2011年6月25日土曜日

日本周遊紀行(144)隼人 「熊襲と隼人」

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 日本周遊紀行(144)隼人 「熊襲と隼人」   .




神話と歴史の主要地、大隈隼人の「隼人」とは・・、

霧島神宮を後にして、国分、隼人方面に下る。
この地方は名称からして、往時の薩摩地方の中枢部といえるのではないか・・? 
西の川内から入来、姶良、牧園、霧島、そして、この地の隼人、国分、都城、西都、日南、その他の周辺地域も古代日本の歴史が表舞台に現われている地域でもある。


古代の九州の南部地方は「日向の国」(ひむか、ひゅうが)と言われて「日向:ひゅうが」、「薩摩:さつま」、「大隅:おおすみ]の三つに分けられたは、律令国家が成立した奈良朝以降のことである。 

この隼人、国分は薩摩(地域)半島と大隈(地域)半島との付け根、中間に位置しているが、どちらかと云えば大隅地域に属している。 


この地に「大隅隼人」という人種が根拠を持っていて、これらの部族を「隼人族」とも称している。 

古代の隼人族は北方系の民族であるとか、沖縄経由の南方ルートからやって来た(隼人・ハヤヒトのハヤはハエ・南風で東南アジア方面を指すとも、国分市上野原遺跡〉民族と関係があるとか伝説、史実入り混じり諸説あるようだ。 

又、この辺り「熊襲」という名も目に付く。 
熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する一族名で、南九州に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗した一族名であろうが、地域名をも意味するとされる語でもある。 
日本書紀には「熊襲」と表記され、古事記には「熊曾」と表記されてるという。


有史の初めのころは熊本の南部の広い地区を「球磨」と呼び、現在の宮崎県の日南海岸から鹿児島県大隅半島の志布志湾以北を「曽於」とよび、総称として球磨と曽からいつの時代からか熊襲と呼ぶようになったとされている。 
その熊襲が、隼人のルーツであり対象ともされるともいわれる。


熊襲というと、北海道・東北の蝦夷(エミシ)を連想する・・?。 
蝦夷については、アイヌ民族とのかかわりで歴史上の様々なできごと、とりわけ何世紀にもわたるヤマト政権つまり天皇制国家との紛争を通してある程度のイメージを描くことできる。 

これはアイヌ文化と伝来の弥生文化(稲作における)の抗争でもあるとされるが、しかし熊襲・隼人は、蝦夷にくらべて早いうちからその独自な人間集団としての存在を失い、まったく過去の存在となってしまっていた。 


一般に、蝦夷地は日本古来のアイヌ民族の地であり、大和朝廷に属さない東北以北の原住民であったが、朝廷に服属した後は俘囚(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷・アイヌで、同化の程度の浅いものは夷俘・イフと呼んで区別)と呼ばれた。 

熊襲は隼人族の地であり朝廷に属さない南九州の原住民であったが、朝廷に服属した後は熊襲とは言わず隼人と呼んだようである。 

いずれにしても熊襲、蝦夷の共通するのは縄文期における日本の原住民であったことである。 


西日本は大陸人(いわゆる弥生渡来人系)による開発が早くから進んだため「熊襲」は、ほぼ7世紀頃までに駆逐され、その頃の弥生人の武勇伝が古事記に盛んに記録されている。 
しかし、東日本は8世紀はおろか10世紀頃になっても、まだまだ未開地(朝廷の統一国家以前)が多く、そのため縄文人の駆逐が遅れ、弥生人の進出が出来なかったことから古事記などの記録には東日本はあまり登場しない。 

古事記に東日本があまり出てこないからといって、東日本に人が住んで無かったわけではなく、多数の縄文人の天国だったからである。 
ただ、「蝦夷」というのは当時(14世紀以前)は東北に限定されていたのではなく、中部山岳を挟んで東日本全域が蝦夷だったとも言われる。 


熊襲や隼人についての一般的な文献も、蝦夷に比べて目にすることが少ないと言われ、目下、調査、研究がなされているという。

ただ、熊襲つまり隼人族は、現在の薩摩隼人に繋がっていることは確かで、熊襲につながる地名として、現在も肥後国球磨郡、大隅国贈於郡が残されている。 



2005年7月には曽於郡の末吉町、財部町、大隅町が合併し「曽於市」(そおし)が誕生している。 
この三町は、古代から熊襲(曽・くまそ)と呼ばれた人々が住む曽の国であって、「曽於」の名は昔から人々に親しまれているとし、この歴史ある地名を後世に残したい願いが込められて付されに違いない。



古代大和朝廷の起源は不透明ながら、「 大和朝廷や天皇家の起源は百済人の子孫である 」と言うのはほぼ定説となっていて記・紀等にも記述がある。 つまり北方系の人種といえる。 

渡来人である新進大和族は、鉄器文明や稲作文化を同時に北九州地域に上陸させている。

やがて、中央(畿内)に拠点を得た大和朝廷は中央集権化を計るが、九州南部の地・熊襲・隼人族は大和の中央政府に対する抵抗を繰り返す。 

記・紀の中では日本武尊(ヤマトタケル)が九州南部の熊襲を攻めた話は有名であるが、史実においても大和朝廷に刃向ったことは知られている。 

この時、隼人は大隅・日向(当時は“ひむか”とも称した)に7ヶ所の城をかまえて抗戦し、国府などを襲撃したりするが、この時、万葉集で有名な歌人・大伴旅人が率いる大和朝廷の遠征軍に敗れている。 

更に、大宰府の反乱(朝廷の中枢にいた藤原広嗣・ひろつぐが大宰府に格下げ左遷され、広嗣は大宰府の手勢や隼人などを加えて朝廷に対し反乱を起こす)のときも、中央政府軍に鎮圧されている。

初め隼人のゲリラ戦法に手を焼き、激しい戦いが1年数ヶ月も繰り広げられたが、兵器と兵力に勝る政府軍によって敗れ去っている。
この時の犠牲者は1000人以上の隼人たちが首を切られたり、多くの者が捕虜になったという記録も残っているという。

奈良時代も半ばになり、大和朝廷による支配力が強まってくると隼人族の抵抗は弱まり、隼人の国も分裂し、隼人の族長の中には県主(あがたぬし・大和朝廷時代の県の支配者、当時の大県や小県)や国造(くにのみやつこ・「国の御奴」の意、古代一郡の地方長官)になる者もいて、こうして隼人の国は大和朝廷の支配、構造の中に取り込まれてゆくことになる。


次回は、更に「薩摩隼人


『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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