2009年12月4日金曜日

日本周遊紀行(32)青森 「青森と善知鳥」


          青森市発祥の地:「善知鳥神社」


日本周遊紀行(32)青森 「青森と善知鳥」


程なくして浅虫温泉に着いた。

青森・浅虫温泉にはNTT保養所「善知鳥荘」がある。
小生のお上(かみ)さんがNTTの職員ということで、そのツテでこの宿を利用させてもらうのだが。 
「某日、お願いしたいのですが、 ところでお宅の“呼名”は何て云うですか・・?」
「はい、こちらは『うとう荘』と申します」
善知鳥(うとう)に関する最初のやり取りであった。 

「善知鳥」とは始めて見る文字であって、当然、呼名も意味も知る由もない。
“ゼンチドリ“又は”ぜんちちょう”などと勝手に想像していたが、宿の主人に教わってパソコンの文字を叩くと、ちゃんと 「善知鳥」と出てきたのである。 
小生の薄学さに些か赤面する次第であるが。 


ところで、青森市の名称の前身は善知鳥村から発しているらしい。

「善知鳥」は本来は、チドリ目・ウミスズメ科の海鳥である。 
又、「ウトウ」とは、アイヌ語で”突起”という意味もあるらしいが。 

「善知鳥」は鳥の名前で海鳥の一種であり、大きさはハトぐらいであるそうだ。 
背面は灰黒色、腹部は白色、顔には2条の白毛が垂れる、北方海洋の島で繁殖し、冬期本州の海上にまで南下する渡り鳥でもある。 
彼らの狩りは群れで行われ、集団で潜水し小魚の群れを一ヶ所に追い込み捕食する。 
営巣場所は天敵に襲われにくい崖の岩棚などを好み、地面に穴を掘って生活するという。 「ウトウ」は北海道・天売島は有名である。(後述)



現在の「青森」は、江戸時代の始め頃までは善知鳥(うとう)村と言われ、戸数わずか60戸ほどの小さな漁村にすぎなかった。 
「善知鳥村」がなぜにそう呼ばれるようになったかは謎であった。

善知鳥の語源については、鳥のウトウから採られたと言う説や、アイヌ語の「ウトウ(突起)」に由来するという説などがあるが、はっきりとは分かっていないという。 
津軽藩の学者により「善知鳥の図」が発見され、その姿が善知鳥と一致したことで、善知鳥が生息していた珍しい場所であった事から、その名の由来が起こったとも言われる。 
ただ、昔は善知鳥・”うとう”などという難解な呼び名は無かったであろう・・、何故、この様な名前になったのか・・?。

「善知鳥 」と書いて「うとう」と読むのは非常に難しく、どうやら当て字ではないかと推測するのみであった。
しかし、それなりの理由もあった。中世の頃に、大発生し百姓達を苦しめたと言われている智鳥(知鳥・ちどり)の話に由来するという説がある。



悪いチドリ、善いチドリ」から・・、

「大昔、チドリに似た鳥が、苦心して耕作した農作物を収穫期になると飛んできて食い荒らす、これは悪いチドリである(悪知鳥)。 一方、同じくチドリに似た鳥は海に居て海の物を食し、我々には悪さをしない、そればかりか大群の魚が岸に近付いた事を教えてくれる。 こちらは善いチドリだ(善知鳥)だ、お陰で村は大漁で栄えた」
そして善知鳥が群れる村、即ち、「善知鳥村」になったする。


青森市民には馴染みの深い青森市安方に「善知鳥神社」が鎮座している。
この神社に関連した伝承が、「善知鳥」を「うとう」と読ませているようでもあり、ちなみに、善知鳥は「青森市の鳥」にも指定されているという。

