google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-05-01

2011年5月7日土曜日

日本周遊紀行(126)阿蘇 「外輪山」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 日本周遊紀行(126)阿蘇 「外輪山」   ,



阿蘇外輪山・「二重の峠」付近から「阿蘇山本峰五岳」



火の国の象徴・阿蘇はさすがに雄大であった・・! 、

歴史溢れる大都市・熊本を後にする。
本来ならこのまま南下して八代、水俣から鹿児島方面へ向かうのであるが、3~4日温泉保養のため別府へ向かう。 
その為道中は内陸の阿蘇を目指します。

国道3号線から右方向、緑豊かな熊本大学の敷地内を横断するように通過する。 
阿蘇からやってくると思われる「白川」の流れが清清(すがすが)しい。 

九州自動車道の下を通過する頃には辺りも開けてきて、田畑の風景も見られるようになってきた。 
豊肥本線がすぐ横を並行している。 本線は雄大な阿蘇外輪山を貫き、熊本~大分を結ぶ九州中部横断鉄道でもある。 

原水」を過ぎ比較的大きな十字路を過ぎると大津町であり、間もなく「道の駅・大津」へ来た。 
阿蘇の玄関口である大津町の国道57号線沿いにあり、ここで一息入れる。 
阿蘇外輪の麓に当たり、阿蘇見物往来の車で結構賑わっているよである。 物産館内、蜂蜜の入ったジュースコーナーのジュースがいい味出していた。


さて、今日の宿舎「NTT外輪山荘」へ急ぐ。 
道の駅からすぐ左へ折れるとミルクロードという案内がある。
実は県道339号であり清正公道、豊後街道と色々な呼び方があるようだ。 

ミルクロードとはこの先、阿蘇内輪外輪山周辺は大草原がひろがり大牧場が各所に広がっている。 故に、この道は乳品目を配送する輸送車が多いことから名付けられたという。 
又、この道は肥後・熊本と豊後・大分を結ぶ旧街道(豊後街道)で、戦国末期の頃は加藤清正も大阪詣でで通った道から“清正公道路”とも云い、清正に因んでこの名が付されているようである。 

元々、緑豊かな山懐の道であるり、間もなく良く整備された公園があった。 
阿蘇へと続くミルクロードに平行して整備された細長い公園で清正公道公園ともいい、参勤交代に使われた清正公道(旧街道)の休泊所跡を利用しているらしい。 
時節になると桜並木が良さそうである。 道路の反対側はハイテク・・?と思しき「阿蘇中核工業団地」というモダンな企業群が緑の中に在った。


道はいよいよ外輪山系の上りにかかる、くねくねと阿蘇へと誘うようである。 
山系の上部に達した頃はカヤトの大草原が広がってきて、やがて峠に差し掛かる頃十字路に出た。
目的地へのナビは右方向を指していて、間もなく「二重の峠」という標識が在った。清正公道と県道23号線との交差点付近にはに休憩展望用の駐車場もあり、ここから「歴史の道 豊後街道・二重峠石畳」が始まっている。 

この道は藩政時代、肥後と豊後鶴崎を結ぶ重要な街道として利用されたようで、豊臣秀吉が天下を統一し加藤清正が肥後に入国すると熊本から鶴崎までこの道を使い、鶴崎からは船で大阪を往復したという。 
江戸期になると参勤交代制度が確立するがこの時期、細川藩も江戸往復にこの街道を利用したという。 街道沿いには熊本城の西大門(新町一丁目)を起点として一里ごとの目印となる里数木(里数の目安となる木、主に榎が植えられている)が植えられ、休憩する所には御茶屋が設けられていたらしい。 

石畳には流出を防ぐ水切りなども昔のままに残り、往時をを偲ぶことができる。 周囲は大展望で束の間の休息所でもあり、晴れていれば阿蘇五岳(後ほど・・)を一望することができる。

NTT外輪山荘」は、この二重の峠のほぼ真下にあった。



ところで、NTTの社員保養所であるが・・、
縁あって出来るだけ使用するようにしているが、昨今は官営・公営の宿屋が民化の煽りでドンドン潰されてゆくようである。 
NTTは民営化する依然は関連宿舎含めて全国に150~160箇所程度あったのだが、民営化の煽りで30前後に減ってしまったようである。 

郵政の「かんぽ」、厚生の「国民宿舎」や「休暇村」然りで、官・公営の宿もドンドン減らされていくようである。 
訳わかるけど、どうにかなんないの・・、我々一般大衆の旅人にとってはマッタク、サミシイ限りであるっす・・!。 現在、九州地区のNTT保養所は、この「NTT外輪山荘」一箇所のみと相成ってしまったようだ。 因みに四国も一箇所のみで、過日世話になった道後の「拓泉荘」がそうであった。


