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2010年7月31日土曜日

日本周遊紀行(126)木更津 「袖ヶ浦と日本武尊」

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 日本周遊紀行(126)木更津 「袖ヶ浦と日本武尊」 



木更津の太田山公園に、2人の像が向かい合う形で立つ「きみさらずタワー」



木更津、袖ヶ浦の地名は「日本武尊」の東征時の古事による・・、

木更津、袖ヶ浦、そして東京湾を隔てて横須賀(観音崎)の周辺は「日本武尊」(ヤマトタケル)の神話伝説の残る共通地域であった。 
日本武尊は、幼少の頃より時折、何かに付けて耳に、或いは目にする人物・・?で、神話とされる「記紀」(古事記、日本書紀)に神として、人物として、はたまた半神半人として、神話の中でも最も武力に優れた英雄物語として描かれている。
日本神話の英雄・ヤマトタケルには、「日本武尊」(日本書紀)、「倭建命」(古事記)の二つの漢字、そして小碓命(オウスノミコト)などの表記がある。

日本武尊は景行2年、第12代景行(けいこう:初代神武天皇=紀元前660年)天皇の第2皇子として生まれている。 
皇子は皇太子の地位にありながら、大和朝廷の勢力範囲を広げるために、日本中を遠征して回ることになる。
先ず、九州日向(現宮崎県地方)へ命じらて遠征し、朝廷に従わない熊襲建(クマソタケル)を知恵をもって征伐する。  この時、小碓命は、熊襲建の「建」とって倭建命(ヤマトタケルノミコト)と称えることになる。(建は、勇敢な者という意味を持つ)大和にある宮に戻る途中も山の神、川の神、河口の神などの大王(朝廷)に従わない荒ぶる神々たちを次々征伐し、出雲の国の部族、出雲建(イズモタケル)を征伐するときも頭を使って勝利し、国を平定していく。


次に、倭建命は東国の征伐を命じられる。
西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたが、東国は大和朝廷の力が及んでいる訳ではなく、苦戦が予想された。
皇子は東国への遠征に向かわれる途中、「伊勢」に立ち寄ることになる。 
先ず、亀山に立ち寄り「忍山神社」祀官・忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘とされる弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃(きさき)に迎える。

伊勢の地は、皇子の叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の導きで天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭祀している地であり(伊勢神宮)、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣)を授けた。
この剣は昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲で八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に、その尾から出たといわれる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)がこの国に御降臨した時に、一緒に持たせたものという由緒ある宝剣である。
後の天皇の「三種の神器」(八咫鏡:ヤタノカガミ、 草薙の剣:クサナギノツルギ、 八尺瓊勾玉:ヤサカニノマガタマ).の一つである。


皇子が駿河の国(静岡県東部)へ指しかかった時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付ける者があった。 
皇子はこの時、この剣で周りの草を薙ぎ払い火から免れたとされ、故事により、この剣をその後に草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ぶようになったといわれる。
その後、日本武尊は上総の国(今の千葉県)に渡海するため、走水の村(三浦半島・観音崎)へ向う。

因みに、日本神話の英雄ヤマトタケルには、「倭建命」(古事記)と「日本武尊」(日本書紀)の二つの漢字表記があり、この先は日本武尊を表記することとする。



三浦半島東端、観音崎は旗山崎(御所ヶ崎)とも云われ、「走水」(はしりみず)という言う地名が今も残る。 
日本武尊が東征したとき、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたという説話に由来している。 合わせて、この地に日本武尊とその妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祭る「走水神社」が鎮座している。

ここから日本武尊は対岸の房総へ渡ろうとしたが、海上は風波 が強く、船出もできず数日間ここに滞在していたが、ついに船出を決意し一気に渡ろうとしたところ、船が沈没しそうになってしまった。
この時、弟橘媛命が、これは海神の怒りであると信じ、日本武尊の身代わりになることを決意し、海に身を沈める。

この時・・、

 『 さねさし相模の 小野に燃ゆる 
         火の火中に立ちて 問ひし君はも
 』

と歌を詠んで身を投げたとされる。

さねさし」とは相模の枕詞、
「 あの相模の小野で、敵の仕掛けた猛火に包まれて危うい時も、あなたは私のことを心配して声を掛けて下さいました。 あの時の優しい思い出を胸に抱きしめて私はこの荒れ狂う浪に身を投じて海神の怒りを鎮めにまいります。 ああ、やさしきあなた。 」
というのが媛の辞世の大意であった。 
女性が男性に向けた歌で、古今東西これほど哀惜に満ちた崇高なものは無いともいわれる。
村人が、弟橘媛を哀れみ、日本武尊を慕うあまり建てたのが「走水神社」であると伝えられている。

