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2010年1月9日土曜日

日本周遊紀行(47)厚田 「新撰組と名力士」

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日本周遊紀行(47)厚田 「新撰組と名力士」


広大な「石狩川」を渡って、山間づたいの海岸を行くと間もなく「厚田村」(現、石狩市)入った。
この変哲の無さそうな寒村に歴史小説の大作家がいたことに気が付いた。 

子母沢寛」である。


歴史物が好きな小生は、「勝海舟」や「新撰組始末記」は勿論読破しているが、「新撰組」は今現在、NHKの大河ドラマで放映中でもある・・!!(2004年度)。

今迄、いろんな作家が新撰組またはこれに類する書物を出しているが、概ね子母沢寛の新撰組始末記が基礎になっているとも言われる。



厚田村は、札幌から北へ約40キロ、日本海に面し、やはりニシン漁で栄えた漁村である。

子母澤寛の祖父・「梅谷十次郎」は元々江戸の御家人で、江戸開城の後、彰義隊(1868年に旧幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として結成された組織。幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で新政府軍に敗れ解散している)に参加して戦っている。

その後、榎本軍とともに箱館に渡り、五稜郭で敗れている。 
降伏した十次郎は士籍を離れ、厚田村にわたり隠遁生活をする傍ら、旅館などを営んでいたという。


十次郎は、夜にもなると孫の「松太郎」(子母沢寛の本名:梅谷松太郎)を膝の間に入れて、大きな湯呑茶碗で酒を飲みつつ、「江戸弁」で江戸の話や彰義隊のこと、五稜郭戦争の話などをよくしたという。 

そして、『 彰義隊は誰一人あの戦で勝とうとなんて考えていたものはいないんだ。(中略)それを覚悟で、命を投げ出しているのは、そ奴らに、人間の恩というものがどういうものか、それを知らせるためなんだ。それが武士(さむらい)の道というものである・・解るだろう 』・・と。 

子母澤寛は、祖父の言葉として「蝦夷物語」や「厚田日記」でこう語っている。

遠く海鳴りを聞き、日本海に沈む夕日をながめながら、「サムライの魂」をもちながら厚田村に生きた祖父・十次郎、そして孫・松太郎である。 



戊辰の戦いに敗れ、北の大地に根付いた者たちに、同様の物語があっただろうことは想像に難くない。
北海道そのものが持つ無骨さの一片は、そのサムライの精神なのかもしれない。

新選組の最期の物語を語り継ぐ場としての北海道は、それに相応しく土方歳三や旧幕軍、新政府軍の多くの将兵がこの地に倒れたことも、無為ではなかったのかも。

燃えよ剣」で新選組・土方歳三の生涯を描いた「司馬遼太郎」は、ライフワークとなった『街道をゆく』の取材で北海道の厚田村を訪ねている。 


、「新選組始末記」など一連の著作を世に送った作家・子母澤寛のふるさとは厚田村であるが、現住所の自宅は神奈川・藤沢市鵠沼に在り、作家生活はここ梅谷家で送り、墓地も近くの丘にあるという。




次に、昭和の名横綱「吉葉山」もこの厚田の出身とか・・

昭和の破天荒横綱と言われた第43代「吉葉山」(池田潤之輔)は、日本海に面した鄙びた村落、厚田郡厚田村生まれている。

彼にはいろいろなエピソードが残っている。 

学問を志して北海道から東京へ上京した池田少年(後の吉葉山)は、上野駅で高島部屋の力士に捕まり、訳も分からずに部屋へ連れていかれてしまう・・?。 

実は、この力士は青森から上京するはずの新弟子を待っていたのだが、その新弟子が途中で逃げてしまい、たまたま同じ列車に乗っていた彼が新弟子と間違えられてしまったというのである。
これがきっかけで池田少年は、相撲界に足を踏み入れることとなった。


入門後、彼は悪性の盲腸で死にかけたが、運良く一命をとりとめた。 
四股名の「吉葉山」は、この時に救ってくれた医師・吉葉庄作にちなんだものと言われている。

その後は順調に実力をつけていったが、十両目前で太平洋戦争に召集されビルマへと赴いた。一時「戦死した」との噂も流れたが、足に銃弾を受け、痩せ細った体ながらも何とか生還したという。 

