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2011年11月19日土曜日

日本周遊紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」

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 日本周遊紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」   .



出雲の国とは・・??  、

アマテラスやニニギ、その後の神代三代と天孫降臨の神々については九州南部(宮崎、鹿児島)あたりで概略記載しているが、神代の太祖にあたるのがイザナギ、イザナミである。
この両者から生まれたのがアマテラス、オオヤマズミ、そしてスサノオであって、アマテラスとスサノオは姉と弟の姉弟関係にある。

この弟はかなりの“”(若気の至り・・?)であり、この悪さが極まったのが「天の岩戸」事件であった。 
弟の悪さで業を煮やしたアマテラスが高天原の岩戸に引きこもり、お隠れになってしまい、世の中(高天原も葦原中国も)が真っ暗闇になってしまう事件で発生する。 

この時、アメノウズメが奇態な踊りを見せて、アマテラスを誘き出し一件落着するのだが、この時、アマテラスをはじめ八百万の神々は相談し、スサノオに罪を償うために弁償の品物を科し、高天原から追放したのである。 
追われたスサノオは、葦原中国(本州)の出雲の国へ降りたったとされる。


出雲へ降り立ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣・クサナギノツルギ、都牟刈の大刀:ツムガリノタチとも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる)を天照大神に献上した。 
この時スサノオは、八岐大蛇の餌食になりそうだったクシナダヒメを助け、そして妻として迎える。

そこでスサノオは次の歌を詠んだ。

『 八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 
           八重垣つくる その八重垣を
 』  古事記

(出雲の地に、新妻を迎へ宮を造ろうとすれば、雲の幾重にも立ち上るような、そして八重垣を造るような如しである) 

妻を迎へたことの喜びの歌で、新婚の二人を寿ぐが如くその喜びは幾重にも雲が湧き上がるようである。 その愛でたさは八重垣をなす。 
幸せの気持ちを繰り返す様を「八重垣」に見立てて朗々と歌ひ上げている。 
この歌は日本初の短歌とされている。

この時スサノオは、この国を「八雲立つ出雲」つまり「出雲の国」と定めている。


スサノオの若年における悪行の意味は、「スサ」は神名で”荒れすさぶ”の意として嵐の神暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)、勢いのままに事を行うとする説がある。

スサノオによるヤマタノオロチ退治の英雄伝承物語は、優秀な渡来人を平定して鉄の製法を得た象徴とされ、天叢雲剣の取得はその“”を得た事象であると解釈できる。 
そしてスサノオは、日本で初の和歌を詠んだ神(人物)として文化的な英雄の側面も有し、人間の成長、そして国土の発展が伺えるのである。


スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、クシナダヒメと幸福な結婚生活を送るが、やがて根の国(冥界)に下ってしまう。 
その後、出雲神話の中心人物となるのは大国主;オオクニヌシである。 

オオクニヌシはスサノオの息子とも、数代後の子孫ともされている。(記紀により異なる)
オオクニヌシは国造神のほか、因幡の白ウサギの説話(後述)からわかるように医療の神としての性格もあり、又、邪悪な自然を避けるための「呪術」(まじない)を定めた神でもあり、祭祀王(祟りは大和朝廷の関係ともされる)としての資格をも備えた神、つまり「大国主神」となる。

葦原中国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた。
この時、共に国造りを行ったとされる少名彦神(スクナヒコ)で、農耕神としての性格があるという。

次回は、「神話と史実





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2011年11月18日金曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」    .





出雲大社への拝礼は、希望や願望と同時に、“厄災を起こさずに鎮まってて下さい”という意味でもあるとか・・、

出雲大社の広大な境内(実は、境内そのものは伊勢神宮や宇佐神宮よりかなり小規模)の内、拝殿、本殿などの敷地、つまり銅鳥居の内側を「荒垣内」と称し、本殿周囲の垣を「端垣内」と称している。 

一般参拝人が寄れるのは荒垣内で、八足門の内側・端垣内へは禁足となっている。


境内、特に荒垣内、端垣内には、筑紫社(宗像大社に祀られている神)や御向社(大国主神の嫡后である多紀理比売命・タギリヒメを祀る)など、数社の摂、末社が祭られている。 
その荒垣内摂社の中に素鵞社(そがのやしろ)が本殿の真後北側に、南面つまり本殿同様の向きで鎮座している。 
小社(小さな御社)であるが四方を鬱蒼とした樹木に囲まれ、一段高い位置で神威豊かに祀られている。 
祭神は、有名な素戔鳴尊(スサノオノミコト)である。


