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2009年11月14日土曜日

日本周遊紀行(20)岩城 「亀田地区」


新装成った亀田地区、「天鷺村の天鷺城」


日本周遊紀行(20)岩城 「亀田地区」


秋田の南、小京都と言われる亀田地区がある。 

克っては、亀田藩二万石の城下町であり、近年、歴史と浪漫を語る天鷺村(あまさぎむら)や亀田城が真新しく復元されている。
江戸期の頃まで亀田城のあった高城山は、かっての平安初期の西暦800年頃には「天鷺速男」という豪族が居を構えていたといわれる。
最近、この豪族の名をあてて新装なった城域を「天鷺村・天鷺城」と命名していて、観光的史跡名所としているらしい。 


保存伝承の里とされる「天鷺村」のシンボル・天鷺城は、高さ22m、天守閣から望む景観は遠くに日本海、そして股下に旧城下町の情景が広がる。 城郭の周辺は真新しい武家屋敷をはじめ士農工商の家屋が立ち並んで壮観である。 
又、新装・亀田城様式はその少し山の上にあり、当時の陣屋を忠実に復元したものであるという。 城内には美術館などがあるほか、広大な敷地内には日本庭園を眺めながら、古き良き日本文化を堪能ができるという。 

ただ何れも、復元された建物が余りの華麗さに歴史の遺産としての重みは感じられず、ただ単に観光的見世物にしか見えないのは残念である。 

「亀田」は、現在は由利郡岩城町の町域の一部であり、往時の歴史的中心地であったが、現在、行政上の中枢は沿岸部の内道川地区に移っている。


それにしても「岩城」という町名は、懐かしい地名であり、快い響きである。 

小生にとっては故郷、田舎である「いわき」に縁のある町名であることに、後日であるが気が付いたのであるが。
この亀田藩は、同地名である我が福島県の「いわき地方・岩城藩」と深いつながりが有ったのである。

その福島県「いわき」について、チョット述べてみよう・・、

平安後期に岩城氏が東北南部沿岸の「いわき地方」に勢力を得て、中心を「いわきの平(たいら)」とした。 それにしても「いわき」という、「ひらがな名称」は煩わしい。

「いわき」は、最も古くは古事記、日本書紀、陸奥風土記などには、和訓で「伊波岐」と記されているらしい。 古代から中世にかけては磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあったらしいが、本来は石城(いわき)である。 「続日本紀」(平安初期の歴史書)には陸奥国石城郡と書かれている。 
そして昭和中期の頃まで福島県石城郡であった。 

昭和41年(1966)に周辺地域の五市が合併して新たに「いわき市」としたのである。 
何でも、ひらがな文字の地域行政「市」名としては、青森の「むつ市」についで2番目らしい。(昨今は「平成の大合併」で、増えつつあるようだが)

その岩城氏は、常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州石城に土着したことが岩城氏の始まりであると言われている。 又、石城国造(奈良初期の地域名)の末裔であるとも言われている。

鎌倉~室町時代には、源頼朝の奥州征伐にて、数々の功により、岩城氏の本領は安堵され最盛期を迎えることになる。
ところが岩城氏の戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉方に味方し謁見して領土は安堵されが、秀吉没後の関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成方に加担して敗れ、徳川家康に降伏した後、所領の磐城十二万石は除封され、お家は断絶となってしまう。

その後、家康に再興を嘆願した結果、大坂・夏の陣で本多正信等に従って従軍し、戦功を挙げたために、岩城吉隆(いわきよしたか)は信濃・川中島藩に一万石(信濃中村:現、長野・木島平という説もある)の所領を与えられ、大名格としての創設を許され復帰する。 
更に、川中島から出羽の国・亀田に転封(てんぷう)となって入部し、岩城亀田藩の初代藩主となっている。

初代藩主・岩城吉隆は、伯父・佐竹義宣(初代秋田藩主)に子供がなかったため、幸運にも養子に迎えられ、秋田藩52万石の第二代藩主となるのである。 その後に「佐竹義隆」と名を改めている。

岩城氏が現在の亀田に移ってきたのは、今から380数年前の江戸初期の元和9年(1623)、徳川家光(とくがわいえみつ)が三代将軍になった時期である。
この岩城地域、「岩城町」の町名は、この岩城氏に因んだ地名なのである。
更に、岩城氏の亀田藩は明治維新まで続いていたが、幕末・明治維新における「戊辰の役」で、官軍の手によって城域は焼かれている。

いわき地方出実の岩城氏は、この秋田の地で脈々と系統を受け継いでいたのであった。 


序ながら・・、
初代・岩城・亀田藩の二万石は「城」のない大名格であったが、江戸末期の嘉永5年(1852)になって、やっと城持・城主格の大名となっている。 
したがって、岩城吉隆が入部した当時のの藩の政庁は、小規模な「亀田陣屋」といわれるものであった。 
この初代藩主岩城吉隆は、後に大大名である秋田藩52万石・佐竹義宣の養子となり、2代目佐竹藩主・「佐竹義隆」となって大出世する。
元々、岩城氏と佐竹氏は隣国同士で(石城と常陸)、相克合い争う仲でもあり、はたまた、姻戚関係のある親密な間柄でもあった。 


