2010年2月7日日曜日

日本周遊紀行(55)紋別 「遺跡と遺骸」

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日本周遊紀行(55)紋別 「遺跡と遺骸」




「遺跡」と「遺骸」という、意外な取り合わせ・・、



紋別の市街に入る少し手前に「渚滑川」(しょこつがわ)という清流が流れる。 

その渚滑川を挟んで砂丘地帯に約1キロにわたって続く海岸性原生植物の群落が広がる。 
ハマナスの群落地として知られ、小さなハス沼を中心にエゾスカシユリ、エゾカンゾウなど50種類ほどの草花が咲く。 

そのハス沼の際にオムサロ・ネイチャーハウスがあり原生花園の案内と二階はオホーツク海やオムサロ原生花園の展望室になっている。 



この地、冬は流氷見物のメッカと言われ、巨大な圧力で押されて出来た流氷山脈を見るのに絶好地という。 
又、国道を挟んで「オムサロ遺跡公園」がある。
そう・・「紋別」は遺跡の街でもある。 

市内様々な箇所に50数箇所以上あるといい、その中で代表的なのが「オムサロ遺跡」といわれる。



ここの遺跡では、縄文時代からオホーツク文化期、擦文文化期までの様々な遺物が発見され、竪穴式住居跡が見られるという。 

オムサロ遺跡は、縄文時代から続縄文時代、オホーツク文化期、擦文時代等の歴史的連鎖性ともいうべき住居跡が200軒以上埋もれきらない状態で残されており、他にも竪穴住居や高床倉庫が復元されている。 
一部公園化された園路沿いには、それらの住居跡を見ることができるという。 




北海道では有史以前より其々異なった特有の文化が成立したと言われるが、それらの様子を大雑把に観てみると。 

数万年前の氷河期の頃にはシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、この頃を「旧石器時代」としている。 
その後、本州からの影響もあって土器を中心とした縄文文化が興った。 
縄文時代」は前期、中期、後期、晩期等に分けられるとされ、一万年以上も続いた文化といわれる。


縄文晩期の頃、本州以南は多数の渡来人(主に大陸からの帰化人)が移住することで弥生時代(稲作と鉄が主流となる文化)を迎えるが、北海道にまではその弥生文化が伝播せず縄文文化が引き続きつづいた、 
この時期を考古学上北海道では「続縄文時代」と呼んでいるようである。 

つづいて、縄文とは異なる文様の土器に刻む「擦文時代」となって、これが7世紀頃に始まって12~13世紀ころに終わりを遂げる。 時期は本州の奈良時代と平安時代に当るとされる。 
擦文文化は土器を作る際、ヘラや刷毛で擦って作ったので、その名が付いたともいわれる北海道特有の文化である。

擦文文化から引き継がれたのがアイヌ文化といわれる。 
更に、この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって12世紀ごろには鉄器を用い、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟したとされる。
アイヌ文化は比較的新しく、その擦文人がアイヌ民族の祖ともいわれる。


道内において擦文・アイヌによって擦文時代が営まれていた頃、前記したが、オホーツク海沿岸には海獣狩猟を中心とする北方大陸の文化を持った人々が道内に移住してくる。 
オホーツク文化」と云われる時代であり、シベリヤ・カラフトの北方民族の文化で5世紀から13世紀頃まで続くが・・、同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質な文化であったともいう。 

その後、和人の影響もあって「アイヌ文化」が成熟した頃、オホーツク文化は忽然と姿を消したといわれる。 
これはアイヌ民族と完全に同化したか、或はアイヌに追われたともの考えられるという。


尚、全道に成立していた「アイヌ文化」も、江戸初期頃の松前藩が北方の宗谷場所等を開設したのをきっかけに次第に衰退していくことになる。
それまでアイヌの自由な漁獲の場であり、恵み豊かな権益であったオホーツク海沿岸やサロマの湖などの各所の魚場は和人等に収奪され、アイヌ人は漁業労働者として駆使されるようになる。 
又、和人の影響により生活様式も変化し、特に請負人によるアイヌ人の使役法が過酷を極めたために、男女数の不均衡・結婚機会の減少など人口増加を阻む諸要素が多くなり、アイヌ人を次第に衰亡に追い込む結果となったともいわれる。