部屋に戻った時には、あまりの変貌ぶりに幽霊と間違えられたという。
相撲界に復帰後は、とにかく体を回復しようと食べまくり「胃袋」というあだ名がつけられ、1年で50キロ太ったとの説もある。 

色白で均整の取れた体格と俳優の市川 右太衛門に似た美貌に加えて明るく磊落な性格で人気を集めた。


昭和26年9月場所12日目の「東富士」との対戦では同体となり、取り直しの一番は水入りの大相撲となった。
再開後の相撲が再び同体となると、高熱と疲労の東富士は立つことができず吉葉山の承諾もあって協会預かりとなった。  

歴史に残るこの死闘は、現在も戦後唯一の「預かり勝負」(勝負なし)となっている。
昭和29年 1月に全勝優勝して横綱昇進を決定ずけ、大雪の中での優勝行進は「雪の全勝行進」と言われた。

従軍経験が有ったので元軍人達の人気が高かったが、当時は絶頂を極め、祝宴続きで体調を崩して新横綱の場所を全休してしまった。 
以後も優勝はできず、結局、「贔屓の引き倒し」(贔屓することによって、かえってその人を不利に導くこと)のような格好になってしまった。

同時期の横綱として羽黒山、東富士、照国、千代の山、栃錦、鏡里、若乃花等がいる。
いずれも小生が少年の頃の懐かしい面々である。

引退後は後進の指導に熱心で、現役中に総檜造りの「吉葉山道場」を設立し、後に「宮城野部屋」となって多くの弟子を育てながら理事を務めた。


通算で 37場所、通算成績・304勝151敗1分85休、優勝1、殊勲3、金星2、従五位勲四等旭日小綬章が追贈された。


次回、「小平」



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2010年1月8日金曜日

日本周遊紀行(46)北都・札幌 「雪祭り」

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日本周遊紀行(46)北都・札幌 「雪祭り」



その札幌の街のシンボルといえば、やはり「大通公園」であろう。
特に冬の札幌は、「ホワイトイルミネーション」、「雪まつり」の期間だけで、2百万人が訪れる。
都心部にこれだけのイベントができる場所があるのは、全国でも珍しいといわれる。



市郊外に冬の競技で有名な大倉山のジャンプ競技場がある。

昭和47年の冬季オリンピック札幌大会90m級ジャンプ(現ラージヒル)の舞台となった場所である。
標高差300mにあるジャンプ台は着地面から約130mの高さ、ちょうど大通公園にあるテレビ塔が147mだからほぼそのてっぺんから滑り、そして飛ぶのと変わらないということになる。


このジャンプ台から滑り降り、テイクアウトして飛行している時は札幌の町並みが一望できる。 
特にナイターの時は、市街中央の大通り公園の直線的な灯りが、まるで飛行機が着陸する時の滑走路の「誘導灯」の様に煌びやかに輝いているという。


この大通り公園で毎年行はれる「さっぽろ雪まつり」は、毎年2月に開催されている雪の祭典である。
(他に、すすきの会場、真駒内⇒さとらんど会場)
今年(2006年)で第57回を数える歴史がある。


雪で作った大小の像を中心にしたもので、北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からもおよそ200万人もの観光客が訪れる。
北海道で最も大規模な冬のイベントの一つである。


ところで、札幌は北の都市だから雪が多いと思われ、言われている。

実際はどうなんであろう・・?。


札幌市は北緯42度から43度、イタリアのミラノ、カナダのトロント、フランスのマルセイユなどの都市とほぼ同緯度線に位置するが、これらの都市は札幌の雪の量とは比較にならないほど少ない。 


又、冬季オリンピックが開催された札幌と同緯度か、それより北にある都市であるオスロ(ノルウェイ)、アンカレッジ(アメリカ)、モントリオール(カナダ)などの都市と比較しても圧倒的に札幌が多く、北方都市としてはダントツ一位なのである。

因みに、札幌の降雪量(降った雪の量の合計値)は平年でも5mを超すといわれるが、他の都市はせいぜい1m台なのである。

道内の雪の降り方には三種類あるといわれる。

一つ目は低気圧通過に伴う「低気圧型」、二つ目が、所謂、冬型といわれる西高東低の気圧配置となり、日本海側の山間部に多量の雪を降らせるタイプ、三つ目は「里雪型」で札幌では「石狩湾低気圧」といわれる。 

