2011年6月11日土曜日

日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病」(2)

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 日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病」(2)    、



水俣病は、人間を廃人にした・・!!  、

水俣病」は、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒド(分子式CH3CHO、 無色の刺激臭ある可燃性液体でエチレンの直接酸化によって製する。
有機合成の原料として重要な素材)の生産のときに触媒(反応を促進させる素材)として使用した無機水銀つまり「メチル水銀」が主要因とされた。 
工場は触媒の反応過程で副生されたメチル水銀を排水し、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)に、ほぼ未処理のまま多量に廃棄した。
そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮(化学物質が生態系での食物連鎖を経て生物体内に濃縮されてゆく現象)が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が多発した。

メチル水銀は体内に入ると主に脳などの神経系を侵し、言語障害や痺れなど様々な症状を引き起こすことが判明している。 
「チッソ」は毒そのものの廃水を無処理同然で海に流し続け、魚は食物連鎖から生物濃縮で体に水銀を溜めていき、人はその魚を昔の暮らしどおり変わりなく食していた。 
変わらなく見えた暮らしの中から、こうして水俣病は起こったのである。 


「生物濃縮」とは汚水がプランクトンや微生物を汚染し、そのプランクトンを小魚が食べ、さらに大きな魚が食べ、最後に人間が大きな魚を食べるという仕組みの食物連鎖である。
それは陸上にもあり植物の葉や実を鳥、家畜などが食べ、そして、最後に人間が家畜などの肉を食べるのと同様の仕組みである。



水俣病の症状」は、想像を絶する悲惨で凄惨なものであった・・!

発病患者は面会に来る家族・知人の識別ができず後ずさりしたり、目や耳も機能せず、言語・知能障害・運動失調で廃人同様の状態にあって無残なものであった。 
文字通りベッドの上で“のたうち回り”、“激しい痙攣”を伴い、まさに生き地獄状態であった。 
また、水俣病は伝染病だとして偏見を受けたり、発病した家族の就職内定を取り消しされたり不当な差別をも受けたという。



現現在の「チッソ」は日本高度経済成長の牽引車であり、特に液晶では世界的に見てもトップレベルであるという。 
水俣工場では液晶を始めとしたファインケミカル製品、化成品、合成樹脂、化学肥料を作っている。

世界でもトップレベルの会社は九州の小さな町にあって、町では人達が大勢働いている。 
現在も水俣の税収の半分以上を納めているチッソは、従業員は660人ほど、関連会社で働いている人は水俣のみで2000人もおり、チッソの城下町ともいわれる。 
そんな中で差別に耐えながら告発することの意味、水俣病の根底にある複雑な事情が見えるのである。

30年経過した昭和末期、熊本県のみの認定患者は1700人、棄却者処分(裁判において認定申請を棄却された者)は6000人、未処理申請者は4300人いたとされる。 
審査の遅れと、認定のゆがみに抗議する“検診拒否運動”が起こり、これに対して県は医療費補助をうち切ったという。 

水俣病発生から50年たっても未だに問題解決されないのは、水俣病を取り巻く経緯、経過が極めて複雑怪奇であり、当時の「高度経済成長」の中で、政策の第一が産業優先に行われていた時代背景もあると言える。


水俣病を取り巻く失態の要因として、次のような項目が挙げられるという。

 1、会社の傲慢体質や安全思想の欠如と人間的な差別。
 2、病理研究機関(熊大医学部等)への非協力と役所、同業者との結託しての妨害工作。
 3、行政機関の取組の遅滞、無責任さ。
 4、「奇病」による住民の誤解、差別問題。
 5、地域としての企業優先、企業城下町の体質。
 6、被害者と一般住民の補償金などによる批判、嫉妬、虐め等々。
 7、その他・・、


当時の日本は、東京オリンピックや日本列島改造論などによる、経済最優先の時代であり、それが至上使命でもあった。 
しかし、それには反作用、弊害が生じ所謂、公害が社会問題化しつつある中でもあり、被害者の訴訟はこの様な社会事情から起きている。