戦国期の大浦氏の時代までは、善知鳥村は鄙びた漁村であった。
やがて江戸初期、弘前藩二代藩主・津軽信枚(つがる のぶひら)の時代、港町青森の建設が始まる。 森山弥七郎(1574~1666年、墓は油川にある)が信枚の命により開港奉行となって、大浜(油川:青森市より北西7~8kmの地点、青森開港以前は大浜と呼ばれ外ケ浜第一の湊で、近江から移住した港商人の町でもあった)に代わる湊として、この善知鳥の地に港づくりを始める。 
その後藩は、善知鳥村を青森村と改称し開港している。 



「青森」の地名は、漁師達が目印にしていた小高い丘に「青い森」が在り、この森が豊かな海の恵みを与えてくれる。
この「青い森」が由来したとされ、1625年に「村」となったのが始まりとされている。

「善知鳥神社」は青森駅東500mの位置、青森市街の中心地にある神社で「善知鳥村発祥の地」とされる。
御祭神は、宗像三女神(多起理毘売命:タギリヒメ,多岐都比売命:タギツヒメ,市寸嶋比売命:イチキシマヒメ)で、神社発行の由緒書によれば,「青森市が善知鳥村と言われていた頃,奥州陸奥国外ヶ浜鎮護の神として創建年代は平安期初頭、都より「鳥頭中納言安方」が此の北国に左遷された折、此の地を治め,神願霊験あらたかな神々を祭った事に由来する」という。

天皇の怒りに触れた都人「鳥頭(うとう)中納言安方」が、都からこの地に流されて来て草屋を造り住み着いた。 
都から赦免の知らせの届くのを待ちわびていたが、病にかかりこの世を去り、村人達は哀れんで手厚く葬ったという。 
間もなくして墓の辺りに、見たこともない鳥が飛んできて「うとう、うとう」と泣き叫び、村人達は安方の一念が、この不思議な鳥になったのだと同情し、安方の墓に祠を建てて、その霊を慰めたという。
これが「善知鳥神社」の始まりであるといい、この鳥を善知鳥と名付けたという。

宗像三女神(むなかたさんじょじん)は、宗像大社(福岡県宗像市の玄界灘)に祀られている三柱の女神の総称であり、女神はスサノオの子とされる。
朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々である。

陸奥・青森では津軽海峡の海上交通、海上平安を守護する神として勧請されたものと解釈する。

次回、「野辺地」 尚、浅虫温泉については、「温泉と観光(6)」で記載します。



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2009年12月3日木曜日

日本周遊紀行(31)青森 「八甲田山」

日本周遊紀行(31)青森 「八甲田山」


「三内丸山遺跡」を後にして、青森市郊外を東へ向かう。
左に夕暮れ迫る青森市街と右彼方に「八甲田山」の山並みがクッキリと夕映えに浮き出ていた。 

ところで、冬季「青森市」の年間平均降雪量は凡そ8mもあり、無論これは人口30万人以上の世界の都市としては世界一であるという。 そして、国内の主要都市では唯一、「特別豪雪地帯」に指定されている理由であ。

青森市は東に東岳、南に八甲田連峰、西に梵珠山系と三方山に囲まれ、北は陸奥湾に望む地形である。
従って、特に冬季には大気にたっぷり水分が含まれ、大陸から日本海を越えて吹き付ける冬の北西季節風が周りの山々に遮られ、大量の雪が吹き溜まる。 
地元気象台がまとめた昭和中期から本年までまとめた降雪量データによると、最小の年が4.26m、最多で12.63mでこれまでの平均が7.78mとなっている。
特に平成期前半の10年間は10.33mと突出している。 

因みに、雪祭りで知られる160万都市・札幌は、青森より北にあるにも拘わらず3m少ないという。 
無論、八甲田山系の積雪は、青森のそれよりかなり多いだろう。


八甲田山」には八甲田という名の山はなく、いくつもある峰々を総称した名称である。
標高 1584mの大岳を中心に、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、小岳、石倉岳、高田大岳の八つの峰と、その山中の所々に湿地、つまり田が多いので、八甲田と名づけられたと伝えられる。ほとんどの峰々が美しい円すい型で、ゆるやかに袖を伸ばしている。

