晩秋のお岩木山
日本周遊紀行(27)津軽 「津軽地方」
「十三湖」の前に「津軽地方」について・・、
「津軽平野」からは、大抵の場合「岩木山」が望めるといい、地元では「お岩木さん」といって親しまれているようである。
この辺り冬は豪雪地帯である。
映画・「八甲田山」で、弘前第31連隊の徳島大尉以下数名が一列縦隊になって、白銀に染まった岩木山をバックに「雪の進軍」を唱和しながら、八甲田への冬季訓練と称しいて雪中行軍をするシーンを思い起こさせる。
明治35年のことであるが、同刻に青森の歩兵第五連隊と雪の八甲田での同時演習のはずだったが、青森隊は雪中行軍の演習中に、記録的な寒波に起因する猛吹雪と酷寒に遭遇し、210名中199名が遭難したのである。
所謂、「八甲田雪中行軍遭難事件」が発生しているのだが、これも後ほど。
津軽平野に聳える岩木山は、標高1625mと、富士山の半分もないが、付近に高い山が全く無いため、その標高以上に高く、雄大に感じられる。
その美しい山容は、見栄っ張りで、じょっぱりな(強情な)津軽人の自慢の種で、岩木山こそ日本で一番美しい山で「富士山は駿河岩木じゃ」と言って強がっているようである。
その優美な姿は、「津軽じょんから節」など津軽民謡の中でも謡われて、『あ~富士に劣らぬ津軽のお山、お山眺めてお城の花見、仰ぐ天守は桜の中よ。 あ~りんごかわいや色こそ可愛い、岩木お山に生まれて育つ、わたしゃ津軽のりんご娘』と。
広い津軽平野にドーンと座ったような岩木山は、東西南北どの方向からでも良く見える。 又、見る方角により、その姿を多少は変わるが、どれも美しく・・、その周辺地域の人々は自分の方から眺めて「おらげのお岩木(おいわぎ)が一番じゃ・・」と美しさを自慢し合っているという。
岩木山周辺から湧き出す「平川」等の幾多の支川を合わせて「岩木川」を形成し、弘前市付近から津軽平野を貫流し、十三湖を経て日本海に注いでいる。
岩木川は、流域面積のうち約70%が山地、30%が平地であり、他の河川に比べて極めて平地面積の割合が大きいといわれる。
その「津軽平野」は青森県水田面積の約5割を占める穀倉地帯であり、中流域はリンゴの特産地であることは、万人が知るところである。
岩木川の沖積作用によって出来た広い津軽平野・・、
この「津軽地方」は奥羽山脈によって二分されていて、太平洋側の「南部地方」とは自然環境や農業環境では対象的に異なるといわれる。
尤も、津軽と南部は自然ばかりでなく、人間も大違いで、現代においても何事によらず合い争うと言われているが、この事は(津軽・八戸周辺の項でも記したい)。
本州の北端にあるため、両地方とも冷涼型の気候であり、冬が長く夏が短いのは共通しているが、しかし、津軽地方の気候は冬は積雪量が多く曇天の日が続くが、夏は気温も上昇して稲作も安定している。
一方、太平洋側の南部地方は、「ヤマセ」(夏、北海道・東北地方の太平洋側に吹き寄せる東寄りの冷湿な風、稲作に悪影響を与える)という独特の風の影響に悩まされる。
このため津軽地方は豪雪地とはいえ、米とリンゴが産業の基幹をなしているのは周知である。
米に因んでだか・・、
この津軽地方には、「こめ米の道」というのがある。
半島の付け根、日本海に面していて、地図を見ると広大な地に湖沼群が点在し、道路だけが舗装されていて一直線に延びている。
この道を「こめ米ルート」と呼んでいて、地図にもそう記載してある。
岩木川の沖積低地には米作、岩木山の傾斜地や岩木川の自然堤防上にはリンゴが栽培されている。 「自然堤防」は,沖積平野を蛇行する岩木川が洪水のたびに川からあふれ、その水が川岸に土砂を堆積することによってできたもので、水面より2~3はメートル高く浸水の恐れが少ないため、その部分は集落やリンゴ園として利用されているという。
青森リンゴの栽培は、全国のほぼ半分を占めており、依然として津軽は日本一のリンゴ生産地、リンゴの故郷なのである。
春、桜の散った後には,リンゴ園は白い花で埋まる、「津軽富士」はリンゴの名称でもある。
次に、「津軽じょんから節」のこと・・、
津軽地方の「津軽じょんから節」は、黒石の「川原節」が元祖であるともいわれる。
津軽民謡の三大節の一つでもある。(他に、あいや節、よされ節)
戦国末期 (1597年)、大浦為信(津軽氏・津軽弘前藩初代藩主)に攻められ、城中城下350年の間、津軽平野で繁栄してきた領主・千徳家(せんとく)は滅亡した。 この時の落城悲話として「じょんから節」がうまれたと伝えられている。
この時、城下寺院の「一の坊」の僧・常椽(じょうえん)和尚は主家の必勝を祈願し、神仏の加護を念じていたが、ついに夜明けともに大浦勢の攻撃は一の坊にも及んだ。 常椽和尚は山伏姿となり、先祖代々の位牌を背負い、群がる敵兵に薙(なぎなた)を揮いながら東の南部領をめざして難を逃れようとしたが叶わず、遂に、白岩の断崖から濁流に身を投じ、その一生を終えたという。