水俣病、第二水俣病(新潟県阿賀野川流域で起こった有機水銀による汚染、水俣病に同じ)、四日市ぜんそく(石油化学コンビナートから排出された有害ガス汚染、気管支炎からぜんそく症状、肺炎・肺気腫から死亡に至る)、イタイイタイ病(富山県神通川流域、神岡鉱山から排出されたカドミウム汚染、骨軟化から骨折し、「イタイイタイ」と叫びつつ死亡に至る)の四件は「日本の四大公害」と呼ばれ、日本の産業公害の典型的なものであった。 
四大公害は加害企業に対して訴訟が起こされ、いずれも原告(被害者)側の勝訴に終わっている、これを、四大公害裁判と呼ぶ。これらをきっかけにして公害健康被害補償法なども成立している。

更に、「水俣病」が続きます。





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2011年6月10日金曜日

日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病」(1)

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 日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病」(1)    、



水俣病の最高責任者は、皇室の縁者であった・・?  、

右手に津奈木太郎峠を越えの旧鹿児島街道がくねりながら見え隠れしているが、間もなくその津奈木の町内に入った。
JRの津奈木駅付近では頭上を新幹線の直線の架道が横切っている。これより一走りで新装なった新幹線の停車駅である「新水俣」駅へ出た。 
二階ホーム駅舎のパネルが異様に光っている。


九州新幹線は現在、新八代~鹿児島中央間を結ぶ部分が2004年(平成16年)3月、一足先に開業しており営業運転を行っている。
そして博多~新八代間もすでに建設着工されており、2010年度末の開業が予定されているらしい。 
鹿児島ルートが全線開業すれば博多から東海道・山陽新幹線と線路が繋がり、東京~鹿児島中央間・つまり日本の3分の2の地域が新幹線で結ばれることになる。

現在、JR九州とJR東海そしてJR西日本との間で交渉中らしいが、現時点では新大阪駅-鹿児島中央駅間の直通運転が検討され、有力視されている。 
ただ、JR東海である東海道新幹線の東京駅からの直通乗り入れは所要時間及び料金面で航空便と対抗する事が困難な事から、鹿児島中央までの直通列車乗り入れの実現性は極めて低いとの見方が強いという。

尚、在来線の鹿児島本線は本来は門司港~鹿児島間の路線であったが、2004年に九州新幹線の新八代~鹿児島中央間が開業したのに伴い、八代駅-⇔川内駅( 117km区間)は「肥薩おれんじ鉄道」と改名され、第三セクター会社に経営が移管されているという。


新水俣の新装駅前を過ぎると直に水俣市街に達し、今度は“第三セクター”の水俣駅である。駅を通過すると間もなく右手に周りは用水路で囲まれ、塀の高さは2.5mくらいあろうかコンクリートの壁と樹木が植えられていて、隠すように会社・工場が延々と延びている。
中を覗うことは出来ないが、何やら辺りには妙な匂いが漂っている。
この先に広い公園が在って「水俣広域公園」と標識にあった。 

散歩中と思われるオバサンに「こちらの焦げ茶色の建物(プラントらしい・・?)はチッソですか・・?」と、かって知ってた名前を出してみた。 
「ハイ、そうですけん・・、あちらもそうたい・・、」と今通ってきた黒塀の方を指差した。「ああ、ヤッパそうですか・・どうも・・」、怪訝そうに小生の車やナンバーを確認していた。


水俣病」の名は世界にも知られているというのに、それを起こした当の会社が駅前の一等地にケッコウ大きな顔をして居座っていて威圧感すらある。 
未だ「チッソ」の水俣市における権威と存在感をリアルに感じるのである。

小生がまだ高校生の少年の頃、小さな白黒テレビで「猫が身体を揺すりながら、突然、ひっくり返って痙攣しながら絶命していく・・」、「人がベットの上で、目を一点に見つめ、手足を痙攣させながら反復運動を繰り返している・・」、こんな姿に嫌悪と恐怖を感じながら見ていたのを覚えている。 
後に九州、熊本県・水俣地方においての「奇病」であることを知った。