八甲田山」・・、
新田次郎の「八甲田山死の彷徨」でも知られ、高倉健主演の映画「八甲田山」で更に有名になった。 
山に興味を抱き、山を趣味にもった小生にとって、1994年(平成6年)の秋季、東北旅行において足跡を残したもんであるが、無論、両ストーリーは拝見している。

映画は、迫力あるメインの雪中行軍だけでなく、日露戦争を目前に控えた明治35年という時代の雰囲気、日本陸軍や東北地方の農村の様子も再現され、原作ではよく分からなかった装備についても映像として目にすることが出来た。
又、威勢の良い軍歌「雪の進軍」も聞け、映画ならではである。 

ほぼ全編にわたり雪の銀世界(若しくは灰色の世界)だが時折の四季の十和田湖や八甲田山の明るい映像が対称的で良い。


明治中期、この八甲田山域で世界山岳史上比類のない、多大な遭難事故が発生した。

その「遭難事故」が発生した遠因はどうしてか・・??、
それは、ロシアとの緊張状態にあった日本は日露戦争を想定し、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習としての訓練であり、又、津軽海峡、陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が冬季間、八甲田山中での陸路による輸送が可能かどうかの調査でもあり、そのための雪中行軍の演習を実施することになったのである。 
結果は、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪と寒冷に遭遇し、八甲田雪中行軍中、200名にも及ぶ凍死者を出す大遭難事件が発生したのである。


この時期・・、
北海道に居座った高気圧は東北北部まで張り出していた。
そして、その頃発達した低気圧が太平洋岸を北上し、東北地方へ接近しつつあった。 

明治35年(1902年)1月、青森歩兵第5連隊は日露戦争に備えての寒地訓練のため、雪中行軍と称して八甲田山中へ入山しつつあった。 
高気圧による大寒気と低気圧による猛吹雪によって、連隊は三日間に亘って立往生と彷徨を繰り返し、遂に世界山岳遭難史上最大の199名の犠牲者を出す大惨事となった。

明治35年(1902)1月、日本陸軍第八師団、青森第五連隊と弘前の第三十一連隊が冬の八甲田山を踏破する雪中行軍訓練に出発していった。 
両陸軍はこの時、日露戦争を目前に控えて、寒冷地での行軍のデータを取る為の実地であった。 
両隊は1月23日、八甲田山を踏破するルートを互いに反対側から登り始める。
しかし折しも記録的な寒波が押し寄せ、すさまじい吹雪にあい、弘前第三十一連隊の方は地元の人を案内に付けていたこともあり幸運にも目的地までたどり着くことができたが、青森第五連隊の方は吹雪の中、道に迷ってしまう。
青森第五連隊のこの作戦の参加者は210名、本来は1泊2日で完了する筈の行軍なのだが、冬山で迷ってしまい、ルートを見つけだすのは困難を極める。 

1月24日、一行は山中で半煮えの食事を取った後、なんとか道を見つけるべく歩き回り、彷徨を重ねるがルートはどうしても発見できず、遂に絶望的な窮地に追い込まれる。 
途中、峻険な地域である渓谷や沢にも迷い込み凍傷、落伍者、寒中壊死者が続出し、翌25日には何と30名ほどまで減ってしまっていたのである。

救援隊が組織されてたが、捜索も困難を極め、やがて第五連隊の後藤房之助伍長が自ら捜索隊の道しるべとなるべく、雪中に直立したまま分かれ道に留まり、その場で結局弁慶の立ち往生のような感じで仮死状態になって発見された。 
軍医の手当により彼が蘇生したことから、本隊の発見に到るが、しかし発見された時生きていたのはわずかに17名であった。 (なお後藤氏は生還後、地元の宮城県姫松村に帰って村会議員を務め1924年7月31日に46歳で亡くなった)
しかもその内5名が救出後死亡、1名の将校は責任を感じて自決、結局わずか11名の生還となった、死者199名であった。
現在、後藤伍長が道しるべになった地に慰霊碑が建っている。

