2012年3月9日金曜日

日本周遊紀行(211) 金沢 「金沢城」

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 日本周遊紀行(211) 金沢 「金沢城」   .




金沢城
写真:金沢城と兼六園を結ぶ石川橋



兼六園に隣接して「金沢城公園」がある。

主要道を跨いだ貫禄のある立派な橋・石川橋が両所を結んでいる。 
その向こうには石川門があり、左右に二つの楼閣が見えている。 

この貫禄ある橋脚の下には広大な「百間堀」というのがあり、城を取り巻いていた。百間堀は、一向一揆の尾山御坊(後の金沢城)を攻め落とした佐久間盛政が、その跡に今の金沢城を築城する際に掘らせたものだという。 
工事に駆り集められたのは、皮肉にも元の主たちである、あの一向宗の門徒達であったという。


この辺りは金沢市の中心部に位置する所でもあり、百間堀は、明治末期に埋め立てられて道路になり、市電が走るメーンストリートになった。 
道路となった百間堀通り(百万石通り)では、加賀の藩祖・前田利家が金沢城入城を記念して行われる「加賀百万石祭り」の主要会場であり、行列や木遣りの催事が行われる。そして、隣接する兼六園は、祭りの間は無料開放されるという。


1546年、前身となる空堀や柵などを備えた城作りの寺院・尾山御坊(金沢御堂)が建設され、加賀一向一揆で加賀国の支配権を得、本願寺の拠点となったことは先に記した。

1580年 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、そのまま尾山城と改称して用いたが、後の賤ヶ岳の戦いの際、主君・柴田勝家が敗れたのと同時に没落し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が天正11年に入城し、改築城している。 

加賀の前田氏は「加賀百万石」といわれ、江戸時代の大名の中で最大の石高を持つ大大名である。2番目の薩摩の島津氏が77万、3番目の仙台の伊達氏が62万というから、120万石をもつ前田氏は如何にダントツであったかが判る。


慶長4年、利家が没し家督を受けた利長は、豊臣家・五大老の一人であり、更に、この時の利長は豊臣秀頼の傅役(もりやく)でもあった。 
利長同様、五大老の一人であるが、内心、天下を狙う徳川家康が最も警戒したのが豊臣家と併せて利長(前田家)であり、家康にとっては厄介な存在であった。 

家康はこの厄介者を潰そうと難題をかけてくるが、それに対して利長は弱そうな振りをして何気なくも、鮮やかに難題をかわしている。 
謀反の疑いをかけられても、母親(まつ)を江戸に証人・人質として出し忠誠を示している。 一方で、利長の弟・利常と珠姫(徳川秀忠の娘、家康の孫。)の婚姻関係を約し、自ら隠居して利常に家督を譲った時には、豊臣色の濃かったはずの前田氏は徳川色に染まり、三代家光が将軍になる頃には前田氏と徳川氏は外様にしては異例の良好な関係になっていた。


「戦」という強硬手段を用いず、徐々に豊臣氏を離れ徳川氏に接近、その地味にして先見の目と緻密な利長の行動の結果が、前田家が幕末まで存続させることにつながってゆく。 

徳川・藩政時代は、各藩では家督問題等で内紛が発生した場合は即刻、縮小されるか廃藩に追い込まれる中で、加賀百万石が近世にまで温存したのは、前田氏の藩祖、及び利長の緻密な思惑を踏襲したに他ならない。


徳川家の珠姫が輿入れした時には、徳川家からは数百人の家来が付き添ってきたという。
その多くが、今の石川門正面の兼六園入り口付近に住み付き、その名も「江戸町」と呼ばれる屋敷街を形成していた。 

珠姫が24歳で亡くなった後、付人、家来たちの多くは江戸に帰り町屋は消滅したが、近年の発掘でその住居跡も確認されている。 

百間堀の中には、白鳥堀や蓮池堀といった、「江戸風」の趣を取り入れた御堀端があったとされ、徳川家康の孫・二代将軍秀忠の娘「珠姫」の威光は加賀の地で大きく執り成し、前田家の徳川への義理・忠臣が伺える。 