この三つのパターンの繰り返しで、札幌には雪が大量に降るというわけである。
これら大量の雪は当然除雪が必要になり、その予算・費用、労力は大変なもので、冬の生活を快適にしようとするほど、除排雪の量は雪だるま式に増え年間百億円にも膨らむといい、これは一般会計予算の0.2%にも当たる。



さて、その一方で雪祭り用の雪は市街地に降った雪は殆ど使用されないという・・!!。

汚れた雪をよそに捨て、きれいな雪を貰うということになっているらしい。
何とも妙な具合であるが、これが現実らしい。


さっぽろ雪まつりには、大量の雪が必要なため、石狩市の開発途上の新港湾に積もる雪が利用され、雪の四分の一は石狩市から戴くという。 
石狩市は、札幌雪まつりの生命線」ともいわれる所以である。





札幌市の市章は「六花」である。 


六つの花、六花は「ろっか、りっか」とも呼び、結晶が六角形であるところから「雪の異称」でもある。
市のマークである外側の六角模様は、すなわち「」をもって北海道を象徴している。 


ところで、雪の札幌をイメージした札幌の銘菓「白い恋人」がある。
近頃、消費期限の偽造問題で揺れたが、札幌市内にある菓子メーカー・「石屋製菓」が製するものである。 

ある年の師走、社長が近くの公園から歩くスキーを終えて会社に戻ってきたとき、「白い恋人たちが降ってきたよ」と、ある人の何気ない一言が、名前の由来だという。 

1976年に発売され、色が白いことが北海道の雪景色を連想させることや、北海道限定販売にしたことが功を奏し、出張や旅行の際の土産品として人気を得た。 
現在では年間約2億枚を売り上げるまでになり、北海道の土産と言えば「白い恋人」とも言われ、土産品の単品売り上げでは全国2位とされる。 

因みに、1位は三重県伊勢の「赤福餅」で、伊勢神宮の土産として有名である、だが、こちらも同様に不適正表示や製品改竄問題で矢面に立たされたが・・。 



序(ついで)ながら、道内で「六花亭」という製菓会社がある。 
これは市章で「六花」をもつ札幌ではなく、十勝地方・帯広の会社である。 


製品の一つに、「白い恋人」に並ぶとも言われる「マルセイバターサンド」というのがある。

十勝地方の開拓に父といわれる、明治初期、伊豆・松崎からの入植者・「依田勉三」(詳しくは十勝の項)に因んだ御菓子で、クッキーとバターとレーズンを適度にマッチさせた感度は、北海道を代表する銘菓であろう。 


道内の有志家、自称・北海道お土産探検隊と言われるその道の団体などは、味、品質は最高級で道内一位であるとしている。
実は小生も北海道を訪れた際には、この「マルセイバターサンド」を最優先の土産品にしているのである。





次回は、「厚田」


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2010年1月7日木曜日

日本周遊紀行(46)北都・札幌 「札幌農学校」

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日本周遊紀行(46)北都・札幌 「札幌農学校」


引き続き「札幌」のことです。

札幌市は一見内陸部に在るようだが、ほんの一部小樽や石狩市に海岸面を譲ってはいるものの、石狩湾に極めて近い海洋性の都市である。 


その石狩湾に近い札幌市街の北部、札幌市北区に札沼線(愛称・学園都市線)が北上しているが、この駅に「八軒」「新川」「琴似」「太平」「篠路」「拓北」といった駅名が続く。 
またこの地域に発寒(はっさむ)や屯田町というのもあり、いずれも札幌開拓期に因んだ名称である。



明治2年の廃藩置県で蝦夷地は「北海道」と改称されたが、明治政府は北海道開拓と北方警備のため、屯田兵(有事には軍隊となる開拓民)の募集を開始している。 

そして、札幌では明治8年頃から九州、四国の士族が発寒、琴似あたりに屯田兵として入植し開拓が始まっている。 


「屯田町」というのは無論開拓当時の名称がそのまま残ったものであり、昔は、「篠路兵村」(しのろへいそん)とも呼ばれていたという。 


北海道に屯田兵制度が導入されたのは明治7年で、この制度は明治32年まで続けられたが、この間、屯田兵は、北海道の開拓に多くの貢献を果たし、札幌圏では琴似兵村、山鼻兵村、篠路兵村など四つの兵村を造ったといわれる。 
これらの入植、兵村が札幌市発展の大元になっているのである。