スサノオは天照大神(アマテラス)の弟神でもあり、出雲の国に赴いとき八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の神話は周知である。 
オオクニヌシの親神(日本書紀)として、大国主に「国造り」の大任を授けられた出雲の太祖でもある。 
即ち、本殿の真後ろから暖かく大国主を見守られているといった感じなのである。(昔、出雲大社の主祭神とされていた時代もあったという) 

素鵞社は、本殿の後陰になったいるため一般参拝人には気が付きにくいのであるが、ただ、我々参拝者が「拝殿」に頭を下げ、「八足門」に額ずくとき、主神の大国主神には、前述したように横向きのため参拝者の真意が直接伝わらないが、本殿越しに鎮座している「素鵞社」には伝わるのである。 
つまり、われわれが出雲大社に詣でる時、知らずのうちにスサノウをお参りしていることにもなるのである。


ところで、大和系の神社(伊勢神宮や熊野神社など)は「2礼2拍手」で礼拝するが、しかし、出雲系は違って、現在の礼拝は「4礼4拍手又は2礼4拍手」である。 
かっては「16礼16拍手」であったという時期もあり、明治時代になって礼拝方式が簡略化され、今に至っているとのこと。 
多礼多拍手の儀礼は、「祟り封じ」の為に作られた挙礼挙手の方策の一つだったかも知れない。 


神社とは、祭神が祀られているところであり、鎮守の森に囲まれ鎮座している所である。 
又、鎮祭という儀式もあり、諸神を鎮め固めるための祭儀であるとしている。

我々は神社に参拝するとき、いろいろ祈願をする。 
無病息災、家内安全、交通安全、五穀豊穣、安全平和、等々、裏を返せば自然界はままならぬもので、人災、天災、争い事と後を絶たないのである。 

これらを、特に日本人は神の厄災と観るのであって、古代中世の人々は、この傾向が強く、特に神に祈るとき希望や願望は同時に「厄災をおこさずに鎮まってて下さい」という意味としている。

出雲大社は、大和の神々に虐げられ滅ぼされた神なのであり、御神心は怨み1000年の怨念の神なのである。 
それだけに絶対的に鎮座をお願いする神でもあるのである。


神社は定期的に神を祭る儀式、神社の祭りがある。 その中でも重要な要素の一つは、神にお供えものを献じることである。
マツリ(祭)という言葉は、マツル(献)から出たものだといわれている。 

神に神酒・緒食をたてまつることがマツリの原義である。 
日本人の考え方では神は、祭りの機会ごとに祭神が来臨され、祭りが終わると帰っていかれると考えられていた。 

現在でも祭りの基本的儀礼構成は、まず神を迎え、神酒・御食を供えて仕えまつり、願いや感謝の祈りを捧げ、時が来ればお送りするという形をとっている。 

祭礼の日のみ、鎮座している神が天下に降りてこられて俗世と交わり、俗界を伺い、俗民は神の霊力を戴くのである。


次回は、「出雲の国と神話




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2011年11月17日木曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」   、




高層大社
写真:古代・出雲大社の想像図(資料)



大国主が、大和の神へ「国譲り」を行ったとされる真意は・・? 、

出雲大社が最初に創建されたのはいつのことなのか・・?、
その具体的年代を知る事は非常に困難であると言われる。 

出雲國風土記」や「記紀」(古事記、日本書紀)に創建の由緒や社殿の壮大な様がはっきりと記されてはいるが、創建の年代については、神話伝承の時代に溯る故に確定するのは難しいとされる。


出雲大社が神話伝承の時代から、次の歴史的実話に登場するのは、第11代の垂仁天皇の御代であるとされ、在位は紀元前後1世紀とされているので、大社創建はそれ以前ともされている。

この出雲大社の本殿に祭られているのは、ご承知、「大国主神」(オオクニヌシノカミ)である。 
その大国主によって出雲は「国譲り」の地、国譲り伝説の地とされ、出雲大社は国譲りの神・大社とも言われる。 


然らば「国譲り」とは一体何か・・? 。
大国主はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれた。 
それは全てのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。
そして、この国づくりの大業が完成すると、日本民族の大神である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国を譲ったとされている。  


弥生文化の実質的統合者となった大和朝廷(最近は「ヤマト王権」ともいう)は、各地の縄文的な文化の残る部族を制圧して回ったとされている。 
須佐之男命(いろんな書き方がある)にしても、大国主命にしても出雲土俗の統治者、或いは神とされていたものが、無理やり大和朝廷によって統合されたものとされている。
それらの経緯が神話や祭儀となって組み入れられたのが「国譲り」とされた。
ただ、その裏には実は制圧された出雲の怨念がこもっているともいう。 


