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2011年5月5日木曜日

日本周遊紀行(125)熊本 「加藤氏と細川氏」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 日本周遊紀行(125)熊本 「加藤氏と細川氏」   、



熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となると、更に細川家も・・、

加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、尾張国生まれで豊臣秀吉とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もある。 加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗り、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てている。

天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、一気に肥後北半国19万5千石の領主を任命される清正27歳の時である。 
入国当時の肥後は、国人衆(こくじんしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていたという。
当時、肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残していくらいである。 

清正入国後は治山治水、新田開発などに力を入れ、又、南蛮貿易に乗り出すなど積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになった。今でも熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるという。


文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では石田三成、小西行長らとの確執から東軍に付き、その功績によって肥後国大半を領して実質ともに54万石の大大名となる。 

関ヶ原で東軍についたとはいえ豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城にて秀吉の遺児・秀頼と徳川家康を会見させることに成功する。
これで豊臣家も安泰と思われたが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなっている。
享年50歳であったが、奇しくも生まれた日と同じ6月24日であったという。

豊臣家も清正の没後僅か4年で大坂夏の陣に破れ滅亡する。
清正亡き後、加藤家は家督争いが高じて寛永9年(1632年)5月、突然幕府から21か条の罪状を突きつけられ、「諸事無作法」であるとして出羽・庄内に一万石だけを与えられて配流となる。
これが豊臣譜代の名門大名加藤家の没落の始まりであった。


熊本の礎を築いた「清正公」(せいしょうこう)、幼少の頃は虎退治でも名を馳せた加藤清正であり、当時は六尺(180cm)の大男だったらしい。 
武勇の将、築城の名手、治水・土木の天才であった事はよく知られ、清正独特の治水技法を生みだした。

又、敬虔な日蓮宗の篤信者でもあったという。
その死後、権化(ごんげ)、権現の人であるとされ、次第に所願成就の「」としてお祀りされ全国各地にお堂、神社、碑、像、日蓮宗派の寺院などで清正公信仰が広まった。 
特に、土建業者の信仰が厚いといわれる。


なお、一般には「セイショウコウ」と称しているようであるが、熊本では「セイショコ」と言うらしい。 
肥後・熊本、入国以来県内各地の河川、田畑、新田開発に大きな実績を残し、しかも自ら陣頭指揮で工事に当ったといわれ、清正公の偉大さを偲んで市民会館・国際交流会館には往時の治水工事指揮姿の清正公座像が、熊本城をバックに建っている。



熊本・細川氏について・・、
細川氏は、源氏創家・清和源氏(清和天皇)の一派で河内源氏の流れを汲む足利氏の支族であり、室町時代には有力守護大名および管領家の一つとなる(三管領・室町幕府の主要な職制、交代で将軍を補任した細川・畠山・斯波氏をいう)。 

室町中期の管領・細川家は、細川勝元と山名宗全(持豊)との将軍家(足利家)の跡目相続の争乱である「応仁の乱」は有名である。 

戦国期、傍流の細川藤孝(幽斎)は、織田信長と羽柴(豊臣)秀吉に従い家運を回復する。
関が原の戦いでは藤孝の息子忠興(妻ガラシャ:明智光秀の長女)は東軍に属し、江戸期に細川氏は小倉藩主と成る。 
そして忠利(忠興嫡男・三代目)の時代に加藤氏に代って54万石の熊本藩主となる。 

江戸中期の細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革や藩校・時習館での人材育成を行った事で知られる。 
明治維新後に細川韶邦(よしくに)が版籍奉還に応じ侯爵となる。 
近衛文麿の首相秘書官である細川護貞は政治的活動も行い、護貞の子で1993年(平成5年)に日本新党代表として非自民党連立政権を成立させた細川護熙(もりひろ)は、第79代・内閣総理大臣となる。 
護熙氏は、細川藤孝直系の18代目の子孫に当るという。


宮本武蔵」が細川家と縁が有ったことはよく知られる。
武蔵は、足利将軍家の剣の師範である吉岡一門を倒し、奈良・宝蔵院流槍術の達人に完勝。又、徳川家指南役・柳生新陰流の弟子達を破り、兵法家としての名を高めていった。 

1612年、藩主・細川忠興の小倉に移り、そこで細川家に武芸の指南役としていた佐々木小次郎との勝負を希望する。
これを忠興は認め下関と小倉の間に浮かぶ舟島「巌流島」で勝負し勝利した。 
所謂、「小次郎敗れたり」の巌流島の決闘である。

小次郎の剣法を「巌流」と言われたので、この舟島を巌流島と称してしたとある。(この決闘は真偽不明説もある)

剣豪・宮本武蔵は寛永17年(1640年)57歳のとき、藩主細川忠利公に招かれて晩年を過ごしたという。 
武蔵が熊本に来たのは終焉の地を求める他に、武蔵が剣の道から得た真理を治国経世に役立つよう願ったともいわれる。 

武蔵はこの地で自ら創始した「二天一流兵法」を大成して、「兵法三十五ヶ条の覚書」、「五輪書」などを著し、また茶、禅、書画製作の日々を送ったという。 
城内で62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり大津街道の林の中に甲冑姿で葬られたという。
この地が選ばれたのは、恩顧を受けた細川藩主の江戸参勤交代を、草葉の陰から拝し、守りたいという武蔵の願いだったといわれる。

次回は、熊本・「西南の役





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