こららが縁で岩城・亀田藩の2代目藩主・重隆(しげたか)、3代目藩主・秀隆(ひでたか)が佐竹家親戚からの藩主となって亀田藩を継ぐことになり、両藩との強い絆の縁戚関係が成立することになる。
ところが、その後の4代目岩城隆韶(たかつぐ)、5代目隆恭(たかよし)の二代は仙台藩・伊達家からの養子を受けて藩主となり、秋田藩・佐竹家よりも仙台藩・伊達家との関係が強まっていくことになる。 

これが元で江戸末期の動乱期には、微妙な影響を及ぼすことになる

明治の維新革命といわれる「戊辰戦争」においては、親藩である秋田藩は積年の徳川家の恨みを覚えつつ反徳川、つまり新政府軍(官軍)につくことになるが、亀田藩は、思惑や苦悩に苦しみながら仙台藩同様幕府軍に属することになる。 
結果は周知の如く薩摩軍、長州軍らの応援を得た秋田藩等の勢力の前に、亀田藩は敗れる。 直後の慶応4年9月に「明治」と改元され、同年9月21日には亀田城が焼き払われることになる。 
以上が岩城・亀田藩の顛末のようであった。

次回は、「秋田」




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2009年11月13日金曜日

日本周遊紀行(19)象潟 「芭蕉と象潟」



象潟:陸の松島と言われた田園風景
芭蕉碑と舟つなぎ石(写真下)


日本周遊紀行(19)象潟 「芭蕉と象潟」

出羽の国(古名で出羽の国は山形、秋田を指し、正確には「羽後」である)、秋田県に入りました。 

ここ象潟は芭蕉が訪れた最北の地でもあるが、元より、ここ象潟の地は芭蕉は訪れる予定はなかったらしい。 最上川から酒田へ出た時、「象潟はいい所だよ」と誰かに聞かされて、此処まで脚を延ばしたらしい・・キット!! 。 
そう言えば、ここは「陸の松島」とも言われた。


芭蕉がこの地を訪ねたのが元禄二年(1689)のこと。

当時は、象潟は「九十九島・八十八潟」といわれた景勝地であり、芭蕉も「東の松島 西の象潟」と評したほど景観随一の地であった。 
しかし、江戸末期には「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と評されている。 

それは何故か・・?、

1804年、芭蕉が訪れた凡そ110年後、この地を大地震が襲ってきて象潟の美景は、土地の大変動によって大きく失われてしまったのである。

往時、芭蕉はこの地で次のような句を詠んでいる。


『 象潟や 雨に西施が ねぶの花 』

 「西施」(せいし)とは中国・春秋時代(紀元前5世紀頃、呉越の戦いの時代)の「越の国」の美女のことである。
越王・勾践(こうせん)が呉に敗れて後、西施が呉王・夫差(ふさ)の許に献ぜられ、夫差は「西施」の色に溺れて国を傾けるに至った・・、「傾城の美女」の起こりである。 

序に、呉と越は長年の宿敵同士であり、呉王は越を滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。  しかし、越の奇策によって大敗し、代わって太子の夫差が呉王として即位した。
夫差は、父を殺された恨みを忘れないために薪の上で寝るようにし、功臣の補佐を得て呉を建て直して、今度は、越に攻め込み越を滅亡寸前までに追い詰めた。
勾践は夫差に和を請い、夫差はこれを受け入れた。

勾践は、呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、勾践はこのときの悔しさを忘れず、部屋に苦い肝(きも)を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。勾践のこの時の深謀遠慮を・・?、「臥薪嘗胆」という故事の元となったという逸話である。

ねぶの花」の合歓(ねぶ)の木は、日当たりのいい湿地を好んで自生する樹木で、夕方になると葉と葉をあわせて閉じ、睡眠をする。
眠(ねむ)の木とも言い、漢語では色っぽい、合歓という。「合歓」とは、男女が共寝をすることである。 
ねぶの花は、羽毛に似て白に淡く紅をふくんで、薄命の美女をおもわせる。 

芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、「西施」の凄絶なうつくしさに憂いを思い、それを「ねぶの花」に託しつつ、合歓という漢語をつかい、歴史をうごかしたエロテイシズムを表現したともいわれる。 
芭蕉は、深い情感を以ってこの句を詠んでいる様で、同時に、芭蕉はこの時、一人身のやるせなさを句に託し、女性を想っていたに違いないともいう。

当時の「象潟」は、こんな気持ちが透き通るような風景の地であったのだ。



こんな「九十九島・八十八潟」と言われた象潟は、今から約2600年前、鳥海山の大規模な崩落によって流れ出た土砂が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々が出来上がったという。 
やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖が出来たといわれ、そして小さな島々には松が生い茂り、松島の様な風光明媚な「象潟の風景」が出来上がったと言われる。
芭蕉は正にこの風景をみて感じ入ったのである。

ところが、今から200年前の文化元年(1804)に大地震が起こって、海底が2m40cmも隆起し潟の海水が失われて、水に覆われていた「潟」は陸地に変わってしまい、往年の美しい面影は失われてしまった。
残念ながら現代の私たちは、芭蕉が眺めた様な風景を観賞することはできず、つくづく200年前の地震が恨めしいのである。 

