2011年2月28日月曜日

日本周遊紀行(89)赤穂 「忠臣蔵」

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 日本周遊紀行(89)赤穂 「忠臣蔵」  ,



赤穂城の傍らに、四十七士の像が整然と並ぶ「大石神社」



「忠臣蔵」という言い方は、史学・学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという・・、


四国と別れて、瀬戸大橋から中国・山陽道へ到る。
高松自動車道の善通寺I・Cから坂出JCTを経て、瀬戸内三橋の中央、瀬戸大橋を行く。所謂、「児島・坂出ルート」である。
迫力のある巨大大橋は、ある種の人工美を誇り、余りの圧倒的美観に車を路上で止めてカメラに収める。
首都圏ならともかく、地方ではさすがに車の量は少ないからチョッとの駐車は安心である。 

途中、与島PAで景観を楽しむ、そしてランプ橋といわれるループ状の道を下りる。 与島PAは海面近くであり、瀬戸中央自動車道(いわゆる瀬戸大橋)の橋自体が航路上を跨ぐため、水面からの高さが非常に高い。
このため、島との高低差が大きいため、ループ橋で高度を稼いでいるのである。
この辺りの海域は瀬戸内航路の主要部になっていて、時折、大型船も航行しているようである。 
倉敷方面の岩黒島、櫃石島に架かる「斜張橋」といわれる富士山形をした橋形が並ぶ。これまた美観である・・!!。 

この坂出、倉敷を結ぶ瀬戸大橋は、六つの長大大橋が三種類の橋形で架かっている。 
斜張橋の他に、長い距離に適している「吊橋」が南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋、下津井瀬戸大橋、三角形を組み合わせて安定した形の「トラス橋」の与島橋である。
いずれも世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観である。因みに、下津井瀬戸大橋が、香川県坂出市と岡山県倉敷市との県界に当たる。

時折、ゴーという走行音が聞こえるのは鉄道電車の音であろう。 
そう、この橋は道路と鉄道の併用橋で、上部が自動車道(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(瀬戸大橋線)になっている。
鉄道で四国へ渡る場合は、岡山駅から南に進み茶屋町、児島を通って瀬戸大橋を通り、宇多津(うたづ)に至る路線である。
宇多津~高松の予讃線を合わせて瀬戸大橋線と呼んでいる。

瀬戸大橋線を走る特急は岡山発松山・宇和島行き特急「しおかぜ」、高知・中村・宿毛行き特急「南風」、特急「南風」に併結されて運行される徳島行き特急「うずしお」、そして東京発高松行きの寝台電車特急の「サンライズ瀬戸」などが走る。
サンライズ瀬戸は、現在東京発22:00⇒高松到着07:26・乗車時間9時間26分・乗車券14,670円(普通乗車券11,010円, 特急券3,660円)・走行距離804.7kmである。(2005年 現在) 
瀬戸大橋は、道路鉄道併用橋としては世界一の規模を誇るそうだ。

橋の構成から岡山・鷲羽山トンネルは、世界初の二階建で四つ目のトンネルになってる。
上の二つは車、下の二つは鉄道専用になっている。 
6つの橋と4つの高架橋の総延長12.3kmで、鉄道併用橋では世界最長だという。 総工費・1兆1,200億円で、工事の期間は9年半、1978年(昭和53年)10月10日に着工して1988年4月10日に開通している。 
強度は、秒速66mの風(家が倒れたり、ビルが崩れる)が吹いても大丈夫な様に設計されているそうで、また100年に一度起こるかも知れない様な大地震(マグニチュード8)が、土佐沖 100kmの場所で起きても大丈夫な様に造られているという。
瀬戸内の島々も合わせて雄大な眺めを堪能し、尚かつ、人間の底知れない科学の力に驚嘆しつつ、出発することにする。  この四国を離れ、岡山・倉敷のJCTより逆戻りする感じで山陽高速道を行く。



赤穂ICを下りて旧赤穂城を目指す、ご存知、「忠臣蔵」の赤穂城である。
I・Cから凡そ3km、海岸近くに赤穂城址があった。
その石垣跡は風雨に晒されながらも、昔の面影をしっかりと残している。そこに、丸みを帯びた石碑に「赤穂城址」とあり、すぐ横に説明用の看板があがっている。 

看板には『 赤穂城は生保2年(1645年)、浅野長矩の祖父・長直が常陸国・笠間から入府し、近藤三郎三衛門正純に築城設計を命じ、実に13年の歳月を費やし、寛文元年(1661年)完成したものである。 城郭の縄張りは・・、 昭和46年3月、赤穂城址は国の史跡に指定され、本丸等の整備が進められている 』とあり、城郭境内略図が記されている。 図によると、ここは「塩屋門」にあたるところのようだ。

奥の敷地には当時の赤穂藩士の屋敷跡になっていて、「片岡 源五右衛門」、「間瀬 久太夫」、「磯貝 十郎左衛門」、「大石 瀬左衛門」等、御馴染みの赤穂浪士の屋敷が点在する。更に奥の方に「大石神社」が在った、参道両側には大石良雄(内蔵助)を筆頭に四十七義士像が整然と並んでいる。 