因みに、この高気圧による放射冷熱で、1月25日、北海道旭川において零下41度という、日本における最低気温を記録した。 この最低気温の記録は現在においても、依然として破られていない。


夕景に浮かぶ「八甲田」はそろそろ、冬の装いか。 


雪の進軍』  作詞・作曲 永井建子(明治28年)
雪の進軍 氷を踏んで
どれが河やら 道さえ知れず
馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず
ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国
ままよ大胆 一服やれば
頼み少なや 煙草が二本
・・・

次回、更に「青森」



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2009年12月1日火曜日

日本周遊紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」


この三厩岩の洞穴に、3頭の龍馬がつながれていて、義経一行は、この龍馬に乗って海を渡り蝦夷へ向かったという。以来この岩を厩石、ここを三厩と呼ぶようになった。(竜が飛び立つ:竜飛の命名にも・・?)


日本周遊紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」


好天の中、「竜飛崎」の風光を適度に観光し、カメラに収めて、さて出発しよう。


海岸のR339を行く。
二つのくり抜き洞門を抜けてまもなくして、何故か「義経寺」があった。 
実は三厩村には義経伝説というのがあるそうだ。


平安末期(1189年)、兄頼朝の計らいで衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。
これが歴史の通説であるが、義経は生きていたと・・!。 

藤原秀衡の遺書に 「危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」 のとおり北を目指しこの地に辿り着いたという。 
近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。
そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め、渡海できるよう一心に祈願した。 
丁度満願の暁に、白頭の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。」と言って消えた。
翌朝巖上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになったという。





小生の住む相模の国の「鎌倉」に、頼朝が幕府を開いたのは12世紀初頭(1192年)である。

それより以前の頼朝旗揚げの時、義経は奥州平泉から主従と共に鎌倉にり入、兄頼朝に拝謁する。
その後、頼朝の代官として西国攻めに出陣し、その期待に応えて義仲や平家一門を滅亡に追い込んだ。 

ところが、その彼に頼朝は禄な恩賞を与えなかったとされる。 
頼朝と義経の関係は次第に不仲になり、しまいには敵対するようになり、義経追討を命じる。 
それらを知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。
この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れることになる。


長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。 
しかし養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。


義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである・・?、と史実はある。 
ところが、その後の「義経」に関しては各地で伝承・伝説が有り、寺社や史跡が残っている。この地の三厩も、その内の一つであろう。 (2005・NHK大河「義経」放送)






標識に従って「三厩駅」に行って見た、小さな駅舎で「津軽半島最北の駅」とあった、JR津軽線の終着駅である。 


既に今別町に来ている。

今別町(浜名地区)は、津軽海峡線の本州側青函トンネルの入口の町である。 
海峡線は1970年の起工式から国鉄がJRになった翌年1988年に開通している。 

海底部23km、陸上部30km、トンネル延長53km、(北海道側は知内町湯の里)もちろん世界一の鉄道トンネルである。 
通称、津軽海峡線は青森から函館の区間を言うが、実際の鉄路の区間はJR津軽線と分岐する、これから向かう蟹田町の「中小国駅」から北海道木古内町の木古内駅(江差線と共用)の区間である。 ちなみに、この町・今別駅は津軽海峡線の「津軽今別駅」、JR津軽線の「津軽二股駅」、そして県道14号線の道の駅「今別アスクル」と三つの駅が同居している、 

更にさらに、北海道新幹線が開通すればばココに4つめの北海道新幹線「奥津軽駅」が誕生するという・・!、4つも駅が隣接するところなんて・・、見たことも、聞いたこともない・・!。

尚、北海道新幹線の新青森駅と道南の新函館駅の間は順調に工事が進んでいるようで、2015年度には先行して開業予定らしい。
その後の新函館駅から道央の札幌駅までの区間の着工は未定だが2020年頃の開業を目指しているという。