いささか飛躍するかも知れないが・・!、

昨今の皇室典範有識者会議の最終報告で「女性天皇」ないし「女系天皇」を容認する方向がはっきり打ち出され、行政府もこの方向で論議がすすんでいた。 ところが、平成18年初、秋篠宮妃殿下御懐妊の吉報がニュースを賑わした時、まさに男子出生の望みが出てきたことで早急に結論付ける問題ではない、ということで「女性天皇」問題は一応棚上げ、沈静化されていった。

もし、紀子妃に姫子の誕生となると皇太子・雅子妃の愛嬢・「愛子様」が、歴史的見ても、近年初の「女性天皇」になる可能性があるといわれる。 
すると、愛子天皇の祖祖父(雅子皇后の祖父)は江頭氏であり、水俣病事件発生当時の社長であった。
もしこの事が実現すれば天皇家、皇室にとっては一つの汚点を残すことになるのではと、一部識者に懸念されていたが・・?。


【追記】 
2006年(平成18年)9月6日 、秋篠宮文仁親王と文仁親王妃紀子の第三子として、長男「悠仁親王(ひさひとしんのう)が御生まれになった、皇位継承は第三位となる。 秋篠宮家にとっては佳子内親王以来12年ぶりの子女の誕生、そして皇室にとっては父である秋篠宮文仁親王以来、実に41年ぶりの男子誕生となった。


さて江頭 豊(えがしら ゆたか)という人物について・・、 
江頭家は藩政時代、佐賀藩主・鍋島家の家臣だったとされる。 彼は金融界より「チッソ株式会社」の社長(1964年~1971年)として就任、当時の水俣病問題の対応にあたっていた。 豊氏の娘が外務省勤務の小和田恒に嫁ぎ、小和田恒の長女である雅子氏は1993年、皇太子徳仁と結婚し皇太子妃となった。
つまり江頭氏は日本国・皇太子妃雅子(将来の皇后陛下)の母方の祖父にあたる。


水俣病発覚当初、原因は種々取り沙汰されたが原因追跡の研究の結果、有毒排水の蓄積が主な原因とされ、それを受けて江頭社長は患者家庭を詫びて回ったという。
しかし、その後の水俣病一次訴訟による裁判では、チッソの責任を全面否定している。 
雅子妃の祖父・江頭氏が社長に就任したのは昭和39年、退任は昭和46年であり期間は7年間であった。
当時のチッソの社長の仕事は会社経営もさることながら、水俣事件の軽減、隠蔽を図り、官僚の各方面に働きかけ、国や県に責任の一端をなすり付ける頑張りは物凄く、その人が反省どころか、もみ消しを家族ぐるみでやっていたとも一部囁かれていたという。
水俣病」の原因が、チッソ工場の排水が水俣湾の汚染によりもの判ったのは、昭和31年頃であった。


水俣公害事件は、いまだに全面解決に至っていないともいわれるが。
原因当事責任者が間接的にも皇室と縁が出来てしまったが、彼の氏のやり方、生き方は日本国皇室のあり方とは正反対にあったと言っていいのかもしれない。 
生まれ育った頃に雅子氏が見たのは、会社のために頑張っている祖父の姿だったかも知れないのだ。

引き続き「水俣病



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2011年6月9日木曜日

日本周遊紀行(138)日吉 「球磨川と街道筋」

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 日本周遊紀行(138)日吉 「球磨川と街道筋」   、




球磨川
写真:三大急流・球磨川(特異な建物は森林館・エジソンミュージアム)


