2010年12月16日木曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」  、


平家終焉の序章 、

昨夜、あれだけ鮮明に見えていた神戸の街は、今朝はモヤのベールに包まれてボンヤリとしか望めない。
関西圏では京都や大阪が数回、また岡山や四国、はたまた昨夜の有馬温泉といい、過去に所によっては数回訪れてはいるが、大阪と並ぶ主要都市「神戸」は一度もなかった。
結局、今回も素通りすることに、なってしまったが。

東の横浜、西の神戸といわれているが、エキゾチックで異国情緒あふれる神戸は、昔の面影を残す港の雰囲気溢れる町並みであろう。 
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深の有る扇状の入り江部に発展した理想的な港湾・神戸港を有する日本を代表する港町である。
市域中央に横たわる六甲山地の山上の高原一帯は日本における別荘・リゾート等の発祥地として有名であり、昨夜訪れた有馬温泉は六甲北麓、神戸市街の反対側に当たる。 
有馬温泉は日本三古湯の一つとして古来より名高い保養地であり、今では神戸市街の喧騒を六甲山系がシャットアウトし、都市神戸の奥座敷として願っても無い至近距離、好位置にある。


「神戸」という地名 、

神戸」は、かんべ、ごうど、じんこ、こうべ、といろんな読み方が有る。
主に地域の氏神である神社の経済的基盤を支えた住民や土地の地域のことを指していて、日本各地に神戸(読みはいろいろ)という地域名として存在する。

神戸は、現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封(住民が租税や課役を神社に納めたり、祝などの役職を務めることで神社に奉仕した地)の集落、つまり神戸の地であったことに由来しているという。
神戸の民は、生田神社をはじめ、神戸三社(他に、長田神社や湊川神社)、市内ある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わり、それが、現在の灘五郷という「灘の生一本」で知られる日本酒の一大生産地につながったと言う。
(なだ)とは本来、風波が荒く航海の困難な海のことを意味するが、酒類業界では通常清酒の主産地である神戸市東部から西宮市今津(灘区、東灘区)に至る大阪湾に面した約12kmに及ぶ沿岸地帯を指している。


気候や立地に恵まれた神戸は、すでに古代から歴史の中に登場している。
大阪湾、瀬戸内海に面している神戸は京・大阪にも至近で、古くから海運、貿易港として、「」とともに発展を遂げ、奈良時代には既に存在した港「大輪田泊」という名称で登場し開港している。
平安後期には、その利点に目を付けた平清盛が、自国の荘園だったこともあって神戸の港・大輪田の泊を改修し、中国(当時は「宋」)と貿易を行っている。 
この時期、清盛は京都から神戸の福原に首都を移転して、所謂、現在の兵庫区を中心に「福原京」が設けられた。 つまり、海洋国家としての樹立をめざしたのであろう、実際のところは、源氏勢力から一時的に逃れるため、自らの強い勢力圏に天皇を移そうとしたという背景もあった。

そうした福原の建設途上、東国における源平の争乱はますます激化し、遂に、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫した。
清盛は状況に抗しきれず、遂に福原をあきらめ平安京への還幸を決意することとなる。 
その後、清盛亡き後源氏の勢いは益々盛んで、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。 宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、邸宅のことごとくを焼き払っている。 
その後の源平合戦では英雄・源義経が、この地の「一の谷の戦い」で源氏が大勝利していることは周知である。

古書・平家物語には・・! 、
『 山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり』とある。

当時の福原の都の一角でもある平家の拠点・一の谷城は、現在の神戸市須磨区一の谷町にあたる。 そして義経が京を出発し丹波街道の篠山から一の谷へ到る途中に鵯越があるが、この地が六甲山系の西の山麓でもある現在の神戸市兵庫区鵯越町に当たる。 一の谷の逆落としを決行するのは、現在の須磨の鉢伏山(須磨浦公園)の海に向かった急斜面といわれている。
有名な「鵯越の逆落とし」で、義経を主将とする源氏軍はこの地で平家軍を破っている。 平家の予想を裏切る奇襲作戦だったようで、 平家物語には「およそ人間の仕業とは思えないことだ」と記されている。


詳細な場所については説が分かれているようだが義経は、この峻険な高地に立った時、この攻撃は無理だと内心思ったという。 傍らに居た佐原十朗義連(三浦党、三浦義連・よしつら)が、「こうゆう崖は、われわれ三浦の方では、普通の地形で、いわば三浦の者にとっては馬場のようなものだ」といったという。
人の目から見るとたしかに難攻な斜面であるが、馬の目で見るとそうでないかもしれない。 三浦党は馬の目をもっていたのだろう・・!。
義経の鵯越えの逆さ落しはこうして生まれたという。


青葉の笛』 ―敦盛と忠度―  

一の谷の 軍破れ         
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛


神戸の地は、150年後の南北朝時代においても再び戦乱に塗れれた。

次回は、皇将・楠木正成の最後



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