ともあれ、此方に草鞋(わらじ)を脱いだ。
NTTの保養所は決して突出した派手さは無いが、中流旅館のサービスにも負けない位の気配りで旅人をもてなしてくれる。
何時もながら有難いことである。 

夕餉の時間まで若干の時間があるので、先ずは一風呂浴びて今日一日の行程記録をまとめる。その後、地元の銘酒を戴きながら料理を味わうのである。
何時もの事ながら今日の無事を感謝し、明日えの旅立ちを祈りながらクッションの効いた布団で夢路を辿る。



目覚めて窓を開く、朝の冷気が部屋に入り込み思わず深呼吸する。 
しかし、昨夕までほんのりと見えていた「阿蘇五岳」はガスモヤの中であった。 
周囲は晴れ渡っているのが先ずは何よりで、本日は主として阿蘇の連山を目指すからである。

さて、朝湯である・・、
こちらは阿蘇温泉の一つである直下の赤水温泉から引湯しているらしい。 
鉄分を多く含んだ泉質が特徴で無色透明単純温泉泉、含石膏苦味硝泉、芒硝泉で神経痛、りウマチ、婦人病、皮膚炎、創傷等に効くと謳い文句にある。 

こざっぱりした浴室で湯船に大窓が設えて有り、湯に浸かりながら外部の展望が存分に出来る。 
湯質はサラサラと肌にやさしい。湯で眠気を洗った後は、冷気を存分に吸いながら宿の回りを少々散策する。 
山荘はその名のとおり阿蘇五岳を望むすばらしいロケーションが自慢らしく、周囲は阿蘇の山々と眼下に長閑な田園風景が広がる。
阿蘇の情報を若干伺って、宿を後にした。

次回は、「阿蘇山




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2011年5月6日金曜日

日本周遊紀行(125)熊本 「西南の役」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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日本周遊紀行(125)熊本 「西南の役」  、



西郷は、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したと
いう・
・、

明治10年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪の中、13000名の薩摩軍が北上を開始した。 かねてより「薩摩不穏」との情勢を掴んでいた熊本鎮台は籠城を決意する。 国内最後の戦と言われる「西南戦争」である。


熊本鎮台は「射界の開放」(射撃の見通しを良くする)のために市中に火を放ち、開戦前に城下は焼土と化したという。
ところが、市中放火とほぼ同時刻に天守閣付近から出火し、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまう。 
原因は、台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台が自ら火を付けたとする「自焼説」があるが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けたという説が現在では有力だといわれるが、いまだに真偽は特定はできてないという。


天守閣焼失にも関わらず三日間の激戦の末、薩軍は一兵も城内に入ることができず、3,000の攻囲軍を残し北の田原坂(たばるざか)へと兵を退去させるが、翌日には田原坂は陥落する。 

52日間に及ぶ籠城戦は終了し、熊本城は不落の名城を、名実ともに実証したという。
西郷隆盛は終焉の地・城山(鹿児島)で、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したと伝えられている。



西南戦争」の主要起因・・、
明治政府は廃藩置県や税金の新制度(地租改正)、それに一般公募の徴兵制を進め、封建から近代国家への歩みを進めていった。
しかし、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の不満が徐々に高まっていった時期でもある。 

そんな中、明治6年に参議の職にあった陸軍大将・西郷隆盛が所謂、征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野する。
西郷の後を追うように桐野利秋など西郷を慕う政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人約600人も大挙して辞職し帰郷した。 

これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と新政府に残った大久保利通派に大きく分裂することとなる。 

薩摩では私学校を興し、その生徒が西郷を擁して挙兵する。 そして、薩摩軍は新政府打倒をめざして北上する。
一方、明治政府は新規に徴兵した軍隊で、最新兵器を元に迎え撃つことになる。 
この内戦は、云わば旧勢力の武士団と新時代の徴兵軍隊との旧新制度の争いでもあった。


西南戦争最大の激戦地となった田原坂(たばるざか)・・、
熊本の北隣・植木町の西部地区、国道208号線の近くにあり、坂は北から一の坂、二の坂、三の坂と続き、標高100メートル余の三の坂の頂上部にクスの大木が茂っている。 

薩摩軍は、南下する官軍に対抗するため主力を高瀬(現、玉名市高瀬)まで引上げたが押し戻され「田原坂」で決戦となった。 
戦闘は3月3日から17日間の昼夜に及んび、雨が降りしきる同月20日、官軍は総攻撃をかけ田原坂を突破する。 

