2010年11月13日土曜日

日本周遊紀行(38)紀伊長島 「マンボウと古道」

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 日本周遊紀行(38)紀伊長島 「マンボウと古道」  .



「紀伊長島マンボウ」という道の駅・・?、

神武台峠は南島町と次の道程の紀伊長島町の町界にあたる。
峠からヘアーピンカーブを下り、新道の孫太郎トンネルを抜けると、内陸からやってくるR42と合流する。 
間もなく道の駅「紀伊長島マンボウ」で小休止とする。

紀伊長島までは判るが、マンボウとはいかに・・?、 聞くところ、マンボウは紀伊長島のシンボル魚となっているとか。
昔、紀州の殿様が領内を見まわりに長島浦(紀伊長島町)へやってきたとき、浦の人びとはお殿様に一番おいしいと思われる「マンボウ」という魚を食膳に出した。 
殿様は「 カツオはいつも食べてはいるが、このマンボウとやらははじめてだ。こんなおいしいものとは知らなかった。今後、浜に揚げたなら、必ず和歌山のお城まで届けよ 」と言った。 

浦の漁師たちは、すっかり困ってしまい、それ以来、長島浦の浜にはマンボウは一匹も揚がらなかったという・・??。 
ところが、漁方の家ではマンボウの肉を相変わらず食べていた。 実は捕まえたマンボウは、沖で切りきざみ形をわからなくしてから手桶に入れて家に持って帰ったからである。 
この習慣はずいぶん長い間つづき、戦前までマンボウは魚姿で長島の魚市に出されることはなかったという。

「マンボウ」はフグ科の魚類で、巨体と独特の体型が愛らしいのが特徴である。
全長4m、体重1500kgに達し、身体はタマゴ形で胸ビレが小さくて尾ビレがない。 尾ビレのように見えるのは背ビレと尻ビレが変化したもので、遊泳時はこれを大きく左右に動かして進む。 各地の水族館では人気者で、肉は白身で柔らかく、刺身(肝和え)や天ぷらなどで食べられて美味しいという。



紀伊長島は古来、交通の要衝といわれた

紀州の南海道を熊野古道の「大辺路」(おおへじ)と称し、新宮より東の「東熊野路」を経て紀伊長島に達する。 
更に、ここより北方内陸へは「伊勢路」で引き継がれ伊勢、松坂へ通じている。
総じて大阪・住吉から伊勢までを熊野街道熊野参詣道)ともいっている。(何れも2004年:平成16年7月世界遺産に登録されている。 世界遺産ついては後述)
現在は国道42号にある「荷坂峠」が紀州の玄関口となっているが、昔は荷坂峠の西に位置するツヅラト峠が熊野古道の主役であったという。

紀伊長島の北方、R42と紀勢線が交差する荷坂トンネルの北方に「梅が谷」(紀勢線の駅名でもある)があり、ここより西方向の栃古を経て「ツヅラト峠」へ至り、志古より紀伊長島に到る。 
峠は、大内山村と紀伊長島の町境であるが、昔は伊勢-熊野の国境でもあった。 
ツヅラトの名は「九十九折れ」に由来し、山道はまさにヘビのように曲がりくねっている。 

ツヅラト古道は約千年の昔、伊勢神宮より熊野三山詣での道として開かれた信仰の道であり、海抜357mの峠は熊野古道有数の難所でもあった。
峠の南側は約300mにわたって階段状の石畳が続くが、10世紀頃から民衆の力で築かれたものといわれている。
山間の大小さまざまな坂を上下しながら進む道は、容易に通行でなかったことが窺える。

様々にして坂道を登りつめ、この峠に立って初めて熊野の海「浄土に続く海」を見ることができたという。 
山脈の遥か向こうに補陀落極楽浄土、「補陀落」については後述)の光る海を眺め、巡礼の人々は信仰の聖域に辿り着いた実感に、疲れも吹き飛ぶ心地になったといわれている。
だがしかし、ここ紀伊長島の峠から熊野までは、まだまだ道のりは遠い・・!!。


伊勢と熊野の国境にあたる荷坂峠が、熊野街道のこのルートに転じたのは江戸初期の頃であり、昔からの難所でトンネルも多く樹林に囲まれた荷坂峠には、かつて茶屋も店開きしていたという。
江戸時代に刊行された「西国三十三所名所図会」には、
『 向こうを眺望すれば東海の蒼海・びょうびょうとして、風景言語に絶す 』
と、遠く広がる熊野灘への想いが綴られてる。

