2011年1月11日火曜日

日本周遊紀行(59)鳴門 「四国と霊場」

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 日本周遊紀行(59)鳴門 「四国と霊場」 


四国は「身一ニシテ面四ツ有リ」、そこには八十八の霊地が在った

神戸・淡路・鳴門自動車道の鳴門I・Cを出て、いよいよ四国上陸である。
小生が未だ20代後半の頃、瀬戸内海の直島(玉野市宇野港の正面にあたる)で半年間、銅精錬会社で出張勤務作業をしていた。
この時期、四国・高松に数度訪れ、四国一周を果たしている、それ以来の実に40数年ぶりの四国である。

四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれている。 
面四ツとは、阿波(徳島)、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)のことであり、一にして四、四にして一の世界であるとしている。 
徳島、高知・・等の県名は明治期以降に付けられたもので、それ以前は奈良朝の頃までは、4つの旧地域名で示されていた。

四国で、イの1番に思い起こす事は、やはり四国・八十八箇所の霊場のことであろう。 
小生、これから四国の海道一周を始めるのであるが、その近辺にも霊場はあるはずである。序でで部分的になるが、弘法大師の断片的足跡を巡るつもりでもある。

著名人が、不治の病や難病が霊場を巡礼するうちに全快したという話もあり、遍路道をたどる中で大師の「お陰」をいただき、心身の毒素が浄化されていくと言われる。いわば四国は大自然の病院であるともいう。 
本年(2005年)、民主党党首であった管 直人氏が白装束に金剛杖で菅笠(名前に合致・・!)を被り、四国遍路したことは一寸したニュースになった。
政治的に悩みを抱き、その精神的ストレスを払拭するため、とは聞いたが果たして政治的目標の為のご利益はあったのだろうか・・?


四国の観音霊場の巡拝は、巡礼と言わず一般に「遍路」と言うらしい、「辺路」に通じている。 
お遍路さんが着用する白い衣は死に装束といわれ、手にする金剛杖には五輪の梵字が刻まれ墓標そのものであるとするし、菅笠は、弘法大師と共に行くという意味で「同行二人」と記入する慣わしがあるという。 
遍路は、昔は辺鄙(へんぴ)の地を巡る道、即ち「辺路」で、死を覚悟した厳しい「修行」だった。 お遍路さんは何日も、何十日も懸けて弘法大師のご利益を戴くのである。
小生は車で、しかもアッという間の観光遍路で、もうとう、ご利益などは望むべくもないが、参拝に際し旅先の安全くらいは願いたい。


今から1200年前に、弘法大師が人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場である。
大師は、奈良後期の774年、地元、讃岐国多度郡屏風ケ浦(現75番・善通寺誕生院)に生まれている。 
幼少のころより高い教育を受け、歴史や文学などを勉強し、基礎的な力をつけた。 
ある時出家し、名を無空と改めて山岳修行者に身を投じ、石鎚山等で厳しい修業を重ねた。20歳のとき、和泉国槙尾山寺(西国四番札所)で得度出家し、名を「空海」と改める。

延暦23年(804年)、空海30才のとき、時の政府より最澄(さいちょう・延暦寺開祖)らととに遣唐使として中国(唐)へ派遣され、2年間西明寺で修行している。 42歳で、自身の宗教的な体験を一層深めるため、天皇の許可を得て「高野山」に堂宇を建立した。
その高野山の金剛峰寺において入定(聖者の死去)している、62歳であった。 延喜21年(921年)、醍醐天皇より「弘法大師」号を贈られた。 
大師の教えは、現世に理想の社会を築き、人すべてがそのまま仏となって幸わせが得られるという極めて現実的なものである。

ところで、四国八十八ヵ所は、弘仁6年(815年)弘法大師42歳のときに開創され、後に大師の高弟が大師の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりとも云われる。
八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、「」の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三、子供十三の厄年を合わせたともいわれている。
その四国の観音霊寺には、発心の道場(菩提心を起すこと):阿波・徳島 23寺、修行の道場(悟りを求めて仏の教えを実践すること):土佐・高知 16寺、菩提の道場(仏の悟り,煩悩を断じ、真理を明らかに知って得られる境地):伊予・愛媛 26寺、涅槃の道場(煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地):讃岐・香川 23寺の八十八ヶ寺が存在しする。 

四国を一周する遍路巡拝は、一人でも同行二人、つまり大師と共に巡り、心身を研き、八十八の煩悩を一つ一つ取り除き、自分自身を見つめ直す修行の旅である。 
また宗派を問わず、お参りをされる方々の願いが成就される信仰の場でもある。



四国一番霊場・霊山寺の山門


一番霊場・「霊山寺」
空海(弘法大師)が八十八か所の霊場を開くことで、21日間留まって修行したという、そして「ここをその一番とするように」との仏の「お告げ」を受けた寺院である。
又、巡礼者が巡拝を始める前に満願成就を祈る「発願の寺」、「一番さん」などと言われ、親しまれている寺が「霊山寺(りょうぜんじ)」といい、神戸・淡路・鳴門ルートの直近、第一番目にも当たる。
鳴門I・Cから県道12号線を行くと、間もなく右側に番札所の「霊山寺」があった。 堂々とした山門・仁王門の前に車をおいて、境内を行く。 多宝塔、美しい泉水池があり、橋の奥に大師堂がある。正面の階段の上には弘法大師が彫ったという釈迦如来の本尊が安置してある本堂がある。

奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたお寺で、 その後、弘法大師が四国を回られた時、空海(弘法大師)が21日間修法中、インドで釈迦如来が説法している光景を連想し、その事からインドの霊鷲山(りょうじゅざん)を日本に移すと言う意味で竺和山霊山寺と号し、四国第一番の札所としたものという。 門前には、門前一番街と称して、数件のお土産コーナー、軽食コーナ巡拝用品コーナー、お茶席コーナーがある。

「行基菩薩」は、奈良時代の僧で河内の人。社会事業に尽力した法相宗(ほっそうしゅう・中国創始の仏教の宗派の一つ)の僧で、各地に橋、池、道、船所や、餓死する人々を救うための布施屋を建て、民衆への仏教伝道にも努めた。 時の政府からの弾圧にも屈せず、民衆救済の活動を進めたため、彼を慕って従うものは1千人にも及び、生きながら「行基菩薩」と称された。 
東大寺の大仏造営には、民衆の絶大な影響力から大仏造営費の勧進(社寺・仏像の建立・修繕などのために金品を募ること)に起用され、史上初めて大僧正に任ぜられた。 行基を開基と称する寺院は全国で1400ヶ寺にも及び、現代にまでその遺徳は受け継がれている。

霊山寺の先に2番札所の「極楽寺」があった、その名のとおり極楽のような美景な庭園が特徴のようで、手入れも行き届いている。 丁寧に置かれた石畳の石門を行くと、大師堂で安産大師とも呼ばれている。
子宝に恵まれない人には子宝を授けてくれ、妊娠した女性には安産させてくれるというご利益があるそうで、安産祈願の人が絶えないそうだ。
大師堂には長命杉といわれる樹齢1100年以上の杉巨木がある。弘法大師がこの地での修法を修められた時に、この寺を末永く守護せよとの祈りをこめ、大師自らお手植えされたと言われる。 台風や火災など、もろもろの困難にも耐え抜いた大杉だけに、幹に触れれば長寿に、またその手で自分の悪いところをさするとたちまち平癒すると言われている。 右奥の高めに本堂があった。 行基が開創し、日照山と号す。

次回は、阿波・徳島


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