破れた薩摩軍は一旦解散し、熊本城の包囲を解いて九州山地を敗走、郷土・薩摩へ引き返すことになる。 
西南の役・田原坂の戦いは壮絶なもので、一日の弾丸使用量は32万発にも及んだという。
現在、付近は公園化され、戦死者の慰霊塔や征討総督士・熾仁親王(たるひとしんのう)の崇烈碑、弾痕のついた家などが残されているという。


田原坂』  熊本民謡

雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年




水前寺公園・成趣園



熊本城からの岐路、市内の名勝・水前寺公園に寄ってみた。
熊本城より広い県道28号線を東南方向、豊肥本線を越えて暫くしたところ、市中でチョット判りにくい処であったが何とか辿り着いた。 

観光地らしく御土産が並ぶ出水神社の大きな鳥居を潜って間もなく別世界が広がっていた。 
広大な池に築山が印象的で、そこに荘厳な神社を配してあるのも良い。

池は豊富な阿蘇伏流水が湧出して作ったらしく、池を中心にした桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。

この庭園は、熊本藩の初代藩主の細川忠利が1636年頃から築いた水前寺(地名)御茶屋が始まりとされ、細川綱利が藩主の時に現在の名称となったという。
一般的には水前寺公園、正確には「水前寺・成趣園」と呼ばれていて、1929年(昭和4年)、国の名勝および国の史跡に指定された。 

ただ、今日では熊本の市街地でもあり、利便や環境の良さも手伝って周囲にマンションが建ち並び、景観を損ねているのはチョット残念なことである。
それと、中国人のグループが処構わず大声を上げて叫びあっているのも、帳消しもいいとこであった・・、残念・・!!。

さて次回は、「阿蘇



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2011年5月5日木曜日

日本周遊紀行(125)熊本 「加藤氏と細川氏」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 日本周遊紀行(125)熊本 「加藤氏と細川氏」   、



熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となると、更に細川家も・・、

加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、尾張国生まれで豊臣秀吉とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もある。 加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗り、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てている。

天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、一気に肥後北半国19万5千石の領主を任命される清正27歳の時である。 
入国当時の肥後は、国人衆(こくじんしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていたという。
当時、肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残していくらいである。 

清正入国後は治山治水、新田開発などに力を入れ、又、南蛮貿易に乗り出すなど積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになった。今でも熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるという。


文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では石田三成、小西行長らとの確執から東軍に付き、その功績によって肥後国大半を領して実質ともに54万石の大大名となる。 

関ヶ原で東軍についたとはいえ豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城にて秀吉の遺児・秀頼と徳川家康を会見させることに成功する。
これで豊臣家も安泰と思われたが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなっている。
享年50歳であったが、奇しくも生まれた日と同じ6月24日であったという。

豊臣家も清正の没後僅か4年で大坂夏の陣に破れ滅亡する。
清正亡き後、加藤家は家督争いが高じて寛永9年(1632年)5月、突然幕府から21か条の罪状を突きつけられ、「諸事無作法」であるとして出羽・庄内に一万石だけを与えられて配流となる。
これが豊臣譜代の名門大名加藤家の没落の始まりであった。


熊本の礎を築いた「清正公」(せいしょうこう)、幼少の頃は虎退治でも名を馳せた加藤清正であり、当時は六尺(180cm)の大男だったらしい。 
武勇の将、築城の名手、治水・土木の天才であった事はよく知られ、清正独特の治水技法を生みだした。

又、敬虔な日蓮宗の篤信者でもあったという。
その死後、権化(ごんげ)、権現の人であるとされ、次第に所願成就の「」としてお祀りされ全国各地にお堂、神社、碑、像、日蓮宗派の寺院などで清正公信仰が広まった。 
特に、土建業者の信仰が厚いといわれる。


なお、一般には「セイショウコウ」と称しているようであるが、熊本では「セイショコ」と言うらしい。 
肥後・熊本、入国以来県内各地の河川、田畑、新田開発に大きな実績を残し、しかも自ら陣頭指揮で工事に当ったといわれ、清正公の偉大さを偲んで市民会館・国際交流会館には往時の治水工事指揮姿の清正公座像が、熊本城をバックに建っている。



熊本・細川氏について・・、
細川氏は、源氏創家・清和源氏(清和天皇)の一派で河内源氏の流れを汲む足利氏の支族であり、室町時代には有力守護大名および管領家の一つとなる(三管領・室町幕府の主要な職制、交代で将軍を補任した細川・畠山・斯波氏をいう)。 

室町中期の管領・細川家は、細川勝元と山名宗全(持豊)との将軍家(足利家)の跡目相続の争乱である「応仁の乱」は有名である。 

戦国期、傍流の細川藤孝(幽斎)は、織田信長と羽柴(豊臣)秀吉に従い家運を回復する。
関が原の戦いでは藤孝の息子忠興(妻ガラシャ:明智光秀の長女)は東軍に属し、江戸期に細川氏は小倉藩主と成る。 
そして忠利(忠興嫡男・三代目)の時代に加藤氏に代って54万石の熊本藩主となる。 

