2011年7月23日土曜日

日本周遊紀行(156)日南 「油津と堀川運河」

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 日本周遊紀行(156)日南 「油津と堀川運河」  ,




写真:堀川運河と堀川橋(向こうに吾平津神社の鳥居)


吾平津神社(乙姫大明神)



「油津」は神代の浦であり、自然が織りなす天然の良港であったが・・、



南郷の目井津港の正面に瓢箪の様な形の島が見えている。 「大島」といい人口僅か10数人と言われる優雅な島である。
島は奇岩なども多く亜熱帯性の植物が繁り、季節には、あちこちでハイビスカスの花が咲き、なかなかの景勝地である。
ダイビングやキャンプに訪れる人も年々増えて、釣り客や島を散策に来る人のための民宿もあるとか。 


気が付けば、既にここは日向の国・宮崎県である。 
日向灘の紺碧の大海を望みながら、日南フェニックスロードと呼ばれる国道を北上する。

日南市に入って先ず「油津」という所へ来た。 
対岸に細長く突出した大節の岬に囲まれた天然の良港で、今はヒッソリとした港町のようである。 
油津は古くは「吾平津」(あいらつ)と呼んでいて後に「アイラ、油」と、訛ったという説が一般的である。 

神武天皇のお妃、「吾平津妃」がお立ちになったとされる故事に由来し、堀川端に鎮座する「吾平津神社」の縁起にもなっている。
その御陵が「吾平山陵」であるこのことは先に記した。


日南市の油津港から砂州の広がる広渡川の河口から凡そ1.5kmで結ぶ「堀川運河」が、江戸初期に拓かれている。 
運河は、地元特産の飫肥杉(おびすぎ)を運搬する目的で、飫肥藩が水路として開設したものである。 

この運河は日向・飫肥藩主・伊東祐実(五代藩主)によって開削されたもので、主に広渡川を流して運ばれた木材を油津港へ送り込むことを目的としたものだった。 
運河が開削されるまでは、北郷あたりの山地から産出した木材は広渡川を下って一旦、海へと出ることになる。

その後に梅ヶ浜の沖から尾伏のハナ(現在の大節鼻)を廻って油津の港へと曳かなくてはならなかった。
かなりの遠回りで、時には潮流や強風などによって損失する木材も少なくはなく、また危険も大きくて効率の悪いものだった。 

1683年(天和3年)の12月に始まった堀川開削の工事は、1686年(貞享3年)の春まで、およそ2年4ヶ月の期間を要したという。 
運河の開削は当時の技術では決して楽なものではなく、特に吾平津神社下あたりの岩盤の掘削はかなりの難工事であったという。
言い伝えによれば当時、生贄(いけにえ)として「人柱」が立てられたという噂もある。

その後の油津は、最盛期には周辺一帯、一面に材木の山が積まれていたという。
その河口よりやや遡った所に堀川橋がある。 

明治36年(1903)、飫肥の名石工・石井文吉によって完成させたという由緒ある石橋で、油津を横断する堀川に堂々たる姿を、現在でも残している。 
俗称、優雅に「乙姫橋」とも呼ばれ、この界隈を今でも乙姫町としている。 

映画「男はつらいよ」-寅次郎の青春編-(シリーズ作)に登場した町のシンボルでもある。

油津にかつて訪れた野口雨情

『 水と筏を 堀川橋の 石の手すりは 見て暮らす 』
と詠んでいる。 


そして1921年、野口雨情は本居長世の作曲で童謡「乙姫さん」を残している。 
その橋の袂に吾平津神社があるが、この神社は「乙姫大明神」ともいい、近隣の人々は今も親しみを込めて「乙姫さん」と呼んでいるという。


乙姫さん』 詞 野口雨情  曲 本居長世

龍宮の龍宮の 乙姫さんは
トントンカラリン トンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました

浦島太郎も トントンカラリン
黄金のたすきでトンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました



「吾平津神社」は海の民・油津の人たちの氏神でもあるが、古代神話に彩られる鵜戸の岩屋(現、鵜戸神宮)同様、油津も神代の浦であり、古代から自然が織りなす天然の良港であったという。 