江戸生まれの姫さまをお慰めする理由で加賀の地に「江戸の風」を吹かせ、「二つの堀が江戸城と同じ配置で並んでいて、金沢に成立した江戸町の風情」を保ったという諸事は、加賀百万石にとって少なからず好影響を与えていたことは確かである。


次回は、「金沢の茶屋街



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2012年3月8日木曜日

日本周遊紀行(211) 金沢 「兼六園」

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「世界は一冊の本だ。旅をしないものはその本を一頁しか読めないだろう。」
アウグスティヌス(古代キリスト教世界で最大の教父、神学者と言われる) 


日本周遊紀行(211) 金沢 「兼六園」 .


兼六園
写真:兼六園(入場口付近)と徽軫灯篭と黄門石橋(下)

灯篭と石橋



見れば、右手に広大な「小松空港」が横たわっていた。

走り出して間もなく梯川の橋を渡る。 
ここから先の北陸道はまるで海上の上を走るが如く一気に走り抜き、金沢西I・Cで下りて金沢市内へ向かった。  

県道25号、通称、西インター大通りから市内中心部、北陸本線を超えて名所「兼六園」へ達した。 
緑豊かな、やや勾配の道の上に入園口がある。
小生、何度か訪れているので入園はせずここまでで、記念の写真に収めるのみとした。


兼六園は、春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる「雪吊」は冬の風物詩として情緒を添える。 

又、霞ヶ池の湖畔には、琴に見立てて徽軫灯籠(ことじとうろう)というのが据えられていて、園内でも有名スポットであり池に映える姿は優雅で美しい。 

徽軫(ことじ・琴柱)とは、形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱に似ているため、その名が付いたと言われている。 
又、この灯籠の架台は、虹のような形の橋に支えられているため虹橋ともいい、琴橋という別名もある。 
徽軫灯籠は、水面を照らすための雪見灯籠が芸美に変化したものであり、兼六園を代表する景観となっている。


兼六園は、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残されている。
岡山県の後楽園、水戸の偕楽園とともに日本三代名園の一つに数えられていることは周知である。 

兼六とは、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりき)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼ね備えた庭ということで、その名が付けられたという。 

園内には、池を渡る石橋や築山を巡って曲水や池、滝などが配され、随所に縮景という作庭手法が用いられている。 

例えば霞ヶ池は琵琶湖を模じったともいい、霞ヶ池と瓢池の間にある「黄門橋」(黄門と言えば水戸黄門が有名であるが、加賀三代目・前田利常も加賀の黄門様と言われた)と「獅子厳」は謡曲・「石橋」を表現しているという。


謡曲「石橋」は、能の中で最も勇壮にして豪華な演目であるという・・!、
文殊菩薩(知恵を授ける仏尊)の乗り物の霊獣・獅子を表すことにより、(文殊)浄土を象徴しているとされる。

『 平安の歌人・大江 定基(おおえさだもと) は出家して寂昭(じゃくしょう)法師と号し、唐・天竺へと渡り、清涼山へと至った。 目も眩むような深い谷には幅の細い石の橋が懸かり、渡ろうとしていると童子が現れ、「この橋は人間の渡れるものではない・・、」と諭し、「向側は文殊菩薩の浄土である。ここで待てば、やがて奇瑞(目出度いことの前兆として現れる不思議な現象)が現れるであろう。」と告げて消え失せる。 しばらくすると橋の上に獅子が現れ、国土安穏を祈念しながら、咲き乱れた牡丹の間を舞い戯れる。』  


牡丹は百花の女王、獅子は百獣の王、この最強にして最上の組み合わせは、古代、高貴な身分の人が御印として使ったものであるとされた。 
一般に、歌舞伎における「獅子物」と「道成寺物」の両舞踊は、相並んでの女形舞踊の二大ジャンルといわれ、獅子物舞踊はその発想を謡曲「石橋」に発しているという。


次回、「金沢城
     


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2012年3月7日水曜日

日本周遊紀行(210) 小松 「安宅の関」

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「人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである」 <ゲーテ>  


 日本周遊紀行(210) 小松 「安宅の関」  .



