2012年3月23日金曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島・朝市」

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「若いとき、旅をしないと、年とってからの物語がない」


日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島・朝市」 .  


朝市
写真:輪島の朝市風景
 

輪島の町並みで、河合町という商店通りは「輪島・朝市」で有名なところである。 
河合町一丁目の一角、海を背にして家屋の間に簡素な「市姫社」がある。 

市姫神は、宗像三神の中の「市杵島姫命」(イチキシマヒメノミコト) を祀っている。 
又、河合町の住吉神社境内にも市姫神社が建っている。 


この市姫神社や住吉神社は、元々、海の神、海上交通の神として崇められ、両神は概ね、瀬戸内海、日本海を通って大陸へ向かうルートに沿って、お祀りする神社が多数並んでいるといわれる。 

宗像三神の一神である「市杵島姫命」は日本土着の水神として祭れれていたが、平安期の神仏習合で「弁才天」となり、神社の祭神としても祀られることが多くなった。 

近世、いわゆる七福神の一つとして祀られる「弁才天」は、財の神、水の神の他、農業神・穀物神として崇められている。 
そして市姫神社は北陸から関西にかけて、名の通った「市場」の守護神に祭られているという。


輪島では千年も前の平安時代から、神社の祭礼日などに生産物を持ち寄って物々交換しあっていたのが市(いち)の始まりだと言われている。 
海の幸、地の幸を持ち寄って姫社に手向け、持ち寄るうちに、これが自然と我が家に無い物を戴き、他家に無いものを差し上げる、生じて市社の前に交換所の様なものが出来上がり、これらが総じて「市」になったとされる。 


そして、輪島の市は、我が国の市の起源であるとも歴史学者は考証している。

輪島・朝市は朝の7時半頃から店が出はじめ、8時頃にはだいたい出揃うが、人出が多くなって賑わいをみせるのは9時から10時頃になる。 
通称「朝市通り」といわれる約360メートルの通りに、多いときには250軒の露店が並び、午前中いっぱい開かれている。 

朝市が終ると今度は通りに面した各商店で買手となり、そこで又、コミュニケーションが行われる。 
こうして朝市の売手と買手と各商店は、もちつもたれつの関係が千年もの間続いて来た。 
観光的価値はともかく、朝市が果してきた役割は、物と物を介しての人と人のすばらしいコミュニケーションの場でもあり、根底には商売繁盛の神である「市の神」に対する深い市姫信仰が根付いているとされる。 

輪島の朝市は岐阜県の高山、勝浦の朝市と並ぶ「日本三大朝市」の一つである。

因みに、住吉神社の境内でも露店市を開いていて、此方は「夕市」とし称しているようだが、余りパッとしないという・・?。


次回、「名舟




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日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島塗」

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「長旅はつらいが、楽しみのがビール待っている」

日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島塗」 .



輪島塗
写真:朱色の漆塗りに「輪島漆器」


道の駅・輪島、「ふらっと訪夢」の和風造りは、地場産の集成材(多数の板材・角材を接着剤で接合して作った木材)を利用し、内部の柱には「漆」(うるし)を施し、「輪風」(外観の切妻屋根と格子に代表される輪島らしさ)を表現して輪島地方の文化、伝統の発信拠点にしているという。 物産館も併設してあり、中には「輪島塗」の品々が陳列してある。


輪島塗、輪島漆器は全国でも屈指と言われる。
漆器はお茶の道具、箱物、膳物、椀物、盃物と日用品から趣向品、飾り品から工芸品まで多種多様で、製品は世界共通語の「ジャパン・メイド」と呼ばれるほど有名な器であるとか。 
漆器は、古来から日本が世界に誇れる最も素晴らしい工芸品であり、日本の誇るべき伝統文化でもある。