『 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴の筵  尽きせぬ奢りに 濃き紅や その春暮れては 移らふ色の 』


周知の人もいると思うが、北海道帝国大学の「寮歌」である。


北海道の開拓地といわれる屯田地区の東側、現、札幌駅の北側に広大な敷地を持つのが現在の北海道大学(略称、北大)で、1918年(大正7年)に創立されている。
その前進である「札幌農学校」は、1876年(明治9年)に設立されている。 


札幌農学校は明治初期、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した時期に、北海道・札幌に置かれた最初の教育機関であり、札幌、ひいては北海道の開拓の歴史と密接に繋がっている。

初代教頭は、マサチューセッツ農科大学前学長のご存知ウィリアム・スミス・クラーク博士で、彼の言葉、「Boys Be Ambitious青年よ、大志をいだけ)」は、あまりにも有名である。 

クラーク博士は、北海道開拓使の招きにより、札幌農学校の教頭として来道した際、ウイリアム・ホイーラー(土木工学、数学、英語学)とP・D・ベンハロー(化学、植物学、農学)の両名の教授を伴ってきた。


二代目のホイーラー教頭もクラークの精神を引き継ぎ、2期生からは新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)らを輩出している。 

市街地中心部、札幌の観光名所の一つに、ご存知「札幌時計台」がある。 
札幌の歴史と共に歩んできた開拓当時の札幌の様子を、今に伝えているといわれる。
今では貴重な存在となっているこの建物は、札幌農学校の演武場として、1878年(明治11年)に建てられたという。 

基本設計を行ったのは農学校教師ウイリアム・ホイーラーで、故国アメリカの工法が用いられており、正面の入り口真上に「時計塔」が据え付けられたのは創建から三年後のことであった。


明治36年には、時計台は札幌市に移管され、その後は図書館として使われるなど、市民により親しまれる存在となっている。 
周囲に響きわたるその鐘の音は札幌市民の生活と共にあり、1963年(昭和38年)制定された「札幌市民憲章」には、「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です」とうたわれ、1970年(昭和45年)には重要文化財の指定を受けている。  




因みに、ホイーラー教授から土木工学を学び、後に日本を代表する土木工学者となった広井勇教授がいる。
更に、広井勇教授から教えをうけた吉町太郎一氏や山口敬助氏がいる。
何れも、日本土木工学の先駆けとなった人物である。 

吉町氏は旭川のシンボル「旭橋」を、山口氏は「豊平橋」を設計している。「旭橋」は、札幌市の豊平橋、釧路市の「幣舞橋」(ぬさまいばし)と共に北海道三大名橋といわれたが現在では、この橋のみが架橋当時の姿を残している。 


旭橋は、旭川中心部と北部を繋ぐ市内交通の要衝である石狩川に架けられており、国道40号が通過している。 

美しい姿から旭川のシンボルとしても市民に親しまれ、橋の近隣にある常磐公園と共に河川敷では「旭川雪祭り」の会場となり、名物巨大雪像とともに一服の風画を演出している。


豊平橋は、石狩川の支流の豊平川にかかる橋で、国道36号を通す。
札幌から千歳・苫小牧・室蘭方面に向かう要所にあり、1871年に豊平川に最初の橋として架けられた。 

当初は美観溢れる三連アーチの橋で、北海道での名橋とされたが、度々洪水で流され、今はコンクリートの平橋に変わっている。 


又、幣舞橋は、釧路市の中心部北大通から対岸の南大通りまでをつなぐ釧路川に架かる橋で、橋梁には4体のブロンズ像が配置、川沿いには広い遊歩道も整備されていて、釧路観光名所の一つである。 
現在の橋は初代幣舞橋から数えて五代目として1976年(昭和51年)に建設されている。

又、吉町氏の設計した日本での橋は、一関市の「北上大橋」(北上川に架かる国道284号が通る橋で、最近、美しい新橋が架けられた)、東京都・墨田川に架かる「白髭橋」、岐阜市の「忠節橋」(国道157号の途中、岐阜市の長良川上に架かる橋である)などがある。



