2011年9月30日金曜日

日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」(2)

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 日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」(2)   、





写真:関門海峡に面した「みもすそ公園」にある源義経(左)と平知盛の動的な両勇姿像


写真(下):平家一門を祀った「赤間神宮」




『 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり・・ 』 

時は平安末期の1185年3月、平氏は平宗盛が安徳天皇および神器を奉じ、源氏は義経を総大将として、世紀の決戦が始まることになる。

今まで源氏軍側は軍船を揃えることが出来ず、また海戦に不慣れな為、あくまで陸戦で決着をつけてきが、ここ最後の決戦に至り、遂に敵の土俵に登らざるを得なかったし、平家の目論見もそこにあった。 
平家軍は、海戦に不慣れな源氏軍を自慢の水軍を持って殲滅しようと、そこに一縷の望みを掛けたのである。

緒戦は目論見どおり平家が優位たった、潮の流れに乗り戦いの先手を取ったのである。 
しかし潮の流れが変わると状況は一変した。 

寿永4年(1185年)2月、義経の奇襲攻撃により屋島を退いた宗盛率いる平家軍は、長門国・彦島に陣を構える知盛との合流を果たす。
彦島は、現在のJR下関駅、関門海峡西口にある島で、小瀬戸と呼ばれる潮が川状に流れていて、本島とは分離されている島であるが、今は人工的に陸繋されている。

3月24日、源氏軍が大軍を率いて来襲、平家軍はこれを壇ノ浦で迎え撃つ。 
戦いは卯の刻(午前6時頃)に始まり、潮流を利用した平家の善戦の前に、源氏軍は苦戦を強いられる。 
しかし、潮の流れが変わると形勢は一転、相次ぐ味方の離反、義経のセオリー無視の攻撃により、平家軍は惨敗を喫するのである。 

清盛の妻・二位尼は八歳の安徳天皇を抱いて入水(じゅすい)し、一門も次々と海に飛び込み、総大将宗盛は入水するが、生け捕りにされて鎌倉で引き回された後、都において斬首されている。
平家は完全に敗北となり、ここに平家一門は滅亡するのである。

因みに、壇ノ浦の合戦では瀬戸内の海賊(海軍)が、どちらの側に付くかが勝敗を左右した事でも知られるが、逆に言えば本来は瀬戸内の海賊衆を支配下に置いていた平家が、見限られた時点で勝敗が決していたとも云われる。 

この時、初め平家側に就いていた阿波の水軍凡そ300艘が寝返って源氏方に付き、平氏軍の唐船の計略を義経に告げ、この時から知盛の作戦は失敗し平家の敗北は決定的になったとされる。 
元々、関東騎馬武者に海戦を指揮しろといっても所詮無理で、それでも屋島の戦いのエピソードでは、後ろへも漕げるように逆櫓(さかろ)を取り付けようと進言した者に対して、義経は「馬鹿なこと言うでねえだ・・! 」と突っぱねたのは有名な話であるとか。



関門橋の下を通って、車の往来の激しい国道9号線を下関市街に向かうと、右手高台に「赤間神宮」が見えてくる。 
今から800年前、源平最後の合戦の際、僅か八歳で壇ノ浦に崩じた「安徳天皇」を赤間関の阿弥陀寺境内に葬ったとのが、今のこの社宮である。
建久2年(1191)朝廷は、長門国に命じて御陵上に御影堂を建立し、勅願寺として天皇のご冥福を祈られたという。

赤間神宮の左隣には安徳天皇陵がある。 
赤間神宮の水天門は朱塗りの竜宮造りで丘の中腹に位置し、海峡を通過する船からよく望見できる。 
境内には壇ノ浦で亡くなった平氏一門を祀った「七盛塚」があり、平教盛(のりもり):清盛の弟、平知盛(とももり)、清盛の四男・平経盛(つねもり):清盛の弟、清盛死後一門の長老・平教経(のりつね)、経盛の子、義経を追いつめるが討ち漏らす平資盛(すけもり)、清盛の長男重盛の子・平清経(きよつね)、平有盛(ありもり)など等が祀ってある。 

清盛の長兄・重盛の死後、平家一門を背負ってきた知盛は、安徳天皇と二位尼の入水を見届け、「見るべきほどの事をば見つ、今はただ自害をせん」と言って入水したという。知盛の墓と伝えられる石塔と供養塔が対岸門司の「甲宗八幡神社」にあるという。