江戸期には油津港を基地として、飫肥杉使用する造船場が多い播磨地方に千石船 (俗称・弁財船、)で運ばれ、木材積出し港として最盛期を迎える。 堀川運河と広渡川の連結部には当時の「石堰堤」が今も残る。

この石堤の上流は妻手川、酒谷川、広渡川、益安川などの四つの河川が合流し大きな砂州、河川敷を形造っている。 
この酒谷川の上流域で凡そ5kmのところが飫肥地区である。

飫肥(おび)は、戦国期(1588年)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏の5万1千石の城下町として栄えたところで、町の中央部に清らかな酒谷川が流れ、深い山々に囲まれた景観と静かな佇(たたず)まいを漂わせている。 

復元された飫肥城大手門、本丸御殿をはじめ、藩校や武家屋敷通、町並みと合わせて「九州の小京都」とも言われている。 
また、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。


藩主・伊東氏は周辺山々の植林に力を入れ、飫肥杉という銘木を造り上げた。
その後、合わせて製紙業も盛んになり藩は大いに潤ったという。 

飫肥杉は南九州の豊富な降水で育った山間部の杉であり、山間部の厳しい気候で育った飫肥杉は腐りにくく、強靭な杉として造船材などに多く使用されている。
 

次回は、「飫肥藩・伊東氏



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2011年7月22日金曜日

日本周遊紀行(155)都井 「都井岬の野生馬」

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 日本周遊紀行(155)都井 「都井岬の野生馬」  ,



写真:都井岬と野生の国産馬




日本原産の野生馬・御崎馬とは・・

都井岬は野生馬の生息地として有名である。 
御崎馬」(みさきうま)と呼ばれる野生馬が約100頭が、ハーレムというグループをつくって生活している。 
約300年も前に放牧したものが野生化し繁殖したもので、体高は130cm程度で首が短く毛並みが荒い純度の高い日本馬で、寿命は永く40才位まで生きるという。 

野生馬なので蹄鉄を打つ必要がなく繁殖は自然まかせだが、牧草の管理等は人の手が入り、岬の入り口には柵や門が設けて管理されている。

御崎馬(岬馬)は、信州の木曽馬、陸奥の南部駒や北海道の道産馬などとともに日本古来の在来馬と言われ、日本種ではあるが約2000年も前の縄文時代後期から弥生時代中期にかけて古代・中国(蒙古系)大陸から導入された馬がその起源とされている。 

その後、日本では馬の生産が盛んに行われ、各地に多数の官営の牧場が作られていて、特に平安後期から鎌倉時代以降の武士の時代には軍馬として重要な役割を果たした。

又、牛とともに農業や輸送に不可欠の家畜であったために幕府直営や藩営あるいは民営の牧場が盛んに作られた。
九州南部では日向の駒を集めて都井村の御崎の牧(御崎牧場)で生産され、これらの馬を御崎馬(岬馬)と呼ばれた。 

御崎馬は主に高鍋藩・秋月家の乗用馬として管理され、現在もその面影を残していると言われる。 
農耕にも使用したが本来は乗馬用であり、瞬発力も持久力もあったという。 

御崎馬は、牧場開設当初から殆ど人手を加えない粗放な管理しか行われず、廃藩後の明治期には御崎組合の共有牧場となったが、その粗放な飼い方は、そのまま続けられてきたという。
そのため御崎馬の風貌や習性あるいは体型や資質は野生状態そのままで、これが「都井の野生馬」と言われ、自然な日本に特有の家畜として国の天然記念物に指定されている。


ところで、日本の名馬といわれる陸奥の「南部駒」や「甲斐の黒駒」の血統種はよく知られる。

源頼朝が藤原氏の陸奥の国を平定した後、「南部駒」の特産地であったことに目を付け、貢馬(くめ)といって馬を年貢として納めるようにしたという。 
この時期、頼朝は馬産地で知られる陸奥の国へ、甲斐源氏(現在の山梨県)出身の南部光行(なんぶ みつゆき)を転封している。 