球磨川リフト
球泉洞・下着船場のリフト



球磨地方の「クマ」とは、古語で「山襞」(やなひだ)という意味らしい・・ 、

ここで、球磨川を訪ねることにした。 
日本の三大急流の一つと言われている急流河川を拝見するつもりである。 

九州を西側から縦断する国道3号線の長いトンネル・「佐敷トンネル」(佐敷太郎峠を貫通)を抜けて、佐敷の町並みからは県道27号(佐敷ルート)へ向かう。
改良工事が行われたのであろうか山間の地方道でありながら、よく整備された道である。おまけに、数キロおきに車止めの休憩所が設けてある、ご丁寧なことである。

トンネルを抜けるといきなり球磨川の大河川に出くわした。 
大橋を渡って神瀬というところで国道219号に出会い、右折して球泉洞を目指す。 
2、3km先にその球泉洞があったが、特に、ここを見物するつもりはなかった。 

何でも「球泉洞」は全長4800mの鍾乳洞で山口県の秋吉洞の次に長く日本で二番目九州では一番長いらしい。 
今更であるが、鍾乳洞とは、太古の世界に堆積した石灰層(主にサンゴ層)が堆積した石灰岩地帯が隆起したところに、二酸化炭素を含んだ水の侵食作用によって生まれる空間である。
この侵食は気の遠くなるような時間を要し、鍾乳洞と呼ばれるようになるまで数百万年はかかる。
こちら球泉洞の内部は、凡そ三億年の長い年月をかけて出来た鍾乳洞といわれ、鍾乳石や石柱が無数にあり、さながら天然の芸術を見るようだという。 


さて、球磨川である、ここは急流下りの船着場でもあった。 
ただし、川面は現在地より、かなり下方にあり従って、乗り合い客はエスカレータ(リフト)か歩道で上下を往来するようになる。 
歩道にてゆっくり河原に下りてみた、さすがに日本有数の急流らしく瀬音激しくゴーゴーと流れる様は如何にも日本三大急流の名に恥じない。
この辺りの山域は、球泉洞にみれるように石灰岩質の地層であり、従って、河水は山肌を浸食しながら深い峡谷を形造っている。 

近くに吊り橋があった、ここの風景に馴染んで一服の絵になっているのがよい、向かいの休暇村へ通じているらしい。見ると一艘の「急流くだり」の船がやってきて、船着場に到着するところであった、船頭の棹捌きが見事である。

球磨川を下りは、この地方の代表的な観光の一つで「清流コース」、「急流コース」があるらしい。 
急流コースは人吉発舟場から球泉洞下までの全長10キロメートルを90分で、五つの大瀬を豪快に下るスリル満点のコースは船頭さんの腕前が見ものということ。

日本三大急流(山形県・最上川、静岡県・富士川他に説あり)の一つである球磨川は、水源を水上村に発し、八代海に注ぐ全長115kmの一級河川である。 
標高1700メートルを超える九州山地の急流を下り、五木村を水源とした川辺川と合流して中流域の人吉盆地ではゆったりとした流れとなり、その後再び、渓谷を流れる急流となる。

「人吉」や「渡」からは川下りの船が出ていて、人吉から渡までは比較的穏やかな流れであるが、渡から球泉洞下までは急流を下ることになる。


九州の屋根といわれる山域に囲まれた球磨地方は、全てが山である。
そして「球磨川」は標高1600mの五木村の山々から南下し相良、人吉盆地に流れ込み、ここから再び北上して標高7~800メートル程度の山々にわけ入り、山が切れたところはいきなり八代の海に出る。 

地元の人は球磨川を称して恐川、つまり「おそろしか川です」というらしい。 
流れゆくその両岸の山襞は急斜面をなし、山に降った雨水はいきなり斜面を走って鉄砲水のようになって球磨川に落ち込み、水嵩を見る見る増やすのである。 
球磨地方の「クマ」とは、山襞の古語でもあるという。


ここより凡そ15km先、球磨川や川辺川等の河川が堆積してできた扇状盆地に「人吉」があり、古くから交通の要衝として開けた。既に鎌倉初期には地頭として遠州・相良(さがら・今の静岡県)から相良氏が入国し、幾多の戦乱を経つつも明治維新までの約700年間、一貫してこの地方を治めてきた。 
このように鎌倉時代以来、大名として続いた「家」は全国でも珍しく、薩摩の島津氏の他僅かしかないという。 

