2012年4月14日土曜日

日本周遊紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」

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日本周遊紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」 .



富山城
写真:越中・富山城


富山駅の南、国道41号線(飛騨街道)沿いに「富山城址」がある。 
南大手門より本丸南側の堀と石垣を水に映して天守閣が聳え、城内を行くと白壁の新装したであろう城郭が美景である。 
ただ、天守閣・望楼が工事中なのが、やや残念であった。 本来は、五層の大天守閣であったが、現在のものは三層の模擬天守として建てられていて、天守内部は郷土博物館になっているという。

慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主・前田利長(藩祖・利家嫡男)は、加賀・能登・越中の三ヶ国120万石を得た。 
寛永16年、三代・前田利常は次男利次に富山10万石を与えて分家させ、廃城と化していた富山城を修復し、寛文元年に入城して富山藩が成立している。 
その利次の次男が二代藩主・前田正甫である。 正甫自身、病弱だったこともあり、薬に興味を持ち、自分でも調合したり、内外の薬の製法を領内に広めさせた、そして富山の売薬の基礎を築いたとされる。 
以後富山・前田氏十三代の居城として明治に至る。 
園内には前田正甫の銅像が建つ。


それより以前の戦国期の天正7年(1579年)、織田信長は佐々成政(さっさなりまさ)を富山54万石封じている。 
成政は、城を改修し城下町の整備を行うが、信長の急死後の後継者争いで反秀吉の立場をとり、柴田勝家滅亡後は秀吉の軍門に降る。 
天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、肥後熊本へ転封になるが、この間、成政が富山に留まったのは僅か5年程度であった。 
だが、この時期に奇想天外の戦跡、立山黒部の山岳と渓谷を徒歩で越える「さらさら越え」で、佐々成政のその名を残した。


少年期より織田信長の家臣で、柴田勝家の北陸攻略に従軍、越中まで占領が終わるとその功によりそのまま富山城主になる。 
ところが本能寺の変で信長没後、山崎合戦、清洲会議、賤ヶ岳合戦、小牧長久手の戦いと時代の勢いは羽柴秀吉が実権を握り、越中富山は、越後の上杉景勝・越中加賀の前田利家・飛騨の金森長近といった秀吉方の大大名や側近等に囲まれ、身動きが出来ない状態であった。 

賤ヶ岳合戦で柴田勝家が破れた後は三方を囲まれて孤立無援となり、そこで天正12年(1584年)12月、成政は秀吉と対峙していた徳川家康に出兵を促す為、自ら百余名の手勢を率いて家康の居城・浜松城に向かう。 
その道程に立山・黒部渓谷越えを選んだのである。 
果たして足掛け8日で極寒の渓谷を越え、信濃の大町からその後一行は家康との面会を果たすが、家康は既に秀吉と気脈を通じていたため、説得は拒否され失敗に終わるのである、無念なり・・!!成政。


そればかりか、事もあろうに彼は、再び同じ道を引返したのであった。 
その後、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲、成政は織田信雄(のぶかつ、信長の次男)の仲介により降伏した(富山の役)。 
後、秀吉軍門下、九州平定で功をあげたことを契機に肥後国一国を与えられたが、治安の失政により切腹に及んでいる。享年53歳であった。
  

その北アルプス黒部越えの道は、既に平安期より立山信仰圏で開けていた。 
越中岩峅寺を通り千寿ガ原、そこを流れる常願寺川の河岸から立山温泉、源流部の湯川谷から鷲岳北方のザラ峠(2348m)に到る。 
次に黒部谷の中ノ谷から刈安峠を越えて黒部川の河岸の平小屋へ、黒部川(現、黒部湖南部)を渡り、核心部である針ノ木岳の針ノ木谷、針ノ木峠、籠川谷(日本三大雪渓の一つ・針ノ木大雪渓)を経て扇沢、大町へ到っている。


若い時分より登山経験のある小生ではあるが、このルートを見ると、厳冬期にはよほどの重装備、周到な計画と底知れない体力が必要と認識する。 
当時、魔物・妖怪が棲むとまでいわれていた極寒立山の山岳地帯に踏み入った行動は、多くの人の目には、余りに無謀としか思えなかったのは当然であろう。 

