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2012年2月4日土曜日

日本周遊紀行(203) 小浜 「鯖街道」

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旅は利口な者をいっそう利口にし、愚か者をいっそう愚かにする」 
<イギリスの諺>


 日本周遊紀行(203) 小浜 「鯖街道」  .



鯖海道
写真:小浜市内、鯖街道起点の路面表示



舞鶴を後にして、国道27号線、通称、丹後街道を行く。

舞鶴から若狭へ抜ける半島を横切るようにして、若狭の小浜方面に向かう。 
青葉山系のトンネルは既に京都府と福井県との県境に位置していて、抜けると福井県である。 
その最初の町が高浜町であるが、暫く行くと若狭の素敵な海岸が広がっていた。 
更に、大飯町(おおいちょう)の小浜湾もなかなか結構な海岸であり、和田の青戸の入り江などは鏡のように静かである。 

それもその筈で、小浜湾が鋸崎、松ヶ崎といった両岬に挟まれた狭い湾口の奥に小浜湾があって、その又西側の奥へ細長く入り込んだ青戸入を形成しているためである。
尤も、若狭湾そのものが日本海側では珍しい海と陸とが交互に出入りする、大規模なリアス式海岸になっているのが特徴である。


若狭本郷の駅前を過ぎると、間もなく対岸を結ぶ巨大な橋が見渡せる。 
静かな若狭湾が更に深い入江となっている青戸入江の付け根に架かっているのが青戸大橋で、海上橋が国道27号と大島半島の犬見崎を結んでいる。 

かつて陸の孤島と呼ばれていた大島半島の大島地区と本土・JR線などを最短で結んでいる。
生活には非常に重要な橋であろうことが伺える。


静かな若狭湾に点在する各港は古来より良港で、(サバ)などの魚介類の水揚げ地でもあり、しかも京都にも近いため丹後街道、若狭街道などは、いわゆる「鯖街道」とも言われていた。 
その最も良港の一つである、小浜湾の東に位置する小浜市に入って来た。


小浜は歴史と伝統が息ずく町である。
古代から日本海を隔てた大陸との交易が開け、日本海側屈指の要港として栄え、陸揚げされた大陸文化や各地の物産は所謂、鯖街道などを経て、近江、京都、奈良にもたらされた。 

それらの証しとして小浜の大陸とのつながりは、市内に点在する数多くの文化遺産からも伺い知ることができ、即ち、「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれてる。


小浜には「鯖街道基点の印」が今も残る。
市内のいづみ町商店街内に、その起点プレートがある。 
ここが鯖街道の始まりで、小浜から熊川宿、朽木を経て、京都へ18里、約70kmであった。


若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた
と古来よりいわれたという。 

因みに、昔の鯖は今と全く比較にならないほど大量に獲れ、体形も大きく、一般庶民、特に都人にはに喜ばれたという。 
このため鯖を担いで走る街道を、いつしか鯖街道の名が付けられたという。 

しかし、鯖は一つの代名詞にすぎず、その他、多種の海産物などが運ばれたのは当然で、いわゆる北前船から陸揚げされた物資も盛んに輸送され、この中には日本海の塩も加わり、別名、塩の道でもあったという。 

小浜は、鯖街道である“食の道”の他に政治の道、軍事の道、特に文化の道でもあった。 
特に大陸文化の交流、渡来品も盛んで、室町時代には南蛮船が小浜へ””をもたらした史実などがあり、遠く南方との交流をも覗かせるという。


近年、差別用語として余り使われなくなったが、つい最近までよく用いられた「裏日本」という言葉があった。 

そのイメージは暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせた。 

しかし、雪の国・越後新潟の項でも記したが、この裏日本という用語は僅か百年ばかりの歴史しかなく、この日本海に面する越の国を含む一帯は、大昔より、まさに国土の表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもあった。


次回も小浜の「後瀬山



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2012年2月3日金曜日

日本周遊紀行(202) 舞鶴 「引揚者と戦争難民」

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  日本周遊紀行(202) 舞鶴 「引揚者と戦争難民」  ,



引揚者、そして戦争難民とは・・?! 、

一般に、満州からの集団引揚げは1946年春から一時期の中断を含め、尚連続して行われていたらしいが、しかし中国内戦が激化したことや、その果てに中国大陸を支配した中国共産党政権が樹立することによって中断された。 

日本政府はこの間、中国と国交を結ばなかったという背景もあり、1958年には集団引揚げは打切られ、家族には不明家族の死亡宣告を迫り、そして残留者保護対策の終息を図った。