現在は、地元のボランテアの人々によって古(いにしえ)の古道はよく整備され、ハイキングと古道を偲ぶ歩道として人気があるという。 
今は国道42線が走り、海よりの荷坂峠越えに変わっている。

紀伊長島町と海山町(みやまちょう)の2町が合併し「紀北町」(きほくちょう)となる、時に平成17年10月。 海山町は文字通りの海と山の街であった。 
海山の路は尾鷲に向かっている。

次は紀伊海岸の「」とは・・?、


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2010年11月12日金曜日

日本周遊紀行(37)紀伊地方 「古代伝承の地」

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 日本周遊紀行(37)紀伊地方 「古代伝承の地」 




錦地区の山頂にある「神武台」とそこから見下ろす「錦の港」の美景


神武天皇上陸の地

南島町の海岸は三陸海岸に似た、典型的なリアス海岸である。
リアス海岸というのは三陸地方でものべたが、スペイン北西部、ガリシア地方のリアというところで多く見られることから命名されたといわれ、スペイン語でリア (ria) は深い入り江を意味する。 
日本では岩手県の三陸海岸や志摩半島から南紀にかけての海岸線、また福井県の若狭湾沿岸、福岡県・佐賀県の玄界灘沿いなどが代表的なリアス海岸である。

その海岸、又は海岸線は入り組んだ地形をしており、「溺れ谷」といわれる地形が連続している状態をいう。
溺れ谷とは陸上部の谷筋が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾のことで、最終氷期の1万年から5千年前までの海面上昇で世界中の海岸にできたといわれる。
大きな川の河口近くなどでは砂泥に埋められて平野となったが、土砂泥の供給の少ない所にこのような地形が残っているという。



国道260号線が走る複雑な海岸線の高台から見下ろす贄湾(にえわん)の入組んだ浦の風景が良い。 
島を挟んで阿曽浦と贄浦を結んでいる大小の橋が遠望できる
以前は、砂洲や海崖で形成されていたため、険しい陸路しかなく、渡船が主な交通手段だったという。 しかし、南島大橋と阿曽浦大橋の親子大橋が架けられたことにより、現在では阿曽浦から最短の距離での行き来が可能になった。 又、海と空の青、山の緑に映える美しいピンク色の橋は町のシンボルにもなっているとか。
入り組んだ内湾、阿曽浦では、真珠養殖やヒオウギ貝がとれ、外海では伊勢エビ刺網や真鯛の養殖も行われているという。

 
相変わらず屈曲した山のアップダウンロードや幾つかのトンネルを抜けると、広大な神前湾が望まれる。 その名も神前浦というところには、仙宮神社というお宮があり、ここには「猿田彦命」を祀り伊勢神宮に関わりの深い神社といわれる。
又、仙宮(せんぐう)神社の浜寄りの道路わきに老松に守られるようにしてひっそりと佇んでいる「倭姫命腰掛岩」というのがあった。

伊勢に向かう旅の途中、倭姫命はこの地を通り旅の疲れを癒そうと休憩されたという伝説があるという。
伊勢内宮の手前に猿田彦命と倭姫命が少々離れて祀ってあるが、どちらも伊勢神宮遷宮に所縁のあるミコトである。 その由緒は倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。(伊勢神宮) 大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人(伊勢神宮などで諸務をつかさどった官人)に任じられている。

南島町には神前浦、神前湾などの呼称もあり、いかにも神宮に縁のありそうな名前である。



再びトンネルの多い、海沿いの山岳ロードである。
一人のサイクルトラベラー(自転車旅行者)の青年が車を引きながら登ってくる、登り下りの多いこのような道程は叶わないであろう。 
こちらは、いわゆる自動の車で・・、お察し申し上げます。


暫くして「錦浦」へ出た。 
規模は小さいながら鄙びた漁港と品のいい海水浴場の組み合わせが良い。
西行法師が熊野三山から海路二見浦へ向かう途中、錦の漁村を通りかかり余の美しさに詠んだ歌が「山家集」に載っている。
 