日本武尊は、駿河から相模に入り、三浦半島の走水から船で房総半島に渡るが、このルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国であるといわれる。
房総半島への渡り道、「走水の海」は流れが早いことから付けられた名で、今の浦賀水道のことである。 

一行は走水の海で激しい嵐に見舞われるが、姫が入水してからはそれまでの嵐が嘘のように静まる。
この時、海岸には姫のクシや衣が流れついたという、古代、クシには魂が宿ると言われ、流れついた弟橘姫のクシ、衣を納めて建立したのが木更津に鎮座する「吾妻神社」であるといわれる。

吾妻」についても、日本武尊が蝦夷の東征を終えて凱旋される途中、足柄峠に差し掛かった時、遥か相模の海の方を見られて媛の悲劇が胸に迫って涙が止まらず、「 吾が妻はや・・」(吾が妻はもはやいない)と嘆かれた。 
ここから東国のことを「吾妻」と呼ぶようになったという。 

吾妻とは、都から東方の諸国の総称で「東国」のことである。

常陸風土記」にも・・、
『 いにしへは、相模(さがむ)国・足柄の岳坂(やまさか)より東の諸(もろもろ)の県(あがた)は、すべて吾妻の国をといひき 』 とある。

そして、房総に渡った日本武尊が弟橘姫を偲んで詠ったのが・・、

 『 君さらず 袖しが浦に 立つ波の 
           その面影を 見るぞ悲しき
 』

「君さらず、袖しが浦に立つ波の」、この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったと伝えられている。

この歌を詠んだとされる場所は現在の木更津市大田地区、国道16号沿いの太田山公園であり、2人の像が向かい合う形で「きみさらずタワー」が立っている。
タワーは高さ28mで中ほどに展望台があり、東京湾から東京の摩天楼や富士山を一望することが出来る。 特に夜景は絶景だとか。

次回は、「袖ヶ浦




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2010年7月30日金曜日

日本周遊紀行(125)君津 「久留里」

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 日本周遊紀行(125)君津 「久留里」 



歴史ある「久留里」は君津市の地域であった・・、

地図を見て確かめると、成る程、君津市域の湾口部は僅か3km程度しかないの近距離の幅である。
そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 
その為でもあろう、現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。

だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。

その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。
そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。
久留里の地名は戦国期から見られるという。



16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 

戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が武蔵から房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 
だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)が行はれる。 このとき秀吉より里見家参戦指示がでる。 だが里美氏は内部事情が生じて参戦に遅参してしまう。
戦局は秀吉が勝利し、小田原北条は滅亡する。

しかし、充分な戦果を出せなかった里美家は、その罰として上総全域および下総南部の所領が召し上げられ、安房一国のみと減領されてしまう。 結果、没収した上総、下総の領地は、徳川家康に与えられてしまう。
従って里見氏は、逆に久留里を最前線とする徳川氏と対峙することになる。

更に、慶長19年(1614年)
大久保忠隣失脚事件に連座したとして、里見忠義は安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となってしまう。
里美家は房総より失脚し、久留里城は最前線としての役目も終わり一時は廃城になりかける。

江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建されている。
以後、久留里は黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していた。
現在は、城山公園として模擬の天主が立つ。



久留里城」は、「雨城」、「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。

久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。
近年はこの水を観光資源として、「名水の里」として宣伝されているとか。
この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。



「上総掘り」について・・、

千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
房総の地域は久留里地方はともかくとして、全体には地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされている。 
このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 

上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという。
人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導も行われているという。

工法は径5~15cmの鉄管が、深さ150~500mの穴が地中に向かって掘られる。
まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量をはずみで地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
現在でも人力による掘削法として使用されている。