日中国交正常化から9年後の1981年頃より、再び、彼らの多くは日本での肉親を探し始め、やがて肉親探しよりも日本への帰国を目的とするようになった。 
彼らが次第に中国残留孤児や中国残留夫人と呼ばれるようになり、帰国のための調査、面談が行われるようになったのは承知である。 

中国残留の人々は、小生達(引揚者)とは異なった“次元”(一時、外地・中国での生活を強いられた人々)で大変な苦労をされた方々である。



そのことについても一言、記しておきたい
「満州国」崩壊と難民化:、主として拓務省および関東軍との関わりについてである。

拓務省とは、1929年から1942年にかけて設置された省で、拓務大臣(たくむだいじん、拓相)を長とした行政組織である。 

当時、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖などの業務監督、海外移民事務などを担当した。
中国残留孤児や中国残留婦人とは、「昭和の屯田兵」、「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」などと強調、賛美されて満州への移住を勧められ人々である。 

戦時下の現地(満州国の開拓期)では、兵役のため召集(18~45歳男子)された父や兄弟や夫からは切り離され、殆どは女性、児童、高齢者しか村には残っていなかったのである。 

そんな中、内地では敗戦濃厚となっていた終戦間際、満州では突如としてソ連軍が侵攻してきてソ連兵や中国の現地民に追い立てられ、鉄道等の避難経路へのアクセスが困難な地域では、住民たちは戦争難民になった。 

尚且つ、付近に駐屯していた関東軍がいたにも関わらず、満州国防衛はおろか、人民を放棄して撤退していった。
その関東軍に置き去りにされ、指定された避難所への集結をめざして徒歩による逃避行となった。 

当然ながら逃避行の途中では攻撃・略奪・暴行による多数の被害者および自決者・落伍者を出し、たどり着いた難民収容所では飢え、寒さ、伝染病等に苛まれ、死ぬか生きるかという切迫した状況の下におかれた。 


人々の中には現地人(主に中国人)に招かれたり、拾われたり、もらわれたり、買われたり、さらわれたりするかたちで妻あるいは養子として現地の家族へと統合されていった児童や女性もいた・・!。


これら満蒙開拓民(中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称)として渡満した人々が、そうでない人々よりもどれだけ「艱難辛苦の砂を食わされた」かを指し示す資料として、満州開拓史刊行会(1966年版)を参考にした数字が下記に表される。



開拓民と非開拓民の間における死亡者数等についての差異

内容 全体 開拓民 非開拓民
終戦時在満邦人数(関東州を含む) 1550000人 270000人 1280000人
敗戦に基づく一般邦人の死亡者数
176000人 78500人 97500人
何人に一人が死亡したか
8.81人 3.44人 13.13人
死亡指数(非開拓民比)
1.49倍 3.82倍 1.00



岸壁の母』 歌・双葉百合子 詞・平川浪竜 曲・藤田まさと
  
母は来ました 今日も来た 
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

呼んで下さい おがみます
あゝおっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
何で遠かろ 何で遠かろ
母と子に

(台詞)
また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない…
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか…
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ…。
帰れないなら大きな声で…
お願い…
せめて、せめて一言… あれから十年……
あの子はどうしているじゃろう。
雪と風のシベリアは寒いじゃろう……
つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて……
この肌で温めてやりたい……
その日の来るまで死にはせん。
いつまでも待っている……

悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ

(台詞)
ああ風よ、心あらば伝えてよ。
愛し子待ちて今日も又
怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を……




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2012年2月2日木曜日

日本周遊紀行(202) 舞鶴 「引揚当時の私的回想」

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「旅から戻ってくると、故郷の煙さえも甘く気持ちのよいものである。」
グリボエードフ(帝政ロシアの外交官・作家・作曲家)



  日本周遊紀行(202) 舞鶴 「引揚当時の私的回想」   .