数年経って・・、地元民が常椽和尚の変わり果てた屍を見つけ手厚く葬って、常椽の墓と名付けた。 そして、この辺一帯を常椽川原(じょうえんかわら)と称した。
それから毎年お盆になると、村人はこの墓所に集まり供養をし、千徳家全盛時代の昔を偲んで城主をはじめ先祖の霊を慰める盆踊りを行い、即興的な唄を歌った。
これが常椽川原節、変じて「じょんから節」になったと伝えられる。
『津軽じょんから節』 青森県民謡
ハーアー
富士に劣らぬ 津軽のお山
お山眺めて お城の花見
仰ぐ天守は 桜の中よ・・、
ハーアー
りんごかわいや 色こそ可愛い
岩木お山に 生まれて育つ
わたしゃ津軽 のりんご娘・・、
津軽半島の核心部である・・?、半島中央部に「金木町」が在る。
金木町(かなぎまち)は、津軽三味線の発祥地でもあり、又、一昔は「太宰治」、今は「吉幾三」の出身地としても知られる。
津軽三味線は、津軽地方で誕生した三味線で、本来は津軽地方の民謡・「津軽じょんから」などの伴奏に用いられるはずだが、現代は、特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合も多いという。
撥(ばち)を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く、音数が多い楽曲に特徴があり、最近では吉田兄弟や上妻宏光らの若手奏者が、独奏主体あるいは競演による演奏スタイルが確立している。
太宰 治(だざい おさむ)は1909年(明治42年)、県下有数の大地主である津島家に生まれている。
小説家・作家、本名、津島 修治、 著名な作品では「富嶽百景」「斜陽」「人間失格」などを書き、戦後の流行作家となった。
自殺未遂を数回重ね、遂に1948年(昭和23年)、東京・玉川上水にて入水心中を果たしている。
享年39歳、 若いね・・!。
太宰自身は、生まれ故郷の金木町の事を次のように評している・・、
『私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。 どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。 私は、無智の食ふや食はずの貧農の子孫である。 私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた』と書いている。
惣助は、油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。
更に、『金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口5、6千人の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。 善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである』・・と。
そして「吉幾三」である・・、
吉幾三は1952年(昭和27年)金木町に生まれている。
本名は 「鎌田善人」(かまた よしひと)といい、演歌界では特異な存在で、演歌のシンガーソングライターとしてほとんどの曲を自ら作詞作曲している。
普通、演歌の世界は作曲家や大御所歌手への弟子入りなど徒弟制度的な色合いが強く、歌手は「先生」や「師匠」からいい曲をもらえるのを「待つ」しかないと言われる。 その点、常に自作曲を歌う「吉」のような立場は例外的と言える。
恩人で盟友と言える「千昌夫」に影響され、バブル経済期に莫大な投資を行い、バブル崩壊で大損害を被った・・と、自虐ネタを披露することも多い。
酒豪としても有名で、「志村けんのバカ殿様」に出演するときは必ず、度数の高い酒を持参して志村けんと共に飲むのが恒例であったという。 「バカ殿」を困らせる数少ない人物でもあるとか。
名曲『津軽平野』は、演歌好きの小生にとって十八番(おはこ)の一つでもある。 しみじみとしたメロディーで歌い易く、詩の内容も良い。
『津軽平野』(昭和61年) 吉幾三 詞曲 唄 千昌夫
津軽平野に 雪降る頃はよ
親父ひとりで 出稼ぎ支度
春にゃかならず 親父は帰る
みやげいっぱい ぶらさげてよ
淋しくなるけど 馴れたや親父
十三湊は 西風強くて
夢もしばれる 吹雪の夜更け
ふるなふるなよ 津軽の雪よ
春が今年も 遅くなるよ
ストーブ列車よ 逢いたや親父
「水森かおり」の歌でも知られるようになったJR五能線・五所川原駅で津軽鉄道に乗り換え、20分ほど電車に揺られると「金木駅」に着く。
「津軽鉄道」は、冬はストーブ列車、夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車と、風情を生かした特色ある列車を運行しているので知られる。
次回、市浦・「十三湖」
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