江戸中期の細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革や藩校・時習館での人材育成を行った事で知られる。 
明治維新後に細川韶邦(よしくに)が版籍奉還に応じ侯爵となる。 
近衛文麿の首相秘書官である細川護貞は政治的活動も行い、護貞の子で1993年(平成5年)に日本新党代表として非自民党連立政権を成立させた細川護熙(もりひろ)は、第79代・内閣総理大臣となる。 
護熙氏は、細川藤孝直系の18代目の子孫に当るという。


宮本武蔵」が細川家と縁が有ったことはよく知られる。
武蔵は、足利将軍家の剣の師範である吉岡一門を倒し、奈良・宝蔵院流槍術の達人に完勝。又、徳川家指南役・柳生新陰流の弟子達を破り、兵法家としての名を高めていった。 

1612年、藩主・細川忠興の小倉に移り、そこで細川家に武芸の指南役としていた佐々木小次郎との勝負を希望する。
これを忠興は認め下関と小倉の間に浮かぶ舟島「巌流島」で勝負し勝利した。 
所謂、「小次郎敗れたり」の巌流島の決闘である。

小次郎の剣法を「巌流」と言われたので、この舟島を巌流島と称してしたとある。(この決闘は真偽不明説もある)

剣豪・宮本武蔵は寛永17年(1640年)57歳のとき、藩主細川忠利公に招かれて晩年を過ごしたという。 
武蔵が熊本に来たのは終焉の地を求める他に、武蔵が剣の道から得た真理を治国経世に役立つよう願ったともいわれる。 

武蔵はこの地で自ら創始した「二天一流兵法」を大成して、「兵法三十五ヶ条の覚書」、「五輪書」などを著し、また茶、禅、書画製作の日々を送ったという。 
城内で62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり大津街道の林の中に甲冑姿で葬られたという。
この地が選ばれたのは、恩顧を受けた細川藩主の江戸参勤交代を、草葉の陰から拝し、守りたいという武蔵の願いだったといわれる。

次回は、熊本・「西南の役





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2011年5月4日水曜日

日本周遊紀行(125)熊本 「熊本城」

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 日本周遊紀行(125)熊本 「熊本城」   、



熊本城;見学通用口

青空に映える「熊本城大天守閣」、向うの小天主は「飯田丸」

熊本城の「武者返し」と言われる城壁




熊本城は「武者返し」(石組み)で見れる防衛の為の城であった・・、

お城へ向かう・・、
肥後・熊本について、熊本県人の気質は「肥後もっこす」として知られる。 
頑固でへそ曲がり、反骨精神に溢れ、気性は荒いと言われる。 

海を隔てたお隣「肥前・長崎」は「ばってん」と一時、間をおくが、「肥後・熊本」は「そうに決まっちょる」と一刀両断、単刀直入であり好対照であるという。
よく言えば純粋で正義感があって意地を貫く。

意地は熊本気は薩摩」といい「武士の意地は、筑前、豊前を合わせたるより上と知るべし」・・と江戸期のガイドブックにも記されているという。
反面、荒っぽいのは表面だけで、実は気が小さく強がりが多いというが・・?。


その肥後・熊本人の象徴、熊本城の天守が既に見えている。
案内に従って二の丸駐車場まで車を運んだ。 

正面に位置する「頬当御門」(ほほあてごもん)という箇所から然るべき入場料・入城料を払って歩を進める。入城門には厳しい(いかめしい)・・?武者姿の門番が大槍を持って直立不動で見張っている、「肥後もっこす」である。 
近ずくと中年のオジサンで、「ご苦労さん、(鎧を着けてるので)格好いいですね、でも暑いでしょう・・?」、
「はあ・・仕事ですたい・・」とニコニコ顔。 

正面に、既に石垣の上部に大天守の城郭が見えている。 
外周を囲う大石垣を通って、すぐに大天守、小天守の正面に出た。 
石垣上に聳える圧倒的な威容を誇る城郭で思わず息を呑む。

それにしても大規模な石垣の立ち上がりの曲線が美事である、「武者返し」という手法の石積みであるとか。 
天下一流と名を馳せたこの熊本城の石垣は、「清正流石組」と呼ばれ、独特の弧を描く扇の勾配をもつ。 

清正が近江の国から卒いてきた石工「穴太衆」が持つ特殊技能を駆使して造られたといわれ、下部は30度近い勾配が上に向かうに従って角度を高め天端では、ほぼ垂直にちかい絶壁になる。