尤も、当時の人からしてみれば、突然地面が湧き上がり、新しく土地が出来上がった事で、稲穂の実る水田となり、米作を作れるようになったのであるから、喜ばしいことだったには違いない。


現在は陸地になり、水田の中に元々島であった小山が点々と存在するような場所となり、美しい島々の姿が、古様(いにしえ)を偲ばせてくれる。
これが「陸の松島」と言われる由縁(ゆえん)である。

その後、干拓事業による水田開発の波に飲まれ、歴史的な景勝地(松が茂る島々)は消されようとしていたが、当時の「蚶満寺」(かんまんじ)の住職の呼びかけによって保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となったという。

蚶満寺は、松林の中に立つ曹洞宗の古刹で、かっては象潟の海に浮かぶ島々の一つだった所に座していたが、時の大地震で海が隆起し現在の様になった。 
境内には往時を忍ばせる「舟つなぎ石」も残っている他、芭蕉も立ち寄ったことから、その句碑も立っている。


蚶満寺は「かんまんじ」は、象潟・「きさかた」の名の起こりとも云われる。
「蚶」とは「赤貝」のことで「きさがい」ともいい、古い時代には「象潟」は「蚶方」とも書かれ、寺名は「蚶方寺(きさかたでら)」であったという。 
それがいつのころからか「蚶万寺」と書き間違えられ、さらに「蚶満寺」と書き換えられ、一時は「干満寺」と書かれたこともあったという。
こうなるともう訳がわからなくなるが、早い話が「象潟」と「蚶満」はもともと同じ言葉であったということで、読み難いだけでなく何とも面倒な地名なのだが、こうなると逆に何故か心地よい気もする・・?。


一帯は、国の名勝で、鳥海国定公園の指定地でもある。
現在も、102の小島が水田地帯に残され、とりわけ田植えの季節ともなると満々と水が張られ、この様子はあたかも往年の多島海の風景「松島」を彷彿させるという。

次回は、「岩城」



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2009年11月12日木曜日

日本周遊紀行(18)酒田 「最上川とおしん」


最上川河口に在する「山居倉庫」:瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群は日本有数の米どころ庄内地方を象徴し、今も現役で活躍している。



日本周遊紀行(18)酒田 「最上川とおしん」


秋候の時期、小生達も数年前「最上峡芭蕉ライン舟下り」を楽しんだ。

戸沢村古口(往時の戸沢藩の船着場)から、舟下り終点・最上川リバーポートまで、最上川の流れに身をまかせ、船上からの景色を楽しみながら、雄大な自然の中を船頭の「最上川舟唄」を聞きながら、ゆっくりと下る。

特に、最上峡の右手の赤の鳥居と緑の木立に見え隠れしながら、最上川に落ちる一筋の滝が、白糸のように流れ落ちるのが印象的であったのを覚えている。 
芭蕉もこの光景を舟の中から眺めたのであろう。


白糸の滝の側に戸川神社「仙人堂」がある。 
その由来書によれば、仙人堂は、源義経の奥州下りの折り、従者の常陸坊海尊(ひたちぼう・かいそん)が建立したとつたえられる。 
その時、傷を負っていた海尊は足手まといになるので、この地で義経と別れ終生この山に籠もり修験道の奥義をきわめ、ついに仙人となったと言われている。 
祭神は日本武尊で「最上の五明神」の一つとされ農業、航海安全の神として信仰されているとある。 


義経はこの地を訪ねたとき、以下のような和歌を残している。

『 最上川 瀬々の白浪 月さへて 夜おもしろき 白糸の滝 』



さて、最上川といえば近年TVであのシーンを思い起こすのである。
NHK連続テレビ小説(昭58年)、一時は60%を超す驚異的な高視聴率を記録した橋田寿賀子原作「おしん」の故郷は山形県で、(山形県出身の実在のモデルもいる)ロケも実際に県内で行われ、おしん生家の藁葺き民家も今も崩れかけてはいるが、中山町の廃村、岩谷地区に残っていると。

明治34年(1901年)「おしん」は、山形県最上川上流の寒村、貧乏小作の子だくさん農家に生まれ、数え年7歳の春、本来なら学校にあがる年に口減らし(家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数をへらすこと)のため一俵の米と引き換えに奉公に出される。 
最初、生家での貧困生活から始まり、奉公先である最上川下流の酒田の材木問屋での辛抱生活が続く。 そして上京、髪結い修行ののち結婚し、関東大震災をきっかけに夫の故郷である佐賀へと舞台が移っていく。

おしん役は小林綾子、田中裕子、乙羽信子と三人が演じ分けたが、特に、おしんの子供時代を演じた小林綾子が注目を集め、幼くして奉公に出された「おしん」が、歯を食いしばりながら苦難に耐えていく姿は、全国に涙を誘い、国内のみならず、中国や東南アジア、中南米、中東でも放送された。