上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。



「木更津」・・、

さて、狭い湾岸の君津を過ぎてしまうと、すぐに「木更津」である。
戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 
そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる
木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えたという。
江戸湾を往来する木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)とも称していた。 
「五大力船」は、海上輸送が発達した江戸時代に主に活躍し、昭和初期まで用いられてきた廻船で、主に東京湾内のほぼ全ての輸送に用いられ、穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。
基本は海船造りの構造であるが、河川を航行できるように喫水が浅く船体の幅が狭くなっている。 そのため、海からそのまま河口に乗入れて市中の河岸に横付けすることができる。
海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使用できるよう舷側に棹走りと呼ばれる台が設けられている。


更に木更津については思わぬ伝承があった。 
次回はそれらについてチョット詳しく述べることにする。


木更津甚句』 千葉県民謡

アア・・
木更津照るとも お江戸は曇れ
かわいお方が ヤッサイモッサイ ヤレコリャ ドッコイ
コリャ コーリャ 日にやける

船は千来る 万来るなかで
わしの待つ船 (お囃子、同じ) 
まだ見えぬ


と船乗衆が唄ったのであろう・・、「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい。

次回、木更津の古事



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2010年7月28日水曜日

日本周遊紀行(124)内房 「鋸山」

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 日本周遊紀行(124)内房 「鋸山」 



”乾坤一擲”の日本寺が「鋸山」にあった・・、



名物・鋸山「地獄のぞき」


日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏



富山町を過ぎると、国道127は山間地を走る。
海岸線まで迫っているJR内房線としばらく並行してしていたが、やがて町並みに入った。 
駅前で気が付くと駅名は安房勝山になっていた。たしかここは鋸南町のはずであったが・・?

道中、「菱川師宣」の案内板を見る。
菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)は江戸時代の浮世絵師で、安房国・保田(鋸南町)出身である。
浮世絵を単なる挿絵ではなく、鑑賞絵画の一ジャンルにまで高めたという点で師宣の絵画史上における位置は重要で、しばしば「浮世絵の祖」とも称されている。 
特に、筆浮世絵の「見返り美人図」は有名であろう。
一方の側面として「春画」も数多く描いた話題の人でもあった。 
故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある。

鋸南町」の町名は、一昔前(1959年)勝山町と保田町が合併して新たに出来たらしく、「鋸山」の南に位置しているので名づけたのだろう。
神奈川に住む小生は三浦半島の久里浜から金谷のフェリーを経て、この鋸山周辺へは何回か遊覧に来たもんでである。

鋸山はこの地から眺めても、文字どうり鋸の歯のようなギザギザの断崖絶壁が連なっている岩山である。
この鋸歯のギザギザは、かつて「房総石」といわれる凝灰岩(ぎょうかいがん:火山から噴出された火山灰が地上に堆積してできた岩石)の産地であり、その跡を留めているのである。
幕末から明治、大正、昭和にかけて主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用され、また靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているという。 
採石は昭和50年代を最後にとだえている。


現在の「鋸山」は観光資源として利用されている。 
標高は329m、海岸近くのため山頂からの東京湾や対岸の三浦半島の景色、眺めは抜群である。
金谷の町からはロープウエイが、又、自動車道も頂上付近まで延びている。
歩くんであれば、約3.5時間、日本一の石参道を2639段登る事になる。 
頂上にはオーバーハングした岩の上に「地獄のぞき」という地獄の名勝もある。

又、鋸山には“乾坤一擲”の「乾坤山・日本寺」がある。
本尊は薬師三尊で、薬師如来の大仏(日本寺大仏)があることで知られる。
山頂部のほとんどの部分を境内にしていて、スケールの大きな見所いっぱいの寺であり、1300年前に行基菩薩(奈良時代の名僧)によって開かれた関東最古の勅願所で、由緒有る古刹でもある。(勅願寺は勅命・天皇によって国家鎮護・皇家安穏を祈願した社寺)

山の頂でお薬師さんが瞑想して鎮座しているのに、足元でカンカン、トントンと石切の音を響かせているのには、さぞかし落ち着かなかったことだろう・・?、しかし、それも民衆の為と思えば静かに黙認してもいたのであろう・・!。


因みに、この日本寺の石窟群は、バーミヤン遺跡を彷彿させる。 
あちらはアフガニスタンの古代都市バーミヤンの町を中心とする山中の渓谷地帯に6~7世紀、刻削された石窟の寺院である。石窟の数は1000以上にものぼり、仏教美術の優れた遺産としてユネスコ世界文化遺産にも選定されている。近年、タリバン政権によって一部破壊されたが、ユネスコにより修復と保存が実施されている。