ここで、勝手ながら小生の幼少時分の満州から引揚状況を、「記憶を振り絞って」思い出してみた。
 
大陸、特に中国東北部を、戦中は通称・「満州」(満州国・日本の傀儡政権国家ともいわれる)と呼んでいた。 
1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を契機に日本が占領し、翌1932年から1945年までは日本による傀儡国家(かいらいこっか)・満州国が建国された。 

満州国は、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ:映画、「ラストエンペラー」で知られる)が13年の間にわたって元首としていたが、1945年8月、第2次世界大戦終結直後にソ連軍が満州に侵攻、日本の敗戦と同時に消滅している。 

尚、翌年の1946年には、ソ連は占領した満州地域は中華民国(現、中国)に外満州を除いて返還している。
 


さて、私事であるが

親父が満州の「南満州鉄道」へ就職し赴任したのは昭和12年の頃であろう・・?、小生は昭和14年に満州・奉天(今の中国・瀋陽)で出生している。 

満鉄職員ということで、比較的安楽で普通以上の生活をしてたらしく、中国人やロシア人を家へ招いては茶会や麻雀などを楽しんでいたようである。

小生が物心ついた小学生入学当初、この頃から戦争の影響が次第に生活の中にも入り込むようになり、灯火管制など電灯に黒幕を被せて部屋を暗くして静かにしていたり、非常時の場合に備えて非常用具や防空頭巾などが手元に有ったのを覚えている。 
又この時期、不幸にも実母と妹を病(結核)で亡くしている。 

警戒警報や空襲警報が盛んに発令されるようになって、当時、鉄筋コンクリートの三階建ての官舎に住んでいた我々も、遂に地下の防空施設に避難するようになった。
 

ある日、地下で待機している時、ズーン、ズシーンという地鳴りのような音が聞こえたかと思っているうちに、突然、物凄い爆発音がして地下室が振動し、上から物が落ちるほど揺れた。 親父が仕事で不在の中、小生は弟・二人で近所の人に抱きかかえられながら泣きじゃくっていたという。 

警報が解けて表へ出ると、真向かいにあった床屋さんが大きな穴の中に屋根から真逆さまになって突っ込んでいて、大いに驚いた・・!!。 
大人たちが「1トン爆弾が落ちた」などと話していたのを今でも記憶している。 

それから後、数日間は静かな日々が続いたようだが、(この時期、既に日本の敗戦が決まっていたらしい)ある日突然、予想もしないことがおこった。 
親父が「ソ連が攻めてきたらしい・・!」といって官舎の人全員に呼びかけ、取るものも取り合えず駅まで誘導し、我らも防空頭巾を被って貨物列車に乗り込んだのである。 

後は、奉天駅(現、中国瀋陽)から釜山(ふざん・プーサン)へ来たことは覚えているが、途中の長い道程(みちのり)は記憶が無い。
 

建国当時、南満州鉄道(満鉄)は満州国が成立すると、日本から朝鮮半島、中国大陸へ向かう需要が急増していた。 
東京、大阪方面からは、主要幹線である東海道本線、山陽本線が其々の地方を経由しながら下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山へ、更にそこから朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)へと乗り継ぐルートが最速であり、これを弾丸列車と称していた。 
中国大陸・満州へは奉天から新京(現長春)、大連、旅順などを結ぶ。

以上のことから、親父が満鉄職員ということもあり、奉天から朝鮮半島を経て釜山へは重要幹線ということもあって、比較的容易に来れたようである。 
因みに、親父の満鉄での業務は、旅客関係ではなく保安・保線関係の現場技術的な仕事であったため、比較的早めに解放されたらしい。 
奉天~釜山は、概ね東京から下関の距離で凡そ1100kmある。


釜山からは貨物船に乗せられて(載せられて)舞鶴に向かったのであるが、船中の居場所は船底の貨物室で、人々はごった返し、筵(むしろ)の上に居たのを記憶している。 
又、この時、小生が甲板付近で遊んでいる時、階段から転げ落ちて右腕を骨折してしまい、船医による応急処置をした後、東京の東大医学部で手術したが、あと数日遅れたら腐食して右腕を切断する羽目だったという・・!。 

未だ3歳の弟と小生の幼少の二人を引き連れ、上陸してからは舞鶴からはるばる東京へ向かうのであるが、おまけに上の子(小生)は怪我で半病人の身であったことからして、親父の労苦が偲ばれるのである。 


この間、東京・足立の親類(叔母・父姉)で厄介になり、その後、親父の実家である福島県の石城郡磐崎村白鳥(現、いわき市白鳥町)へ戻り、同村及び隣町の湯本町で敗戦の辛苦を味わいながら、少・青年期を過ごすのである。 
幼少のみぎり、上陸した「舞鶴」という地名は確かながら、当時の詳しい様子等それ以外の事は残念ながら全く記憶に無い。
 

子供時代にNHKで「尋ね人の時間」というのがあった。 
”どこで・・、何をしていた・・、誰々さんを・・、誰々さんが探しています”、という内容を次々と読み上げていた。 

この時、「旧満州」という言葉がよく出てきて、その頃は何とも思わず聞いていたが、今思うとあの頃は戦後の混乱期がまだ続いていて、あのような番組が相応に役に立っていたことが判るのである。 
その番組も、気が付かないうちに無くなっていたが。
  

次回は「引揚者と戦争難民




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2012年2月1日水曜日

日本周遊紀行(202) 舞鶴 「引揚港」

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日本周遊紀行(202) 舞鶴 「引揚港」   .