  『 海に敷く 紅葉の色を 洗ふゆえに
          錦の島と 言ふにやあるらん
 』

」は古くから「風待ち港」としても栄えた港町で、一流の歌人・西行の心もとらえたのであろう。


ここから更に明るい峠に出ると「神武台展望所」と、真新しい看板があった。 
急な階段と尾根道を数分登って行くと、「神武天皇上陸記念地」としてあり、立派な展望塔があり石碑も在った。

石碑には『 伊波礼彦尊(いわれひこのみこと:古事記、後の神武天皇)が西暦239年、九州の美々津浜を船出し大和制圧のため、日向の国(宮崎県)を出発された。途中、長髄彦(なかすねひこ)の強力な抵抗に遭い、陸路からの進軍をあきらめ船より進軍した。紀伊半島に迂回し熊野灘を北上、遂に大和入りに成功して橿原で即位された。この大和入りの上陸地点とされる学説には、錦浦とするもの、二木島とするもの、那智勝浦とする説などがある。古代の遺跡や遺物を実査した二人の著名な考古学者と歴史学者が「錦浦は太古より開けて高度な文化を誇った豪族大家の住ませし所」と論証している。この錦浦は大和の宇陀地方とは最短距離にあり、遺跡や遺物が示すように、恐らく古代の熊野灘沿岸には、錦浦の他にこれといった集落もなく、錦浦だけが海に開けた唯一の水陸交通の拠点であったと推定されている。
 (以下、略) 
この事から、神武天皇が上陸したとされる地点は唯一錦であろうと推定される。昔から地元では、神武天皇がお座りになったという石があると言い伝えられている。 平成16年(2004年) 紀勢町 』
と書かれている。

ここから見渡す熊野灘と海岸線は豪快そのものであり、なにより真下に見える錦湾の錦漁港が絵のようである。 

気が付けばここは既に紀勢町であった。
この錦地区は神話の時代、神武天皇が東征の際に上陸した地点であるといわれている。 錦地区には神武山と呼ばれる山も在る。 
そして、この地区には各所に10数基の古墳が確認されており、古墳時代(日本の3世紀後半~4世紀初めの飛鳥時代の頃から奈良時代を指す)の夥しい量の遺跡物が出土しているという。

当時、この地方は国内屈指の文化をほこる大都市であったと推測されているという説もあるとか。 遺跡のなかに「海獣葡萄鏡・かいじゅうぶどうきょう」や「三角縁神獣鏡・さんかくぶちしんじゅうきょう:町指定文化財」といった、中国の隋・唐時代(6~7世紀・奈良平安朝)の様式のものが発見されている。

」というのは、古代、権力の象徴であった。
鏡は神霊性を有すると考えられ、この世界の政治的支配、帝王権力の支配として神秘化し神霊化したものとされていた。
海獣葡萄鏡」の主文様は獅子と葡萄の蔓(つる)から構成されていることから命名されている。 又、「三角縁神獣鏡」と言う名前は、鏡の縁の断面部分が三角形になっており、背面の模様に「神と獣」が刻まれているという。

一般に大型の古代鏡は、太陽光を捉える、そして反射する「ヨリシロ」として神聖視されてはいたともいわれ、直径30㎝近くになると2kgを越える銅の塊になり、このため大型鏡は移動させるなどという事は通常では無く、現存する鏡は支配者の権威を現す象徴であり、或いは「御神体」とも考えられるという。
序ながら、11月30日は「い(1)い(1)ミ(3)ラー(0)」の語呂合わせで、「鏡の日」という記念日らしい。



「神武天皇」について
神武天皇が奈良の橿原で天皇として即位したのは、紀元前660年旧暦1月1日(紀元節)であるとの説が一般的である。 無論、古事記、日本書紀に言われる神代のことである。

奈良時代の1300年前に編纂された古事記や日本書紀は、日本で最古の歴史書といわれ、日本人の起源や日本国土の造成が日本神話によって語られている。 
この神話によると高天原(天上の国・神の国)を中心とする神々がその大半を占め、イザナキやイザナミ(日本国土の神)、アマテラス(イザナギの子・日の神・高天原の統治者)、山幸彦と海幸彦(アマテラスの子孫)、神武天皇(アマテラスの子孫・山幸彦の孫)等が主流で登場する。