尚、白髭橋は、隅田川に架かる荒川、墨田、台東三区を結ぶ重要な橋であり、当時、橋場は江戸期の頃は風流で雅趣に富んだ土地柄で、大名や大店(おおだな:商屋)の寮(別荘)が隅田川河岸に並んでいたという。 

江戸名所図絵にも「都鳥ノ名所ナリ」と描かれ、付近の茅の原には水鶏が多く棲んでいたという。
今も周辺には東京の歴史的名所が多数在る。

いずれの橋もアーチ状の鋼鉄の橋で、新旧はともかく何れも類似形の美しく景観溢れる橋であるとのこと。


屯田兵によって開拓が始まった北海道は、学術的には札幌農学校(北大)によって始まったといってもよく、特に国土を造る基礎となった土木工学は、その父といわれる「ウイリアム・ホイーラー」によって全国に波及していったといってもよい。



北大寮歌『都ぞ弥生』(明治45年) 詞・横山芳介 曲・赤木顕次

都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵
尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の
夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて
星影冴かに 光れる北を
人の世の 清き国ぞとあこがれぬ

豊かに稔れる石狩の野に 雁遥々沈みてゆけば
羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺黄昏こめぬ
雄々しく聳ゆる楡の梢 打振る野分に破壊の葉音の
さやめく甍に 久遠の光り
おごそかに 北極星を仰ぐ哉

寒月懸れる針葉樹林 橇の音凍りて物皆寒く
野もせに乱るる清白の雪 沈黙の暁霏々として舞ふ
ああその朔風飄々として 荒ぶる吹雪の逆巻くを見よ
ああその蒼空梢聯ねて
樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ


次は、「札幌雪祭り」



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2010年1月6日水曜日

日本周遊紀行(46)北都・札幌  「開拓期」

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日本周遊紀行(46)北都・札幌  「開拓期」


余市から小樽方面へ向かったが、「小樽」については、この後別途・「温泉と観光」の項で述べます。

小樽から札幌へ通じる途中に「銭函」という、有り難そうな地名がある。

銭函地区の銭函駅は海岸近くの平地にあり、駅の南に続く山裾に市街地が広がっていて、駅のすぐ西に銭函川とその河口がある。 

明治時代のはじめには、札幌へ向うのに海から至る交通上の要地であり、その後も小樽と札幌を結ぶ中継点として栄えた。 

現在の町の規模は、札幌や小樽と比肩できないが、駅舎のホーム改札口付近には「銭函」が吊るして飾られ、更にホームに大きな銭函が据えられているという。 
駅舎は昭和6年築の古い建物だとか。



その「銭函」の由来を探ってみると、ニシン漁で莫大な利益が上がっていた頃、和人が付けたらしい。 
幕末、幕府が計画した西海岸から東海岸への内陸道路の一部として、千歳街道が開かれ、この地が石狩への浜通りと内陸道路の分岐点となり交通の要所となった。 
このころから新しくゼニハコ、漢字で銭函という地名が文書に現れてくるらしい。


明治新政府となって、行政の中心が「札幌」に新設されることになり、その経営のため明治2年、開拓判官として「島義勇」(しまよしたけ)が銭函に仮役所を開いた。
島義勇は銭函を、小樽の港と札幌との中間地点としての地の利を考えたのだろう。


ところで、銭函の地名の由来だが、これには諸説があるという。

昔、ニシン漁の漁業家や漁人、また開拓人の賃金支払のために「銭函」を置いてあったとか、他にニシンの豊漁でばく大な収入があり、浜に銭の函が積まれていたから、というものである。 

だがニシンの豊漁でゼニバコだけが景気が良かったわけではなく、小樽沿岸はすべて同じだったはずだが、いずれにせよ、だれが考えたのか縁起の良い地名であるには違いない。
この年8月には蝦夷地の正式名を「北海道」改称している。


時折、金運祈願や商売繁盛を願って、記念入場券を求める人が結構いるという。




「島義勇」について・・、
新政府の議定(ぎじょう:明治政府の官制で三職の一つ、皇族・公卿・大名の中から選任された。三職は明治政府最初の最高政治機関で、他に総裁、参与がある)として鍋島の藩主・鍋島直正が蝦夷開拓督務に任命されると、島義勇を首席判官として蝦夷開拓御用掛に任命した。