写真:引揚記念館


写真:『異国の丘』・歌碑


復元された引揚桟橋





小生家族も世話になった、舞鶴・「引揚港と桟橋」・・!! 、

舞鶴港は、戦中は旧海軍の軍事的拠点として使用されていたが、終戦直後は大陸に進駐していた軍人、軍属や一般人の日本本土への引揚、および日本に在留していた中国、朝鮮人の送還のための指定港の一つとなった。 

さらに、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国へ(当時の日本領、小生の出生地)侵攻したソ連軍によって捕虜になり、シベリアに不法抑留されていた旧軍人についても舞鶴へ帰還している。 


他港が早々に引揚港から除かれたため、これら引揚の人々の殆どが舞鶴港を入港先・帰還港とした。 
これに伴い、日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。


昭和20年から33年まで13年間にわたり、凡そ、66万人余りの引揚者と1万6千柱の遺骨を迎え入れた引き揚げの町・舞鶴である。 
その当時をしのぶ建造物は残っていないが、港を見下ろす小高い丘に、戦争を語り継ぐ平和のシンボルとして、昭和45年「引揚記念公園」、同63年「引揚記念館」が建設された。
 


この記念館には辛い抑留生活、生きて祖国へ帰り着いた再会の喜び、遺骨の帰還、帰らぬ人を待つ家族など、そして、その展示は戦争を知らない世代にも胸を打つものがある。 

引揚の丘公園の展望台からは、眼下左手に湾を横断するモダンな大吊橋が時の流れを消すかのように光っている。 
又、北側には、引揚げ時に上陸したと思える復元された木製の記念桟橋跡らしいのが見える。その引揚桟橋まで降りてみると、釣りをしている人しかおらず、いかにも平和な感じである。 だが「引揚桟橋」の文字と脇に立つ「平和の鐘」を見ると、一顧の念に駆られるのである。
  


昭和20年8月15日、(日本の降伏の日)終戦時海外にいた日本人は、極東、シベリア、中国、朝鮮、ヨーロッパなど軍人350万人、一般邦人310万人、合わせて660万人にのぼったという。 
この日本兵及び一般邦人達は、短期間のうちに日本へ引き揚げることを強制されることになり、日本では、舞鶴、浦賀、呉などの主要港がこれら日本兵の受け入れを許可し、それから約13年間の長きに渡り、日本兵の引き揚げ業務が行われてきた。


この引き揚げのニュースを聞き、舞鶴などの引き揚げ受け入れ港には、全国から大勢のの肉親達が集まり、平引揚桟橋にて息子や夫・肉親などの帰りを待った。 
中には、既に海外の戦地で戦死してしまった夫の帰りを待つ妻、最愛の息子を長く待ちつづけたが無念の想いで死んだ母など、悲しい歴史が沢山ある。 
中でも、菊池章子、二葉百合子らによって歌われた「岸壁の母」は余りにも有名である。
 
これら流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、「端野いせ」という名の女性であった。 


「端野いせ」は石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)の出身で、息子である「新二」は軍人を志し、昭和19年満州へ渡って入隊し、同年ソ連の攻撃を受けて中国・牡丹江にて行方不明となったという。 
終戦後、端野いせは東京都大森に居住しながら生死を知らされないまま、新二の生存と復員を信じて昭和25年1月の引揚船初入港から以後6年間、引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立って待つ続けたという。 

時は過ぎ、「新二」に関して昭和29年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日、牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行した。 
その後、端野いせは「未帰還兵の母」として、昭和51年9月以降は高齢と病のため通院しながらも生計をたて、息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で亡くなっている。
 
しかし、である・・、
端野新二は実際には生存していたらしい。

終戦後、ソ連軍の捕虜となってシベリアへ抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍、その後レントゲン技師の助手などをしながら上海に居住し妻子をもうけていたという。 