「国譲り」の真意・・?? 、 
双方の見方を変えてみると国を譲ったのか、或は国を奪われたのかと言う事である。 
記紀に記されているものは、大和朝廷成立後、大和側から書かれたものであり、普通、勝者側からは都合の良いことは書かれ、悪いことは書かれていないのが自然である。 

大和朝廷(天照大神)から見れば、出雲王朝(大国主命)は邪魔な存在であり、大和朝廷による出雲の国の収奪戦が行われたとという見方もある。 
大和朝廷からみれば出雲を奪ったことになるが、出雲王朝からみると国を譲ったことにもなり、記紀には、出雲が大和に穏やかに(・・?)国を譲ったと記されているが、内実は、この時、激しく紛争や騒乱が起き、場合によっては戦乱によって大国主命の殺害などもも考えられる・・?。


古代における陰謀や暗殺、殺害といった事件には、必ずといっていいほど敗者には「祟り」という現象が付き物で、この事は当然ともされた。 
平安初期、菅原道真が宮廷の陰謀によって九州に左遷され、無念のうちに死してから、京では道真の怨霊)などによって大事な災厄を被っている。 
当時の人々に取って「祟り」は日常的であり、祟りほど恐ろしいものはなかったのである。

出雲の国を奪った大和朝廷は、大国主命を神格化して出雲の地に最大の神殿を作り、大国主の祟りを鎮めようとした。 それが「出雲大社」の始まりとも考えられるのである。 
大層な大社造りを見ると大和朝廷がいかに「祟りを恐れた」か分かるともいう・・?。 
又、それは、前述した本殿の神格の配置にも観られことである。



話は些かとぶが・・
信州・諏訪地方に諏訪大社による、ご承知奇祭と言われる「御柱祭」なるものがある。 
御柱祭は寅と申の年に行われる諏訪大社の大祭であり、祭神は「建御名方命」 (タケミナカタノカミ )で、越後出身の神(実は出雲である)であり、武神、農耕神、狩猟神といわれる。 
古事記では、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、更に追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
祭神・建御名方命は、越後の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と出雲の八千矛神(大国主命)の息子である。

ある時、建御名方命は出雲へ渡ったものの、高天原の神々(武甕雷男神:タケミカズチ、鹿島神宮、春日大社祭神)と、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれていると。 
これは記紀つまり、記紀の編纂は高天原(大和朝廷)サイドからの捏造された見方であって、出雲サイドから見れば出雲族は堂々と戦い、そして無念ながら敗れ去った。 
その時に、からくも大国主命の息子は母方の実家の越後え逃げ、その後、諏訪に入ったのであり、建御名方命は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ諏訪大社に祀られているとするものである。

建御名方命は大国主命の息子ということで、神々が出雲大社に集まる神無月にも出雲へは行くことができず、諏訪大明神が出雲へ行かないという話は出雲だけでなく、諏訪地方でも承知している話である。

御柱祭りの行事は社殿の造営行事と御柱曳建行事とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。 
祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。

この四本の柱とは何を意味するのであろうか。 
これら柱祭の起源には柱が神の依代(よりしろ)であり、四本の柱が宮殿を表すとされて柱を七年ごとに新規に取り替えた名残り、つまり、「遷宮」とういう名残ではないかという諸説もある。


更に、ここでは出雲大社の本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?、
四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 

諏訪大社は上下あわせて四社(上下2社ずつ)ある。 
出雲本社の本殿の高さは、当初は96m、あるいは48mもあったとされているが、このことは先に記した。 

本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物には当然、巨大な芯柱や大柱が必要である。 
又、大柱は切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。 

諏訪大社では、本家、出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも想像できるのである。

大和側から見れば、出雲はやはり恐ろしくも偉大な神であった。
これだけに本殿を高くするという意味合いは、御霊を天上に追いやって天下に下りて来難くすることで、祟りや呪いを出来るだけ遠ざける事だったのかもしれないのである。


御柱祭」が行われる前年、北安曇郡小谷村(信越国境)の二つの諏訪神社で交互に行われる、社前の杉の大木に木づちで薙鎌(なぎがま)を打ちつけるという、珍妙な祀り行事がある。 
「薙鎌」とは諏訪大社の御神体ともいわれるもので、この時期にこの地で行われる神事の意味するものは何であるのか・・?。 


建御名方命が高天原の神との戦い(国譲り)に破れて越後の地に逃げ、追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
この薙鎌は大和の神が「許してやるから、ここからは出るなよ・・! 」という印とも言われている。 