城攻めにおいて攻め手は石垣からも攀じ登るが、この時始めは登りやすいが次第に勾配が急になってきて、終いには垂直になり落ちてしまうというわけである。これが“武者返し”と言われる由縁である。

本丸主城へ入城し、各種展示物を見物しながら天守閣へ昇る。
展示品は主に650年の歴史を誇る細川家伝来の所蔵品が多く、特に参勤交代用の御座船(藩主、貴人が乗る船)の船絵図は豪華である。 
天守閣の展望の間は城下熊本市街をはじめ遠く阿蘇の山並みが鮮明である。 
山の合間に風力発電機であろうか、一列縦隊になって山裾から上部へ延びている。すぐ眼前には本丸に並んで建つ小天主がまた良い。


日本三名城(姫路城、大阪城)の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれた。

築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれている。 
落成に際して、この地を隈元から「熊本」に改め、合わせて隈元城を「熊本城」とした。
城郭は周囲9km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えである。 

この石垣にも観られるように、この城の特徴は「堅実な守り」に重点をおいた造りと言われ、このことは明治期の西南戦争でも証明された。 熊本城は城を甘く見ていた西郷軍の攻撃によく耐え、誰一人として城内に侵入することができなかったという。この戦いでは「武者返し」が大いに役立ったという。

ただ、西南戦争での50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮したが、総攻撃の3日前に原因不明の火事により天守閣や本丸御殿など主要な建物を焼失したという。

往時の「本丸御殿」は藩主の居間、対面所と見られるが、特筆すべきは華美な障壁画や「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」など特別の間が在り、それに全国的にも類例の無い地下通路である「闇り通路(くらがりつうろ)」と呼ばれる特別な設えもあるという。
この本丸御殿や昭君の間は、城主の清正にも不釣り合いな程の相当な貴人を招き入れる格式の高い様式であり、清正よりも高貴な人・つまり豊臣秀頼のために造られたのではないかとも云われる。

関が原戦後、再び豊臣方と徳川方が戦った場合、豊臣家に絶対の忠誠を尽くす加藤清正は、豊臣秀頼をこの城に迎え入れ、徳川方と一戦交える覚悟だったとも言われている。
この本丸御殿は、現在数10億円をかけて修復中であり平成20年度あたりには、華美な障壁画や「昭君之間」などが一般公開されるという。


この城は清正亡き後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となった。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮した。 

しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたもの。 
中でも本丸南西に位置する飯田丸・五階櫓は、平成13年に復元が始まり、本年(平成17年)2月に完成、お披露目したばかりのピカピカの城郭である。

尚、熊本城は築城以来2007年で400年の節目を迎えるという。

次回は、善政の雄・「加藤氏と細川氏




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2011年5月3日火曜日

日本周遊紀行(125)熊本 「肥の国・火の国」

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 日本周遊紀行(125)熊本 「肥の国・火の国」   、





「熊本駅中央口」


熊本とは、古代「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた・・、

島原のもう一つの象徴であるこの新緑に覆うわれ「眉山」(まゆやま)が次第に遠ざかってゆく。

フェリーは熊本フェリー(九商フェリー)で島原湾を定刻55分で結んでいて、料金は2290円、平日昼時とあって乗船車数は少ないようである。 
久しぶりの船旅であり、甲板に出て爽やかな初夏の海洋風を全身に浴びる。 

船室内ではテレビの放映中でNHKが国会審議を映していて、小泉首相が靖国参拝について盛んに自論を展開していたのが印象的であった。 

右手に天草へ通ずる半島が近付いている、航路は熊本に入ったようである。 
遠く熊本市街であろう、海岸埠頭からは大部離れているようだがビル群の凹凸が見えている。 船は長い桟橋に着岸したようで、すぐ横に緑色の尖がった屋根を頂いた洒落た建物が目に付いた、旅客船ターミナルの施設かもしれない。


熊本港は、有明海(島原湾・・?)に流入する白川と熊本市南部を流れる緑川に挟まれた三角州に浮かぶ人工島の港であり、熊本港大橋が結んでいる。 
港は旅客は元より物流港湾として今も開発が進んでいる。中国や韓国(釜山港)の船も入港し、コンテナ定期船路も開設されているという。

大橋を渡り、このまま立派な道路が熊本市郊外まで繋がっていた。 
九州の大幹線・3号国道から市・中心部の熊本城へ向かうが、途中に鹿児島本線の熊本駅へ立ち寄った。 

駅舎は白い瀟洒な建物でリゾートホテルのような印象であった。

2010年度に全線開業予定である九州新幹線の駅が併設されることになっているらしく、新幹線は高架駅となる予定。

駅前をピンクの市電がゴウゴウと走り抜けていった。
熊本市街のビルの谷間を行き交い、熊本城や古い家並みのある風景の中を、ゴトゴトと走る路面電車は風情的にも良く、熊本の大事な交通機関であるという。