かの有名な「平家物語」の巻頭一節・・、

『 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹(さらそうじゅ・インド原産の常緑高木。菩提樹と並び仏教聖木の一つとされる)花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。 おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえに)に風の前の塵に同じ・・、 』


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談物語・「耳なし芳一」の説話・・、

『 その昔、この阿弥陀寺(現、赤間神宮)に芳一という琵琶法師がいた。夜毎に平家の亡霊が来て、何処ともなく芳一を誘い出すのを、ある夜、番の僧がこれを見て後を追えば、芳一はやがて行くほどに平家一門の墓前に正座し、一心不乱に壇ノ浦の秘曲を奏でているのである。 気がつけば、その辺りの情景は数知れぬ程の鬼火が飛び往い、芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相となっていた。 さすがの僧も慄然として、和尚に告げれば一山たちまち驚き、これは平家の怨霊、芳一を誘いて八裂きにせんとするものである。然らば、和尚自ら芳一の身体、手足に般若心経を書き点けると、不思議なことにその夜半、亡霊が再び来て芳一の名を呼んでも応えず、見廻しても姿がない、ただ、暗夜に見えているのは芳一の両耳だけであった。 亡霊は見えている芳一の耳を切取って、何処ともなく消え失せた。是より人々は芳一を「耳なし芳一」と呼ぶようになったという。 』


次回は、「巌流島



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2011年9月28日水曜日

日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」

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 日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」   、




壇ノ浦(関門海峡)での合戦模様「義経像」



関門海峡・長門の浦・「壇ノ浦」で最後の決戦が行われる・・! 、

夕べは、帰館してから泊り客で、旅の途中でもある若者達と暫し談笑した。 
特に、小生もそうだが北海道へは日数をかけて巡遊したらしく、その話で多いに盛り上がり、特に利尻や礼文島には感銘を受け、知床でヒグマに会った話や「カムイワッカの湯」には三人とも拍手、歓声で納得しあったものである。  

海産干物のつまみにウイスキーがどんどん減ってゆく、若者二人はいずれも酒豪らしく平然としている。 旅人は、こう在りたいし、これも旅の楽しみである。 
初めの口約束どおりPM11時には就寝した。
実は小生はこの時点では、利尻や礼文島へは未だ訪れてはいなかったが、若者たちの話に刺激を受け、直後の年に訪ねている。 

北海道道北・「利尻・礼文」旅行記 URL 
http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hakkaido1.htm 




翌朝、小生は6時前には起きて、若者二人の旅の安全を祈ってこっそり退出した。
気が付くと盛んに船の汽笛というか霧笛が聞こえてくる、早朝の出口である前庭に出てみると納得であった。 海峡はおろか辺り一面は濃いガスに覆われている。かなりの濃霧であって、航路の安全を確認するため盛んに霧笛を鳴らしているのである。

先ず、昨日素通りした公園へ立ち寄った。 
あの壇ノ浦の源平合戦で一大決戦を行なった両勇姿、源義経と平知盛の動的な像が華やかに据えられている。 
石碑には「壇ノ浦古戦場跡」とあり、同じく、「安徳天皇入水の碑」があって、刻字に「長門本平家物語所収の二位尼(平清盛の妻)辞世の歌」として・・、

『 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 
          波の下にも みやこありとは
 』

と刻まれている。

「みもすそ(御裳)川」は、関門道の下関I・Cから火の口山、海岸に至る道の脇を一部暗渠(あんきょ)となって流れる小さな谷川で、海峡に達している。 
途中の町並みは「みもすそ町」といい、海岸公園も「みもすそ公園」と称している。


海峡は本州・下関と九州・門司間の関門海峡をいい、地域的には大瀬戸、早鞆瀬戸(はやとものせと)とも言う。 
壇ノ浦とはこの海峡の一部をいい、高速道の下関側に「壇ノ浦P・A」が在るように、この町一帯を壇之浦町ともいい、この町の海峡に面している一帯を「壇ノ浦」と称しているようである。 
勿論、通常、「壇ノ浦」というと古戦場、源平の最後の合戦地を表していることには論を待たない。