新二は、母が舞鶴で待っているということを知っていたが、帰ることも、又、連絡することも無かった。 

理由は様々に推測され、語られているがはっきりしないという。
因みに、日本から船を外地の主要港湾に派遣し、海外にいた一般邦人をまとめて内地へ連れて帰るのを「引揚」とよび、軍人については「復員」とよんだ。 以下、これをまとめて引揚者、引揚船と称した。 

尚、小生の家族も満州引揚者ということで、この中の一員になっている・・!。 
このことは次項で・・!、 



軍歌・『異国の丘』 

今日も暮れゆく異国の丘に 
友よつらかろ切なかろ 
がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ 
帰る日もくる春がくる

今日も更けゆく異国の丘に 
夢も寒かろ冷たかろ  
泣いて笑って唄ってたえりゃ   
望む日がくる朝がくる


次回は、「私的引揚げ体験の回想」



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2012年1月31日火曜日

日本周遊紀行(202) 舞鶴 「舞鶴港」

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   日本周遊紀行(202) 舞鶴 「舞鶴港」    .





写真:舞鶴軍港に停泊中の護衛艦群



写真:舞鶴軍港に停泊中の最新鋭護衛艦・「すずなみ」



注油中のイージス艦・・?



宮津の町から岬付け根の粟田トンネルを抜け、粟田湾から由良川沿いを南下する。 
八田の交差点を左折して由良川を渡り、小さな峠を越えると間もなく舞鶴の港である西港の大きな埠頭が目に入る。   


舞鶴港は、日本海における重要港湾の一つとして位置付けられ、現在は大きく二つの港に区分されている。 

この西港は対中国、韓国、ロシアなど対岸諸国への定期コンテナ航路をもつ国際貿易港としての機能分担をもち、中でも、現在、拉致などの諸問題を抱える朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の清津港(チョンジン・日本語・セイシン)の航路も開かれているが・・?。 

そしてこの先の東港は、近畿圏と北海道を結ぶ長距離フェリーを中心とする国内貿易港としても利用されているが、主に海上自衛隊の軍港として使用されている。 



一旦、西港から離れて次に東港へ向かう。 
舞鶴港は西の金ヶ岬、東側が博奕岬(ばくちみさき・・?)に挟まれた狭い湾口を成していて、その地形から湾内の干満の差が極めて小さく、四方を3~400m級の山で囲まれていることから、強風や荒天をも避けることもできる。 
また日本海から湾内を目視する事ができないため、天然の良港としても重要視された。 


このような地形的に優位な舞鶴港は古来より開かれ、江戸期には北前船の寄港地として貴重な存在となり、日本海側でも有数の商業港として栄えていた。 

だが、北方において軍事色が濃くなる明治期には、日本海側唯一の海軍の舞鶴鎮守府が開府し、軍港として飛躍的に発展してゆくことになる。

日露戦争の際、その殆どの船がここから出港したことは有名であり、当時の海軍記念館も存在している。 
昭和の戦時期は、更に東港が軍港として整備され、戦後も海上自衛隊基地として現存している。


現在の舞鶴港はロシア、中国、韓国との航路もでき、そして北朝鮮との貿易港としても期待されていた。 
しかし北朝鮮の不審船事件や、その他の不穏な動向により舞鶴の海上自衛隊は更に増強されているという。 

軍港は、海上自衛隊の舞鶴地方総監部(戦前の鎮守府にあたる)として、イージス艦、給油艦、護衛艦などの海軍基地として、昔のように整備されつつあるという。 
舞鶴港の歴史は、そのまま日本の歴史を見るようでもある。


因みに、現存する国内の主要な軍港は、北から北海道・むつ市の大湊港、横須賀港、呉港、佐世保港と舞鶴港である。 

そして、日本の戦後の歴史としては舞鶴東港は何といっても引き揚げの港として著名である。 
実は、小生も戦後満6歳の時に、この港に上陸した「満州引揚難民」の一人なのである・・!。
(このことは後ほど・・、)


港の公園からは蔦を絡ませた赤煉瓦の堅固な倉庫も見えてる。 
横浜の赤煉瓦倉庫とは異質な 雰囲気に満ちた建物で、ここは旧日本海軍の軍需施設として使われたもので現在でもその面影は色濃く感じられる。 

今実際は、赤レンガ博物館や市政記念館・また海上自衛隊の補給所などとして使われているようである。 
公園からは更に海上自衛隊の埠頭が臨まれ、各種軍艦(自衛艦、護衛艦)が常駐停泊していているのが伺える。


一旦、街中を通って湾の東側を北上する。 
広い自衛隊基地、日本板硝子の敷地を過ぎると間もなく小高い公園風のこざっぱりところに「引揚者記念館」があった。 
近代的な堂々たる建物で、一つの歴史的記念施設でもある。


次回、「舞鶴引揚港



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2012年1月30日月曜日

日本周遊紀行(201)宮津 「天の橋立・南」(2)

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旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る。 」  (アントニオ・マチャド;スペインの詩人)



  日本周遊紀行(201)宮津 「天の橋立・南」(2)  .