主要都市でよく見られた路面電車も、高度成長期には都市交通(主に車)の円滑化の障害物とされ大部分の都市から路面電車が消えた。 
しかし、いま無公害で環境にやさしい路面電車が見直されているともいう。 
熊本市電の創業は大正14年、最盛期には7系統もあり、延長25キロメートルの営業距離があったという。
今は2系統12キロメートルに縮小されたが健在のようである。この2系統についても一旦は廃止されることになっていたらしいが、市民の存続運動によって命脈を保っているという。 



古代、熊本県の領域は概ねかつての肥後国とほぼ重なるが、肥後国は古代においては「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた。

火の国は熊本の象徴である阿蘇地方の主神が火の神であることから呼ばれたようで、阿蘇山が噴火して火を噴き火山弾が降ることで阿蘇山に対する霊異から「火の神」とも言われ、この地方を広く「火の国」とも称したという。

又、「肥の国」は7世紀終わり頃、現在の佐賀県・長崎県の地域である肥前国と肥後国に分けられた。
肥後国は生産力が高い豊かな土地で地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国の一つとされた。
中世には名和長年(出実は伯耆大山の麓の名和の庄)の子孫である名和氏などが領地を有するが、戦国時代に至っても肥後の国では有力な戦国大名が現れず、国人・豪族同士の争いが暫くのあいだ続いた。


豊臣秀吉の時代に九州制覇の後、秀吉の第一の子飼いである「加藤清正」(幼少・加藤虎之助)に肥後を分け与えている。
清正が主城に入城し統治を開始すると、治山治水や有明湾の干拓による土地開発などを積極的に行い、荒廃していた土地を改良し、生産力を向上させたという。 
現在の熊本の礎は主に清正に拠るところが多い。 

清正は1607年(慶長12年)に新たな隈本城を築き、その後、当地の呼称を隈本から「熊本」へと改名し、お城も熊本城とした。 
これ以降、熊本は城下町として発展していくことになる。しかし清正の死後江戸幕府は加藤家を改易し、代わって細川氏を入国させ、以降、明治の廃藩置県まで続く。 

昭和から平成の宗相になった細川護煕(もりひろ)は、その子孫にあたる。


現在の熊本市は九州全体としては福岡市、北九州市に次いで3番目の人口を擁する大都市である。
尚、水道水の大部分を地下水だけでまかなっている稀有な都市でもある。

次回は、「熊本城





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2011年5月2日月曜日

日本周遊紀行(124)島原 「島原城と大変」




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日本周遊紀行(124)島原 「島原城と大変」  、





合掌形の破風が無いため、見るからにノペッとした「島原城」



島原は、トリプルの悲劇に見舞われた「大変」な地であった・・、

島原F・Tから、比較的静かな市街地を2kmほど行くと島原鉄道の島原駅があり、駅前からは既に島原城の天守閣が目前に迫る。 

駅前から左に向かって、そのまま車を進めると、いきなり本丸真下の駐車場へたどり着いてしまった。 
本丸直下に車止めが在るのも珍しい、こちらにしては幸いであるが・・?。

石垣の上にどっかりと載った主城・本丸は、五層の天守をもち、さすがに壮大であった。
ただ、主城・本丸のみが地上から屹立していて、城としての曲輪、郭などの外敵の侵攻から守るために施した防御施設、一定の区域の周囲に築いた土や石の砦、囲いなどは無い孤高の城だった。 

それに、この島原城を見ると全体に形が単純で「ノペッ・・としていて、なんか変だな・・!」という印象をもった。 


この島原城は一見して、どうも日本のお城のイメージとはちょっと違う。
五層の天守閣があるのだが、この五層は単に五枚重ね合わせたような形をしており、日本建築の造形美を演出している重要な構造物である破風(はふ)が無いのである。 

破風とは屋根の切妻部分についている合掌形の装飾のことをいう。 
これらの破風が日本の神社仏閣、それにお城の美しさを際立たせているというが。 
ところが島原城にはこの破風がないのである。 

歴史作家の司馬遼太郎氏はこの特異な城を、「松倉重政は領民との戦いを築城時から想定していて、天守閣から閣内に侵入してきた敵を射抜くためにこういう構造にしたのだろう。破風があっては射てない角度が出来てしまい邪魔なのである。島原の領民がキリシタンであり、家康から暗にキリシタン弾圧の役割を期待されていたのではないか」と推定しているのである。
果たして後に我が国最大の内乱、一揆が城下で発生するのである。