輪島塗の塗装素材は漆である。 
漆は、ウルシの木の樹液で、古来は主として塗料、塗装剤のほか接着剤としても用いられている。


私事ながら、幼少の頃、漆の木を切って、皮を剥いて、刀を作り、チャンバラごっこをして遊んだ。 そんな幼少の頃は、漆の木や樹液で「かぶれる」などということは露ほども知らなかった。 手の平に付いた黒い物(漆の液が汚れたもの)は、石鹸でいくら洗って も落ちることはなく、数日経ったら手足の皮膚といわず、顔から股座、チンポまで、荒れに荒れ、膨れに膨れて散々な目にあった。 後日、医者で診てもらったら「漆のかぶれ」ということが判明した。 その後も、これ程でなかったが、数回軽い炎症を起こしたのを記憶している。 漆の樹液は人によって“被れる” (かぶれる)のである。


漆は、漆の木から採取される樹液で、天然の高分子化合物であり、化学的にはフェノール系の樹脂で、防腐剤のクレゾールなどと同類だという。 
弱い体質の人が漆にかぶれるのは、フェノール系の物質が皮膚のタンパク質と反応して起こるアレルギー現象という。

漆は酵素と反応して硬い皮膜をつくる性質があり、硬化する温度(25℃)と湿度(85%)が必要なので、謂わば、カビの発生しやすい環境が漆の硬化に最適という。 
然らば、日本の気候にピッタリ当てはまるのである。 

熱硬化性プラスチックのフェノール樹脂と同じ現象で、昔は鉄砲や大砲、鉄鍋などに、錆び止めとして使われていたらしい。 
漆は酸やアルカリ、塩分、アルコール等に対しての耐薬性、それに防水、防腐性もあり、電気に対する絶縁性もある。 

更に、浸透力が有りその塗膜が乾固しても、中で酵素が生き続けていて、表面の色艶が褐色から徐々に透明感を増し、美しい色合いへ鮮やかに変化するという。 
これは千利休が求めていた美の世界の「わび」とか「さび」に通じるものだという。
 

数千年も前から食器類をはじめとする日用品や船舶、建築物等に塗料として広範囲に利用され、そのルーツを辿ると何と足長蜂にたどり着くという。 
足長蜂の巣の付け根の部分に黒いものが固まっているのが漆であり、自然の中で蜂は本能的にそのことを知っていたのである。 
それを知った人間が狩猟の時に使う鏃(やじり)の取り付け、部分接着剤として利用したのが人と漆の出会いの始まりと言われている。 
その後、食文化と共に発展をしてきた訳で、漆と漆の技法は大陸の仏教文化や食文化と共にシルクロードを経て日本に伝えられたという。 正倉院宝物や法隆寺の宝物館には、それを窺い知ることができるという。
 

漆:うるしの語源は「麗し(うるわし)」とも、「潤し(うるおし)」ともいわれている。
漆の艶や塗り肌を表現したもので、日本の永い歴史の中で漆が愛され続けられたことが言葉の中に残されている。 
知れば知るほどに不思議で奥の深い漆は、自然の天然素材で地球環境にやさしい無公害の塗料とのことで、中国をはじめアジアの各地で遥かな昔から生活のなかに取り入れられていたようである。 
漆の木からにじみ出る樹液は、枝が折れたり、虫や動物に傷つけられた時、手も足も出ない漆木は、漆汁をにじみ出して傷を直そうとする。 
自然の治癒力であり、人が怪我をした時にできる「カサブタ」に相当するもので、人間がこの現象を逆手に取ったのである。 

成木になった漆木に欠き傷を入れて、滲み出てきた樹液を人間が取ってしまい、治癒出来なかった漆木は、やがて枯れる運命にある。
天然漆は環境に敏感である。 
従って、日本では国産漆が塗りやすく、また仕上がりも美しいといわれる。 

しかし、産出量は年々減少傾向にあり、いまでは輸入漆液で需要の九割以上を補っているのが現状だという。 
漆器の品質は、国産漆をどれだけ使うかが一つのバロメーターといわれるが、ここ輪島は国産漆を最も多く使っている漆器の産地として名高く、近年、塗師達は自家用として自宅で漆木の栽培を始めたといい、これも輪島の「本物志向」の表れである。 
輪島の漆木は、能登の気候にも合っているのかもしれない。


次回は、「輪島・朝市



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2012年3月21日水曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」

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「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る」 
<アラブの諺>  

 日本周遊紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」  .