東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ:公家、政治家)長官とともに農工民200名をともない先ず、函館に渡る。 
この時、島判官は札幌に本府を建設する特命があり、函館から陸路、磯谷、岩内、余市、小樽を経て10月に銭函に着いている。 

この間の後志の旅を『函館以北実ニ世界第一トモ可謂悪路ニテ、人馬共ニ足ヲ入ルル処無之』と記している。
困難を極めた道行きであったという。


島判官は札幌に役所の建築が完成するまで、銭函から毎日馬に乗って出かけ指揮をとった。

まず札幌まで貫通できる道路の工事をすすめる。 
札幌周辺は大木が繁茂し見通しがきかず、途中には予想もしなかった湿地帯が広がっていたという。 

島判官は毎日銭函から乗馬で往復し、道路工事や建設の進みぐあいを見て指揮をした。
時には灯油も凍るような仮小屋で、夜通し熊よけの焚火をたきながら、人夫や犬と一緒にざこ寝の夜もあったという。


判官は、銭函に着任してから1ヶ月たって、ようやく雪の中を札幌に入り、組立式の役所、住宅、倉庫などの建築を急ぎ、北1条西1丁目に官宅を築き、集議局の看板を掲げて移転した。

後年、島義勇は、明治7年江藤新平らと佐賀の乱をおこし刑死したが、北海道、そして札幌開発の祖といえる人物であった。 

現在、札幌市役所の1階のロビーに、札幌最初の開拓使判官として「島義勇」の像がある。

ところで当初、島義勇が目にした平原は(札幌)、豊平川一帯に広がる湿地帯が多く広がっていた。
もともと「サッポロ」は、現在の豊平川にアイヌの人々がつけた名で、アイヌ語で「サリ・ポロ・ペッ」(湿原が広い川)と称し、これが「札幌」の起こりともいわれる。

明治2年(1869年)に「北海道」と改称されて、開拓使が置かれ札幌本府の建設が始まる直前、判官・島義勇は円山の丘からはるか東方を見渡し、札幌の街づくりの構想を練ったといわれている。 




明治8年(1875年)、最初の屯田兵が入植し、人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築いている。
大正11年(1922年)の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって、市域・人口を拡大してきた札幌市は、昭和45年(1970年)には人口が100万人を突破し、国内でも堂々たる都市として認知され発展してきた。



初めて札幌を訪れた人は、「札幌は碁盤の目だけど、意外に分かりにくい。同じブロックにあるのに住所が違う」。
又、条・丁目の住所のため、市営地下鉄の駅名も「北十二条」とか「西十八丁目」などと味気ないといい、東京だと「両国」、「赤坂」などの地名を聞けば、マチのイメージが湧くのだけれど・・、札幌っ子でも「碁盤の目で味気ないし、面白みがない」と言う人が少なくない。 

これは原野にゼロから都市建設を行った名残とされ、道内では旭川や帯広でも同じ住所表示である。

因みに、同じような町並みに京都が在るが、京都は1000年以上の歴史があり、町の要所諸所に神社仏閣が一種の精神的な支えとして存在する。 

札幌の地番は、歴史の浅い都市の宿命かもしれない。



次回も北都・札幌「屯田兵と北大





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2010年1月5日火曜日

日本周遊紀行(45)古平・余市 「トンネル事故」

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日本周遊紀行(45)古平・余市 「トンネル事故」



この先、積丹半島の沿岸を巡って先端の「神威岬」へ到ろうとしたが、先の台風の影響で国道が破損され通行不能であった。
止む無く半島を横断してる当丸峠を目指した。



峠を越えると古平川に沿って下り、間もなくその河口に達した。
海に注いでいる古平川の河口には、サケの遡上を見物する人や釣り人で賑わっていた。

秋サケが上って来ているのである。  

鮭の一生は、多くは秋頃、日本に帰ってきて産卵・受精し、産み落とされた卵は、約2ヵ月でふ化して稚魚となる。 
卵の中の栄養分を吸収しながら育った稚魚は、虫などを食べながらさらに成長し、そして川を下って海へ出る。
海へ下った稚魚はその後、沿岸に沿って移動しながら北洋へ向かい 4歳頃になったときに、自分の生まれた川に戻り産卵し、ほどなく鮭はその一生を終えるという。