だが、成政一行は、信濃や遠江、尾張地方を担当していた芦峅寺衆徒らの道案内で立山信仰圏ルートを進んだのである。 地形に精通した人々が協力し、天候を判断しながら緻密な計画のもとに決行されたと思われる
。 それにしても昔に人々の底知れない力強さは、現代人から比べれば、到底、及ぶべきもないし、この行動は冬山集団登山の先駆ともいえるだろう。
 

佐々成政の「さらさら越え」(ザラ峠)ルートは戦国の昔から忍びの道としても使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道として密かに利用していたという。 
この、山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、所々に小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道・越信新道に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。 
しかも我が国初の有料道路とし、その収益で道の維持を図ったとされる。 

だが豪雨や冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は開通からわずか数年の明治15年に廃道となっている。

(注・・最近では佐々成政の峠越に対して異説もあるようだ。 成政が踏破したザラ峠とは、立山ー黒部ー針ノ木越えではなく、同じくザラ(ザレ)と呼ばれていた飛騨・信州を結ぶ「安房越」ではないかという説もある。 確かに地理的にも富山から神岡、平湯で信州峠(安房峠・ザレ峠)を超え、中山道へ出ると浜松までは、ほぼ直線の最短距離であり、ルーととしても安易なようである・・??。 長く信じられてきた通説に疑問を投げかける内容は以降はどうなるか興味津津でもある・・?)
  

戦国の世、一向宗徒の焼討や上杉勢らの侵略によって越中の民衆と土地は疲弊し、又、常願寺川と神通川の氾濫によって、富山の城下町周辺はそのたび毎に泥海と化し、民衆の生活は悲惨のどん底だったという。 

越中に入国した成政は、このような状況に冬の休戦期間(11月~翌年3月ごろ)を利用して、常願寺川や神通川、いたち川の治水事業に取り組んだという。 
その後、上杉勢や越中の国人衆らを抑え、越中支配を遂げるのである。 

成政は、「民衆の安住と国土の平安」を願い、富山城を当初「安住城」と名付けている。 自分の政治理念を城の名前にまで込め、また自然災害から民衆の生活を守ることに努めた成政の姿勢は、多くの地元民衆に慕われたという。
一方で成政は、お家の内紛により非道を行ったとして、暴虐残忍の暗主のイメージもあったが、実情は、後に越中を治めた前田氏によって作られた捏造であったことが、近年判明している。
 

現在、テレビ等でもお馴染みの「佐々 淳行」(さっさあつゆき)氏は、日本の危機管理の第一人者といわれる。 
「連合赤軍あさま山荘事件」では、警備幕僚長として監督管理に携わり、昭和61年より初代内閣安全保障室長を務め、昭和天皇「大喪の礼」の警備長を行い、現在は文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍している。 
彼は、佐々成政の系譜、子孫に当たるという。


次回は「富山湾



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2012年4月13日金曜日

日本周遊紀行(224) 富山 「越中・富山」

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日本周遊紀行(224) 富山 「越中・富山」 .



越中富山の薬売像
写真:富山駅前の「薬売り像」



国道8号線から神通川に架かる大橋を渡り、富山市内を目指した。
ノーベル賞の田中耕一氏も富山市出身であり、質素倹約の富山県人のことは先に記したが、県人一般に言えることは勤勉で粘りつよく、合理性を追求する気質が伝統的に生まれ、真面目で向上心も強く、じわじわと立身出世する人が多いという。 

更に、金銭感覚に優れているため、今でも財界人や実業家として活躍する人が多いという。 
中でも富山といえば伝統的に「越中富山の薬売り」が知られている。 

拙宅にも一時置いたことがあり、会社の職場でも預託の薬を利用していたのを覚えている。 家々を回り、一軒ごとに薬箱を置いていき、半年・1年後に使用した分だけ清算するという商法である。 
ひたすら歩き回り、労力、根気の要る仕事だが、固定客を押さえれば何代にもわたって続けられる手堅さがある。 
その成功ぶりを嫉み、「北陸の浪速人」、「越中強盗」などと揶揄したり悪態をつかれた時もあったとか。