日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏であり、他に百尺観音、大野甚五郎の系統、あるいは末裔により彫ったとされる石仏、世界第一の羅漢霊場・千五百羅漢など全山に石窟彫刻群が並ぶ。


三浦半島へフエリーが航行している金谷港から「内房なぎさライン」を北上する。 
ここは既に「富津市」である。 もっとも鋸山あたりが町界らしいが。 
佐貫の信号で国道465へ左折すると間もなく富津岬の基部を通る。富津岬は富津公園を中心に、海のレジャー満載の地である。 
その中でも「アサリの潮干狩り」は有名である。 岬先端の南側が、遠浅のアサリ養殖地域で、シーズン中(3月~8月頃)は首都圏から大勢の漁客で賑わう。

富津岬は西へ長くのびていて、浦賀水道を経て真向かいの三浦半島の観音崎とは僅か数キロの地で海路の最狭部にあたる。
江戸期、外国船が通商を求めて度々やってくるようになると、海防上、非常に重要な地点の一つとなった。 
そのため、富津市域(佐貫藩)の海岸線に防備のための砲台が築かれた。 
嘉永6年(1853)ペリー来航時は、日本の政治を大混乱に陥らせることになったが、この時の佐貫藩の人々のも大いに動揺したという。
明治期から太平洋戦争まで軍の砲台基地や陣地になっていて、現在もその跡が残っている。


国道465は富津岬の基部から国道16号線になる。
国道16は首都外廓幹線道路で埼玉、東京郊外から神奈川の横須賀まで達している首都圏の大動脈である。
JR内房線の大堀駅前を通過すると「君津市」である。 
海よりに広大な新日鉄の工場群を見ながら進むと、あっという間に「木更津市」に入ったようだ。

次回は、君津・「久留里



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2010年7月27日火曜日

日本周遊紀行(123)館山 「里見氏の盛衰」

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 日本周遊紀行(123)館山 「里見氏の盛衰」 



白浜で房総の実権を奪った里美氏は「館山」に根拠をもつが・・、

温暖な気候に恵まれてる館山も、千倉同様「花の街」である。
相浜からは再びフラワーラインがはじまり、両サイドを季節の花で飾られたほぼ直線の道が続く。 可憐に咲く色彩鮮やかな花々に思わず見とれるほどで、この平砂浦海岸通りの途中には「館山ファミリーパーク」「南房パラダイス」、「白浜フラワーパーク」といった施設もあり、特殊な熱帯性の花を楽しむことが出来るスポットである。

次には、果てしなく広がる大海原、岩礁に散る白い波、荒々しくも雄大な風景の中、間もなく洲崎へ到着した。 大きくカーブする細い道へ入ると洲崎灯台が立つ。 
対岸にある三浦半島の剱崎灯台とともに東京湾の入り口を守る。 
ここは、房総半島の先端で、三浦半島の剣崎とともに東京湾・浦賀水道の入口にあたるところであり、また、内房総、外房総の境目となっているところでもある。 

灯台には入れないが、敷地内からは天気が良ければ、対岸の三浦半島が手に取る様に見え、そして、相模湾越しに富士の秀麗な姿が見事に見渡せるはずである。 つまり、この地は初日の出と、初富士とを同時に見ることができる絶好のポイントでもある。 

しかし、今日は小雨混じりのドンヨリとした日で、望むべきもない。 



子供が幼少の頃何度か訪れたことのある海辺に面した「館山国民休暇村」を横に見る。 その向こうは濃い大洋の蒼が広がっている。 
この大洋を時折眺めながら、ゆったりと車を進める。 内房の東京湾を眺めると、いよいよこの旅も終焉に近づいていることを実感しながら。


厳しい(いかめしい)海上自衛隊の基地を過ぎると館山市街である。 
やや内陸部には小山のような丘の上に城山公園があり、白亜のお城が目に留まった。 戦国時代の武将、里見氏の居城・館山城(模擬天守)で、新装なって聳え立っている。 

古城は天正6(1578)年、里見義頼が重臣に築城を命じ、その子義康が天正16(1588)年に大規模な改修を行い、天正18(1590)年に完成している。 
城郭から晴れた日には市内と館山湾が一望できる絶好のビュースポットであり、公園内には、椿、梅、桜、ツツジ等の花木が小径をうずめ、四季折々の花が咲き、桜の名所としても知られている。