アマテラスの子供達が初めて国土へ降りてくる(天孫降臨)、この地が九州の地「日向の高千穂」といわれる。 
その後にアマテラスの子孫である神武天皇(実際には未だ即位しておらず、日本書紀では神日本磐余彦尊:カンヤマトイワレヒコノミコト という)が45歳のとき、兄弟や子供から「 東に良いところがあると聞く。おそらくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る 」(大和の国)と言われ、兄弟3人と共に日向を発つ。
これが一般に神武天皇の東征といわれる。

一行は直接大和に行ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。
始め九州北部から中国地方を回って生駒山(大阪)から大和に入ろうとしたが、大和族の抵抗が激しく失敗する。 次に海路にて熊野から大和の国へ入ろうとし、この時、紀の国の「錦浦」に上陸したとも伝わる。

錦浦は当時この地方の文化の中心であったことは記したが、尚且つこの地は大和の地に最短の距離にあった。 
神武天皇はやっとの思いで熊野につき、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末に大和の国の主・長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地(奈良・橿原神宮は神武天皇の御陵)に宮を築き、即位する。
ここに初代天皇といわれる神武天皇が誕生するのである。 
時に紀元前660年2月11日であったとする。 この日、2月11日を建国記念日(旧紀元節)としているのは周知である。 


紀伊地方の「南島町」は 2005年10月、隣接する南勢町との合併により南伊勢町となった。、隣町の「紀勢町」は2005年2月、大宮町、大内山村と合併、大紀町になっている。

次回は「紀伊長島と古道


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2010年11月11日木曜日

日本周遊紀行(36)志摩 「志摩の国の九鬼船団」

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 日本周遊紀行(36)志摩 「志摩の国の九鬼船団」 




九鬼嘉隆の水軍と信長指令の鉄甲船

志摩半島東端、大王町に「波切」の浜があり、この地が九鬼嘉隆の出生地であるという。(元祖である九鬼氏の発祥地は尾鷲市の九鬼の浦といわれる)
大王崎灯台下から北にのびる小さな岬は緑につつまれた崎山公園になっていて、この一角の波切城趾に近接して「仙遊寺」がある。
仙遊寺は、九鬼氏の菩提寺で九鬼一族の墓である五輪塔が並ぶ。 その奥に波切神社が鎮座する。



戦国前期、志摩国の地頭を次々と倒した九鬼嘉隆に対し、信長が志摩国の領有を認め、九鬼氏の家督を継ぐように取り計った。 
信長が伊勢長島の一向一揆(戦国時代に浄土真宗:一向宗の信徒たちが起こした一揆の総称)を鎮圧する際、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護し、敵陣攻略に活躍したためである。

石山本願寺(浄土真宗の本山寺院、本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築いた)の門主だった顕如(けんにょ)は、毛利輝元などと手を結び信長に対抗する同盟を築く。
毛利水軍600隻に対し、嘉隆水軍は300隻の船を率い摂津木津川沖で戦ったものの、多くの船を焼かれて大敗を喫した。
この敗戦に激怒した信長は嘉隆に対して「燃えない船」を造るように命じた。
この時に嘉隆が辿り着いた答えが、船に鉄の板を貼った「鉄甲船」の建造であった。 


九鬼鉄甲船、毛利水軍600隻を打ち破る・・!!、

鉄甲船の建造には莫大な資金が必要であったものの信長がこの案に理解を示し、できる限りの援助と手配りをしたという。 お陰で「伊勢浦の大船」と呼ばれた鉄甲船が完成した。

1578年(天正6年)、嘉隆の率いる6隻の鉄甲船が石山本願寺の抵抗を物ともせず、堺の港に入りその力を見せつけ、その威力は凄まじく嘉隆は毛利水軍600隻を打ち破ることに成功した。 (この海戦は2005年7月のNHK「この時歴史が動いた」に登場した)

この戦功によって嘉隆は信長から志摩国に加え、摂津国を与えられる。
信長が死去した後は羽柴秀吉に仕え、信長同様に水軍の頭領として重用された。 そして九州征伐や小田原征伐などに参陣している。 
1585年には大隅守に就任し、鳥羽城(現在の鳥羽市鳥羽)の築城に着手する。 
別称、海賊大名と言われた。


英虞湾の北西の突端部に浜島温泉があった。 志摩地方には貴重な天然温泉として知られる。 町営の立寄り湯も有るようで向かうことにした。 
英虞湾の深い入り江になっている、静寂な海面を眺めながら温泉場に着いた。 
確かに立寄り湯はあったが、やはり時間的に早かったようである。