このように先に品物を渡しておいて後で料金を回収することを、地元では「先用後利」と称し、このシステム以外にも越中商人ならではの数々のユニークな創意や工夫がなされているという。 

薬を置く家の場所や家族構成、取引内容の履歴、集金状況などはすべて「懸場帳」(かけばちょう)と呼ばれる台帳に記録され、これによって在庫や資産の管理が完璧にでき、予測も出来る、現代風に言えば「顧客データベース」である。 ノーベル賞を受賞した田中氏も、几帳面さと先進的なアイデアを兼ね備えた薬売りの血を受け継いでいるのかもしれない。
これも富山人の気風であろう・・!。


その薬売りの元祖となったのが、富山藩二代藩主・前田正甫(まえだ まさとし)である。
時は元禄3年(1690)江戸城内において、岩城三春の藩主・秋田河内守が俄かの腹痛に苦しむのを見た正甫は、常備している薬「反魂丹」を印籠から取り出し飲ませたところ、忽ち(たちまち)のうちに痛みが治まったという。 

これを伝え聞いた諸国の大名が「ぜひ拙者の国にも広めてくだされ」と正甫に頼み、そこで正甫は領地から出て全国どこへでも商売ができる「他領商売勝手」を発布した。 
これにより反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の富山の薬が全国何処へでも売られる基礎を作ったといわれる。 しかも、代金は使用した分だけの後払いにしたという。

このような商売は外国ではまず見られず、売り手と買い手の信用に立った商売で極めて日本的な素晴らしい商売であり、今でも富山の置き薬の伝統は生きている。
尤も、「先用後利」のアイデアは富山には事情先例が有ったらしく、立山信仰の衆徒たちが経衣やお札を一定の宿に預け、時期後に使用分だけ代金を集金したことに発しているともいう。 

元より越中富山は立山信仰の他に、「真宗」の盛んな地でもあり、「薬売り」は御師と呼ばれる宗僧が布教職務を通じて、衆徒や人々に健康に付与することも仏に仕えることであると考えていた。 
配付した護符(神仏が加護して種々の厄難から逃れさせるという札、護身符、護摩札、おふだ)や薬の代金は冥加金(みょうがきん)として、時を経た後に徴収していたともいう。 
越中富山は、地元信仰と併せて人々の健康に貢献する為の薬の製造、販売そして集金の方法が下地として有ったのである。



富山駅前には、行李(こうり・若い人には判るかな・・?)を背負う行商・薬売りの像と、行商に土産として貰った紙風船と戯れる子供の銅像が建つ。 
この像にもあるように薬売りの商人は、行く先々で子供達に手土産を持ってゆき、子供はそれを楽しみにしていたらしい。 
現在、大相撲で多数活躍している「モンゴル」で、この「先用後利」の配置薬のシステムが取り入れられ、重宝がられ期待されているともいう。


次回、「越中守・佐々成政



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2012年4月12日木曜日

日本周遊紀行(224) 富山 「越中・富山」

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日本周遊紀行(224) 富山 「越中・富山」 .



越中富山の薬売像
写真:富山駅前の「薬売り像」



国道8号線から神通川に架かる大橋を渡り、富山市内を目指した。
ノーベル賞の田中耕一氏も富山市出身であり、質素倹約の富山県人のことは先に記したが、県人一般に言えることは勤勉で粘りつよく、合理性を追求する気質が伝統的に生まれ、真面目で向上心も強く、じわじわと立身出世する人が多いという。 

更に、金銭感覚に優れているため、今でも財界人や実業家として活躍する人が多いという。 
中でも富山といえば伝統的に「越中富山の薬売り」が知られている。 

拙宅にも一時置いたことがあり、会社の職場でも預託の薬を利用していたのを覚えている。 家々を回り、一軒ごとに薬箱を置いていき、半年・1年後に使用した分だけ清算するという商法である。 
ひたすら歩き回り、労力、根気の要る仕事だが、固定客を押さえれば何代にもわたって続けられる手堅さがある。 
その成功ぶりを嫉み、「北陸の浪速人」、「越中強盗」などと揶揄したり悪態をつかれた時もあったとか。