なぜ、「おしん」は、こんなに人々の心をとらえ、人気を集めたのか・・?。

それは、明治・大正・昭和、おしんが生きた八十年余の日本の庶民史を踏まえながら、単なる辛抱物語としてではなく「人間として、どう生きるべきか」という命題を問うていたのである。
因みに、「おしん」のTV放送は世界各地でも放送され、その数何と60数カ国で放映されたという。これは実に世界人口の凡そ3割弱の人々が観たことになるらしい。 
しかも、その視聴率は国内では60%を越えたということは知られているが、著名な国では60、70は当たり前でポーランドでは80%を越えたとも言われている。
まさにマンモス・ドラマであった。



庄内の穀倉地帯を山形県内だけ悠然と流れる「最上川」、その河口に有るのが酒田である

古来より最上川を経由する、陸と海の拠点で、最上川のすぐ横の支流に新井田川が流れている、渡ってすぐ左の中洲に山居(さんきょ)倉庫があった。 
「山居倉庫」・・、瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群で、日本有数の米どころ庄内地方の象徴として、今も現役で活躍している。 

倉庫は明治26年、酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩主酒井家によって建てられた、いわば、官営の大倉庫であった。 庄内藩により厳しく管理され、倉庫の前には船着場があり、舟で最上川、新井田川から庄内米が次々と運ばれた。 

最盛期には15棟在ったが現在は12棟、周囲には数十本のケヤキの大木が繁り、これが、夏は涼しく冬は暖い保温の効果をしているという、内部は真夏でも18~20度のみごとな低温倉庫になっているとか。 
保管物は主に庄内米、1棟で1200トン、2万表の米が保管されていたという。 
今では減反で米が減少、地酒や大豆も保管されている。 酒田市の歴史を伝える、史跡の一つで、酒田の観光名所にもなっている。


酒田は、古代、「袖の浦」と呼ばれ、この地には平安期、朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡(きのわのさくあと:最上川の下流、城輪・きのわ地区にあり、今から1200年くらい前に東北地方を治めるために建てられた役所のあとと考えられてる)があるように、地域の歴史は古い。 
以降、奥州藤原氏の家臣36人が最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し造ったといわれる。

平安末期の平泉政権・奥州藤原清衡が、平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。
当時、上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊へ運ばれ、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。 

後に、頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守る為に、36人の遺臣がこの地に落ち延びた。 
その後、遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。 現在三十六人衆の中で、平泉からの遺臣達で家が残っているのは、粕谷という姓(酒田市史)と見られている。

江戸初期、西回り航路(関西方面)が開かれると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、太平洋側の石巻と並び奥州屈指の港町として発展した。

酒田の有力商人からなる36人衆と呼ばれる集団は、北方海運の廻船業を主に、蔵米の諸払いや、材木輸送を行う豪商であると共に、彼らが酒田の自治組織の中心でもあった。

江戸初期、天和年間(1681~84)の記録では入港船数は春から秋口までに2,500~3,000艘もあり、月平均では315~375艘もの船が停泊していたことになるという。
中でも・・、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた本間家は、戦後の農地改革まで日本一の地主だった。 

集積した土地約3,000町歩、小作人2,700人といわれ、日本一の大地主の名を馳せていた。江戸時代は藩主への多額の財政援助により500石取りの士分を許されていて、酒田にとっては本間家無しでは語れないほど貢献の数々を行っているという。

酒田は特に関西の京、大阪とは頻繁に交易が行はれ、上方の文化を取り入れた独自の経済、文化を築いている。 酒田の言葉は、今でも京言葉に似ていると言われる。

あのテレビの「おしん」もここから出世していった。


最上川舟歌』 山形県民謡

ええや えんやえ~ えんや え~と
よいさのまかせ えんやら まかせ
「酒田さ行(え)ぐわげ 達者(まめ)でろちゃ」
よいしょ こらさのさ
「はやり風邪など ひがねよに」
え~や~え~や~え~ えんや~ え~と
あの娘(こ)のためだ
なんぼとっても たんとたんと
えんや~ え~と えんや~ え~と
よいさのまかせ えんやこら まかせ
よいさのまかせ えんやこら まかせ


次回は秋田県・「象潟」
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2009年11月11日水曜日

日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」(2)(特別寄稿)


写真:森繁久弥氏像と「知床旅情」に歌碑が立つ羅臼:「しおかぜ公園」


日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」(2)

羅臼の町の国道から半島沿いの東海岸・道道87号線を行くと、すぐ右側沿いに在るのが「しおかぜ公園」である。 
高台にあるので幅広い羅臼漁港の岸壁や最北の太平洋そして、あの「北方四島」の一つ・国後島(くなしりとう)を望むことができる。


羅臼は、森繁久弥氏と「知床旅情」に縁があることは知る人ぞ知る地であろう。
ここの公園は映画『地の涯てに生きるもの』のロケ地で、森繁久弥氏がモデルになった「オホーツク老人」の碑が立っている。 
又、同遠地内には森繁久弥氏が作詞、作曲した「知床旅情」の歌碑が立つ。

知床の岬に はまなすの咲く頃・・・

から始まるあの歌詞であり、あの有名な昭和の名曲『知床旅情』の出だしでもある。


このことは作家・戸川幸夫が、1959年から知床を訪れたことに始まるという。
戸川氏は昭和期の小説家で、特に、動物を主人公とした「動物文学」、「動物小説」というジャンルを確立させ、動物に関しては正しい観察、知識を元に物語を書いていた。 

