けている。
北島三朗の地元での談話
『 知内町で生まれ育った私にとって、知内町は「心のふるさと」です。 毎年8月のお盆に故郷に帰ると、子どもの頃、海や川で泳いだ事、 森にカブト虫を探しに行った事、秋サケの遡上を見に知内川に出かけた事、冬手づくりスキーで朝から夕方まで遊んだ事。 などが思い浮かび「自然豊かな知内町」を痛感する次第です。 是非、一度、私の生れ故郷「知内町」へ遊びに来て下さい。 』
次に、やって来たのは「福島町」である・・、
街へ入って間もなく、今度は元横綱「千代の山・千代の富士」の記念館が目に付いた。 一段高いところに鉄筋コンクリート造りの建物で、正面に土俵入りを模った銅像と大きな太鼓櫓に旗幟(のぼり)が風に揺れていた。
この両横綱は、こちら福島町の出身であった。
先ずは、往年の相撲ファンならよくご存知の、第41代横綱・「千代の山 雅信」(ちよのやま まさのぶ)についてである。
始め、双葉山の所属する立浪部屋への入門を希望していたが、「双葉山に勝てる男になるために”」と言われて1942年(昭和17年)敢えて「出羽海部屋」に入門した。
最初から横綱を期待され、戦時中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海(元三代目・両国)親方の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だったという。
戦後の娯楽の少ない時代に、ラジオから流れる大相撲放送は何よりも楽しみであった。
小生も小さいながら(小学生)相撲好きの父と一緒に、夢中になって聞いたもんである。
当時は「大相撲全盛」の時代でもあり、四横綱の羽黒山、東富士、照国、そして千代の山といわれた「横綱四天王」の時代であり、中でも千代の山が一歩抜きん出たように思っていたが。
現在では最も多くの横綱を輩出している北海道だが、その第一号はこの「千代の山」であった。
武器は突っ張りで、初土俵から9場所で入幕し、いきなり全勝する。
前途将来を嘱望されるが、体の故障と気の弱さがたたり、昭和28年に「横綱返上問題」を起こしてしまい、期待されたほど大成はしなかった。昭和42年1月場所の後、年寄「九重」として出羽海部屋から独立する。
実際は出羽海一門から破門された形となり、このことが話題にもなったが、「北の富士」(北海道美幌、留萌、旭川出身の第52代横綱、現、NHK大相撲専属解説者)を育てている。
尚、千代の山は「吉田司家」ではなく、相撲協会が推挙する形式になった第一号の横綱でもあるという。
因みに、横綱に推挙された力士は、横綱推挙式と共に初めて披露するのが奉納土俵入りで、明治神宮において行われる。
明治神宮と相撲とのかかわりは創建前(大正9年に創建)の神宮外苑における地鎮祭の奉納相撲に始まり、次いで明治神宮創建(明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする)を奉祝して相撲大会が行われた。
横綱の推挙状授与式について・・、
横綱の推挙状は江戸時代からはじまり、元より相撲司(平安時代の頃、相撲大会にあわせて式部省が設置された臨時の機関及びその任にある者)の「吉田司家」からその邸宅の祭場で授与されていたようである。
横綱に推されたら力士は、吉田家に赴いて荘厳な雰囲気の中で起請文を差し出し、司家から免許状や故実書(過去の事を記入してある書類)、そして「横綱」を授かったという。
第40代・東富士までは司家より横綱免許状が出されていたが。
しかし制度が変わり、昭和26年第41代・千代の山より明治神宮の神前において相撲協会から推挙状が出されることになったという。
神前ではじめて横綱推挙式と手数入り(でずいり:土俵入り)が行われ、以来、恒例として横綱推挙式は明治神宮で行われることとなっている。
序(ついで)に、「手数入り」の「でず」とは「技・わざ」を意味し、吉田司家の口伝に横綱土俵入りを「手数入り」といったことから由来するという。
更に序ながら「相撲の歴史」について簡略に・・、
日本相撲の歴史は古く、「古事記」の中で、建御名方神(タケミナカタノカミ:大国主の子・諏訪大社祭神)と建御雷神(タケミカヅチノカミ:高天原の神・鹿島神宮の祭神)が出雲の国をかけた力くらべをして、建御雷神が勝ったという記述が「相撲の起源」とされる。
又、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとしては、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速 (たぎまのくえはや))の戦いであるとも・・(これは柔道の起源ともされている)。
時代が進み平安期の頃は、相撲はいつしか闘いよりも、豊作を願い神に奉納する神事や余興になっていた。
戦国時代になると、再び武術としてのは相撲を奨励するようになり、戦国大名・織田信長も毎年大勢の相撲人(すまいびと)を集めては上覧相撲をとり行った、今の土俵の原形は信長による発案だと言われる。
またこの頃より、弓取り式、力士の四股名そして行司も登場したという。
相撲が武術として大きく発達した時代であり、力士が武士(もののふ)である由縁もまたここにある。
江戸時代になると、寺社の建立や修復の為の寄付を集める為の庶民的な勧進相撲になり、年寄り株制度の原型や改良された土俵、四隅には柱が立てられ櫓が組まれた。
決まり手も48手が成文化され、いよいよスポーツとしての相撲が始まった。
大相撲としては、江戸時代後期に入り、今の日本相撲協会の前身にあたる江戸期の相撲会所が整備され、相撲年寄りと相撲部屋も次々と誕生した、
「雷電」や「不知火」が活躍したもこの時代である。
昭和時代になると土俵の危険な4本柱も撤廃され、戦前・戦後のラジオ中継に続きテレビ中継、平成になって世界に向けて衛星中継も始まった。
近年、相撲は国民的な娯楽になり、近代スポーツとしての確固たる地位を獲得し、長大な歴史のある「相撲」は、時代に留まることなく今も進化し続けている。
しかし、外国人が台頭する今の大相撲の実情を憂う声もある。
次に、昭和後期の名横綱「千代の富士」である。
第58代横綱・千代の富士 貢(ちよのふじみつぐ)は・本名は秋元貢、身長183cm、現在は年寄・九重。 現役時代の異名・愛称はウルフと称した。史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数の大横綱で、小兵ながら速攻と「上手投げ」を得意にして一時代を築いた。
立ち会い一瞬で左前ミツを拝むように掴むや否や電車道で土俵際に追いやり、最後は返す刀で鮮やかな投げ技で相手を土俵に叩きつける豪快な相撲っぷりは見事であった。
右上手、左前三ツの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。
四股の美しさも特筆すべきもので、高々と上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。
横綱 『千代の富士』経歴
幕内優勝 31回(全勝優勝7回、歴代2位)
殊勲賞 1回、敢闘賞 1回、技能賞 5回
通算成績 1045勝(史上最多)437敗159休
場所数 125場所 金星 3
初土俵 昭和45年九月場所(15才)
新十両 昭和49年十一月場所(19才)
新入幕 昭和50年九月場所(20才)
横綱昇進 昭和56年七月場所(26才)
現役引退 平成3年五月場所(35才)
次回は、宮内(ぐうない)温泉と「象の花子」
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