更に、古平から余市にかけても険しい山合いが続く、そしてトンネルも多い。

以前にこの辺りでトンネル事故が有ったのを思い出した。
「豊平トンネル岩盤崩落事故」で、それは、「大岩塊がトンネル上部を突き刺していた」、そのような映像や記事が未だ記憶に残っている。 



1996年2月10日、土曜日朝8時頃であった。 

豊浜トンネル(国道229号線 古平-余市の中間地点)の上部にあたる巨大岩石(最大高さ70m・最大幅50m・最大厚さ13m・体積11,000m3・重さ27,000t)が大崩落し、トンネルの入口から約40mにわたって天井部分を押しつぶしたのであった。



この事故で余別発、小樽行きの路線バスと乗用車1台が巻き込まれ乗っていた20名が亡くなった。 
崩落した岩盤を取り除くのに手間取り、バス内の遺体が収容されたのは事故から1週間後だったという。
バス19名に乗用車1名、計20名あまりの尊い犠牲を出した豊浜トンネル岩盤崩落事故現場、現在は新しく改修され、事故の痕跡を見る事はない。 



小生が通った新しい豊浜トンネルは、旧豊浜トンネルと旧セタカムイトンネルを、事故のあった現場手前から迂回する形で繋ぎあわせたらしい。 
二本のトンネルを一本とし、長くした形で開通している。 

つまり、豊浜トンネルとセタカムイトンネルの半分ずつをそのまま利用している事になり、これは事故で亡くなられた遺族達の強い要望によるものともいう。


尚、この辺りは元々、旧の国道(R229)が海岸沿いに走っていて、旧豊浜トンネルと旧セタカムイトンネルが在ったらしい。 
その後、新道が山側に出来たため、旧トンネルと並行して新たに二本にトンネルが造られた、これが二代目のトンネルである。
無論、事故のあったのは二代目トンネルの「豊浜トンネル」であった。


事故後は、この両トンネルの途中から掘り進んで繋ぎ合わせて一本のトンネルにした、いわば新新豊浜トンネルともいえる。
つまり、この地は旧トンネルと事故が発生したトンネル(新トンネル)と、それに事故後山側に造られた新トンネルと三本のトンネルが平行して存在するのである。 

海岸際の旧両トンネルはコンクリートで封鎖された。
勿論、事故のあったトンネルの不使用部も閉鎖されていて、事故現場を見ようと思っても、内側に当たるため陸上ルートからは不可で、船で直接行くしかないのである。 

チョットややこしかったかな・・?

古平側の新豊浜トンネルの入り口にセタカムイ「防災記念公園」駐車場があり、その一角が慰霊公園、山際に慰霊碑がある。


因みに、古平町(ふるびらちょう)という町名は、アイヌ語の「フィーピラ」(赤い崖)から付いたそうである。





余市には空飛ぶ有名人がいた・・??、


昭和47年に札幌で開催された、冬季オリンピックのジャンプ金メダリストの笠谷幸生、それと、平成10年の長野オリンピックのジャンプで大活躍した斉藤、船木の両選手(ジャンプ競技は白馬村で開催された。 小生別宅のすぐ近くにジャンプ台、記念館等が有り、原田をはじめあの時の感動は今も記憶に残る)。
そして平成4年、12年の2度にわたり、スペースシャトルに搭乗し様々な科学実験を行った、「毛利衛」氏もそうらしい。


尚、積丹半島、小樽は「温泉・観光」の項で詳しく述べます




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2010年1月4日月曜日

日本周遊紀行(44)岩内 「雷電海岸と岩内大火」

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日本周遊紀行(44)岩内 「雷電海岸と岩内大火」



国道229号線を岩内方面に向かうと、又々、山が迫って険しくなり、トンネルも多い。
ここは「雷電海岸」といい、積丹半島の西側の付け根に当る岩内町と蘭越町の町境でもある。

スキーのメッカ、「ニセコ」の山塊が連なってきて、その西の端が代表的な山「雷電山」(1212)であり、この山の腹が強烈な断崖絶壁となって日本海にナダレ落ちているのである、謂わば荒々しい岩石海岸である。
近年になって急峻な山肌に辛うじて道が付けられているが、新道を含め道路も整備されて新しいトンネルも次々完成しつつあり意外と走り易い。 