甲斐の国は「甲斐の黒駒」で知られる名馬の産地で、光行は馬の育成には詳しく、赴任先の陸奥の国では国造りの傍ら、牧場経営にも当たらせ、大いにその手腕を発揮したという。 


戦国の世、馬は軍用として極めて貴重であり、この馬の管理,貢馬のための行政組織が「」の起こりといわれる。 
」とは広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 
その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。

尚、甲斐の国は、飛鳥以前の古墳時代といわれる頃から牧(牧場)が作られ、馬の生産地とされてきたとされる。
この馬は「甲斐の黒駒」として古事記や日本書紀にも登場し、聖徳太子に献上されたともいわれている。 
これにより馬に乗る聖徳太子の伝説が全国に広がったという。


平安時代、武士の道を選んだ清和源氏はこの甲斐の馬を手に入れたことでその勢力を強め、騎馬の将・源頼信の話が「今昔物語」でも精彩を放っている。 
戦国初期、一世の雄・武田信玄もまた清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一人であり、甲斐の騎馬軍団が関東地区を席巻したことは余りにも有名である。


話はチョット反れたが、日本在来馬には乗系(軽種・騎馬用:乗馬に適したもの)と駄系(重種・農耕用・肉用:荷物を載せ運ぶのに適したもの)の二つのタイプ(型)に分けられるという。 

乗系は体形的には足や首が長く、運動が滑らかであり、瞬発力、持久力があり、駄系は大型で、ずんぐり形で肉が付きやすく奮発力、持久力に優れ、肉食用としても重宝される。



広大な芝生が広がる都井岬の丘陵地帯には、野生馬の「御崎馬」が生息しているが、江戸期・元禄年間、高鍋藩・秋月家が軍用馬や農耕馬を岬に放牧したのが始まりと言われ、昭和30年代までは地域農業の担い手として活躍していた。 
だが、農業の機械化が進んだ今日、観光用として現在まで繁殖し続け、今では約100頭が棲息しているという。


馬の社会は一夫多妻制で、一頭のオスを中心に4~5頭のハーレムをつくる。 
ただこれは優秀なオスだけの話で、子孫を残せない悲しくも寂しいオスの群れもあるという。 
手付かずの自然ゆえ苦難の歴史もあり、最大で160頭もいたものが戦後の一時期、草原の減少や病気などで50頭位にまで減少したこともあったという。 
その後、昭和28年(1953年)に国の天然記念物に指定されたことから、寄生虫の除去などの保護活動が本格化したことで何とか持ち直したという。

野生馬の中には、水道の蛇口を首でひねって水を飲む賢い馬もいるという・・!?。 飲み終わった後、閉めることはどうかな・・?。


都井岬の最南端標高250mの断崖には、白亜の都井岬灯台が建つ。 
灯台の最上階は展望室になっていて、天気のいい、空気の澄んだ秋の晴れた日には大隈半島から遠く種子島、屋久島まで見渡すことが出来るという。
この灯台は九州で唯一、内部が見学できる観覧灯台でもあるとのこと。

他にも、都井岬には馬の生態や岬の自然を紹介する都井岬ビジターセンター「うまの館」がある。(入館料大人500円) 

又、都井岬の先端部の断崖に御崎神社があり、この御崎神社の創建は和銅元年(708)と伝えられている古社で、周辺にはソテツの自生地などもあり公園化されている。 
宮崎に来たのなら日南海岸の序に、「都井岬」も是非見て欲しいお薦めのポイントであろう・・!!。