「館山」は中世の頃には、戦国武将・里見氏がこの地を統治、滝沢馬琴作の「南総里見八犬伝」の舞台にもなったところで、今でも、里見氏の史跡の数々や八犬伝のロマンが香る史跡が残っている。

平家が滅んだ後の鎌倉期、この館山は執権・北条氏一族の勢力も及んで、室町時代に入っても鎌倉が関東の中心で、その湾口に対岸する三浦半島即ち鎌倉と安房とは強いつながりをもっていた。

鎌倉幕府が滅んで政治の中心が京の都へ移った室町初期(足利将軍時代)、鎌倉には将軍の代理として将軍直近の足利氏を任命することになる。(鎌倉公方) 又、この鎌倉公方を補佐するために関東管領職を置いた。
そして足利四代の足利持氏の時代、補佐するはずの上杉氏(関東管領)と対立が激しくなり、足利氏は側近である里見義実に命じて、安房から上杉氏を追い出そうとする。 

義実が安房の上杉勢力の追い出しに成功すると、やがて里見氏が安房の武士たちを従えるようになり、その後、里美氏数代にわたって房総半島全域に勢力を広げ、房総最大の戦国大名に成長する。


戦国末期・里見氏は、関東に覇権を広げつつあった最大の敵・小田原北条氏(鎌倉期の北条とは異なる。後北条)と敵対していた。
里見家八代目当主・里見義頼の時、北条氏の勢力が上総にまで及んできたことから、家督を継いだ九代目当主・里見義康はその意思を継いで、特に海の戦略的拠点であった館山に城を築き本城としていた。 

天正18年(1590年)の秀吉の小田原合戦で北条氏が滅んだ後は、小田原参陣が不備だったのを咎められ、上総を没収されて安房一国のみを安堵される。

更に、徳川将軍家の江戸初期になって、里美家に衰落の変化が訪れる。 
父の死により忠義が家督を相続するが、その後、内粉・内乱で治世は困難を極め、縁あって大久保忠隣(ただちか:相模・小田原城主、忠義は忠隣の娘を妻に娶っている)と縁戚を持つが、その忠隣が失脚事件(大久保長安事件)を起こし、忠義も連座したとされて改易されてしまう。 
忠義は更に、嗣子が無いとされて大名家としての「館山の里見氏」は領地を召し上げられ、房総に名を馳せた戦国大名・里見氏は事実上滅亡する。



館山の西口駅前に広がる海岸方面へ向った。 この海岸も何ともいえない風情が漂う。 
JR内房線「館山駅」より館山湾を望めるこの荒井、北条地区は鏡のように波が静かなことから「鏡ケ浦」と呼ばれている。 
遠浅の海、弓なりの砂浜は絶好の海水浴場であり、叉、景観も素晴らしく「日本の夕陽百選」、「関東の富士見百景」に選定されている美景のポイントでもあった。
市街地の目抜き通りにて、海産品のお土産を購入して先へ急ぐ。 


館山の市街地を抜けると東方に大房岬(たいぶさ みさき)が突き出ている。 
房総には珍しく7~80mの断崖の岬で、雄大な海と奇怪な海蝕景観にも恵まれ展望台も点在している。県はこの岬を自然公園の拠点としてビジターセンターや園地、キャンプ場、宿舎等、各施設を造った。

又、この岬は高台で東京湾の入り口に当たるため、江戸及び東京の防衛拠点としての台場(要塞)の施設が整えられたという。
江戸時代の末には黒船来襲にあわてた幕府は、江戸の防衛のために10門の大筒が備えられた。

明治20年代に入ると日清・日露戦役に備えて日本海軍は兵員の訓練に励み、艦砲射撃の演習場として大房岬が選ばれている。
又、昭和3年、陸軍は東京湾防衛のため大房岬を買収し、要塞化する工事に着手している。
それは巡洋戦艦の艦砲(口径20cm)2門の砲塔が2基備えられ、1個大隊の兵士が東京湾の防衛に当たったとされている。
しかし、いずれも江戸末期の騒乱から昭和の大戦まで実際に使われることは無かったらしく、現在は、砲塔や弾薬庫の痕跡だけがのこっているという。