浜島温泉は、海を一望できるロケーションの良さから夕日の美しさがポイントの温泉旅館が建ち並び、趣向を凝らした露天風呂を有する宿も多いという。 
泉質は、ナトリウム-塩化物温泉で、少し茶褐色に色づいた半透明の湯であるとか。 
源泉温度、40.6℃ 泉質、ナトリウム塩化物、 温泉効能は疲労回復、冷え性、神経痛、痛風、リューマチ、肩こり、五十肩、腰痛、関節炎、打ち身等々。



浜島町より国道260で田曽浦から五カ所湾沿いを行く。
神津佐(こんさ)から船越、伊勢路(地名)、相賀浦と時をりリアス海岸特有の五カ所湾の入り江を眺めながら上下に、左右に屈曲している160号線を走る。 所謂、海岸の山岳ハイウェイである、トンネルも多い。
だが新しいトンネルも完成しており、このあたりの道路は改良・拡幅されバイパスも出来て走りやすい。

五カ所湾の中央部は「船越」といい、一見、島のように見えるが中津浜浦という半島が、喉仏のように岬へ延びている。
この地方に、素朴な『よねずもち』という民話が伝わっているという。 
気に入ったので載せてみた。


民話・『よねずもち

『 昔日、こちらでは6月の今時分は、田植えの最盛期だったね。今のように田植機はなく、手作業は大変腰が痛かったとの思い出がある。でも楽し気に残っているから不思議ですね。朝星夕星で働いたそんな苦労を癒すために、私たちの地区には「農上がり」と称した小宴を催す習わしがありました。その時のご馳走に「よねずもち」が作られていたのですが、祖母がこしらえた「よねずもち」は一段と美味かったですね。研いだ只米を晒した後、石臼で米の粉に挽くのですが、石臼への米の入れ具合で粉が粗くなったりして、挽き臼の操作も難しいものだったみたいですね。祖母が挽く手の上から廻すのを手伝った子供の頃が浮かんできますが、今思うと大変な作業だったのでしょうね。昼間の仕事を終え夕飯(ゆうげ)の後から始める作業ですから重労働で、居眠りをする母親をよく見かけたものですね。
餅米でなく粳米(うるごめ・うるち米のこと)の粉ですから、まだ石臼で挽けるのでしょうが、何せ根気と腕力と時間とを要した重労働でしたからね。挽き終える頃は、明日の暦になっていたそうですよ。作り方は簡単で、一晩かかって挽き終えた米の粉を水で練り上げ、団子状に丸めて蒸籠で蒸し上げる。程良く蒸し上がった早朝5時頃に男手が起きてきて、臼と杵で丁寧に搗き上げる。餡ころ餅にして食べるのですが、餅米の餅と違って只米の餅はあっさりとしているから、美味しい物としての記憶が残っていますね。今はもう何処の家庭も滅多に作ることはありませんが、作り方を覚えている今のうちに、子供に教えて置きなさいと家内に言ってはいるのですが。農家の嫁が徹夜して、一晩中掛かって寝ずに仕上げた農上がりのご馳走で、「よねずもち」の語源は、昔の農家の嫁の悲哀を象徴するかのようですね 』

夜寝ず餅』のお話でした。 

次回は、古代伝承の地「紀伊長島



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2010年11月10日水曜日

日本周遊紀行(36)志摩 「リアス海岸の英虞湾」

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 日本周遊紀行(36)志摩 「リアス海岸の英虞湾」 





志摩の国(島の国)のとおり、島だらけの「英虞湾」



目覚めの体操・・?

「かんぽ保養所」の一室、窓の白いカーテンの向こうから朝の陽光がホンノリと射していた。
気分良く目が覚めて、何時ものように床上で起床前の軽いウオーミング・アップを行なう。

これは朝の目覚めにも良いが、小生60歳前後に軽い腰痛を患ってから、以降、毎朝目覚め時床の中で行っているものである。 それ以降、腰痛の気配は無いようである。
ここでお節介ながら、小生の起床前の寝床体操を紹介しておこう。