その知床の旅の道中に立ち寄った番屋で、漁師から聞いた話をもとに書いた小説が、「オホーツク老人」であった。 
その小説が発表された後すぐ、これを映画化しようと考えたのが森繁久彌(もりしげひさや)氏自身であったという。

映画のタイトルは「地の涯に生きるもの」で、主人公の老人役を森繁が演じ、しかも知床としては初めての映画ロケということもあって、羅臼は村(現在の羅臼町)をあげて、大々的に歓迎し、村長も全面協力を申し出たという。 
そして、村人もエキストラとして多数参加し、村の人たちとも交流の機会も沢山あったようである。

これらに感激して別れの時に作ったのが「知床旅情」のはじまりで、当時は、「サラバ羅臼」という題名であったという。 
そして別れに際し、見送りの村民と歌の大合唱となり、感動的フィナーレを迎えたという。


その後、「知床旅情」が広まっていくのである・・が、

10年後、加藤登紀子氏が「知床旅情」を歌ったは周知であり、これが爆発的な人気を呼び、これが引き金となって知床観光ブームへと繋がっていったといわれる。 
その後も、石原裕次郎、美空ひばりなど多くの歌手たちに歌われた。

「知床旅情」の発祥地とでもいうべき場所が、羅臼町市街地に近い「しおかぜ公園」であり、歌碑や、森繁氏そっくりの「オホーツク老人の銅像」が立っている。


『知床旅情』が巷で歌われた当時の世相は、「ディスカバー・ジャパン」という旅行会社のキャッチフレーズもあって、全国的に旅行熱が高かった時期でもあった。 
北海道・知床が特にその風が吹いていたようで、山口百恵の「いい日旅立ち」の曲に乗って、「知床旅情」の唄に引き寄せられるように観光客が訪れたという。 
その頃の知床は、人・人・人の山だったといい、景色と言うより、人の後ろ姿を見て歩いた、というエピソードもあるくらいだった・・とか。
「世界遺産」となった今日、第二の知床ブームが押し寄せているというが・・?。
 

『知床旅情』 作詞・唄 森繁久弥、加藤登紀子

知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるかクナシリに 白夜は明ける

別れの日は来た ラウスの村にも
君は出てゆく 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれ烏(カラス)さん
私を泣かすな 白いかもめよ



御冥福: 森繁久弥氏 (享年・96歳の大往生)         

日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」 (特別投稿)


写真:北海道最北の地・「サロベツ原野」に立つ森繁久弥氏の句碑


日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」
 


天塩町から道道106号線に入ると、しばらくは日本海へ注ぐ天塩川の左岸を走り、日本海とは微妙に距離を置いたところを北上する。

天塩川は、日本海と並行しながら延々と南下するように流れていて、そして天塩町の北端でやっと日本海へ流れ込むのである。 この河は北方の幌延町辺りで日本海へ向っているのだが、直前まで来て砂丘に阻まれ、今度は海岸線沿いを 凡そ10km も南下するためである。

その天塩川が南下しているところを、道道106号線が並行して北上しているのである。 
北海道・北端の地へ至る最後の道であり、道としての最後の導(しるべ)でもある。 5km ほど北上したところで道は左へカーブし、天塩川を渡る。 満々と水を湛えた川は全くの自然のままで、いかにも大自然の北海道をイメージさせるのに充分である。

天塩川と日本海を分け隔てている浜砂丘へと「天塩河口大橋」」を渡る、ここからは左手には「利尻富士」が見え隠れしている。 
ひたすら日本海沿いを北上することになるが、道道106号線の第一幕は、天塩川を渡って浜砂丘へ出ると遠くに見えてくる有名な風車である。 

色々なCMや広告写真などで使われているらしいが、日本とは思えない雄大な風景の中に溶け込むように在るのが風車の列である。 
又、ここが道道と天塩川とが並行してきた最後の地点でもあり、離れる場所でもあるのだが。
風車の数は 29基あまりあって、横一列に日本海に向けて立っている。
東北の北部地方あたりから、あちこち風車のある景色は拝見しているが、ここほど圧倒的な風車の景色はなかったように思う。 
このあたりは見る目にも風が強い地域であることが想像でき、環境に優しい自然エネルギーは北海道の風景にもぴったりである。

その風車の列を過ぎると、いよいよ「サロベツ原野」へ入る。
原野は、余りにも広大な為か南側を下サロベツ原野、北側を上サロベツ原野と称しているらしい。
道は、北への真っ直ぐな道が淡々と進む、本当に「ひたすら」という言葉が似合うほどに続く。 しかも、対向車には殆ど会うこともなく、どこまで続くのだろう、と思うくらいに続く。
左右は、サロベツ原野とは言うけれど、ウネリのような低い丘陵地が続いているようであり、時節柄、枯れた色合いが、その寂寥感に輪をかける。 しかしながら道路は全くの平坦で、直線が無限の彼方まで延びて姿を消しているのである。

周囲は丘陵地から次第に原野らしく平原の様相になってきて、左に時折、真っ青な北の海が見渡せる。 
地図を見ると道路はいかにも海岸、波打ち際を走っているように思われるが、実は7~80m陸側に位置していて、その間は同様に原野になっているのである。 
草原の所謂、枯れ草文様の中に緑の縞模様が見られ、次第に原生花園・原生湿原と言われる様態に変化してきているようだ。