御陣乗太鼓
写真:能登の奇祭・御陣乗太鼓


南北朝時代に足利尊氏に従い、室町幕府創立時の功績によって能登、越中を領する守護大名に列せられるのが「畠山氏」であった。 
かの、鎌倉幕府創立時、頼朝の重臣として大活躍する「畠山重忠」を祖にもつ名門であり、室町時代には斯波氏や細川氏とともに三管領家(将軍を補佐して幕政を統轄した官位)として名を連ねていた。


天正5年(1577年)の戦国期、能登・畠山氏は上杉謙信によって滅ぼされる。 
この時、上杉軍が畠山残党退治に遠征してきたとき、名舟(輪島市名船町)の地で村人達が鬼面や海草を顔に付け陣太鼓を鳴らして驚かせ、追い払ったといわれる。 

これは伝説の域をでないが、この事が有名な「御陣乗太鼓」の発祥、起源とされている。 
御神乗太鼓は、名舟大祭といわれ、白山神社の祭礼で披露され、御輿の渡御・還御の先導として露払いを務める役割を担うという。


天正5年、越後の上杉謙信は能登・七尾城を攻略して、

『 霜は軍営に満ちて  秋気清し 
越山を併せたり  能州の景
 』

と詠じ、その余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。
 

現在の珠洲市三崎町に上陸した上杉勢は、各地を平定し天正5年、破竹の勢いで名舟村へ押し寄せてきた。  
武器らしいものがない村の人達は、鍬や鎌で打ち向かったが散々な負け戦であった。 

そのような時、村の古老の指図に従い、急場の一策として樹の皮をもって仮面を作り、海草を頭髪とし、太鼓を打ちならしつつ上杉勢に逆襲をかけた、この奇襲作戦が功を奏し、戦いを勝利に導いたという。 
面をつけ、太鼓を打つことによって、「御陣乗っ取り」を果たしたのである。

この戦勝は舳倉島(へぐらじま)の奥津姫神社(白山神社)の御神威によるものとし、毎年、神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)には仮面を被り、太鼓を打ち鳴らしながら、御輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っているという。 
以来名舟の村人たちは、戦勝の感謝を氏神に捧げるために、この御陣乗太鼓を叩くようになり、400年以上にわたって今に伝えられる。


始めはゆっくり、次にやや早く、最後はもっと早く、即ち序・破・急の三段で打ち切り、各自が自由な形で見えを切り、面に応じ、個性を生かした芸を入れるのが御陣乗太鼓の見どころであり、聞きどころであるという。 
又、御陣乗太鼓の踊り手は、地元に生まれたものにしか資格がなく、地元の子供たちは週2回、大人は毎晩太鼓の練習をし、一般に御神乗太鼓は男性が打つものとされ、女性の演奏は単に太鼓演奏として区別しているという。 

尚、ゴールデンウイークの4月29日(土)から「道の駅・輪島 ふらっと訪夢」でも夜に実演されるといい、御陣乗太鼓は今や、すっかりテレビでもお馴染みでになっている。


次回も更に輪島で、「輪島塗



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2012年3月20日火曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「越の国」

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「旅は真の知識の大きな泉である」 
(ベンジャミン・ディスレーリ;イギリスのヴィクトリア朝期の政治家、首相 ) 

日本周遊紀行(215) 輪島 「越の国」 .


古代のある時期まで、富山から東は縄文遺跡、福井から西は弥生遺跡が多いと言われる。 
そんな中で石川県能登地方は両者が拮抗しているいわば縄文と弥生の接点になっている地域であった。 

この地は縄文期におけるアイヌの痕跡もあり、アイヌ語も色濃く反映しているという。 
「能登」の地名の由来もアイヌ語の「ノッ」で「岬、あご」という意味だそうで、「ノッ」が「能登」というように変化したというのは納得である。