館山は、古代から近代にかけても東京湾の戦略的要衝に変わりはなかった。


次回は、内房・「鋸山




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2010年7月26日月曜日

日本周遊紀行(123)館山 「房総・安房神社」

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 日本周遊紀行(123)館山 「房総・安房神社」 



安房は阿波に通じ、古代の阿波一族が房総地方から武蔵を拓いたとされている・・、



安房神社、新装成った上の宮・拝殿と御本殿



先ず、その房総一ノ宮「安房神社」について。

房州」は、房総半島の海側の方から上総(かずさ)、下総(しもふさ)と呼ばれている。
古来、古代から中世の交通機関は船が中心だった。 
その房州は古くから関西との関係が強く、「勝浦」や「安房(阿波)」、「白浜」など、克っての故里(ふるさと)の地域の名を付けたところも多い。

又、九十九里には、鰯・イワシを追って大阪や和歌山の人々が移住して来ている。
銚子市の人口の何割りかは、醤油の製法などを伝えたとされる和歌山県人達の末裔で、今でも夏になると先祖の墓参りに戻る人がいるという。



安房一宮の安房神社は、四国・阿波から古代の「忌部族」(いんべぞく:大和朝廷成立に大きな役割を果たした阿波忌部氏:農耕、植栽の民)が渡来し創建したもので、四国の「阿波」と房総半島の「安房」が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に下った際に命名されたとも言われている。

忌部氏は更に、当地に「」(あさ)を植えたところ良く育ったことから、「」(麻の糸を束ねること、ふさ)の名が付けられ、上総、下総の名が生まれたとも言われている。 
更に、現在の西東京の一帯を「武蔵野」と呼ぶが、一昔の東京地方は「武蔵」といったのは周知である。 
武蔵(むさし)」の地名は、かつて南関東一帯が「総(ふさ)」という国名だったことに由来しているという。 

現在でも千葉のことを房総、下総と称しているのは前述のとおりであるが、その名が残る「総の国」は、特に現在の東京一帯を総の下、つまり「総下(ふさしも)」とも呼ばれていたそうで、その「総下」が年月と共に「ふさしも→ふさし→むさし」に変化したという一説もあるという。

その阿波忌部氏といわれる一族が、黒潮ルートに乗って房総半島に渡来し、房総から関東一円を開拓したとされてるのである。  



その起因とされる話は、四国・阿波に飛びます。

阿波の国には、日本の国が拓かれる当初からの「古社」である「忌部神社」(徳島市内、忌部族すなわち徳島県民の祖神を祭り古来阿波の国の総鎮守の神社)と「大麻比古神社」((おおあさひこじんじゃ:徳島県鳴門市・阿波国一宮)が鎮座している。
共に古代の忌部氏に縁り(ゆかり)の神社である。

神社古書には、「 当社は麻植神と称し、あるいは天日鷲神(あめのひわしのかみ:阿波忌部氏の祖)と号す 」と注記してある。 
忌部というのは「斎部」ともいわれ、大和朝廷で中臣(なかとみ:藤原氏)氏と並んで祭祀をつかさどった一族であり、平安初期には忌部を斎部とも改称している。
つまり、斎部(いみべ、いんべ)は神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏であった。



平安初期の文献に「古語拾遺」(こごしゅうい)というのがある。 
官僚・斎部広成が807年に編纂したもので、忌部氏が伝承する記紀(古事記、日本書紀)神話と祭祀の問題点を示した文書である。 

内容は、天地開闢(てんちかいびゃく:記紀内容)から奈良期・天平年間(729年~749年)までが記されていて、古事記や日本書紀などの史書には見られない斎部氏(忌部氏)に伝わる伝承も取り入れられているという。 

元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族であった。 
だが「大化の改新」以降、同様に祭祀を司っていたのは中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)であり、政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。
この書は斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであるともいわれるが。 
以降、斎部氏は伊勢神宮の奉幣使の役職を司ることになる。 
奉幣使(ほうへうし)とは、勅命、つまり天皇からの進物または礼物を山陵・神宮・神社に奉献する使者のこと。



忌部氏の祖は、天岩戸で活躍した天太玉命(アマノフトダマノミコト)であるとされる。 
今日の神道で行われるさまざまな神事を統括し、そこで使われる一切の神祭用具を管理する神、というのが天太玉命(神)の本来の役割であるという。