「サロベツ原生花園」と青海に幽かに浮かぶ山・「利尻岳」の三角錐の姿を眺めながらの快適なドライブウェイは続く。 
定規を当てた様な真っ直ぐに延びた一本の道、思わず踏むアクセルに力が入るが、スピードに乗って通り過ぎてしまうにはにはもったいない程の景観が連続している。

「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の広く爽やかな風景を存分に味わいたい・・!!。 
北海道の北の果ての短い夏はすでに終わり、すでに晩秋の気配が漂よい、緑の湿原は褐色の大地に変わっていたが、しかし青い海、澄んだ空は変わることがない。


間もなくサロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た。 道道:稚内天塩線の唯一のパーキングであり、ここで一息入れ、散策を楽しむ。
「こうほねの家」という木造の洒落た休憩施設があった。 屋上からは、日本海にそびえ立つ利尻富士が見られ、美しい夕日も見られる絶好のビューポイントでもある。

「こうほね」という妙な名であるが・・?、
小屋の裏に広がる池塘に浮かぶ水生植物の名前のことで、その名をこうほね・河骨と称する。 睡蓮(すいれん)科の一種で、可憐な黄色い花を付ける。 
川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨と称しているようである。
河骨の根茎は「川骨(せんこつ)」の名で漢方薬としてよく用いられ、二つ割りにして干して、止血剤や浄血剤、強壮剤として使われるという。

処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。 
「 ハマナスの花の色は北へ来るほど赤味が増す 」といわれる。

森繁久弥氏も映画ロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであるった。

『 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの
            砂丘の涯の 海に立つ富士
 』

「富士」とは、無論、利尻富士のことである。

ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたるらしい。 
又、この地は大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか。 
森繁久弥は、この原野でどのような題材の映画をロケしたのか定かでない。 もしかしたら、映画のロケではなく周遊に来ていたのかもしれない。
いずれにしても、このサロベツ原野の美観溢れる絶景の地に到って肝を奪われ、思わず一句ひねったのかもしれない。

サロベツ原野、特にここの湿原地帯は日本低地における代表的な湿原といわれ、高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く咲き誇り、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が、季節を華やかに咲き競うという。  
そこに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物群が100種類以上も植生しているといわれる。

気がつくと道標に「稚内26km」とあった。
北端の地の稚内や宗谷岬へはあと一息である。

引き続き、「追悼・森繁久弥」氏 


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日本周遊紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」


三山神社の一角に立つ芭蕉碑


日本周遊紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」




芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、江戸を発ったのが元禄2年(1689)3月27日であった。これは旧暦の日付で現在の陽暦では5月16日に当る。  



奥の細道の有名な冒頭の一文 ・・、

『 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛け置く・・、 』

芭蕉の出だしの第一句に



 『 ゆく春や 鳥なき魚の 目はなみだ 』

と江戸・千住大橋ぎわで詠んでいる、長道中の覚悟の一句が見てとれるという。

俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、「出羽三山」への前に最上川を船で下っている。

元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は新庄市の本合海(もとあいかい)から立川町清川(現、庄内町)まで舟で長道中の水上を下った。 

文中に・・、

『 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。 ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 』
といっている。 
そして船中で・・、



 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』

と余りにも有名な一句よ詠んでいる。 
他に・・、



 『 暑き日を 海に入れたり 最上川 』

と合わせて詠んでいる。

激流の最上川の景を楽しみながら、一転して天台宗修験道の霊山霊地としての出羽三山の山域に入山したのは、6月初旬(陽暦7月下旬)であった。 芭蕉は出羽三山、鶴岡に概ね10日間滞在している。 
先ず・・、



 『 雲の峰 幾つ崩れて 月の山 』

と月山を詠み、月山の山小屋に一泊している。 

湯殿山では行者の作法として、山中の出来事などの他言を禁じていることに発想を置き、



 『 語られぬ  湯殿にぬらす 袂(タモト)かな 』

の句を読んでいる。 

芭蕉らは羽黒山の中腹にある南谷(みなみだに)の別院に宿をとり、南谷に6泊し、6月10日(陽暦7月26日)に酒田に赴くまでの7泊8日を出羽の霊山で過ごしている。 

その羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山には中腹に湯殿山神社と夫々祭神が鎮座しているが、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して三神合祭殿と称されて、その本坊において俳諧興業を行い、芭蕉は



 『 有難や 雪をかをらす 南谷 』

の句を詠んでいる。

句は「このお山は晩夏の6月というのに山肌にはまだ雪を残していて、それが南風にのって薫るかと思われるほどであり、ありがたいことだ」というほどの意味という。 
南谷の南は「南風」の意があり夏の季語となっている。 
併せて・・、



 『 涼しさや ほの三日月の 羽黒山 』

と詠んでいる。

その後、一行は、羽黒山から鶴岡に向かい酒井14万石の城下町、酒井藩の家臣「長山重行」の家に三泊している。 
重行は、江戸邸に勤めていたころに芭蕉の門人になったといわれ、鶴岡駅前の市街地の中、現在ではその邸跡だけが残っており、その一角にこの地で詠んだ四吟歌仙(芭蕉・重行・曾良・呂丸)での芭蕉の発句の碑が立っている。