目覚めの体操

1、先ず仰向けにして、顔面及び頭部を刺激マッサージする
2、両手を上にして指先、手首、腕などほどよく動かす。
3、腕を下ろして左右の肩の上下運動、静止して首を左右に捻る(10回)
4、両腕を後頭にそえて、腰を波のように上下に揺する
5、同じく左右に揺する(何れも10回腰部に重点)
6、腕を後頭部に添えて脚(膝)を軽く上に曲げて、上半身を上下にする腹筋運動(20回)
7、4と5を繰り返す
8、両足を伸ばして臀部を10cm程度浮かす背筋運動(10回)
9、同様に脚足を浮かした状態で15cm位上下させる腹背筋運動(10回)
10、上半身はそのままで腰腹を横方向に捻り、その状態で腹筋運動(左右各20回)
11、6の繰り返し(脚を軽く上に曲げて、上半身を上下にする腹筋運動(20回)
12、4と5の繰り返し
13、次にうつ伏せ状態で両腕を伸ばし、身体全体を伸ばし反返る(数回)
14、身体をワンワンの姿勢にて右足を伸ばし、そのまま身体も思い切って伸ばす(10回) 
15、左足も同様・・、(10回)
16、ワンワンの姿勢で腕の屈伸(10回)
17、同じく首を上下に振りながら腕の屈伸(10回)
18、同じく首を左右に振りながら腕の屈伸(各10回)
19、腕を曲げたまま首を回す(左右2回)  
20、後は大きく背伸びをして終わり(5回)

但し、朝の目覚め時なので十分息遣いをしながら(息を止めると血圧が上がりやすい)、又、血圧が高めの方は遠慮したほうがよい。 
この間、普通にやって凡そ10~15分間、身体はほんのり温まる。
目的は朝の目覚めと腰痛防止の運動としている。 従って腰部に重点をおいて行なうとよい。


身体が少し温まったところで朝湯に浸かる。 
浴室は広く、八角形の主浴槽と3人が浸かれるほどのジャグジー湯がある。 
湯は無色透明で若干の塩素臭もあり、やはり加温循環しているのであろうか・・?。 

鳥羽は特に温泉場ではなく、自前の地下水を吸い上げて加温循環しているように思われる。 
泉質はアルカリ性単純温泉 26.2度 ph9.5。 
効能は神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩など、明るくて大きな浴室、浴槽は実に気持ちが良い。


尚、かんぽの宿は郵政民営化にともなって5年を経過した後は、再び廃止・売却を検討することになっているらしい。
ところで、上さんが(妻)NTTの職員(民営化後、社員)であったため、小生を含め家族で度々(旅、旅)その施設を利用してきたが、民営化後はその直営、特約施設等、殆どが廃止されている。
郵政の施設も同様の傾向にあり、民営化も結構だが旅行愛好家にとっては甚だ困った事態になっているのである。


朝食を戴いて、本日の行程へと出発である。今日は大快晴で、天空には一点の雲も無く、紺碧に晴れわたっている。 海の青、山の緑も冴え亘る。
気分も晴れ渡って、この後は磯部から賢島方面へ向かう。

この地域2004年10月1日 - 同じ志摩郡の阿児町、大王町、浜島町、志摩町との合併により「志摩市」が誕生している。 個人的にも結構な名称である。


『 志摩は、もと伊勢のうちにあって、島々の多くあるところを分けて一国としたものであり、後までも伊勢に付随した国である。 したがって、ここに島とあるのも、伊勢の海の島であって、すなわち志摩国である。 』・・と江戸期の国学者・本居宣長が『古事記伝』に記している。



確かに志摩は、島の国のようだ

R167をそのまま近鉄志摩線に沿って南下すると、賢島橋を渡って「賢島」(かしこじま)に到る。 
一見陸続きのような印象を受けるが、れっきとした独立の島である。 
賢島は鳥羽に次ぐ志摩地方の一大観光地で、巨大ホテルが島中に点在する。
志摩マリンランド、スローツランド、賢島フィッシングセンターなどもあり、至る所に真珠店やみやげ物店が並ぶ。 
島内の観光スポットには殆ど歩いていけるが、とくに賢島港から出航する遊覧船で英虞湾の島めぐりは絶好らしい。
また「日本の夕日百選」選ばれている賢島大橋から見える夕日がいいという。