長い「刀掛トンネル」(2754m)を抜けると「雷電温泉」の看板が立ち、数軒の旅館、ホテルが海岸の岩場にへばり付く様に点在する。 
更に、ここより雷電山のそば、雷電峠の山道をおよそ3kmほど入った山中に、現代文明から隔絶された一軒宿の「朝日温泉」がある。


江戸末期の創業と言われる古宿で、かつて海岸国道が出来る以前は、この峠を越えて岩内に到ったもので、山越えする人々のための峠の茶屋や駅逓が置かれていて随分とにぎわったという。 
国道の開通に伴い、当時の趣のまま秘湯として山中に残されたらしい。 
この地は今でも携帯電話、普通の電話も使えず、電気も通じず自家発電機に頼らざるを得ないという、野趣あふれる山の湯である。


水上勉の推理小説・「飢餓海峡」は、洞爺丸遭難事故と岩内の大火をネタにしたものであるが、この朝日温泉も登場する。 

昭和30年代頃までは山間を上下する大変な道だったようで、あの岩内の大火の後の様子を小説は、『 朝日温泉は雷電山のふもとにあった。  宿は石ころ道と川をはさんで、とびとびに建っていた・・、』と、 作中、岩内で襲われた登場人物たちが、この朝日温泉で出会うのであるが。



やがて岩内に着いた。

バスセンターや道の駅、鉄道記念公園(・・?)等、岩内の中核地で、昼間ならかなり賑わう所だろうが、今はまだ閑散としている。
岩内には、かって国鉄岩内線の鉄道があって、1985年国鉄合理化の煽りで廃線になっている。


ところで、この「岩内」には大きな現代史の1ページがあった。 

1954年9月26日洞爺丸台風のさなか、岩内の街に大火が発生し、何と町の八割が消失したのである。
その日の夜8時20分頃、台風15号(洞爺丸台風)の接近で避難し、留守宅となっていたアパートから出火、岩内の町中を嘗め尽くし町全体の80%を消失した。 
この時の焼死者33名、負傷551名、消失家屋3300棟、などであった。 丘の上には今も「大火の碑」がある。


この同じ日、青函連絡船「洞爺丸」が函館湾内において、転覆遭難事故を起こし、1000人以上の犠牲者をだしている。 
世界史上稀にみる海難事故であるが、このことは函館(Ⅱ)の項で記載している。


その凡そ10年後、この岩内大火(洞爺丸遭難も同様)を背景にした、水上 勉の推理小説「飢餓海峡」が発表され、映画化もされた。映画制作では現地ロケが行はれ、地元の人は多いに協力したとか。

その主な筋書きは・・、

『 昭和22年9月20日10号台風の最中、北海道岩内で質店一家3人が惨殺され、犯人は放火して姿を消した。その直後嵐となった海で、青函連絡船の惨事が起き、船客530名の命が奪われた。死体収容にあたった函館警察の刑事弓坂は、引取り手のない2つの死体に疑惑を感じた。船客名簿にもないこの二死体は、どこか別の場所から流れて来たものと思えた。 そして岩内警察からの事件の報告は、弓坂に確信をもたせた。 事件の3日前朝日温泉に出かけた質屋の主人は、この日網走を出所した強盗犯沼田八郎と木島忠吉それに札幌の犬飼多吉と名のる大男と同宿していたのだ・・、』


人間の内に潜む心の闇を、スリラー仕立てで見事に描ききった堂々3時間におよぶ傑作超大作である。

監督・内田吐夢、出演は犯人役:三國連太郎、ベテラン刑事:伴淳三郎、遊女:左幸子らが熱演している。 
この映画の冒頭に、かっての国鉄・岩内駅が映されているが、他に青函連絡船の遭難シーンや下北半島の主要観光地である仏が浦、湯野川温泉、恐山、下風呂温泉なども登場してくる。



因みに、小生がこの地「岩内」を訪れた今日は、2004年9月26日で、奇しくも50年目のこの日に当るのである。
小生にとっても実に奇遇な日にも成ったが。

本日、当の岩内町では、何か追悼などの行事が行はれるのであろうか・・??。


次回は、「古平」



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01. 15.

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