このように先に品物を渡しておいて後で料金を回収することを、地元では「先用後利」と称し、このシステム以外にも越中商人ならではの数々のユニークな創意や工夫がなされているという。 

薬を置く家の場所や家族構成、取引内容の履歴、集金状況などはすべて「懸場帳」(かけばちょう)と呼ばれる台帳に記録され、これによって在庫や資産の管理が完璧にでき、予測も出来る、現代風に言えば「顧客データベース」である。 ノーベル賞を受賞した田中氏も、几帳面さと先進的なアイデアを兼ね備えた薬売りの血を受け継いでいるのかもしれない。
これも富山人の気風であろう・・!。


その薬売りの元祖となったのが、富山藩二代藩主・前田正甫(まえだ まさとし)である。
時は元禄3年(1690)江戸城内において、岩城三春の藩主・秋田河内守が俄かの腹痛に苦しむのを見た正甫は、常備している薬「反魂丹」を印籠から取り出し飲ませたところ、忽ち(たちまち)のうちに痛みが治まったという。 

これを伝え聞いた諸国の大名が「ぜひ拙者の国にも広めてくだされ」と正甫に頼み、そこで正甫は領地から出て全国どこへでも商売ができる「他領商売勝手」を発布した。 
これにより反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の富山の薬が全国何処へでも売られる基礎を作ったといわれる。 しかも、代金は使用した分だけの後払いにしたという。

このような商売は外国ではまず見られず、売り手と買い手の信用に立った商売で極めて日本的な素晴らしい商売であり、今でも富山の置き薬の伝統は生きている。
尤も、「先用後利」のアイデアは富山には事情先例が有ったらしく、立山信仰の衆徒たちが経衣やお札を一定の宿に預け、時期後に使用分だけ代金を集金したことに発しているともいう。 

元より越中富山は立山信仰の他に、「真宗」の盛んな地でもあり、「薬売り」は御師と呼ばれる宗僧が布教職務を通じて、衆徒や人々に健康に付与することも仏に仕えることであると考えていた。 
配付した護符(神仏が加護して種々の厄難から逃れさせるという札、護身符、護摩札、おふだ)や薬の代金は冥加金(みょうがきん)として、時を経た後に徴収していたともいう。 
越中富山は、地元信仰と併せて人々の健康に貢献する為の薬の製造、販売そして集金の方法が下地として有ったのである。



富山駅前には、行李(こうり・若い人には判るかな・・?)を背負う行商・薬売りの像と、行商に土産として貰った紙風船と戯れる子供の銅像が建つ。 
この像にもあるように薬売りの商人は、行く先々で子供達に手土産を持ってゆき、子供はそれを楽しみにしていたらしい。 
現在、大相撲で多数活躍している「モンゴル」で、この「先用後利」の配置薬のシステムが取り入れられ、重宝がられ期待されているともいう。


次回、「越中守・佐々成政



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日本周遊紀行(223) 高岡、新湊 「金物と射水」

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 日本周遊紀行(223) 高岡、新湊 「金物と射水」  .



高岡大仏
写真:駅前商店街の一角に座る銅製の「高岡大仏」(日本三大仏)

万葉線
写真:市街地を走る万葉線のチンチン電車(・・?)


その高岡はご存知、鋳物工業の発祥の地である。 
駅より1kmの地に金屋町の古風な町屋が並んでいて、高岡の歴史と文化の基点にもなった地域である。
慶長14年(1609年)、加賀藩第2代藩主・前田利長が高岡城を築いた際に、城下の産業発展のために砺波郡西部金屋に住んでいた鋳物師(いもじ)七人衆を高岡に呼び寄せ、鋳造作業場を開業させたことに始まるという。 
利長は鋳物師衆に対して5000坪の領地を与え、税や労役などの諸役を免除する特権を認めるなど手厚く優遇した。 

それ以後、金屋町の鋳物業は大いに繁栄し、高岡鋳物発祥の地として今日の高岡の銅器・アルミ産業の礎となっている。
現在、金屋町では銅器など芸術作品を軒先に配置したり、各所にモニュメントを配置し、観光客と住民の交流の拠点となる「鋳物資料館」も開設されている。 