急流河川・球磨川は昔も今も「人吉」を潤しているのである。
その人吉は近年までは険しい山地に囲まれた内陸部にあることから、長く「陸の孤島」と呼ばれていた。
肥薩線が八代⇔人吉まで開通したのは明治41年 (1908年) であり、国道219が車道として整備されたのは昭和38年 (1963年) の頃である。  

又、今日の肥薩線は昭和2年に海岸に本線が開通するまで鹿児島本線として活躍したという。山中の敷設が優先決定された経緯には、直線的に鹿児島と宮崎、両方からの縦貫線であることは無論であるが、時勢下、国防上の観点から海岸からの攻撃、特に艦砲射撃を避けることができること。

又、九州が本州から孤立した場合、自給可能なのは山深い人吉盆地であるといった理由があったとされている。 
工事は山と川に阻まれた天険の地で困難を極めたといい、開通当時の沿線の人々の喜びの様子は歴史小説の大家で薩摩出身の海音寺潮五郎(歴史作家、同じ郷土の英雄・西郷隆盛を扱った著作多数)のエッセイの中でも綴られている。

道路では人吉⇔八代間を連絡しているルートはR219で、地図には「人吉街道」と書かれている。 江戸・藩政時代から明治以前までのこの街道は、途中から沿海の佐敷方面へルートを変え、薩摩街道(国道3号)と合流していて、八代⇔人吉間を直結するメインルートは無かった。 

昭和中期、車道としてのR219の建設は球磨川の山裾を削り、半ば強引に取り付けた道路であるため、開通当初から路肩決壊や、落石を繰り返し、工事が止むことがなく、今も大変な維持費のかかる問題の多い道路だという。 


現在の人吉は、「えびの」を通じて高速道が三方へ延び、熊本、宮崎、鹿児島の主要都市へ一時間で通じることが出来る。 
その、佐敷ルート、旧人吉街道(県27)を戻って、薩摩街道(国道3号)へ再び出る。
一旦、佐敷の海岸に接するが、すぐに内陸の山間地に向かうようである。 
最高所の「津奈木トンネル」(津奈木太郎峠)をくぐると間もなく「水俣」であるが。 


ところで、薩摩街道の肥後・芦北地方に,難所として知られる「三太郎峠」(三箇所に太郎と付く峠)と呼ばれる峠がある。 
肥後・芦北地方に連なる赤松太郎峠・佐敷太郎峠・津奈木太郎峠を総称した呼び名で、難所中の難所という意味がこめられた峠でこう呼んでいるようで、古くから通行が困難な山道として知られる。

一方, この峠付近は中世期以降は軍事的な要衝にもなっていたという。 
特に「佐敷・・」は戦国期の山城跡が残っていて、肥後・熊本と人吉への街道を押さえる重要な要地であり、秀吉の佐敷氏(佐敷城の築城者)の時代から熊本・細川氏の時代まで領域をめぐっての攻防が繰り返されていたという。 
又、1877年に起こった西南戦争時、この峠は軍事要衝とされ、立地条件もさることながら天然の防衛要塞と化していた。西郷隆盛を首領として蜂起した士族一行は、肥後・熊本に侵攻する際この三太郎峠越えを果たさねばならなかったのだが、その道は相当険しく「政府へ尋問の筋、これ有り」と喝采鼓舞しつつ峠越えを果たしたという。

この街道の時代的経過としては、 遙か江戸時代以前からの薩摩街道、明治から昭和中期まで使われた国道3号の旧道, そして現在の国道3号線と三つの時代に大きく分かれるという。 