一方で、出雲の国で須佐之男命が殺したとされる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたのが草薙剣で「三種の神器」の一つとされる。 
その薙鎌は、その草薙剣を模写したもので、この剣を出雲王家の怨念を柱に打ちつけ、天下の末代まで呪柱、忌柱として祀る印ともいわれる。 

引き続き、出雲大社・「拝礼の意義





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2011年11月16日水曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「御本殿」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「御本殿」    ,






資料:出雲大社の銅鳥居内の神殿配列(左下より拝殿、八足門、楼門 御本殿の各神殿)



写真:出雲大社・本殿(資料)



本殿内部の祭神配列の異様さ・・? 、

その奥の高床の最上位にある神殿、つまり大社造りの御本殿に御神体が鎮座している。
本殿建物は、所謂、切妻様式の“大社造り”と言われるもので、神殿口は切妻の妻入部(対して平入)になっている。 

こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造(伊勢神宮など)は、穀物を収蔵する「」の形式を踏むものとして、性格を異にする神社形式であるという。 

その起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて春日造や八幡造、さらには権現造等々となって変遷していったといわれる。


その本殿の屋根には鰹木(かつおぎ)と、破風部に雲を分け、天を指すといわれる千木(ちぎ)が配してある。 
千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性ということを表している。因みに、伊勢神宮はアマテラスで女性の神であり、内宮・正殿の千木の先端切込みは水平になっている。


現在の本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さであるという。(現存神社の最高の高さ) 
ところがこの本殿は昔に遡ぼれば48メートル、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったともされている。

普通、建物は小さいものから大なるものへと時代とともに推移し発達を見せるが、大社の古式からの伝達はこの逆だというのである。 
背後に聳える秀麗な八雲山は、嘗ては大社の神体山であり、神体に近ずこうとすれば、この三十二丈説も頷けるのである。


2000年に周辺の調査発掘が行われ、境内から巨大な柱(1本の径約1.4mの柱が3本束ねたもの)が発掘され、伝承と考え方を合わせると48メートル前後あった可能性が高いという。 
48メートルは現本殿の二倍、現代のビル14階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46メートル)を超えるという。

平安時代の「口遊」(この時代の子ども達が文字をならう教科書のひとつ)という書物に書かれた内容の1つに、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、「一番が出雲大社、二番が東大寺大仏殿、三番が京の太極殿」を意味しているといい、その巨大性を示す有力な証しとなってる。 

ただ、出雲大社の場合は高床式が超高床であって、即ちその本殿へ誘う階段がまた長大であったという。 だが本殿そのものの建物(建屋)は現在の大きさか、やや小振りであったとされる・・?。
いずれにしても大社は、大社(おおやしろ)であったことは確かなようである。


ここで、(ヤシロ)と(ミヤ)の概念について。 
シロという言葉は、当然、城ではなく“代”である。 
代はタシロ(田代)、ナエシロ(苗代)、アジロ(網代)の如く示された場所を表す。 
つまりヤシロとは社であって聖域を指している。
又、屋代(ヤ・シロ)は宮のことで、社の一角に臨時に屋根をしつらえて神事を行う場所のこと、つまり神仙(神様)の住居としてのミヤ(御屋・宮)のことで、本宮とか本殿とも呼ばれる。 

出雲大社はその起源からして祭神:オオクニヌシの御坐したところ、即ち、神の宮であり、神宮本殿・なのである。
その出雲の宮社(本殿)が余りに巨大であったので、いつしか“おおやしろ”、大社、出雲大社になったのである



出雲大社御本殿内部の祭神(御神体)配列について・・、



写真:本殿内部、御神体の配列と向き(主神が正面でなく西向きの謎・・?)


出雲大社にはいろいろ不思議な事柄があるという。
その内の筆頭に本殿内部の御神座の位置、配列が“奇妙”であるとされている。 
御神体・大国主命の神座が西向きで、参拝者から見ると横向き(そっぽ向き)になっているという。

大社造りの特徴は妻側から拝む形式になっているが、神殿内部の平座ではご神体・大国主命の他に、大和の五神が祀ってある。 
その配置の正方形の平座には左方奥隅に大和五神が正面に正対して鎮座し、右方奥隅に大国主が左方(西方)を見る形、つまり正面からは横向きになり、五神にお伺いをたてている、といった構図になっているのである。 