安宅関
写真:安宅関の銅像
弁慶(中央)・富樫(右)・義経(左)の各像、石碑に刻まれた「智・仁・勇」の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気を表現している言葉



北潟湖の南端は既に加賀・金沢であった。
そして、北陸道の加賀I・Cがすぐ近くにあり、これに乗って金沢まで行くことにした。 

途中、「安宅PA」で休憩、ここがまた珍しくトイレ以外何にも無い、売店も無ければ自販機も、ベンチも無い、無い無いずくしでこれはこれでよかったが。 
ただ、意外なことに、トイレがとても管理の行き届いて綺麗なので、「おー!」という感じであった。


何も無い安宅のPAであるが、この地安宅は「安宅の関」で有名なところである。 
石川県小松市安宅町、日本海に注ぐ梯川(かけはしがわ)の左岸の丘、ここは美しい松原で「安宅関跡」の碑が建ち、そのほか安宅・住吉神社、神社の参道に弁慶逆植松、弁慶・富樫問答の像などがあるという。 


弁慶(中央)・富樫(右)の銅像は、七代目松本幸四郎・二代目市川左団次をモデルとし、左端は義経像である。 
石碑に刻まれた智・仁・勇の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気であり、わが国古来の国民性の美しさを端的に表現している言葉ともいう。


日本海の海の色は、太平洋と違って濃い紺青色で、松の緑と対照的に美しい。 
この「安宅の関」(あたかのせき)は、古来、梯川の上流にある北陸路の通行を監視する、重要な役目を持っていたという。 
その関は、加賀安宅に加賀の守護・富樫氏が設けたと言われる関所であり、歌舞伎の「勧進帳」で有名になった箇所でもある。


『 源平・壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は生来の猜疑心から、これを退けようとする兄頼朝に追われ、奥州・平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしていた。 頼朝はこれを捕らえようと各地に関所を設け、当、安宅の関守は冨樫左右衛門泰家が任に当たっていた。 そして文治3年(1187年)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従が安宅の関にさしかかる。 一行の山伏姿を関守・冨樫に疑われると、弁慶は、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧である称し、何もか書かれていない勧進帳(寄付帳)を読み上げ、難を逃れようとした。 しかし、荷人夫姿の義経に疑いをかけられると、弁慶はすかさず金剛杖を持って主君・義経を打ち据える。 冨樫は弁慶の忠誠心に心をうたれ、義経一行だと気付きながらも関の通行を許したのであった。 』
 

ここまでは、後年、歌舞伎や物語になったのであるが、以前は義経の西国落ちの道程を扱った「船弁慶」という猿楽(能楽の原型)や能になって演じられたのが始めであると言われる。 

又、能以外にも幸若(幸若舞のこと、室町後期の芸能の一つ、広義の曲舞の一種で、武士の世界を素材とした物語を謡うのを特色とする)の富樫軍記物や「義経記」などの諸要素を取り入れて成立したともいう。

安宅(あたか)能楽は、観世小次郎信光(室町期の能作者)の作とされ、曲名の四番目の出し物である。 義経追補のために設けられた新関を富樫(ワキ)が守護している。 弁慶(シテ)は、義経(子方)を荷人夫姿につくりあげ山伏の一行として新関にかかると、富樫はこれを怪しみとどめる。 一行は覚悟を決め、山伏の勤行を始めるが、勧進帳の聴聞を求められた弁慶は、これを高らかに読み上げる。 疑いも晴れ、関を通ろうとするとき、変装した義経を見出し供の郎党(ツレ)は詮議するが、弁慶の知略で事なきをえる。 安堵する主従の元へ、先度の非礼をわびる富樫から御酒が届けられ、弁慶は一差し舞って喜ぶ(男舞)。 以上のように劇的構成をもつ現代物で、後に歌舞伎に入って「勧進帳」となった。