城郭跡周辺には本丸表門、三之丸への大手門、三之丸に連なる二重の隅櫓等、整然と復元されている。
赤穂城周辺では、現在でも発掘調査が行われているという。
そして赤穂城(城址および復元城)は2006年には、財団法人日本城郭協会の選定する日本100名城に選ばれている。

この本丸表門から1701年(元禄14年)、家老・大石内蔵助を先頭に浅野家家臣団の一行が、播州赤穂・浅野家五万三千石の城を無血開城にて退出していったのである。 幕藩体制が安定しつつある元禄の世、突如として起こった大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士による主君の仇討ちは、ここから始まるのである。


元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、江戸城・殿中松の廊下で高家筆頭(江戸幕府の職名、幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼をつかさどった家)の吉良上野介義央に刃傷に及び、即日切腹、播州浅野家は断絶となった。 その後、元禄15年12月、大石内蔵助を始めとして47名が、吉良邸に討ち入り吉良上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭の仇を討った。 いわゆる「忠臣蔵」の物語である。
この元禄15年末に起きた赤穂浪士の討ち入りは、二つの意味で世を動かす大事件であったと言われる。一つは無論、名家の当主、吉良上野介暗殺という刑事事件として。 
もう一つは武家政権の徳川幕府が開かれてから凡そ一世紀、時代は泰平を謳歌する元禄の世に、「武士道とは・・?」という根源的な問いを突きつけた事にある。

辱めを受け、無念の思いを残して切腹した主君・浅野内匠頭の仇を晴らしたのは、成る程武士として「あっぱれ」である。 しかし、内匠頭に即刻切腹を命じる一方で、吉良に「お咎めなし」としたのは幕府であった。 その幕府は、開祖の徳川家康以来、朱子学(儒学、おおまかには大義名分論のうち 何が正で、何が邪か、と言う事の根本思想)を根本理念とし、「臣下は分を守るべし」を強調し、所謂、戦国期よりの「非道」を戒めてきた。
赤穂浪士事件は「義挙」かもしれないが、幕府にすれば守るべき「分」を越えていたとも言えるのである。 然るに、これは皮肉なことで朱子学者の間では「浪士の仇は、内情は吉良であるが、実質は一方的な裁定を下した幕府ではないのか」という声も上がっている。 
官学者の筆頭とされる林大学頭(信篤のぶあつ・幕府の行政学者、儒学社))は、「天(幕府、将軍)は、忠義の臣を助けなかった」と嘆いたのは知れるところである。 
一方、武士道の根本を書した「葉隠」(宮本武蔵の愛読書)を著した肥前藩士・山本常朝は、「主君が死んで、仇を討つまでが長すぎる。(1年9ヶ月)肝心の吉良殿が死んでしまえばどうにもならぬ。上方のものは世間の覚えをめでたくするのは上手だが、無分別ではないのか」と評している。 要するに、「江戸城で浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ時、何故、成否をかえりみず、即刻行動しなかったのか・・、それが武士道ではないのか」と批判しているのである。

討ち入りの時、大石蔵之助が山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らして志士を鼓舞するが、その山鹿流の始祖「山鹿素行」直伝の浅野家・家臣たちは、殆どが「無条件開城」を主張したといい、これらも葉隠や山鹿流の教えには無い行動であるという。 時は元禄であり、時流と時代背景がそうさせたのかもしれないし、「武士道」も個人差が出る程度の哲学になっていたともいう。
尚、旧赤穂藩士の吉良邸討ち入り事件の元禄赤穂事件を題材をとった、歌舞伎や演劇・映画の分野での創作作品である「忠臣蔵」という言い方は、赤穂浪士方を善、吉良方を悪とし、赤穂浪士に対する賞賛の意をこめた呼名であり、客観性がなく非歴史的であることから、学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという。


赤穂城は「海平城」といわれる。
今でこそ発電所、施設、企業が沖合いに並ぶ産業地であるが、往時、お城の前は広大な砂浜が広がっていて、塩田開拓が盛んであったという。
浅野長直(初代赤穂藩主、浅野内匠頭長矩の祖父)は、赤穂城築城と平行して城下町の整備に取り組むとともに、入浜式塩田の開拓と塩の流通にも力を注ぎ、赤穂浅野家の繁栄の礎を築いた。 
一方、三河の吉良家も三河湾での製塩が盛んであり、この塩の製法、流通が浅野家、吉良家の間に若干の確執を生み、赤穂事件の遠因になったとも言われる。


『 あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる 
            浮世の月に かゝる雲なし 』

大石内蔵助が見事本懐を遂げて、晴れやかな胸のうちを残した歌である。




国道250で姫路へ向かう、途中、道の駅「あいおい」が在った。
相生湾の最奥の海に面したところに、「白龍城」とかいう中華風のカラフルで豪奢な建物があり、ここが道の駅で、その名の通り中華料理が自慢らしい。 
又、ここには何よりの温泉があった、ペーロン温泉という天然温泉らしい、すぐ近くには飲食店も並んでいる、時間も頃合だし、温泉に浸かり、食事を摂って、この地に車泊としよう。

次回、相生の「ペーロン



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