次回は、日南・「油津



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2011年7月21日木曜日

日本周遊紀行(154)志布志 「志布志千軒町」

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 日本周遊紀行(154)志布志 「志布志千軒町」  ,




志布志は、古来より南九州の海運、交易の中心であった・・



太平洋、志布志湾沿いの大崎町へ入って間もなく、大隅半島の東の入り口である志布志湾に面した国道220号線沿いにある「道の駅・くにの松原おおさき」へ来た。 

入り口に巨大なカブトムシの、つがいのモニュメントが出迎える。
大隅半島は「カブトムシ」の採取に適した自然豊かな地域だといい、大崎町は7月に「カブトムシ相撲大会」も開催されことで子供らに人気があるという。


裏手の志布志湾に面した海岸は「くにの松原」と言われる。 
数十万本ものクロマツの美しい松林が、海岸線沿いに帯を成して美観を造っている。 

日南海岸国定公園内に位置し、長さ約7kmにも及ぶその見事な景観は「日本の白砂青松100選」にも選ばれている。
この地は神代から日向(ひむか)の国、救仁(くに)の地として栄えたところで、ここから「くにの松原」の名称が付いたという。 

古代、ここ内之浦から大崎・志布志に至る大隅国中央部から日向国の南部にまたがる広大な地域を救仁院、救仁郷と称していたらしい。


志布志町の町並みに入ったが、思ったより小さな町並みに感じられる。 
志布志湾というと、九州南部地方では極めて利便性の良い港であり、古来より海運業が盛んだった港町にしては意外と地味に思われた。 
尤も、最近になって国の重要港湾・九州唯一の中核国際港湾として指定を受け、コンテナ関連施設の整備が進められているともいう。



かっての志布志は、藩政時代には密貿易で栄え、「志布志千軒町」と唄われたほどの港町であったという。
既に、平安時代末期には島津御庄と呼ばれた大荘園(貴族・豪族の私有地)の唯一の水門(港)でもあり、「志布志の津」として歴史書の中にその名が記されている。 
豪族達が戦略上の重要な地域として、また港の交易による利益をめぐって攻防の歴史をくり返したでもあった。

又、志布志は過去に“水の輸出”という珍しい地域でもあったという。
南九州地方は、特有の広大なシラス台地で、長年に渡り自然ろ過された清浄な水が豊潤に湧き出している地帯でもあり、湧水は古来より秀吉や加藤清正などともゆかりが深いという。
彼等により、戦国時代以降は海外にもこの清水が運ばれ、その水は味が変わらない名水であるとされて時の権力者達に喜ばれたという。  


江戸時代の志布志は薩摩・島津氏の外城としてが置かれ、「麓の港」として南西諸島(琉球、その他)や京阪地方との交易による廻船(江戸時代の定期船のこと)で賑わい更に、江戸時代末期になると密貿易の基地として「志布志千軒町」と呼ばれるほど賑わいを見せたという。 

同時期に大慈寺、宝満寺、山宮神社などの数多くの寺社仏閣が建立され、武家屋敷の庭園など多くの歴史的遺産も残されていた。 
しかし、これらの遺産も明治期の政策の一つとして寺社分離、廃仏毀釈(寺院をとりこわして神社を大事にする明治政府の天皇制をすすめるための政策)が行われ、特に薩摩地方では激しく、由緒ある寺院や施設が壊されている。


志布志町役場の一角に大慈寺(県指定所有)がある。 
室町期・1340年の創建といれる古刹で、京都の臨済宗妙心寺(拙宅の菩提寺と同じ)の末寺でもあり、江戸期の隆盛時には16の支院と100名以上の僧坊がいたという。 

当然ながら明治2年の廃仏毀釈により一時は廃寺となったが、明治12年に一部を再興し現在に至っている。 
克って、この寺に参道門に石造の立派な金剛立像の呵形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)が立っていたという。
寺院取り壊しの際、難を逃れるために地下に埋設して隠したとされ、寺の再興の際に再び掘り起こしたものという。
だが、据付したのは一体だけで、もう一体は廃寺となっていた同系の寺・海徳寺に据えたという。


因みに、「呵・あ」、「吽・うん」とは印度仏教・サンスクリット語の“初めと終わり”を意味する。
尤もで、日本語の五十音も全く同じである。 

阿・吽の呼吸」というが、口を開く「阿」と、口を閉じて発する「吽」から、そこから「呼気」と「吸気」の意味となり、両者が息を合わせることを「阿吽の呼吸」と言うようになった。 