『 それ、つらうらおもんみれ~ば  大恩教主の秋の月は ねはんの雲に隠れ 生死長夜の永き夢 驚かすべき人もなし ここに近頃の帝おわします 恩名を聖武天皇と申し上げ奉る 最愛の夫人にわかれ 追慕やみがたく 涕泣眼にあらく 涙玉を貫く 思いを善路にひるがえし 上求菩提のため盧遮那仏を建立したもう  しかるに去んじ 治承の頃焼亡しおわんぬ かほどの霊場絶えんなきことをなげき・・』

勧進帳を諳(そら)んじてた弁慶は、怪力無頼の強僧でありながら、学識、知恵のある智僧でもあった。

次回は、「金沢




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2012年3月6日火曜日

日本周遊紀行(209) 吉崎 「高僧と浄土宗派」

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「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。」
(スティーブンソン;イギリスの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイスト)  

 日本周遊紀行(209) 吉崎 「高僧と浄土宗派」  .




ここで法然、親鸞、蓮如と浄土宗の流れについて・・、 

本願寺とは今の西本願寺の事であって、浄土宗の流れを汲む宗門である。 
その浄土宗は、平安末期から鎌倉初期にかけて日本の高僧である「法然」(ほうねん:1133年~1212年)によって開かれた教義であり、後年、円光大師とも言われた。 
法然は比叡山・天台宗の堂僧となり、その教えを学んだ後、それを新しく展開し、教示したのが「浄土宗」であった。


法然の門下生であった「親鸞」は、法然の死後、自身はあくまで法然を師と仰ぎ、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、更に高めて行くことに力を注ぐためとして「浄土真宗」を起こした。 

親鸞(しんらん、1173年~1262年)は見真大師(けんしんだいし)ともいい、各地で布教活動をするが、35歳の頃、国の権威者から専修念仏禁止(真宗派による予想外の布教成果に嫉妬した奈良・興福寺やと比叡山の仏僧たちによって反旧仏教者と見なされた)の弾圧を受け、それが為、越後国府へと流罪となり、赦免まで5年間を要した。 

親鸞自身は「僧に非ず俗に非ず」という生活を送っていたが、後に、常陸国(茨城県)へと旅立ち、「教行信証」(浄土真宗の教書)など著して「浄土真宗」(一向宗、門徒宗とも通称される)を開く。 

弘長2年(1262年)、京で90歳で没する。 親鸞聖人の墓所として建てられたのが京・知恩院の近くの大谷の本願寺であり、浄土真宗本願寺派の一派とし本山とした。


時代は下って、室町中期の1457年、「蓮如」は第八代・本願寺門主となった。 
当時の本願寺は衰亡の極みにあり、宗派の中心寺院としての格を失い、「青蓮院」(最澄が開基した天台宗寺院:三千院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院とされている)の一末寺に転落していた。 

1465年、大谷本願寺は比叡山の僧兵によって破却され、結果、京都から近江に難を避けた蓮如は越前吉崎に移った。 
この頃、社会そのものが衰退していた時期でもあったが、徐々に民衆が力を得て進展し、農村の生産力の増大とともに旧荘園領主の没落で、農民の地位は次第に向上していった。

蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な伝道を開始した。 
蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は近畿から東海、越前、加賀地方に広がった。 