万葉歌人の「柿本人麻呂」が、

『 阿児の浦 船乗りすらむ 乙女らが 珠裳の裾に 汐みつらむか 』 

と詠んでいる。 

阿児町(あごちょう)に英虞湾(あごわん)があって、平安期の万葉集では、嗚呼児(あご)の浦、安吾、阿胡(あご)の浦などとも記されている。 何れも(あご)とは「静かな」と言う意味であるらしい。
それにしても「あご」という字の変化が面白い。
志摩町の先志摩半島を(あご)に喩えてみると、大小多数の島々を口に含んでいる。
有人無人の島々を数えると50有数といが、その中でも賢島は内陸に接近した最大の島である。


この島々の間に無数のイカダが浮かび、一相の風物になっている。 
真珠の養殖筏で、ここは国内でも有数の真珠の養殖が盛んなところ。
かつて、御木本幸吉らが、英虞湾で真珠養殖を手がけ、世界初の「真円真珠」を発明したところでもある。
そして海女が英虞湾で採った天然真珠は遠く中国清朝にも輸出され、珍重されたという。
英虞湾は万葉の時代から真珠のふるさとであり、真珠王と異名を持つ御木本幸吉は発明者と思われがちであるが彼の自伝によると実は発明者ではなく、養殖事業と流通で成功した人であるらしい。


伊勢志摩には伊勢神宮のある伊勢の地と、真珠と海女で知られる志摩半島には「海の歴史」がある。
英虞湾の静かな湾内の景勝地に対して、外洋に面している安乗岬・大王崎は、切り立った断崖に、ぶつかる波が飛び散る様子は勇壮である。 

これに相応しい志摩には水軍の将「九鬼氏」の歴史があった。

次回は、志摩の九鬼船団



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2010年11月8日月曜日

日本周遊紀行(35)鳥羽 「かんぽの宿」

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 日本周遊紀行(35)鳥羽 「かんぽの宿」 



かんぽの宿から望む鳥羽港(真珠島や水族館、フェリーが見えている)


国道42より鳥羽へ向かう、静かな湾・「池の浦」を過ぎるとほぼ並行してきたJR参宮線に、近鉄鳥羽線が加わって鳥羽駅へ向かう、参宮線はここが終着のようである。 
尚、近鉄線はこの先、賢島まで向かっている。


鳥羽の海は、は穏やかな内海を成している。
と言いたいところだが、この地はすぐ前に坂手島、そして菅島、答志島と巨大な天然自然の防波堤を形造り、更に点々と小島が浮かんでいる湾なのである。 
これらが深い入り江状の湾をなして静かな海面、優美な景観を見せている。
そして、昔から真珠の養殖が行はれているのは、御承知のとおりであり、直ぐの眼前にあでやかな「真珠島」が浮かんでいる。

真珠島は御木本幸吉が世界ではじめて真珠の養殖に成功した島として知られ、現在では観光施設として多くの観光客を集め人気を呼んでいる。 
島内では、海女たちの実演や真珠博物館など見どころが多く、外国からも多くの見学客が訪れているという。


世界の真珠王・「御木本幸吉」
御木本幸吉は、20代の頃、真珠が高い値で取引されるのを知り、以来、真珠に取り付かれる。英虞湾で真珠母貝(アコヤ貝)の養殖を始め、さらに真珠養殖の知識を学ぶ。 
幾多の苦難の末、明治中期、世界で初めて真珠の養殖に成功している。
本格的な事業に取り組むため英虞湾内に養殖所を開設し、その後、東京に「ミキモト真珠店」を開き、ミキモトパールの名を世界に知らしめた。
真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物で、日本の「真珠王」と呼ばれている。
鳥羽の沿岸部は、静かな海の環境を利用した真珠養殖の筏や海で働く海女の姿など、自然景観に彩りを添えて、この公園の風景を代表する一つとなっている。
尚、伊勢と鳥羽一帯は、早くから国立公園に指定されている。




安楽島大橋を渡って、左方向の高台へ進むと「かんぽの宿・鳥羽」へようやくにして着いた。
既に辺りは暮れかかって、有暮れの鳥羽港を見下ろしながら天然温泉の「鳥羽 潮香の湯」へゆったり、のんびり浸かる。

部屋の調度品も品良く配置され、真新しい十畳間で一人休むには、チトもったいない気がしないでもない。
そして新鮮な海、旬の山の幸を戴く、これが気心を使った実に絶品で、喉越しのビールも冴え渡った。
3日ぶりの畳の感触も良く今日のまとめをして、後は寝湯と寝酒でオヤスミ。