チョット賑やかそうな、今別の街をバイパスで抜けて、津軽海峡の海岸線を南下する、道路はR339からR280へ入った。
平館村あたりは、下北半島の斧型の先端部が良く見えている、海岸はかなり険しい断崖のようである。

蟹田、蓬田の海岸道路は曲がりくねりもなく、ほぼ直線で走り易い。
従って海岸の景色は単調で、美的景観は余り見られない。 

進むにつれて、青森の市街がボンヤリと見え出した。





今更ではあるが、小生、この日本列島を、海岸線に沿って周遊巡回するにあたり、常に「海」を左側に見ながら走行している。 
過度な言い回しをすれば、島国列島を外回りで周回していることになる。 このほうが海に少しでも近く、その香りを嗅ぎながら、海岸風景を真近に接しながら、楽しむことが出来るのである。 

今回の北日本・・はもとより、次回の「西日本周遊」も同様のコースを採ることに成るであろう。



今、走っているこの国道280は別名「松前街道」と言う。 
松前は北海道(当時の蝦夷地)なのに、なぜかな・・?。 

江戸時代には「参勤交代や江戸詰め」の制度があり、その為、各藩は遠近に関わらず、江戸を往来していた。 最北の藩、蝦夷地にある「松前」もその例外ではなかった。

江戸を「上り下り」する時、本州に最も近い場所は津軽の北端で、今の三厩か今別辺りであろう、そこへ上陸して江戸へ向かったのだそうで、そのとき通ったのが、この街道で、この名称が付いたそうである。

本来の松前海道(松前道)は、仙台から蝦夷筥館(はこだて:北海道函館市)までのことであり、奥州街道の一部とされてる。


奥州街道は、江戸時代に整備された五街道の一つで奥州道中といい、道中奉行の管轄では江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川(福島県白河市)までをいう。 
そのうち宇都宮(栃木県宇都宮市)までは日光街道を通り共有される。 

だが一般には、奥州を通る脇街道もふくめた街道の総称として用いられることが多く、江戸日本橋から宇都宮は日光街道、宇都宮から仙台を仙台道、仙台から三厩を松前道と呼び、日本橋から本州北端の三厩宿までを、広義には奥州街道と呼ぶ場合もある。 
尚、 江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられたが、中期には蝦夷地開発のため、そして江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために次第に往来量が増加したという。




次回は、「青森」.



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2009年11月30日月曜日

日本周遊紀行(29)竜飛崎 「竜飛の名所」


「竜が飛びたった」とされる北の果て「竜飛崎」。正面は北海道・松前周辺



日本周遊紀行(29)竜飛崎 「竜飛の名所」


さて、「竜飛崎」は、北海道の白神岬とは津軽海峡を挟んで19km程の距離があり、この下を青函トンネルが通っている。 

「JR津軽海峡線」であるが、岬の真下を貫く、本州・北海道の世界最長の青函トンネルに敷かれた鉄道で昭和63年開業している。 
その「竜飛海底駅」は非常時避難用の駅でもあり、海底駅見学整理券を持った人のみ下車できる、竜飛崎からも見学出来るという、岬の下には「竜飛海底駅」があり、旧坑道をケーブルカーで降りて海底下の坑道を見学できるという。 


「竜飛崎」は、津軽国定公園・「竜飛」に指定され、三厩村・北緯41度15分・東経140度20分、標高120m(・・位?)、津軽半島最北、地の果てである。 

この竜飛崎は今や一大観光地になっていて、記念館、記念碑、名所名物もあり、名物の「風車群」は、ウインドパークと銘打った風力発電群でもある。
日本有数の風の地帯では自然エネルギーで、3000軒の家の電力を供給し、現在11基が稼動中であるとのこと。  

又、記念館や施設として、「青函トンネル記念館」、「竜飛ウインドパーク展示館」「竜飛崎シーサイドパーク」「道の駅・みんまや」等々・・、 又竜飛は「記念碑の岬」としても知られ、吉田松陰碑・大町桂月碑・佐藤佐太郎碑・川上三太郎碑・大久保橙青碑・太宰治碑 などがある。
中でも、ご存知「石川さゆり」の歌碑「津軽海峡冬景色」は、一世を風靡した歌で知られる。