このうち、昭和中期まで使われた旧国道3号の道は、ツヅラ折りを上下するこの三つの峠を通り、昭和期の高度経済成長期には流通の大きな妨げとなった。
特に、大型車同士の擦違いは勿論、普通車でも困難を極め、ドライバーの神経を確実にすり減らり、地獄の三峠として嫌われたという。 
熊本よりの「赤松太郎峠」はトンネルはなかったが「佐敷太郎峠」、「津奈木太郎峠」には今も、旧道時代の煉瓦積みの非常にガッシリとした、美しい隧道を見ることができる.という。

今、小生はこの峠にかかる「平成の三つのトンネル」(新道)を通って、鹿児島方面へ目指しているのである。

次回は「水俣



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2011年6月8日水曜日

日本周遊紀行(137)坂梨 「三地方の追分」

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 日本周遊紀行(137)坂梨 「三地方の追分」  .



なまこ壁が昔の風情を残す「坂梨」




「坂梨」は、豊後地方と日向地方、そして肥後地方の「追分」である・・

田園風景の国道57を行く、阿蘇外輪の山並みが行く手を遮るようである。
平地を過ぎて山間地に入った頃は既に肥後・熊本県の「波野村」である。 

山地といっても褶曲した山様ではなく段々状の斜面になっている。
そこは高地冷地ゆえの自然条件を活かした野菜作りの広大な畑が広がる。
この辺りは「そば」と「キャベツ」の生産で名高いという。


国道沿いに「道の駅・波野」があり波野神楽のインフォメーションセンター、「神楽館」が在り、神楽を観賞しながら特産のソバを賞味できるという。

南に外輪山の「根子岳」の勇姿がひときわ豪快に望める。 

道脇に「すずらん自生地」の看板が所々に見られる。 
「すずらん」は本州中部以北の高原や北海道に多く自生しているが、九州地域で野性のものが見られるのは珍しい。 


急な登りの大曲を登りきると「滝室坂」とあった、見晴らしのようところである。 
南へ約1kmの外輪山の絶壁に名所の「古閑の滝」がある。
寒期には全面氷結することで知られ、この氷を民家では氷室に蓄え、病人用に保存したことから滝室の地名が生まれたという。


ヘヤーピンの急カーブから見えてる風景は阿蘇内輪のお馴染みの風景であり、下りきったところが「坂梨」である。 
国道沿いの坂梨は今となっては変哲もない田舎の風情のようであるが、往時は豊後街道の宿場町として大いに栄えたところだという。 

肥後から来ると豊後街道と日向(野尻)往還の追分け(道が左右に分れる所、分岐点)の地であもり、滝室坂方面(豊後街道)や箱石の峠越え方面(日向往還)を往来する人々の旅人宿や商屋、医者等の屋号を持った家々が軒を連ねて大変賑わい栄えたという。 
特に加藤清正公が豊後街道を整備した後、参勤交代は勿論、行商や荷駄を運ぶ旅人が多く往来するようになったともいい、又、肥後と豊後の国境付近でもあったので関所の機能を持った番所も在ったところである。


現在の国道を50mほど南へ行ったところが旧街道で、国道265(日向往還)が分岐する辺りを中心に、東西に連なる宿場の面影が今も残る。 
清水が流れ生け垣や板塀、格子戸や鎧壁の間に常夜灯や軒灯が灯る、そんな風情と人情が「坂梨」に今も残るのである。 地域住民も旧宿場町の風情を残すべく、懸命に努力している姿が覗える。



阿蘇一の宮、赤水温泉の外輪山荘は先日通過した地点で懐かしい、立野のことも先刻記した。


大津から九州道の熊本I・Cへ乗り、ここからから南下して「八代」を目指す。 

カーナビには載ってないが九州高速道は八代で九州本道と新しく完成した南九州道の分かれていて、日奈久まで延びているようである。 
沿岸道なのに山が険しく迫ってきているためトンネルが多い、過ぎると「田浦」であった。

「道の駅・田浦」があり、時刻的にここで一服しばがら昼食を摂る。道の駅エリアの上部天井には工事中の高速道が在り、日陰になっていて都合がいい。 
時折吹き寄せるそよ風が気持ちいい。 