次回は、「英虞湾


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日本周遊紀行(34)二見ヶ浦 「夫婦岩」

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 日本周遊紀行(34)二見ヶ浦 「夫婦岩」 



海がやや荒れ模様で海面が上昇し、注連縄が海面につきそうな夕刻の「夫婦岩




注連縄で結ばれる夫婦岩

伊勢神宮の両宮を参拝し、或る種、清清しい気持ちになって退出した。
伊勢の市街地より国道42にて二見方面へ向かい、途中「五十鈴川」の汐合大橋を渡る。
内宮」の清楚な流れはここまで来ると悠々とした大河の流れになっている。
参宮線の「二見浦」の駅前を通過すると、二見が浦のあの著名な夫婦岩は近い。
海岸際の駐車場に車を止めると以外と強い風が海から吹きつける。
海岸歩道にも波の飛沫が吹き寄せていて、チョッと激しい光景である。


伊勢神宮・内宮の西端で御手洗場(みたらしば)が設けられている神清な五十鈴川は伊勢湾に注いでいる。 
その二見ヶ浦は五十鈴川によって形成された河口三角州で、今一色から神前岬までの海岸(その名も神前海岸)は日本の渚百選にも選ばれている美しい海岸である。

この海岸に全国的にも有名である「夫婦岩」が、荒波に揉まれているが泰然として昔の姿で在った。 そして、程よい距離間で、大小の岩が注連縄(七五三縄・しめなわ)で結び合い繋ぎあっている。 
やはり日本的ないい風景である。



ところで我々が神社に参拝するとき、鳥居や拝殿には注連縄が掲げられているが、その注連縄の意味合いについてはあまり関心を示さないようである。
注連縄をよく見ると、細いものから出雲大社(日本一の注連縄といわれる、詳細後報)のような太さ大きさがまちまちであったり、撚り方(よりかた)も左綯い右綯いと違いがあるようである。
何れにせよ神社の規模に見合った注連縄が飾られ、神域の厳粛な雰囲気を醸し出しているのは確かである。


「注連縄」(しめなわ)の神意
「注連縄」のシメは閉める占めるの意があり、神前または神事の場に不浄なもの侵入を禁ずる印として張る縄のことで、一般には新年に門戸や玄関先、神棚に張る。
藁の茎を捻り撚り、両端より垂れさせ、その間々に紙垂(かみしで)を下げる。
輪じめや輪飾りは、垂らさずに両端を結んだ形である。


「注連縄」の別の意味合い
注連縄は古い伝承、古神道でいうと、大自然そのものを現しているともいわれる。
大自然そのものの中心になるのが太陽であり天である。 その自然現象を表したのが「注連縄」であるという。

横に張られた大縄の部分が「」、垂れた縄が「」、神垂(紙垂)が「」とされ、その奥まったところが神様の「天」となる。 
総じて自然現象の象徴といわれる。 
この注連縄を祭りや祭事に付けることにより春祭りの五穀豊穣を祈願し、実りに感謝する秋祭りの意味を持つことになる。

又、注連縄には清浄・神聖な場所を区画するため引き渡される。 
従って神社のみならず、巨大な岩や樹木、清浄な井戸、瀧、寺院などにも掲げてることろをよく見かける。 
正月、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、上述の意義より家の中に悪霊を入れず、穢れを去り、無病息災・家内安全を願ってのことである。



夫婦岩の夫岩の頂きに鳥居が見えている。
猿田彦大神を祀る「二見興玉神社」の鳥居で、この神は天照大神をこの伊勢の地に導かれ、御鎮座奉った神として知られる。

夫婦岩は神代の昔より日の出の遥拝所として知られており、夏至の日の前後には丁度、夫婦岩の間から朝日が登り始め、その様は神(天照大神)が常世の国を照らし始める如く、実に神々しい限りといわれる。 

大きい男岩は高さ9m、周囲39m。 女岩は高さ4m、周囲9m。両岩を結ぶ大注連縄は長さ35m。 5月、9月の各5日、12月の第3日曜日に大注連縄(しめなわ)の張り替えが行われるという。
「夫婦岩」に関しては「全国夫婦岩サミット連絡協議会」なるものが有り、海、山、川などの夫婦岩の名の付く同志が親睦をはかっているとか。

今は風波に煽られ、夕景せまる夫婦岩であるが、記念の写真を遺して辞した。

次回は「鳥羽


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01. 15.

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