又、当地に「吉田松陰碑」がある。
江戸末期、長州藩の攘夷志士であった若き吉田松陰が、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵とともに津軽の地を訪れたのは、嘉永5年(1852)の旧暦3月初めである。 
小泊から峠を越えて三厩の海岸に出るが、松陰は竜飛崎に立って、『竜飛崎と松前間の狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことである』と悲憤している。

因みに、松陰が翌日訪ねた「平舘」(陸奥湾・平館海峡)には、既に砲台があったという。 
松蔭は「大砲が7個あるが普段は備えていないこと、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があることはすこぶる佳いこと、 また4年前に外国船がやって来て、5、6人の異人が上陸したこと」などを日記に書き残している。 
この砲台場は松陰がこの地を訪れる4年前に、幕府の命により津軽藩が築造したもので、高さ2メートル、長さ90メートルの扇形の土塁には、松がぐるりと植えられ、海上からは見えにくい工夫が施されているという。 
現在もその名残を留める「お台場跡」が有る。 

このお台場跡のすぐ側を南北に走る国道280号には、1キロにわたって見事な黒松の並木が続いている。 
およそ300年前の津軽4代藩主・信政によって植樹されたとも伝えられる。 この道は、松前藩が参勤交代で通ったことから「旧松前街道」の名がある。 
おそらく松陰たちもこの松の並木道を歩いたことだろう。


国道階段の手前には、車が海岸へ通じる道が敷かれている。 
そのヘアーピンカーブを下ると、竜飛漁港がある。 

今でも竜飛の家々は、海峡を吹き付ける狂暴な風雨から守るためであろう、断崖にへばりつき、お互いに身を寄せ合うように建っている。 
さらに部落の路を先に進むと、いよいよ路が尽きるのである。 

ここに地元・津軽出身(金木町)の太宰治の碑が立っている。
記念碑銘文は・・、
『 ここは、本州の袋小路だ、読者も銘肌せよ、諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外が濱街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである 』と、この碑によって行く手が阻まれる事を知らされる。
ここは正に本州最北端、袋小路なのだ。


司馬遼太郎も「北のまほろば」で・・、
『 江戸時代の千住を出発すると奥羽海遵が、関東と奥洲をながながとつらぬき、ついに津軽半島にいたって松前街道と名がかわり、半島の先端の三厩村(竜飛崎)で尽きる、古街道としては、墨痕一筋というべき雄大さをもっている。日本中の道という道の束が、やがて一すじのほそいみちになって、ここで尽きるのである。 』と言っている。


崎の正面に大きく「帯島」が横たわっていて、そこには多数のカモメが群れていた。
この帯島の海中下に「青函トンネル」が通じている。

竜飛崎にて、青函トンネル工事に携わった人々の人間模様を描いた映画、「海峡」が1982年に封切られている。

本州と北海道を結ぶべく着工した青函トンネル開通工事に従事する技術調査員を中心に、長年に渡って難航を極めた大プロジェクトに取り組む人々の人間模様を描いたドラマである。
 
「北海道と本州間で運航していた青函航路では客船の事故などが相次いだことから、航路の安定が望める青函トンネルが造られることとなった。そして、その掘削調査に津軽半島を訪れた技術調査員の「阿久津」(高倉健)はある日・・・、」

岩川隆の同名の原作の映画化で、「八甲田山」の森谷司郎が執筆、監督も森谷司郎、撮影は「駅/STATION」の木村大作が担当している。

男たちを陰で支える女の代表として、吉永小百合が見事な存在感を披露していた。クライマックスは、苦悩と犠牲の果てにトンネルが貫通したときに健さんの頬をつたった涙は、まさに本物であった。 
このシーンは、あの「八甲田山」のラストシーンでもお馴染みである。

次回は、「三厩」


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