実は熊本地方は本日、最高気温の32℃を記録している、すでにカンカンで暑いはずである・・!。 
尤も、今日が特別暑い日という訳ではない、連日の好天で気温も上昇し、30度前後を記録していて小生も暑さでイササカ閉口しているのである。

次回は球磨・「人吉



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2011年6月7日火曜日

日本周遊紀行(136)竹田 「広瀬武夫」

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 日本周遊紀行(136)竹田 「広瀬武夫」    、



明治の軍神といわれら「広瀬中佐」は・・ 、

NHKで21世紀スペシャルドラマとして『坂の上の雲』が放送途中である。
年末の限定で、2009年から2011年での足掛け3年に渡って放送されていて、今年が最終年を迎えるはずである。

日本が近代国家へと歩み始めた明治時代、伊予国・松山に3人の男、後に日本海軍参謀としてのロシア軍を勝利に貢献する秋山真之、その兄で日本騎兵の父となる好古、俳句・短歌の中興の祖となった正岡子規等を主人公に、明治と言う時代を精悍に生きて行く物語である。

そして、秋山真之の海軍時代の友人に海軍中佐・「広瀬武夫」(役:藤本隆宏)が登場するが、第2部(2,010年)の放送で行われたロシア極東艦隊の基地・旅順を攻撃するシーンで、広瀬武夫は華々しい戦死を遂げる。




蛇足だが、小生60歳を過ぎるまで医者要らずの身体、きわめて健康体で過ごしてきたつもりであった。
或る年、成人病検診で血便が出ていて、精密検査が必要であると判定された。 
近くの病院で検査した結果「大腸ガン」であることが分かり、早速、入院、手術、治療で約1ヶ月の病院生活であったが無事治癒し、現在はこうして普通に旅行にも出掛けられる健常者に戻った。 
1ヶ月の病院生活で兼ねてより読みたかった司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読破した、たまたま、2004年は日露戦争開戦100周年に当る年でもあったので・・!。
この小説の中の「旅順港」の項で、広瀬中佐の事が詳しく描かれている。


「 とどろく砲音(つつおと) とびくる弾丸(ひだま) 荒波(あらなみ)洗(あろ)うデッキの上に・・・・杉野はいずこ、杉野は居(い)ずや・・!! 」

文部省唱歌「広瀬中佐」の唄である。
この歌を知っている人はがかなり年配のはずだが・・、
時は明治37年(1904)2月、日露開戦と同時に日本海軍は旅順港(りょじゅんこう)のロシア艦隊を奇襲する。
併せて、ロシア艦隊を旅順港内に封じ込めるため「旅順港閉塞作戦」という、古舟を旅順港口に沈める作戦を三回にわたって実施された。
その第2回目に参加した4隻の中の1隻が福井丸であり、その艦長が広瀬中佐であった。

ところが爆沈用の福井丸が旅順港口に近づいた時、敵船の魚雷が命中して福井丸は間もなく沈没する運命にあった。
即刻、艦長の広瀬中佐は船から撤退命令を出し、全員ボートに乗り移ったかに見えたが、部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)が行方不明になっていることを知り、助けるため船内を三度も捜索中、広瀬は敵軍砲弾の直撃を受け戦死したのである。 享年36歳であった。

このことが後に評判となり、広瀬は海軍のかがみであり、尚且つ、部下思いの広瀬は「軍神」とされて、軍国主義教育の好材料とされた。



広瀬武夫は岡藩士・広瀬友之允(重武)の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれている。 
飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務め、後に海軍兵学校へ入学する。 日清戦争に従軍し、ロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。この時、旅順港などの軍事施設も見学しているし、後にロシア駐在武官となっている。