この頃の、国としての名称は能登を含む北陸一体は「越の国」といわれた。 
今の新潟から福井・若狭にかけての越後、越中、越前である。 

これには日本列島へ中国江南の「越人」(※)が直接、又は、朝鮮半島南部を経て到来し、青銅器や稲、鉄器を中心とした弥生文化を伝えたものとする一説がある。 
その意味で、「越」の地名が日本列島にあっても、特に不思議ではない。 


北陸地方の「」が、越人に由来するかどうかは確定はされてないが、おそらく、中国の「越」という国名、地名が先にあって、それが「古志」や「高志」、又は「越智」などの漢字表記の際に当てられたものではないかともされている。 

尚、北陸における「越」の地名は、京(平安京)に出向くのに山を幾重にも越えてゆく、遠方の北の陸地(北陸地方)であるから名付けられたとする説もある。 
だが、実際はこれよりはるか以前(奈良期以前に・・)に、既に「」というのは存在していたという説が大勢らしい。


(※)紀元前8世紀頃の古代中国・春秋時代における中国江南地方・長江下流域に「呉」、「越」などの国があり、中流域に「楚」があって所謂、古代春秋三国時代といわれた。 古代中国の物語として呉、越の国の争いで、「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」という故事が生まれたとする。 尚、古代中国江南地方は稲作発祥の地とされていて、一方、現在のベトナムは漢字で書けば「越南」であり、この地は現在の浙江省周辺にあり、古代中国の江南地方に当っている。


紀元前3、4世紀に日本に成立した稲作は、この中国長江流域が元祖といわれる。 
又、同時期に金属、鉄器が大陸で発明されていて、これらの総合文明が縄文期の未開の文明を刺激しないはずは無く、後年、日本海の狭い領域を超えて九州、山陰、北陸の地へ次々と移入してくるのは必須であった。 

この当初の日本は、日本神話で語られる神代の時代であったが、その後、大和王権(後の大和朝廷とは異なる)が設立されるに及んで、日本各地を席巻、統一してゆくことになる。
同時に、日本民族の文明が大陸によってもたらされ、所謂、大陸ルーツの文明が花開く時期でも合った。

古代中国の越人によってもたらせれたかどうかはさておき、移植された「稲」は各地を点々しながら越前の地(福井平野とその周辺)に、ひとまず定着したとされる。 
飛鳥、奈良期における越前の米の石高は国内一であり、越前は日本一の裕福な国であった。(今でもそうらしいが・・?)

この頃、越前の国の富を背景に、越前出身とされる継体天皇(けいたいてんのう:第26代天皇、応神天皇の5世孫)が、大和朝廷の大王(天皇)として迎えられたといわれる。 

大国・越の国は、奈良期の7世紀後半、律令制によってに分割され越前、越中,越後の三つの国に分かれた。 
さらに、養老2年(718年)には、越前の国から羽咋、能登、鳳至、珠洲四郡を割いて「能登国」とし、弘仁14年(823年)には、江沼、加賀の二郡を合して「加賀国」としたとする。 この時点で近代の北陸地方の地域名が固められたという。


次回、「能登・御陣乗




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2012年3月19日月曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「ぷらっと訪夢」

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「寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人」  

 日本周遊紀行(215) 輪島 「ぷらっと訪夢」  .


プラット訪夢
写真:旧輪島駅の「ぷらっと訪夢」

旧輪島駅
写真:旧輪島駅ホームと「シベリア」行きの次駅表札



能登道路の終点である穴水の此木から、一般道を「輪島」に向けて走ることにする。 
途中、別所丘P.Aで一息入れる。 
このPAは、僅か数台のみの駐車場で、実に小規模でサッパリしたところである。 

だが、目の前にはこの名に因んだ「別所岳」がドーンと座っているし、エリア内には小さな丘があって、そこから能登島や能登の海・七尾湾が一望できる絶景の地でもある。

此木から輪島までは内陸の一般道・県道1号線(輪島-七尾線)になる。 
古い手持ちの地図には能登鉄道が、この道路と並行して輪島まで達しているのだが、実は極最近の2001年に乗客減少が著しいということで穴水⇔輪島間が廃止されたのである。 