又、「あー」と口を開けて吐ききる「」と、「」と口を閉じて鼻から空気を吸う「」が「呼吸」であり、これが正しい呼吸法ともいわれるが・・?。



現在の志布志港は、日本有数の農畜産地帯への飼料供給など、南九州地域における拠点港として発展しているという。
港湾と都市部を結ぶ南九州自動車道や都城・志布志間地域の整備計画が具体化しおり、今後さらに都市機能の整備や産業の振興を図って、世界に開かれた南の拠点づくりを目指している。


志布志町は2006年1月1日に有明町・松山町と対等合併して市制施行し「志布志市」となる。 
因みに市役所の支所には、鹿児島県志布志市志布志町志布志志布志市役所志布志支所というのがあるらしい・・?。 
簡単に読めますかな、冗談ではなく大真面目である・・!!。


国鉄・大隈線については前に記したが、志布志は西からの国鉄大隈線と東からの日南線の終点であった。 つまりは中継点でもある。 
そして、この先志布志湾沿いを志布志街道(R220)が日南線と並行して走っている。
そう、志布志を抜けると間もなく「宮崎県」である。


ところで小生はこの後、串間市の南端に位置する「都井岬」へ向かう予定であったが、知らぬ間に内陸を抜けて日向灘・日南海岸に面した南郷に到っていた。 
小生のうっかりミスと言ってもよいが、標識を見落としてしまい通過してそのまま南郷まで来てしまったのである。 
南郷沿岸の日向道路のT字路の標識へ来て始めて気が付いたのであり、今更もあって都井岬へは断念してしまったのである。

次回は、その都井岬について述べてみたい。




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2011年7月17日日曜日

日本周遊紀行(153)鹿屋 「航空基地」

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 日本周遊紀行(153)鹿屋 「航空基地」  ,



垂水市街から「桜島」の展望



鹿屋基地から特攻出撃して戦死した人々の員数は凡そ千人弱とも言われる・・! 

 
国道220から垂水に近づくと、いよいよ眼前に迫力ある「桜島」が迫る。
昨日通った国道10号の「大崎の鼻」からは丁度反対側からの眺めになるが、垂水市内から桜島の展望が効く位置の所々で、その勇姿をカメラに収めて戻ることにする。 


垂水市の海岸道の柊原から古江辺りの国道220号は、道路面の拡張、改修されていつ実に広々として走り良い。
更に、付近住民の理解と協力があってか、素敵な町並みが出来上がっている。 
望むならば、この国道町並みをもう一工夫して、例えば洒落た街灯などを設置すると更に引き立ち、名所・櫻島や鹿児島にも近いので、街の名物として成り得ると思うが如何であろうか・・?。 


確か、昨秋訪れた北海道東部の音別町辺りだったと思うが、市街地を貫通する国道38号線には、町花である「エゾリンドウ」をモチーフにした街路灯が連続して設置されてある。
夜ともなると、真直ぐ続く街頭の明かりは宛ら(さながら)遠くから眺めると滑走路の様だともいわれ、ドライバーにはすこぶる評判が良く、更に、霧がかかると幻想的で、音別町の「ふるさと自慢」の一つにもなっている。


その、海岸の鹿屋市古江からは内陸方向の鹿屋の中心市街地へ向かう。 

気持ちのいい海岸道路であるが、目を内陸方向に転ずると海岸からいきなり急峻な山並みが競り上がっているのが判る。
この山地は高隈山系といって1000m以上の山塊が連なっていて高峠、大隅湖、猿ヶ城渓谷などの景勝地もある。

そして、日本におけるブナ林の南限であり、「森林生物遺伝資源保存林」に指定された地域でもあるらしい。
高隈山系の最高峰は、チョット珍しい山名の大箆柄岳(おおのがらだけ:1237m)といい、頂上からの眺めは素晴らしく、桜島や開聞岳、大隅半島、霧島連山などの大パノラマが展開するという。