源平の戦いの中の一つ「壇ノ浦の戦い」は、数ある合戦の中でのただ一度の海戦であった。
ところで平安期、平氏・平家台頭の要因になったのは、世に言う「保元・平治の乱」からである。 
保元元年、皇室・朝廷内部で崇徳上皇と後白河天皇および摂関家(摂政関白の藤原両家・頼長と忠通の争い)に起った内乱は、後白河側に付いた平清盛・源義朝の軍を主力とした戦いで勝利を収める。 
元々、武力をもって朝廷貴族を守るべき立場の武家が、この乱での政界進出の大きな契機となったといわれる。 
特に、平清盛はこの時、武力によって一瞬ともいえる数時間でこの戦の勝利を治めたという。

続いては平治元年、今度は藤原両家を含む、平清盛と源義朝の武家同士の勢力の争いで、所謂、最初の源平合戦は清盛の活躍で平氏が勝ちを治め、源義朝は尾張で最後をとげる。このとき、幼少だった頼朝、義経は命乞いで助かっているが・・・!、

以降、清盛は武家である軍事力を背景に都で警察権を握り、これを地方、全国にまで拡大してゆくことになる。 
併せて清盛は、これまで貴族中心だった朝廷政治への介入を果たし、政治の中枢へと勢力を拡大してゆく。 
清盛の身内は摂関家、天皇家との政略的婚姻を進めてゆき、次第に高位高官を占めるようになり、自らも経済援助などで天皇家へ接近しつつ、遂に最高役職である貴族最高官位・「従一位太政大臣」にまで昇りつめる。 今で言う内閣総理大臣である。 
清盛の娘・徳子は後白河法皇の皇子・高倉天皇と結婚、後に安徳天皇をもうけることになる。

政界をほぼ掌握し、驕れる平家は次第に傲慢になりつつあった。 
子弟の貴官は専横な振舞が多くなり、この頃から「平家にあらずんば非人なり」と叫ばれ、市中には密偵を放ち、平家の悪口を言う者は捕われ、上流にあっては貴族への暴力へとエスカレートするようになる。

見かねた後白河法皇は、次第に清盛の意向から離れるようになり、遂に、法皇は高貴高官等による平家追討の為の所謂、「鹿ヶ谷の謀議」と言われる密議へも参画した。 
鹿ヶ谷は、現在の京都市左京区大文字山の西麓にある地名で、この地で1177年、俊寛僧(後白河法皇の近臣、法勝寺執行)、藤原成親、僧・西光(藤原師光・平治の乱後に出家、後白河法皇の近臣)らが会合して平家を滅ぼそうと談合した山荘で、その跡を談合谷ともいう。 

しかし、これは平家の密偵により事前に発覚し、各官は捕らわれの身となって終わる。 
一説には出撃直前、清盛の西八条邸を多田行綱(源行綱、後白河法皇の近臣)が訪れて、平氏打倒の謀議を密告したともされている。

絶頂期にある清盛は、1180年、安徳天皇を奉じて一時、新都を福原(今の神戸市兵庫区)に置いたが、公家たちの反対が多く半年で京都に復帰している。
一門の繁栄は、後継長子・重盛の若死を契機に、やがて内部の結束が乱れはじめ、清盛の求心力も次第に弱まる。 

この時期、清盛は宮中における不平貴族の諸氏を乾坤一擲の大粛清を強引に行っている。 清盛の軍事クーデターとも言われる。 
それから間もなく清盛は64歳で死去し、この頃より源氏が胎動が始めるようになる。 

あの時期、幼少のため命乞いして助かった頼朝、義経が、いよいよ源氏の白旗の幟を揚げることになる。
その後、平清盛没後(1118~1181)4年にして、平氏の嫡流はここ関門海峡・長門壇ノ浦で最後の決戦が行われるのである。


引き続き「壇ノ浦



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2011年9月26日月曜日

日本周遊紀行(173) 下関 「本州西端の都市」 

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 日本周遊紀行(173) 下関 「本州西端の都市」    、




下関ユースホステルと愛車




本州最西端の都市・下関は古代から近代まで華やかな歴史に彩られていた・・、

高速道・下関I・Cを下りて、とりあえず今夜の宿泊所を訪ねてみた。 
海峡に面した「火の山」という小山の山腹に「ユースホステル火の山」というのがあり、その名も火の山ロープウェイの乗り場(駅名は壇の浦)のすぐ近くで、緑に囲まれた清閑な地であった。