 『 めづらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび) 』

「山をいで羽」は、出羽を意味する。

専門家によれば、芭蕉はこの羽黒山、月山、湯殿山の修行(登山)で、不易流行(※)を打ち立て、句風が変わったという。
 
※「不易流行」とは、芭蕉が提唱した俳諧理念・哲学の一つ。

「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神、「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するという意味。相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考えである。

湯殿山神社の左手に、曽良と芭蕉の句碑が建つ。

次回は、「酒田」




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2009年11月10日火曜日

日本周遊紀行(16)鶴岡 「出羽三山」


樹林帯の中にひっそりと、だが豪快に建つ「出羽三山・五重塔」


出羽三山神社:「三神合祭殿」



日本周遊紀行(16)鶴岡 「出羽三山」

羽越線・鶴岡駅前の中心街より真東に向かうと、羽黒町の田園地帯が広がる。 
この田園のど真ん中、羽黒山域(神域)の入口には東北第一の大きさを誇る大鳥居が天を指す。羽黒山は月山、湯殿山とともに出羽三山の一つであることは周知だが、今日でも山伏の修験の山としても広く知られている。 

その歴史は蘇我馬子(推古天皇期・西暦626年:飛鳥時代の政治家、「馬子」であるが男性である)に暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三子(第一子ともいわれる)とされる蜂子皇子(はちこおうじ:聖徳太子の従兄弟)に始まるという。 

皇子は蘇我馬子の更なる魔手を逃れるため宮中を脱出して「弘海」と改名し、日本海側の由良(京都府宮津由良海岸)から船で北上し、由良の浦(鶴岡市由良海岸:どちらも「由良」と同じ名称であるが偶然か、はたまた丹後の地域名を継いだのか、などは不明)に上陸したと伝承されている。 
そして推古元年(593年)、羽黒山にたどり着きに開山したとされている、さらに月山、湯殿山を併せて開山したという。

後に、役行者が羽黒山に来て蜂子皇子の法を継いだといい、この蜂子皇子の苦行が発展し、転化したのが羽黒山の古修験道になったといわれる。 
平安期以降は神仏習合で真言宗となり、江戸時代には天台宗に改め、明治に入り神仏分離が実施された神社でもある。



大鳥居をくぐって神域に到ると「神路坂」と称される坂道があり、正面に「羽黒山正善院黄金堂」という古刹がある。

1193年、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討つ際に戦勝祈願のため土肥実平(といさねひら:相模の国・湯河原、桓武平氏の流れをくむ、鎌倉創生期の源頼朝の重臣・御家人)に建てさせたという。 
総門からは大杉林に沿って長い石段の先、朱塗りの太鼓橋を渡ると、有名な「羽黒山五重塔」へと至る。
五重塔は、「羽黒年代記」によれば創建は、平将門が寄進したという伝説もある。関東以北では最も美しい塔と言われ、第一級の国宝に当たる名建築であるとされる。

克っては周囲に多くの堂舎が建っていたが、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により破壊され、この五重塔だけが破壊を免れたといわれる、あまりの美事さに破壊を免れたのかもしれない。

ただ、周囲が太古の杉林に囲まれ、湿り気が多いはずである、しかも当地は豪雪地帯でもある。長年の風雪に耐え、悪条件の中の地形に屹立していて腐食しないものかと心配もし、はたまた感嘆するのみである、国宝に指定。


この先、「出羽三山神社」までは、荘厳なまでの古老の杉並木の石段を延々と登ってゆく・・。思えば紀州・熊野、那智大社の熊野古道の「大門坂」を彷彿させるが、尤も、此方(こちら)のほうが自然の中で森閑としているようでもある。 
「出羽三山神社」の大社殿の前に額ずいた。 
社殿正面の上部には大額縁が飾ってあり、月山神社を中心に出羽神社、湯殿山神社と記してある。 こちら羽黒山の社殿は、三社の神を併せて祀る三神合祭殿なのである。

普通、出羽三山といえば羽黒山、湯殿山、月山を言う。 湯殿山神社は湯殿山中腹、標高1500mのところに社殿をもち、月山神社は月山山頂(1984m)に風雪に耐えながら鎮座している。
湯殿山は山自体がご神体であるし、月山も山頂に社殿があるだけで神社社殿としては羽黒山だけなのである。通常は、羽黒山の出羽神社合祭殿で三山祭祀が行われ、従って、合祭殿をお参りすれば出羽三山を参拝したことになるという。
羽黒神社は、全国に200社ほどある支社の本社でもある。


出羽三山はもともと修験道の行場の山であって、修験道とは、山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする神仏が融合した宗教である。 修験道の実践者を修験者または山伏といい、開祖は役行者(役小角)とされている。 

因みに全国の修験道場は、江戸期・徳川幕府により京都聖護院「本山派」と京都醍醐寺三宝院「当山派」の二派に統括されるといわれるが、古来よりの出羽国羽黒山と九州英彦山(ひこさん)は特別に別派として公認されていたらしい。