この豪壮な島原城には島原の領民の怨念が込められているという事も出来る。 
1616(元和2)年、大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政は、1618(元和4)年から7年余の歳月を費やして島原城を築く。
城は、昔「四壁山」、「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、別名を森岳城とも言ったらしい。

南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所もあったという。
内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に藩主の居館である三の丸が続いていた。

本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込めの五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪壮堅固な城構えであった。 

城は松倉氏の後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と4氏19代253年間の居城であった。
再び松平氏というのは、以前に島原領主を勤めていた松平忠恕(ただひろ)が旧地に戻ってきたのである。


安永3年(1774)に幕府から戸田氏・松平氏の交代転封が命ぜられ、その時の移転費用は莫大なもので、しかも、忠恕が 戻って以来、天災、大火事、飢饉が続き、藩財政は困窮を極めていたという。
このような大変な時期、忠恕が苦心をしながら藩財政の立て直しに取りかかろうとした矢先の寛政4年(1792)「島原大変」は起こったのである。

平成の噴火による火砕流、土石流という言葉を一躍有名にしたのが、今回の普賢岳噴火災害であったが、しかし島原はこれに上回る大災害を過去に被っていた。 

今から約200年前の寛政年間の「島原大変」がこれで、我が国、火山災害史上最大の稀にみる悲劇であったという。
この時は先ず体に感じる地震が続き、更に普賢岳からの噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られた。
激しい地震の連続に、城下の人たちは不安な日々であったが、それも次第に収まりかけていたように観えた。
だが、寛政4年旧暦4月1日(1,792年5月21日)、大音響とともに襲った大地震によって城下町の背後にそびえる「眉山」(まゆやま:818m)が突如として大崩壊、三億立方メートル(東京ドーム120杯分)を超える巨大な土砂が島原城下の過半部の人家や田畑を埋め尽くすとともに、その土砂は有明海へ向かって崩れ落た。

この衝撃によって巨大な津波が発生、対岸の肥後の熊本城下、天草(熊本県)へ襲いかかったのである。
その波高は凡そ25mとも推定され、更に、津波の反復、返し波がは3回にも及び島原半島の沿岸18か町村へ来襲し広域災害の様相を呈した。
津波による被害を含む死者約15000人は、未だに記録に残る最大の火山災害だといわれる。
この時の島原城下の住民は7000余人で、その内生存者はわずかに1000人だったと言う。

この出来事を「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれ、細川氏の支配する熊本藩の公的な記録として大災害の全容が、詳しく残っているという。

悲運の領主・松平忠恕・・、
さて、島原の地に戻って以来、苦労の連続であった忠恕は又しても悲劇に見舞われた。

大惨事の翌日から守山村に避難していたが、10日以上過ぎて島原城内外を巡視した。
城下の惨憺たる状況に忠恕は涙を流し、その衝撃からか翌日から病に侵され間もなく逝去した。
被害の甚大さに心を痛め自刃したとも言われている。 

悲運としか言いようのない享年51歳の生涯で、島原の地に戻って17年目のことであった。 その跡は忠恕の子・忠馮(ただのり)が継ぎ、当代26年間全てを「大変」後の復興に投じたという。



島原には江戸期以降、三つの大事件が起こったことになる。
一つは、1637年(寛永14年)に発生した「島原の乱」という事件。
二つ目は1792年(寛政4年)、雲仙岳が大噴火し、眉山の南側半分が裂けて有明海に崩れ落ち、島原城下の三分の二が埋没、大津波が起こり対岸の肥後地方に押し寄せた「島原大変 肥後迷惑」と呼ばれた地変。 
三つ目は1990年(平成2年)、普賢岳の噴火よる災害で40数名の死者を出し「火砕流」の恐ろしさが世界に認識された地変である。



熊本行きのカーフェリーは定刻、島原埠頭を離れた。
波を蹴ってゆく船が次第に岸壁から離れるに従って、正面に見えている「眉山」の男性的な勇姿が次第に遠くなる。
雲仙の山並みや普賢岳は、この眉山に隠れて一時、姿を消していた。

船が離れるに従って、右手に美しい大小の島々が見渡せた、九十九島(つくもじま)という。 
島原外港に点在する九十九島の奇観は、「島原大変」の時、海に流れ込んだ土砂の跡である。


島原地方の子守唄』 長崎民謡
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるバイ

次回は肥後・「熊本




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2011年5月1日日曜日

日本周遊紀行(124)島原 「島原の乱」

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 日本周遊紀行(124)島原 「島原の乱」   、



「島原の人間はよく生きている」と周囲で囁かれていた。 それは・・

帰路、島原F・T(フェリーターミナル)へ立ち寄り、熊本渡航の確認と乗船券を確保した。1時間以上の時間余裕があるので島原城へ向かってみた。
先ず、島原について・・、