蓮如は親鸞以来の血脈を根拠として北陸の浄土系諸門を次々と統合し、本願寺は爆発的に発展し、「一向宗」とも呼ばれるようになった。 
 

教団の拡大に伴い、1473年には加賀の統治者・富樫氏(とがしし:富樫庄・石川県金沢市 を本拠とする豪族であった)の要請を受けて、守護家の内紛、政事にまで介入するようにる。 
以後、加賀には国主の代理として一門衆が在住するようになり、次第に国人層(役人)に代わって本願寺による加賀支配が行われるようになった。 

1546年には尾山御坊(金沢御堂、後の金沢城)が建立され、越前、加賀は百姓、門徒宗の支配する地域になっていった。 

又、ここを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させて行くのである。 
一向門徒宗は1560年代には越前・朝倉氏と、1570年代前半は越後、加賀の上杉氏と、その後は織田信長とそれぞれ対立し、朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたともいう(九頭竜川会戦)。 

一般に、加賀の一向一揆とは、1488年頃から1580年にかけて、加賀国の本願寺門徒らが中心となって行った一向一揆のことを指している。
 

戦国期、信長は1496年、石山本願寺(蓮如のときに摂津国石山・現大阪市中央区に建てられ、後に浄土真宗の大本山となった寺院)を降伏させ、尾山御坊は信長重臣・佐久間信盛によって陥落させられ僧・民集団の一揆は解体された。 

関ヶ原戦後の江戸開幕時、徳川家康は本願寺のすぐ東(六条烏丸)の土地を「教如」(石山本願寺の第12代門主)に与え、最大の宗教勢力であった本願寺の勢力分散をはかった。 
これにより本願寺は、西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派)と東本願寺(現在の真宗大谷派・真宗本廟・)とに分裂することになった。 
東西本願寺は、この時点から現在まで存続している。


次回は、「小松・安宅




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2012年3月5日月曜日

日本周遊紀行(209) 吉崎 「本願寺・蓮如」

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日本周遊紀行(209) 吉崎 「本願寺・蓮如」   .



北潟湖
写真:北潟湖


再び国道305から芦原へ出て、金沢方面を目指す。 
北潟湖」という湖畔を右に見ながら暫く走るようになる。 

湖畔は葦の茂る静かな湖で、さして深さも感じられず、所々で釣り人が糸を垂れている。 
広い湖のわりには比較的で身近な沼のような雰囲気をもっている、こんな湖はきっと魚影も豊
富なのだろうと勝手に想像してしまう。 


北潟湖は南北に長い湖(正確には南西から北東)で、北側の先端部は大聖寺川と合流して日本海に繋がっている。 
北部では汽水湖(海水と河水とのチャンポン)の状態であるが、南部ほど真水であるという珍しい湖であり、そのため確かに魚の種類は多いという。 
中には1m以上もある草魚を釣り上げた人もいるとか・・ギョッ(魚)!。


湖のほぼ南端の細くくびれたところの橋を渡ったところ、ここ吉崎地区に「蓮如上人記念館」というのが在った。 
湖の畔にある大きな施設であり、蓮如上人(れんにょしょうにん)の足跡や付近の歴史が分かる資料館で蓮如館、民話館、自然館の三館からなっているようだ。 

資料館である「鳳凰閣」は蓮如上人に因んだものであろう、寺院を模した堂々たる建物である。 
ただ、見学料は各施設込み込みで2000円というのはチト高く、時間のことも考慮して入場は遠慮した。



蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧で、本願寺中興の祖といわれる。 
時に、本願寺蓮如とも呼ばれる。 

浄土真宗を起こした親鸞の直系とはいえ、蓮如が生まれた時期の本願寺は、他宗や浄土真宗他派に対し、衰退の極みにあった。 
その本願寺を中興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた高僧であった。 

明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師(えとうだいし)の諡号(しごう、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る)を追贈されている。 
蓮如は五十歳前後に、ここ越前吉崎に来て坊舎を建て、数種の教文を刊行するなど、独創的な教示を展開しながら、凡そ、四年間滞在していたという。 

蓮如は本願寺・第八世の門主でもあった。 


次回は、「高僧と浄土宗派



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