神仏融合とは・・?、
古来、日本では自然の山や川を神として敬う山岳的信仰の「神道」と、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教体がある。 
所謂、神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、土着の神的信仰と仏教的信仰を折衷して、一つの信仰体系を再構成することで、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも、本地垂迹(ほんじ‐すいじゃく)ともいう。

この思行によると、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変え、実体を表したもの、即ち、迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、平安時代頃から盛んに信仰されるようになった。

平安初期に中国より伝来した密教(真言、天台など)との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により集合体は禁止され、神と仏とは分離された。 
又、その後に定められた廃仏毀釈により、仏閣、寺院など関係する物などが破壊された。だが、著名な神社寺院においては、この神仏混淆の強い思想に影響され、一部はそのままの形で残った地域もある。


出羽三山の神仏習合について・・、
出羽三山に現在祭られている神々は、それぞれ出羽神社が伊氏波神[いではのかみ]、月山神社が月読神[つきよみのかみ]、湯殿山神社が大山祗神[おおやまづみのかみ]、大己貴神[おおなむちのかみ]、少彦名神[すくなひこなのかみ]などで、日本古来から崇拝してきた神々である。

奈良時代に入ると仏教流布と共に仏教者達が修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。

出羽三山においては、羽黒山神の本地体を観世音菩薩とし、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が各々定められた。
神仏習合の宗教形態として、はじめは神社の境内に神宮寺、別当寺を建てて神々を補佐するような立場であったが、次第に神々と統合し、後には祭事は全て仏式で行はれるようになった。
これらが明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いたのである。 

平たく言えば、全ての祭事事項が神式から仏式に変わった、つまり、仏が神に成り代わり、仏が神を乗っ取ってしまったのである。 
明治期の神仏分離により出羽三山は一応は神社ということになっているが、紀州・熊野三山などの比べると、多分に寺院としての性質が未だ色濃く残っているとも言える。

出羽三山では、現在も修験者や山伏が闊歩して法螺貝を吹き、社域には宿坊が並び、参拝される人々の拝礼の仕方も神式、仏式どちらでも良い感じである・・?。 
どだい、出羽三山の「山」という表現の山号(さんごう)は、仏教の寺院名に付与される修飾語の一つとされる。これは中国伝来の仏教用語で、禅宗系に所在するの寺院に「山」の名称を付けている場合が多い事でも理解できるのである。


次回、「出羽三山と芭蕉」




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2009年11月9日月曜日

日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と西郷どん」

日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と西郷どん」



庄内地方では西郷隆盛(薩摩藩)が人気があるという、それは何故か・・?、<br>


幕末において酒井・庄内藩は徳川の譜代であったため、幕臣として会津藩と同様江戸、京都などで攘夷方に対する締め付けを行い、鳥羽・伏見の戦いの契機となった。

庄内藩士は江戸薩摩藩邸焼き討ちや戊辰戦争で薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。そのため会津藩と同様に徹底した征討の対象となったが、新政府軍に対して庄内藩の防備は固く領内には一歩も入れなかったとも云う。

戊辰戦争は新政府軍が圧倒的に優位の中、庄内藩がもし会津、仙台などを中心とする旧幕府側として戦い、長引けば会津と同様に玉砕の道を選ばざるを得なかったはずである。この時、時の東征大総督府下参謀・「西郷隆盛」との直接折衝を隠密理に行っていたという。その結果、「無条件降服」という形で平和的に解決し、事なきを得たという。

戊辰戦争後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。早速、新政府から会津若松への転封、賠償金等を命ぜられたが、藩内は一致団結し藩主自から先祖代々の宝物等を売却し、藩士は家財などを売却し、更に商人や領民なども新政府への積極的に献金に応じたという。 

又、裏交渉にての平身低頭の交渉の結果、領地替は撤回され、賠償金は決定金額の半分であったという。これにも陰で「西郷」が指示し、温情ある態度で極めて寛大ものであったという。西郷は折衝に臨んで、敗戦者といえども新しい時代の同胞である、と納得したという。

そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に感激、感謝し、後日明治3年(1870年)に、旧庄内藩士76人を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ね教えを請うたという。 

薩摩の人材教育に学び、旧藩主「酒井忠篤」も釈放後、東京より鹿児島へ留学し学んでいる。 また西郷卒いる「西南戦争」の際には、一部の庄内藩士は薩摩・西郷方に味方して戦っている。 

西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」である。平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。 



『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。』



『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。』

「南洲翁遺訓」の中の一節であり、明治23年発刊された。

尤も、西郷の寛大な処分については若干の異論も有るという。 それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 この本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて、藩の御用向きを「株式組織」にするよう提案しているのである。 

西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか、とも言われているが・・?。



鹿児島市城山の北東約1キロメートルの所、錦江湾と桜島を望む丘に、西郷南州をはじめ、桐野利秋・村田新八ら西南戦争で戦死した2023名の志士が葬られている。南洲とは、勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 

この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌であると。 西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、善戦の末、戦死しているのである。 

一方、山形県酒田市の飯森山に「南洲神社」が鎮座している。 戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を誘導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。

現在、「西郷隆盛」が縁で、鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市を結んでいる。




次回は、鶴岡「出羽三山」
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01. 15.

トラッキングコード3