山地は、東側に向かってなだらかな裾野を広げている。 


その裾野は鹿屋の町であり、そこには広大な丘陵台地が広がっていて、この台地を利用して昭和の昔に飛行場が建設されている。 
市域の西部に広がる航空基地は、今は海上自衛隊鹿屋航空基地となっているが、戦前戦中においても一大航空基地でもあった。



1936年(昭和11年) 日本海軍・鹿屋海軍航空隊が結成されると同時に、飛行場も建設された。 
そして、第二次大戦における海戦においては、特に沖縄の戦闘は戦艦大和など戦史にも残るほど熾烈なものであった。 

この時期、日本の戦局は絶対不利の状態となっていて、ここに退勢挽回を図るため秘策を試みるに至った、即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して計画したと言われる特別攻撃、つまり「特攻」であった。

鹿屋基地において戦時中期頃までは、中国大陸に対する爆撃やマレー沖海戦、イギリス東洋艦隊の攻撃などで戦果があったとされといる。 

特に零戦(零式艦上戦闘機)は大戦中には大量に製造され、世界的な名機といわれて太平洋戦争初期には圧倒的な力を誇ったという。

世界を震撼させた零戦は、海軍鹿屋航空隊でも頻繁に出撃していったが、この鹿屋基地は、戦時末期にはアメリカ軍の沖縄侵攻により、特攻出撃の航空基地となってしまうのである。


太平洋戦争末期には鹿屋基地には第五航空艦隊司令部が置かれ、「神風特攻隊」の出撃基地となり、爆弾を抱えた零戦をはじめ戦闘機は、その運動性能を充分に生かすことなく、搭乗員とともに特攻作戦を展開しながら南の海に散っていった。 

特攻機が離陸するに当たり、知覧基地では「開聞岳」が最後の見送りの地となったが、鹿屋基地からは「桜島」が最後の想いの地になったものと思われる。
この基地から出撃、特攻戦死した人々の員数は908名とも言われる。


現在は、海上自衛隊の航空基地で、対潜哨戒機や救難ヘリコプターの基地でもあり、日本の南西海域の安全保障や奄美諸島から甑島列島に及ぶ広大な海域・離島の海難・急患輸送に欠かせない基地となっているという。 
その滑走路脇には今でも、戦中から使われていた零式艦上戦闘機の勇姿が展示されているという。



国道220号は大隈半島を、ほぼ直角に横断するように延びている。 
その中ほどに「串良町」がある。

この町域のだだっ広い丘陵台地には、緑の絨毯が広がっていて名産の葉タバコが育成されているようである。 
おはら節に『 花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは 桜島 』と歌われているように、この地方は古来より葉タバコの生産地であった。 
昨今は、原料葉たばこの輸入(中国、インド、ブラジル・・)や専売公社の民営化、消費の低迷などによる減反政策のため減少傾向にあるという。 

J・Tからの買取価格も低下しているのが現状のようで、政府も転作を奨励するように働きかけているようである。
葉タバコ生産の産県別にみると熊本、鹿児島、宮崎と九州南部地域が全国ベスト3に入り、凡そ30%を占めているという。 

尚、時代の勢いもあっていずこの地も禁煙運動が盛んであるが、強硬に反対しているのは実は、葉たばこ農家よりもタバコ販売業者達ともいわれる。


串良町の串の字を分解すると、「中中」と読み、「なかなかよい町」という意味にもとれ、町民はそのことを意識しているともいう・・?。 

串良町(くしらちょう)は、今も第一次産業に従事する住民が多く、葉タバコ産業は今後懸念されるが、農業を基幹産業とする町に変わりはなく、「なかなかよい町」であることは確かなようである。 

だが、串良町は周辺の鹿屋市、輝北町、吾平町と2006年1月に合併し、新たに鹿屋市となってしまうという。
従って、行政としての独立性のある「なかなかよい町」は、消え去ってしまうのである。

次回は、「志布志




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