2010年4月13日火曜日

日本周遊紀行(89)津軽海峡・船中余談 「松浦武四朗」

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 日本周遊紀行(89)津軽海峡・船中余談 「松浦武四朗」   


天塩川河口に建つ、松浦武四郎像と歌碑
『 蝦夷人の みそぎなしける 天塩川
       今宵ぞ夏の とまりをばしる 』

『 ながむれば 渚ましろに 成にけり
        てしほの浜の 雪の夕暮れ 』




ところで、北海道を一周して又、この執筆中の調べ物から「松浦武四朗」という人物によく出会う。
関係した現地には歌碑や像、顕彰碑が各所に建立され、釧路市の中心街には「松浦町」という地名まであった。 
往時の釧路市の議長が市史を調べるうち「松浦武四朗」が、『この道東の地(釧路)は将来、相当に発展するだろう・・』というくだりの文章を見つけて、町名を松浦町にしたというエピソードもある。


既に紹介したが・・?、
松浦武四朗は「北海道の父」といわれ、「北海道の名付け親」でもある。
北海道の地名や郡名に、アイヌへの敬愛の気持ちを込めてアイヌ語を生かした名前を付けたという。
武四郎が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話からであったという。

北海道の「」は元々は「加伊」の読みであって、アイヌ人はこの地を「加伊」と呼んでいた。 
武四郎はアイヌと交流するうちに『北海道』という名前を「北の国に生まれたアイヌの大地」という親愛の情を込めて名付け、支庁名、郡名についても武四郎は「地名はその土地の文化である」として、アイヌ語地名に基づいて選定を行ったという。


松浦武四郎は1818(文政元)年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)ともいわれ、一般には他の二人よりは余り知られていないようだが・・旅行家、探検家であり地理学者、登山家でもあった。
生家実家は伊勢神宮の参道に通じる参宮街道に面していた。 
少年の頃、「お陰参り」といって伊勢神宮に60年に一度の大祭があり、この参道をお参りする人々が一年間に400~500万人もいたといわれていた。
当時の日本の人口の一割以上の人が通ったことになるという、武四朗少年はこれをきっかけに「」に目覚めたという。

十代前半 から西日本の各地を旅行しながら長崎に着いた時、ロシアが蝦夷地に通商開港を願い出ているのを知って(このとき長崎は既にオランダ等と開港していた)急きょ蝦夷地へ向かった。
個人的には既に蝦夷地を三回徒歩していて、このとき「羊蹄山」等、冬の北海道の山を完登している。 又、これらの経験を見い出され幕府用人としても三回、蝦夷探検を実施している。 
北海道」を命名したのはこの時期であり、合わせて北海道の巨大地図をも完成させている。 
描かれた地図は伊能忠敬が描いた蝦夷地図より更に厳密なものに成っていて、例えば北海道最大の河川「石狩川」は、現在日本の流域で2番目、長さで3番目であるが、その昔は相当に広く、長かったことが判るという。 
これは河川の開拓や改修が頻繁に行はれた事によるものであるとのこと。


江戸時代が終わり明治時代へと変わると、明治政府は蝦夷地へ「開拓使」という役所をつくる。 
政府は、数々の業績を持ち、蝦夷地通と誰もが認める松浦武四郎を初代「開拓判官」(現在の開発庁長官)に任命した。 
明治政府の役人になった武四郎は、蝦夷地の新しい名前や開拓政策を提案する。 
武四郎が目指した北海道は、アイヌと和人(日本語を母国語とする人々)が共に仲良く暮らすことができる大地であったが、しかし、一年余りで退任しているという。

それは何故か・・?、
武四郎の意思とは全くそぐわない、明治政府のアイヌへの政策であったといわれる。

アイヌは、1871年の戸籍法公布とともに「平民」として日本国に編入されるが、実際の戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされたのであった。 
翌1872年には、伝統的の継承されてきたアイヌの文化や風俗は取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。 
又、アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

その後も、アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。 
しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあり、法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようである。 
この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの本業を営もうとするアイヌには一切援助は出さなかったいう。

この様な有様を見聞するに及んで武四郎は、開拓使の役人たちと度々口論になることが多かった。 
政府要人に対しても意見書等を出し激論を交わしたりしたが、一向に改革する気配が無く、更に、旧幕府時代の「場所請負人」という悪業制度が引き継がれるに及んで、遂に開拓判官の職を辞してしまう。
この後は任官することなく、東京神田に隠居し、時折、大好きな山登りを楽しんだという。
松浦武四朗の気骨ある一面を示したとも云える。


次回からは再び本州に戻るが、その前に北海道東部の「温泉と観光」をどうぞ。 

先ず、流氷の町・「紋別」 




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