1904年(明治37)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事し、第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮しすることになる。 
広瀬は、戦死の際に首を飛ばされ、流れ着いた胴体はロシア軍により埋葬されたという。 戦死後中佐に昇進し、日本初の「軍神」となり、大分県竹田市の「広瀬神社」では祭神となっている。
「広瀬中佐」の歌は文部省唱歌の題材にもなった。


これには後日談が有った・・! 、
日露戦争当時から、戦死したはずの杉野兵曹長の「生存説」が世間の噂として囁かれていた。 広瀬が探した杉野兵曹は公式には戦死とされているが、実際には存命していたという。 

知らせを受けた実家でも「そんな馬鹿げたことが・・、信じられません」と・・、既に仏壇には「護国院釈忠誠勇義居士」の法名が掲げてあった。 

新聞記者の会見によると、彼は旅順港口で人事不省に陥っていたが、ロシア人に助けられ近くの島で暮らしていたとされる。 
戦後一時、帰国を決意したが内地で自分が広瀬中佐と併せて軍神にされていることを伝え聞き、帰還を断念したという。 

広瀬武夫」はロシア公館付武官であるから、かれはロシア語の会話はもちろんトルストイをはじめロシア作家の作品を読破している。 
おまけに身長175の偉丈夫で美男子ときているからロシアの娘たちが騒がないわけがない、中でもとくに熱心だった女性が二人いたという。


広瀬が日本へ帰ってから二年後に日露戦争が勃発する。
恋人同士を無残に引き裂いた戦争は間もなく広瀬を死に至らしめる。
彼の戦死を知った女性は広瀬の生家へお悔やみ状を送ってきたのが残されているが、それはまるで恋文だという。 それほどまでに外国人女性に慕われていた広瀬は、死後「軍神」になったが、生前は生身の人間であり誇り高き日本男子だったのである。


竹田といい、高山といい山国育ちの広瀬がなぜ海軍軍人なのか・・?
その鍵は実は「坂本龍馬」にあるのではないかという有力な説がある。 

京都国立博物館の坂本龍馬関係資料のうち「有魂姓名録」の冒頭に勤王の志士達の名簿がある。 そのなかに中川藩・家中の「広瀬友之允」の名が載っていて、彼は広瀬武夫の父広瀬重武のことである。 
重武は天保7年生まれなので龍馬より一つ下で同世代であり、文久2年に脱藩したのも龍馬と共通している。

幕末騒乱期、京都・寺田屋に竜馬と共に倒幕謀議に参加するはずだったが、出発が遅れ参加できず、難を逃れたと言う説もある。 
「 維新は、寺田屋の一室から生まれたり 」と言われるように、寺田屋は明治維新のメインステージとなったところであり、文久2年(1862)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名である。
また、ここは坂本龍馬の定宿で、お龍(おりょう・後に竜馬と結婚)との恋の宿としても知られている。

文久3年頃、亀山社中(海運・貿易業を中心とした会社組織、結社でメンバーは龍馬と行動をともにした若者たちを中心に20数人)を興し、神戸海軍塾の創設に走り回っていた坂本龍馬が、広瀬重武を含む岡藩の志士らに、“これからの日本は海軍を起こすこと が急務である”ことを力説した。 
それに感化された広瀬重武は、山国育ちの息子・武夫を明治海軍に入隊させたのではとも言われている。


龍馬が暗殺されたのは1867年(慶応3年)、武夫が生まれたのは翌・1868年(明治元年)。
広瀬武夫は父親と龍馬の海軍精神を受け継ぎ、旅順港で戦死する運命もまた龍馬が与えたものと想像でき、共に国の為に殉じた」は共通する。

尚、武夫の兄の勝比古も海軍軍人で少将、勝比古の養子になった末人(すえと)は海軍中将までなっている。 
豊後竹田駅から岡城に向かうトンネルの手前に「広瀬神社」がある。


広瀬中佐』 尋常小学唱歌(大正元年12月)

轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処 杉野は居(い)ずや」

今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失(う)せて
旅順港外 恨みぞ深き
軍神広瀬と その名残れど

次回は、「坂梨




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01. 15.

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