城下町としての島原の歴史は有馬氏(戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げる)などの群雄割拠の時代を経て、徳川時代の元和4年(1618)から7年の歳月をかけ松倉重政が島原城を築城したときに始まる。

松倉氏は越中(富山県)の出身で、豊臣秀吉の家臣・筒井順慶の家老職だった。
江戸初期の島原築城以後は、島原藩の城下町として栄えるが、しかし、松倉家はキリシタン弾圧をはじめとする悪政を続け、1637年(寛永14年)に「島原の乱」が起こる。 

これにより住民はほとんど死亡し、代わって藩を統治したのは高力忠房(こうりき ただふさ:徳川家の譜代中の譜代で、家康三河時代の三奉行の家系)であった。 
忠房は、三代将軍・徳川家光から島原の乱後の肥前国島原藩4万石へ移封された。

このとき家光は忠房を厚く信任していたため、あえて乱後で荒廃している島原へ移封させて復興に努めさせ、更に長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたと言われている。 
忠房は家光の期待に応え、乱後で混乱していた島原の農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの良策を重ねて島原を見事に復興させている。


天草・島原の乱・・、  
元和2年(1616)、大和・五条から松倉重政が4万石の大名として日之江城に入城した。
重政は元和4年(1618)有馬氏の家臣・島原氏の居城であった森岳城跡に新たな城の築城にかかる。
着工人員延べ100万人といわれる人夫を動員し、4万石の小身分でありながら分不相応な大城を築く。

当然、築城、各種土木工事で費用が必要となり、重政は住民に重税を課した。又、彼は入国当初は切支丹に対して寛大であったが、幕府が切支丹禁制の意の強いことを知って、方針を一変して弾圧を強行するようになる。
その結果、領民は更にに苦境に陥った。

重政の病死の後はその子勝家が継いだ。 
この勝家は遊楽にふけって政治に不熱心だったため租税は重い上にも重くなっていった。 

更に、この年は寛永11年以来の4年も続く大凶作で領民は過酷を極め、絶望するに至った農民たちは領主を深く恨むようになり、不穏の空気が充満して一発触発の状態となっていた。 

その過酷さは近隣の人々からも「島原の人間はよく生きている」と囁かれるほどであり、巷間(こうかん:ちまた)では島原の領民が蜂起したのは当然であるとも言われる。


寛永14年(1637)限界を悟った領民は、遂に一揆を起こした。
これが世に言う「島原の乱」である。

乱は数ヶ月で終結したが、これによって島原半島の様相は一変してしまったという。
この一揆に応呼したのが天草の益田四郎であった。島原・天草の合同一揆民は益田四郎(通称、天草四郎時貞)を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行などといった幹部を置いて組織をしっかりと固める。
その勢力は3万7千人。

一揆に参加した農民が全て原城(別名・日暮城、島原城の築城によって廃城したものの、その当時起こった島原の乱で天草四郎以下の一揆軍がたてこもった城として有名)に入ったため、島原南部と天草は人っ子一人いない廃村のようになったという。

九州の近隣雄藩である細川・鍋島両藩や幕府の懐刀と言われる板倉重昌など、幕府軍の再三の攻めにも落ちなかった一揆軍であるが遂に、将軍・家光が自ら決断を下し、腹心中の腹心である老中・松平伊豆守信綱(通称・知恵伊豆)を援軍として派遣する。 
動員する兵力は一揆軍の3倍以上の12万人の大軍になった。 

幕府軍にはたとえ女、子供でも全員殺害せよとの厳命が下っていた。 
そして大乱戦の末、一揆軍は全滅する。

乱後、島原南部と天草にはほとんど農民がいなくなってしまい、周辺各藩には強制的に人数選抜をして農民を移住させ、藩によっては籤引きで移住者を決めたところもあったという。

その後、この土地の農民は非常に優遇されたため、近隣の諸藩から逆に非合法に流入してくる者も多く、それをまた黙認したため50年後には再び豊かな農村が復興したという。 

しかもこの土地の年貢は軽減されていた上に、古いしがらみのない新しい村が構築されることになったため、日本国内では最も近代的な村が生まれたという。
明治時代、廃藩置県によって一時的に島原県が設立され県庁所在地となったが、島原県はすぐに長崎県に編入された。
その後、島原城も廃城となり破却された(1964年に復元)。


半島の中央部にある雲仙岳は大噴火を繰り返す活火山として有名であるが、1792年(寛政4年)には「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる日本史上最悪の噴火災害が起こり現在の島原市域に大打撃を与え、1万5千人以上の死者が発生している。

次回は、「島原大変、肥後迷惑





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01. 15.

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