克っては、能登観光の交通は、金沢からJR七尾線が七尾まで、更に七尾から輪島までの鉄道が走り、金沢から直通の急行「能登路」や自社のパノラマ気動車を使用した急行「のと恋路号」が運転されていたらしいが、しかし、時代の趨勢には勝てず穴水~輪島は廃線となってしまった。


因みに、穴水から半島の東部を行く「のと鉄道能登線」(穴水⇔珠洲市蛸島)は、その後も暫く存続していたが同様に乗客の減少が続いており、遂に2005年3月限りで全線が廃止され、路線バスに転換されたという。 
ただ、廃止決定後、地域住民の活動が活発化し、2005年3月には県議会議員の間で「廃止」ではなく「休止」にしようとする論調も強まり、廃線となった後も、能登線を復活させようという動きが続いているという。

その代わりかどうかわ知らんが穴水、輪島の中間地点である三井町に、「能登空港」が2003年夏、開港している。


輪島市、穴水町、能登町にまたがる木原岳周辺に整備された空港で、滑走路長は2,000mあり、エプロン(駐機場)は小型ジェット機、プロペラ機各2機が同時駐機できるという。 

日本初の試みとして、空港ビルと行政機関(奥能登行政センター)が合築されており、交通だけでなく、奥能登地域の広域行政の拠点としても位置付けられている。  
又、道の駅・能登空港は、道路を拠点とした能登地域の情報や観光情報を提供しているという。

航路として当面は、東京国際空港への1日2往復のみのようだが、ただ、開港時、年間平均搭乗率が70%未満の場合は、県と地元自治体が航空会社に2億円まで損失を補填するとした全国でも珍しい「搭乗率保証制度」を導入している。 
逆に目標以上の利益が得られた場合は、地元に還元するとしているが、如何かな・・?。
  


輪島の市街へ入って自然と脚が向いたのがやはり「旧輪島駅」であった。 
木板張りの外壁と黒光りした瓦の大屋根に大商屋風の木造の建物が建ち、「ぷらっと訪夢」という、取って付けたような名前が付されている。 

今度は道の駅・輪島として再出発しているようであり、廃止された「のと鉄道」の旧輪島駅の駅前広場を活用して新しく建てたようである。 
だが、旧駅舎であろう・・?、白いコンクリートの建物が、和風の大屋根の奥上から見えていて、変に違和感を覚えるが・・?。 

「ぷらっと訪夢」の中の半分は観光案内所になっていて、輪島の有名な祭り「きりこ祭り」(後述)の“きりこ”が飾られていて、もう半分はかってのJRの旅行センターとなっていて、みどりの窓口の看板も見える。 

その奥には、元のホームの復元というか痕跡というか、旧のホームと線路があり、旧輪島駅を起想させている。 
そして「メモリアルホーム旧輪島駅」と表示があった。 
ホームには昔懐かしい次駅表示板があって、当駅・輪島、前駅・「のといちのせ」、まではよかったが、何故か次駅は「シベリア」としてあった・・?。 
このユーモアは判らんでもないが、せめて「ウラジオストク」くらいにしてほしかった・・が?。
  

太古・古墳時代の頃、日本は中国などから「」と称され、能登半島は日本海に大きく突き出した地形のため、古来、大陸からの多くの人が渡来者として、あるいは漂流者として能登にやってきた。 

渤海交流史などを見ても、この国から何度も荒波を超えて日本へ使節を派遣していると記され、その中でも石川県にたどり着いた回数が一番多いという。 
その大陸の者たちが、輪島や能登半島の先端を見つけたとき、倭の半島を島と勘違いし「倭島」と呼び、これが、現在の輪島の名の由来だといわれる。


渤海又は渤海国は、かって8世紀から10世紀始め頃まで実際に存在した国であり、今の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方のことで一部シベリヤも含み、中心がウラジオストク辺りとされてる。 
これで旧輪島駅のプラットホームの駅表示に次駅名をシベリヤ(ウラジオストク)としたのは、ジョークとはいえ納得できるのである・・?。


次回、「能登・越の国



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「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




01. 15.

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