天橋立記念碑
写真:林春斎の三景碑(天の橋立)



海岸へ出ると間近に砂州と松林が延々と対岸へ延びている。 
その景観は海と緑が対象の妙をなし、確かに、その美しさは人々の心の琴線に触れるものであろう・・!。 
海に囲まれた国、日本を象徴するこれらの絶景は、まさに天が我々に与えてくれた自然の恩恵である。 

天橋立は古き時代から数々の歴史の表舞台にも登場し、和歌や文学にも登場してきた美景であり、いつの世も代わることなく人々を魅了し続けている。 
日本人の旅心の原点でもあろう。

一例として良く知られる百人一首の「小式部内侍」(こしきぶ の ないし・平安時代の女流歌人、母は和泉式部)の歌で・・、

大江山 いく野の道の 遠ければ 
           まだふみもみず 天橋立
』 がある。

又、その母である和泉式部も・・、
橋立の 松の下なる 磯清水 
           都なりせば 君も汲ままし
』 と吟じている。  

人をして 廻旋橋の 開く時 
             黒くも動く 天橋立
』   与謝野晶子

はしだてや 松は月日の こぼれ種』   与謝蕪村

などもある。



松林の一角に古式の文字で「日本三景」の碑が建っていた。
碑には、『丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す』  林春斎
と刻してある。

御存じ、「天橋立」は日本三景の一つである。 

日本三景とは、ここ京都府宮津市の「天橋立」、宮城県松島町の「松島」、そして広島県廿日市市の「厳島(宮島)」の三つの名勝地のことである。 

これには所縁があって、江戸期の儒学者・「林春斎」が全国を行脚した際の著書「日本国事跡考」に著述されていて、三景石碑に記された文面の如く、我国の卓越した三つの景観としてと書かれたのが始まりと言われている。


ところで、これら三景の地には同じ様な文字の記念石碑が建てられているというが、面白いのは其々紹介する場所で、刻した順序が違っていて、天橋立では林春斎の原典通りの「天橋立、松島、宮島」(冒頭写真)、松島では東から「松島、天橋立、宮島」、厳島では西から「宮島、天橋立、松島」の順となっているという。 

尚、2006年、天橋立、松島、宮島の日本三景観光協議会では、林春斎の誕生日の7月21日を日本三景の日と制定している。


林春斎は、幕府の仕事として全国をかなり広範囲に行脚したようで、その見識の上で日本三景を選出したようである。 
当時の江戸期の国内事情から考えると、日本三景を死ぬまでに全てを観光したという人はかなり限られていたと思われ、現代においても日本三景の総てを見たという人は案外と少ないどころか、「日本三景は、其々何処に在るか・・?」とすんなりと地名が出てくる人も案外と少ないのではなかろうか・・?。

幸いというか小生の場合、日本一周を旅するに及んで他の「松島」、「安芸の宮島」(厳島)、そして、ここ丹後の「天橋立」の地を訪れたことで、日本三景勝地を巡ってことになる。  

因みに、日本三景にならって実業之日本社主催による「新日本三景」の選定が行われ、全国投票の結果北海道七飯町の「大沼」、静岡県清水市(現静岡市)の「三保の松原」、大分県中津市の「耶馬渓」が選ばれているという。


林春斎」は、江戸時代前期の儒学者、父はあの林羅山(家康に抜擢され、23歳の若さで家康のブレーンとなる、2代将軍徳川秀忠・家康の三男に講書を行う)で、名は又三郎・春勝、号は鵞峰(がほう)で、父とともに幕府に仕え、幕政に参画していた。 
三代将軍・徳川家光に五経(四書五経:ししょごきょうともいい、儒教の経書の中で特に重要とされる九種の書物の総称)を講義し、訴訟関係や幕府外交の機密にもあずかった。 又、日本史にも通じ、父羅山とともに「本朝通鑑」(江戸幕府により編集された漢文体の歴史書)、「寛永諸家系図伝」など幕府の初期における歴史的書物の編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた人物でもある。


次回は「舞鶴



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01. 15.

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