現在も伝統産業として、梵鐘などの銅器製造(高岡銅器)が盛んで全国的に有名であり、日本三大大仏(奈良東大寺、鎌倉高徳院)の一つ、高岡大仏にも生かされている。 
又、豊富な水を利用した水力発電により、電力が安いことからアルミ製品の生産が発展しアルミ建材の出荷額が多く、三協アルミ、立山アルミの本社もある。


国道160号線は高岡市郊外で国道8号線になり、そこから富山方面に向う。 
高架下を派手な柄の市電と思しき電車がゆったりと走っている、この辺りの「万葉の地」に因んで、その名も「万葉線」というらしい。 
高岡駅前から小矢部川と庄川の間をぬって、河口付近から「新湊」に至っているチンチン電車(路面電車)である。
新湊市は、2005年11月に射水郡小杉町、大門町、下村、大島町が新設合併して「射水市」として新規に発足している。 「

射水」という地名は、奈良時代の「万葉集」の中で既に登場し、古くから書物や地図にその名が記されるなど、長い歴史を持つ由緒ある地名である。 
小矢部川のことを嘗ては「射水川」と称し、神通川・庄川の間に広がる富山平野の北西部に位置する呼称を射水平野ともいう。 
平野に湧き出る清水群を見て、古代の人々はこの地を「出(い)ずる水(みず)の地」と呼び、この言葉から「イミズ」(射水)という土地の名が生まれたともいう。

大きく湊を広げて発展した町を明治以降「新湊」と近代的な名称を付した。 
その後に、歴史ある「射水市」としたことは納得である。 
命名するにあたって、合併協議会での新市名の一般公募の結果「射水市」が大多数を占めたともいう。 
若くしてノーベル賞を生んだ富山県民の良識ある判断に感心する次第である。



余計だが、昨今の合併で新しい地域名、行政名の付与に苦慮している自治体もあり、時折、話題・ニュースとして取り上げられている。 
愛知県で新市の名称に「南セントレア市」というのが話題になったのは周知であるが、小生の住む(神奈川県厚木市)関東周辺地域に限定しても、珍妙にして意味が曖昧な行政名がある。 
わが独断と普見(偏見ではない・・)にて地域の方には申し訳ないが列記してみると・・、山梨県(南アルプス市、甲斐市、甲州市、中央市)、埼玉県(さいたま市・ふじみ野市、ときがわ町)、千葉県(いすみ市、南房総市)、東京都(あきる野市・西東京市)などであります。 幸いと言うか・・?、地元・神奈川県には、あやふやな地位名は無い・・!。
 

ところで、某テレビ局の番組で拝見したことがあるが、新湊市(当時)にはユニークで楽しい名前が多いという。 
「姓」というのは明治初期、政令で誰もが名乗る事になったが、その際、役場の担当者や地元の有力者、僧侶、神官、勤め先の社長、親方などと相談して決めたというのが一般的である。

専門家によれば、日本の苗字の八割は地名から、それ以外は職業に由来している言う。 
新湊の場合は職業に関する苗字の割合が非常に高く、しかもその立地場所から海や漁業、食品に関するものが多いのが特徴である。これ等の姓名を具体的に何処の誰が付けたかは古文書や資料が残されておらず解らないという。 


主なユニークな姓は次の通りで・・、  
釣さん、魚さん、海老さん、味噌さん、醤油さん、酢さん、糀(こうじ)さん、素麺さん、牛さん、万十さん、菓子さん、米さん、飴さん、風呂さん、桶さん、壁さん、大工さん、綿さん、等々・・、 
いやはや、ご苦労さん・・!!。          
 

次回は、「富山



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2012年4月11日水曜日

日本周遊紀行(222)氷見 「雨晴海岸」

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 日本周遊紀行(222)氷見 「雨晴海岸」  .