記紀(古事記、日本書紀)では、天岩戸に隠れてしまった天照大神(アマテラス)を誘い出すため、天太玉神は洞窟の前で卜占(ぼくせん、占いのこと)をし、太玉串を作って捧げ持ち、祝詞(のりと)を奉じて、大神の出現を祈ったとされる。 
玉串とは、榊の枝に紙垂をつけた神に捧げる供物のひとつで、太玉串は「立派な玉串」といった意味であり、古代には紙でなく「布」を使っていたらしい。

この天太玉命には五つ神が従っていたとされる。 
そのうちの一神が天日鷲命(アメノヒワシノミコト・天太玉命の弟ともされ、阿波国を開拓した神)であり、その子孫が阿波・忌部氏であるとされる。 
氏は「布」の元となる穀や木綿・麻布などを植えて作り、朝廷に貢上して祭事に供された。
阿波の国のことを「麻植郡」とも称していて、現今でも、徳島県の地域には「麻植郡」の名が残っている。 
その内の阿波忌部氏の一派は後に東国に渡り、麻や穀などを植え、当地に「安房社」を建てた。 
その地は、やがて安房郡となり、後にに安房国となったと伝えられる。

因みに、戦国の覇者・織田信長は、古代忌部氏の子孫であるともいう。 
祖先は福井県丹生郡越前町織田にあって劔神社の神官である関係から、越前忌部(斎部)氏の支流であり古代豪族の忌部氏で、後に平氏を称したとされている。



その安房神社は、房総地方の総鎮守であり、安房国一宮となっている。

「安房神社」は、阿波の国から阿波忌部氏の一部を率いて房総半島に渡り上陸した際、そこを安房の郡(こうり)と名附けて天太玉命を祀る「社」を創建したとされている。
従って、創建年代については神代の昔まで遡り、年代不詳とされている。 だが、神社暦においては、創始は今から2660年以上も前に遡り、神武天皇が初代の天皇として即位した皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられてはいる。
何にしても、相当の古社であることは確かなようである。

朝廷・武門から篤い崇敬を受け、特に領主の里見氏は社領の寄進や社殿の修造を行い、そのときの寄進状も残っているという。 

祭神は、天太玉命を主神とする。 
安房国は忌部氏が開拓した土地であり、天太玉命はその祖神であり、相殿に「天日鷲命」など忌部五神が祀られている。
古代、安房の国(阿波の国でもある)の建国当時の神々が祀られているわけである。



安房神社は、国道410号が洲崎方面に分岐する相浜地区の山中、その名も館山市大神宮という町名をも戴いている。 
JR内房線では、館山駅から南へ約10kmの吾谷山の麓に安房神社が鎮座している。 
鬱蒼とした大樹に囲まれ、堂々とした拝殿と檜皮葺の本殿が立ち、森閑としている。

この地域は房総先端部に当たり、黒潮の潮流に乗った古代海人族が上陸した地点としては最適の位置であろう。 
関東進出の第一歩となった阿波忌部の記念すべき上陸地「安房・館山」と「阿波・徳島」とは、現在でも交流が続いているという。

引続き「館山」




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2010年7月25日日曜日

日本周遊紀行(122)白浜 「八犬伝物語」

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 日本周遊紀行(122)白浜 「八犬伝物語」 



里美家の八犬伝物語と「白浜町」・・、


里見氏代々の菩提寺「杖珠院本堂」



白浜町役場の北方台地、東西に分かれて白浜城址と杖珠院(じょうじゅいん)がある。
南総・里見氏の初代からの居城であり、叉、「杖珠院」は里美義実、成義、義通、義豊等、代々の菩提寺である。
里見氏といえば、滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルになった戦国武将として有名であり、初代里見義実はこの杖珠院の墓に眠ってる。

室町中期、白浜・野島崎に上陸した里美義実は、白浜に居城をかまえて戦乱の房総を平定した。 現在でも、当時の城跡が残っているのである。



室町中期の15世紀半ば、足利政権が揺らぎ始め、世は乱世で群雄割拠、下克上の様相を呈し始めていた。

関東地方では、永享の乱(1437年、関東地方で発生した戦乱、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する)続いて結城合戦(1440年に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦い)が行われ、更に、享徳の乱(1455年)が続き、乱世の真っ只中であった。