紋別でも「」(ゴールド)が採掘されていた・・?、


紋別より遠軽に到る、ほぼ中間地に「鴻之舞」という地区がある。

浜頓別におけるウソタン川流域の金採取でも述べたが、ここ紋別市から遠軽町方面に抜ける山間部のルートのその場所では昔、金鉱山が在ってかなりの採掘量を誇ったという。 
戦前は東洋一の鉱山と言われた程で、鴻之舞鉱山といって紋別市鴻之舞にあり街としても大いに栄え賑わいをみせたという。 
大正4年に発見されて以来、数人の共同所有であった鉱業権を「住友」が買取し整備開発したもので、数十年の長い歴史を有しており、その間戦前から戦後にかけて東洋一の金山として栄えたという。 

昭和46年末まで行われ、その総生産量は金 64トン、銀 950トン に達しており、一つの鉱山としては日本最大のものであったともいう。
しかし、昭和48年(1973)北の黄金郷として佐渡の金山と並び全国にその名を馳せた鴻之舞金山は資源枯渇のために閉山し、56年間の操業に実質的な歴史に幕を閉じている。 



それから歳月が流れ、現在は住んでいる人影もなく実質的な無人の地として大きく様変わりし、そのままの姿で自然に帰りつつあるという。 
町の元住人に言わせると「幾年故郷来て見れば咲く花鳴く鳥そよぐ風 ・・」という歌の「故郷の廃家」の歌詞が身にしみると言う。

鴻之舞」の夢のような現実・・!!、それは浜頓別、枝幸に始まった ともいわ、オホーツク海沿岸におけるゴールドラッシュの端緒は、ウソタン川を始めとする砂金掘りの人達がつけたといわれる。




明治31年(1898)、堀川泰宗(ほりかわ たいそう・岩手県盛岡出身、北見で砂金山、旅館などを経営し、旧湧別村の村会議員も務めた、柔術の師範で大東流合気柔術を修業した。)の一行が、枝幸、頓別川上流のパンケナイで発見した砂金は、優秀な金田としてオホーツク・ゴールドラッシュの口火を切ることとなり、ウソタン川、ペーチャン川砂金発見の端緒ともなった。

最盛期の明治32年頃には、これらの砂金場には5千人以上の砂金掘りが押しかけ、盛んな頃では砂金掘りの作業をする時に体がぶつかりあった状態であったという。 
砂金掘り達の収入は、明治32年(1899)に「一人が一日200グラム程度を連日にわたって採取した」と言う記録もあり、当時地元での砂金の値段は1匁(モンメ:3.75g)あたり4円であったから、200グラムで210円ほどの金額になる。 

この頃の一人前の大工の賃金が1日80銭、出稼ぎが1日60銭であったというから、それは大変な金額であったということが判る。



噂がうわさを呼び、町全体がゴールド・クレージーとなり、漁夫は海を、農民は田畑を捨てて皆ペーチャンやパンケナイを目指した。 

狭い沢の砂金場には、料理屋や飲食店、雑貨店、床屋、風呂屋などがひしめき、熊の出るような山間部に突然集落が形成されたほどで、海岸部にある市街地の人口よりも砂金場の人口のほうが多かったというから、その賑わいは想像に難くない。 
そうした砂金狂騒も僅か2、3年の短期間であったという。




戦前の日本は、軍国主義で国家の政策は軍事最優先として推し進められていた。 

当然のことながら兵員を確保し、増強されたため成人男子はどんどん徴兵され国内の生産活動に従事する人員が欠乏した。
そこで、目をつけられたのが中国や朝鮮の人々であり、日本政府は大陸から中国人や朝鮮人を強制連行し、日本国内各地の鉱山や炭鉱、土木作業に従事させた。そして、ここ鴻之舞鉱山も例外ではなかった。


以来、鴻之舞も同様に徐々に金の採掘量が低下し、それに比例するかのように人口も減少し、過疎化も急激に進行し、当時の最盛期には1万人以上いた町の人口も昭和40年代頃にはゴーストタウンと化し現在に至っているとのこと。


今では、鴻之舞鉱山跡は紋別の「遺骸」となってその姿を晒しているという。


次回は、「湧別」


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