雨晴海岸
写真:雨晴海岸



氷見は、万葉集の選者・大伴家持(おおとも の やかもち)が愛した景勝地でもある。
越中国守だった家持は氷見周辺で詠んだ歌を30首以上、万葉集に収めている。 
家持は特に、富山湾越しの立山連峰の絶景を好んだようである。 
富山湾上に浮かぶように聳える立山連峰の景観は氷見市のシンボルで、このような陸から海越しに3,000m級の山々を眺めることができる場所は、この地区、氷見海岸一帯から雨晴海岸(高岡市)にかけてしか確認されないという。 
氷見が万葉の時代から歌枕の地であったのも納得できる。

大伴家持が越中守に任じられ越中国に赴任したのは奈良・天平10年(738)で、帰京するまでの5年間在任していた。 
家持には通常の国守としての任務のほか、東大寺の官業(政府が直接いとなむ営利事業)などの任があり、家持はその任をよく全うしながら、折に触れて歌を詠んだという。 
家持の生涯で最大の業績は「万葉集」の編纂に加わり、全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残したことにある。 
家持の歌は万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位であり、しかも家持の万葉集で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首もあり、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっているといわれる。


『 馬並(な)めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の 
           清き磯廻(いそま)に 寄する波見に
 』 
(馬を並べてさあ出かけようじゃないか、渋谿(雨晴海岸)の清らかな磯に打ち寄せているその波を見るために) 万葉集 巻17 3954


『 渋谿の 崎の荒磯に 寄する波  
           いやしくしくに 古(いにしへ)思ほゆ
 』          
(渋谿の崎(雨晴海岸)の荒磯に、寄せる波のように、 なおもしきりに、昔が思われる) 万葉集 巻19  3986

氷見から国道415の海岸沿いを行く、高岡市に入り氷見線の海岸に面した駅に「雨晴駅」がある。 
そこが渚100選、家持が詠んだ「雨晴(あまはらし)海岸」であり、白い砂浜と松林の美しい海岸線が続く。 
ここ雨晴海岸からは、海の向こうに雄大な立山連峰を望むことができ、海の上に3,000m級の山々を望むことができるのは、世界でも3か所だけだそうで、富山県の観光パンフ写真の定番でもある。
「雨晴」というユニークな地名は、義経岩に伝わる源義経一行の雨宿り伝説によるものという。

『 文治三年(1,187年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、海岸沿いの岩(義経雨はらしの岩)の下に家来ともども、雨宿りをした 』
というものである。 

又、「雨晴」は雨のち晴、雨を晴らすという意味で、不幸から幸福へと幸をもたらす、ということで能登の「恋路」や北海道の「幸福」と並んで人気があったとか・・?。
この雨晴海岸の山の手に二上山、「二上山公園」がある。 
ふたつの峰からなる二上山は、月や紅葉の名所として有名で、ゆるやかに山をめぐる全長約8kmの万葉ラインを中心に、万葉の歌碑や像のほかにいろいろな施設があり、四季の景色や展望が楽しめる。 
この地が、万葉の代表的歌人・大伴家持が越中の国守として5年間赴任していたが、この間に二上山に関わる数多くの歌を残している。 
JR高岡駅前に建つ大伴家持像は町のシンボルとなっている。
 
雨晴駅からは氷見線といい国道といい、海に落っこちそうな路線を辿る。 
この海岸際に小さな岩屋があり、「雨晴」の謂れとなった「義経岩」である。 
小さな鳥居の先の岩段の上に祠があった。

国道を更に雨晴トンネルを抜けると(鉄道は海際を走っている・・?)、その名も「越中国分」の駅がある。
この辺りは伏木地区といって、字に如く昔は越中の国府があった地域であり、この地方の政治・文化の中心地であったという。 
小矢部川が富山湾へそそぐ河口に位置する二上山東麓の河岸台地、伏木町古国府の地一帯が越中国庁の跡といわれる。 
その国庁跡に建っているのが勝興寺である。 

現在の境内は約三万三千㎡、中世風の豪壮な伽藍を持つ二十四間の本堂、そして、本堂前に建つ唐門(四脚門)とも国の重要文化財である。 かつての越中国府は、現在の勝興寺境内を中心として200m四方(4万平方米)あったと推定されているという。
高岡市の中心はこれより5kmくらい内陸に入った小矢部川と庄川の扇状地に広がる。


次回は、「高岡



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2012年4月9日月曜日

日本周遊紀行(222)氷見 「海鮮館」

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日本周遊紀行(222)氷見 「海鮮館」 .