火の山」(ひのやま)というと火山をイメージする山のようだが、その名は実は、かつて山頂に敵の襲来を都に知らせるための狼煙台(のろしだい)が設けられていた事に由来しているという。 
明治の中期には、山頂に砲台が置かれていて重要な軍事拠点でもあったらしい。
現在は瀬戸内海国立公園の最西端にあたり、関門海峡に面した風光明媚な場所になっている。



玄関を入ると食堂兼広間があり、カウンターにハキハキした男性の係員がいて、とりあえず受付を済ませた。 
なかなか清楚、清潔な建物であり、過日世話になった安芸の宮島口のY・Hとは大違いである。表の庭園は野外食事場でバーベキューなどが出来る様に設備が整っていて、尚且つ、関門海峡にも面しているので、往来する大小の船舟や豪快に架かる関門橋も一望できる景観の地でもある。

部屋に案内されると既に若者二人が先着していた、一人は千葉在住の日本縦断徒歩旅行者、もう一人は大阪・浪速の自転車全国巡りの旅人であった。 
その場に相応しくないような老年(熟年・・?)の小生も、一通りの挨拶と自己紹介をした。その後、入浴、食事のため部屋を後にし下関市街へ向かった。


国道へ出ると其処は既に関門海峡に面していて、海峡沿いには歴史を刻む史跡でもある公園が細長く展開している。 
勿論、頭上はるかに圧倒的迫力をもって、あの「関門橋」が両陸を渡している。 又、国道を挟んで、こちらは関門(下関-門司)を結ぶトンネルが、地下に下関側入口としてあった、「関門トンネル人道」というらしい。 

入口からエレベーターで地下へ降りること30秒、あっという間に地下55mに到着し、武蔵と小次郎のキャラ絵が迎えてくれた。 
四角い隧道であり、天井コーナーには蛍光灯が明るく照らしている。
普通の地下道の様でもあり、数人の歩行者がいて会話がボワーンと響いて聞こえてくる所は、やはりトンネルである。


ところで、関門を渡るルートは幾通りかある。
先ずはご存知関門海峡のシンボル的存在の「関門橋」で、本州と九州を結ぶ高速自動車道に架かる橋である。 
それと関門を繋ぐトンネルで、先ず新幹線が通る「新関門トンネル」と在来線が通る「関門鉄道トンネル」、更に、上が自動車道、下が人道の二重構造になっている「関門国道トンネル」と、トンネルだけで三ルートある。 
あとは航路で、下関市場近くの唐戸港と門司を結ぶ関門連絡船が五分で九州を結んでいる。
その他、関門海峡フェリーなどを合せると実に7ルートが存在するという。


先刻、調べておいた下関唯一の天然温泉「日の出温泉」へ向かう。
カーナビに従って、海岸の国道9号線を下関市街からJR線を過ぎ、メーンルートでもある駅の西側を少々行き、コンビニの前の路地にその温泉はあった。 
何かの引っ込み線であろうか、やや古びた線路の向側に運河のような小瀬戸が見渡され、すぐ向かいは彦島が横たわっている。 

夜になると人影も疎らになり、こんなところに温泉があるのかとちょっと不安になったが、温泉マークのネオンがチャンと点いていた。 
玄関上には派手な赤色の電飾看板が辺りを照らしていて、如何にも銭湯といった雰囲気はある。


日の出温泉は、昭和28年(1953年)に銭湯を開設しようと井戸を掘ったところ、偶然にも湧き出す水は生ぬるくて、湯気がたちあがったという。
早速、水の分析をしたところ正真正銘の温泉であることが判り、昭和34年に正式に温泉利用許可を得て、天然温泉の銭湯として営業しているらしい。

脱衣所は明るくて清潔な感じで、近所の人で賑わっているようだ。 
タイル張りの浴室も所謂、町の銭湯といった感じで派手さはないが、大浴槽には無理やり取り付けたようにジェットバスが付いている。
又、小生は苦手だが、サウナもあるようだ。 
無色透明の天然温泉であり、成分的には弱アルカリの単純温泉である。
備品などはなく石鹸持参は正解であり入湯料360円は納得であった。

「日の出温泉」 URL  
http://www5.ocn.ne.jp/~hinode/ 

湯上りに、市内駅近郊の「下関シーモール」(ショッピングセンター)の一角で、下関港名物の“回転すし”で舌ずつみをし、今夜の泊まり宿へ戻った。


次回は、「下関・壇ノ浦
 




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01. 15.

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