「享徳の乱」では、鎌倉公方・足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、鎌倉公方(幕府より派遣されてる出先機関、関東公方ともいう)が古河御所に逃れて古河公方と名乗って、関東管領上杉氏(公方を補佐する役職名)との全面戦争を引き起こす。
これは関東における内乱で、関東地方における戦国時代の遠因ともなったとされる。

里美家は源氏・新田氏の流れをくむ名家で、南北朝統一後にその一部が鎌倉公方に仕え、上野国・常陸国などに所領を与えられている。 
しかし里見家基(鎌倉公方・足利持氏の側近)が結城合戦において鎌倉公方方に付いたため、幕府軍の攻撃を受け一端は滅亡した。 
だが、一子里見義実は脱出して安房に流れ、そこで里見氏を再興することになる。

これを期に里見義実は、館山城主・安西景連の援助を得て白浜城・稲村城に拠点を得る。
この際、「享徳の乱」に乗じて従来、強固な支配体制を築いていた守護上杉氏の勢力支配を駆逐、切離し、安房国に進出、平定してその勢力を指揮下においた。 

ここで、里見氏は初代の安房の国の統治者になったのである。




南総里見八犬伝」は、関東の戦国時代に安房の地を活躍の拠点にした房総里見氏の歴史を題材にしている。 
里美氏が結城合戦に破れ、義実が当初の主人公となって安房へ落ち延びるところから始まるが、無論、歴史事実にはこだわらず、そのすべてが新たに創作されたものである。

江戸時代、戯作者滝沢馬琴によって書かれた大長編小説で、安房の国の城主・里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間の物語である。

不思議な力で八つの徳すなわち「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が生れる。 やがてそれぞれの玉を持って生まれた八犬士たちが成長し、苦難に出会いながらも因縁の糸で結ばれるという。


南総里見八犬伝』 滝沢馬琴作

「 舞台は今の千葉県の南端安房国(白浜町)である。 時代は、室町時代の中頃、安房国領主・里見義実の娘・伏姫は、かつて義実によって処刑された悪女・玉梓(たまづさ)の呪いによって、飼い犬の八房(やつふさ)と夫婦になり山(富山町)の中で暮らすことになる。ある日、伏姫は「八房の子が出来ている」と告げられ、「身に覚えがないのに犬畜生の子を孕む(はらむ)なんて」と思詰めて自害してしまう。 だが、形のある子が出来たのではなく「気」だけの子が出来ていたのだ。 その時、伏姫が持っていた数珠の「仁・義・礼・智・忠・信・考・悌」の文字が浮き出て、八つの大玉が「気」とともに空高く飛び上がり、散り散りになり遠く飛び去っていった。 伏姫の婚約者であった金碗大輔(かなまり だいすけ)は、これら飛び去った八つの玉を探す旅に出る。 やがて関八州(関東)各地に、犬で始まる名を持ち、体に牡丹の痣(あざ)があり(犬の八房には八つの牡丹の痣があった)、文字の浮きでる玉を持つ若者が生まれる。 「気」だけで生まれた八人の子が「形」を成したのである。 
八犬士は、別々の場所に生まれながら宿縁に導かれて集まり、やがて里見家に仕えるようになる。 しかし、里見家は関東管領・扇谷定正等の諸将連合軍に攻められ、水陸両面で苦戦していたが、八犬士の活躍等により圧勝する。 その後、八犬士はそれぞれ城主となってゆくが・・、」

これが「里美八犬士」の長い物語の始まりである。


登場する『八犬士

犬江 親兵衛 仁(いぬえ しんべえ まさし)    仁の玉を持つ
犬川 荘助 義任(いぬかわ そうすけ よしとう)  義の玉を持つ
犬村 大角 礼儀(いぬむら だいかく まさのり)  礼の玉を持つ
犬阪 毛野 胤智(いぬざか けの たねとも)    智の玉を持つ
犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも)  忠の玉を持つ
犬飼 現八 信道(いぬかい げんぱち のぶみち)  信の玉を持つ
犬塚 信乃 戍孝(いぬづか しの もりたか)    孝の玉を持つ
犬田 小文吾 悌順(いぬた こぶんご やすより)  悌の玉を持つ


安房・里美氏については、更に「館山」の項で述べます。



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01. 15.

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