海鮮館
写真:氷見の港に建つ「海鮮館」


七尾市から国道160号線を富山湾に抜けると波打ち際を延々と走るようになる。  
この氷見市に至るまでの海岸線は素晴しく透明感があり、目を見張る美しさである。 
特に小境海岸の白砂が鮮やかで、海の色香もますます冴えてくる。 
対岸には、未だ白く雪を戴いたアルプスの山並みが見え、富山湾の海の青と対比して絵のようである。 
特に富山湾の海の色は、明るく濃い青色で水彩画の水色を何度も塗り重ねて濃く塗ったようで独特のものがある。 
このことは天気や海底の状態や様々な要因があるのだろうが、もしかするとアルプスから流れ込む清流水の所為(せい)かもしれない。
そして、いつの間にか石川県から富山県に到っていた。
  

富山県(富山市)出身の「田中耕一」氏がノーベル化学賞を受賞したのは2002年12月で、若干43歳の時であった。 
島津製作所の社員であり、サラリーマンのノーベル賞受賞として日本国内で話題となったのが記憶に新しい。 
氏は、「コツコツ続ける堅実さと、粘り強さは富山の地(ぢ)のおかげ」といっている。 
隣の石川県が百万石の豊かな地であったのに対し、富山は加賀藩の支藩にすぎず、僅か十万石の貧国で、衣は麻か木綿、食は雑穀、酒の代わりに茶を飲むなど倹約を勧め、贅沢を戒めた。田中氏も言っているように、この様な堅実な県民性がノーベル賞という偉大な賞を戴いた一つの要因であろうと想像できるが・・?、無論、本人の人並みはずれた精神があったことは論をまたない。


富山県は近年、耕作地における水田比率は高く、勿論、政府が勧める減反政策に対して、その休耕地比率が極めて少ないともされる。 
中部の砺波地区においては、明治時代から続く異彩のチューリップ栽培が盛んであり、特に、富山湾の漁業の恩恵は国内でも最大級のものがある。 
その漁業の中心が「氷見」であり、美味しい魚が四季を通じて各種の漁が獲れる。 それには独特の理由が有ったのだ・・!。 

3000m級の険しい立山連峰とそれに連なる山並みからの雪解け水や雨水が、森林を通って河川に流れ込む。 
河川は森林の有機質がプランクトンを培養し、富山湾は絶好の漁場環境なのである。 
更に、富山湾の海底は、水深1000mも深く複雑な地形をなしていて、一気に湾底まで落ち込む斜面を海底谷、所謂、あいがめ(藍瓶)とか、「ふけ」と呼んでいる。 

この谷底に向かって大陸棚からプランクトンを培養する有機質が流れ、格好の漁場となるのである。 
富山湾の中でも氷見沖は最も大陸棚が発達しているため、この「ふけぎわ」が多く存在し、古くから漁業が盛んである。 
今も40数ヶ所もの定置網が設置されており、富山湾は全国的にも好漁場で「天然のいけす」とも呼ばれ、県内随一の漁獲量を誇っていて、その魚の美味しさも一味異なるという。
 


国道から氷見市内に入って、そのまま海岸通りを行くと洒落た園地が在った。 
港はモダンな造りで、観光船なども停泊している。 
近くに「海鮮館」なる巨大な食のデパートがあり、さすがに魚色豊かな氷見ならではである。 
因みに、氷見の魚のカレンダーは、春(3~5月)はマイワシ、サヨリ、クロダイ、夏(6~8月)はマアジ、トビウオ、クロマグロ、カジキ、マダイ、秋(9~11月)はカマス、シイラ、アオリイカ、ワタリガニ、冬(12~2月)はブリ、カワハギ、スルメイカ、マダラ、フグなどである。 他にも四季を通じて150種類以上もの魚が水揚げされ、初夏の「マグロ」、冬の「寒ブリ」、そして「氷見いわし」は広辞苑にも掲載されるほど有名であるとか。
 

次回、「雨晴海岸





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01. 15.

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