しかも、大国主が正面から直接見えぬように、中心に柱(「心御柱」といい、この柱が所謂、大黒柱の謂れであるとされる)を置いて目隠しのカーテンを施してあるという。 
従って、我等の出雲の神への礼拝は、傍に控える大和の五神に向かって拝礼している形になる。
つまり、いかなる願いも大和の五神がチェックを入れてから大国主に取次ぐという形になっているのというのである。 

要するに、我々参拝者と大国主神とは直接接触を絶っているのであり、このことは大和五神が大国主を見張っているともいえる。
このことは大和神(天孫神)の意に反して、主神が「祟り」を起こすための「行い」を監視しているともとれるのである。
このことは、神話における大国主が大和神へ「国譲り」を行った結果、その構図が現れているとも観れるのである。(「国譲り」については次回後述)


以上は、御神座が西向きであることの一つの説話であるが、その理由については他にも諸説あるという。
先ず、古代の住宅様式における居住まいは、入口部と最上席との位置、配置関係は御本殿のそれと一致するという。(現在でも通じる)
出雲大社は古代住宅から成り立った神社であるから、御神座も古来の風習のまま設けられたものであるとする。

又、古代では西の彼方には「常世(とこよ)の国」(霊魂が鎮まるところ)があると信じられていた。
そして出雲大社のすぐ西には「国譲り神話」の舞台として有名な「稲佐の浜」があり、又古代の出雲大社の社殿は直接海に接していたともされている。
大国主命は海の彼方(西方)から来た霊威としての性格をも持ち、そのため御神体は西の方向へ敬意を表して座してともいう。 
現に出雲大社は、海とのつながりを色濃く持つ神事があるという。

いずれにしても、御神座の横向き(西向き)の謎は、出雲大社創建時の様子が隠されているのかもしれない。


御本殿天井の雲の絵について・・、
御本殿の天井には雲の絵が描かれているという。 
上段の天井には二雲、下段の天井には五雲の計七雲であり、普通の雲の絵とは少し趣の違った形に描かれている。 
出雲の地と雲と聞いて連想するのは、やはり素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の須賀に宮を造り鎮まられる時に詠まれたとされる。

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 
            八重垣作る 其の八重垣を
 』

という歌であろう。
素戔嗚尊は大国主命の御父神でもあり、御本殿の雲の絵も素戔嗚尊と社の後方に聳える八雲山との縁により描かれているとされる。
だが、「八雲立つ・・、」の縁ならば、何故七雲しか描かれていないのか・・?、という疑問である。 
このことも、「国譲り」伝説の影響による出雲大社創建の謎とされ、素戔嗚尊の歌と絡めて疑問視されてきているという。


次回は、「国譲り




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2011年11月15日火曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」   、




出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿



写真:出雲大社・拝殿



早朝から一心不乱に巡拝する一女性(八足門拝所)





出雲大社での参拝は四礼四拍手一礼が基本で、四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通ずるという・・、

出雲大社の拝殿、本殿に向かうには、本来は、松の参道から本殿境内とされる銅鳥居から入殿し、拝殿へ向かうのが本筋である。 
小生の場合、いきなり神楽殿の前へ来てしまったので、これより通じている横参道より直ぐに、本殿境内の拝殿に立ってしまった。

拝殿は本殿の手前にあり、総ケヤキの切り妻風・「大社造り」といい、珍しく妻入り部分(妻の方に入口を設けて、これを正面とする様式)が拝所になっていて、上部に神楽殿に次ぐ大きさの注連縄が下がる。 
早朝、全く静かな雰囲気で神妙なるお参りが出来、ホッとする。 


出雲大社での参拝は、四礼四拍手一礼が基本で、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけらしく、その起源は分かっていないという。 
四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通じているともいい、又、賽銭も“しじゅう御縁”が有りますようにとの意で、「45円」が妥当との事らしい。 
御縁は“男女の縁結び”も合わせて、四拍手つまり“幸せ”に巡り合いますよう祈願するものという。

因みに、お膝元の島根県の離婚率は日本一低いらしく、これも地元の人は出雲大社のご利益としていて、やはりというか「縁結びの神様」なのであり、「縁を離さない神様」なのである



拝殿奥の本殿・拝所においても四礼四拍手一礼を行う。

気が付くと、一人の女性が真剣に拝礼している姿があった、未だうら若き女性である。 
早朝の静寂の中、手持ちの物も無く、拝殿、そして本殿・拝所(八足門)と正規の石畳の通路を往来しながら一心不乱にお参りしているのである。
「お百度参り」であろう・・!。 

拝礼参拝は、先祖の供養、自分と家族の健康、平安、無事など、心に思い願い事すべてに功徳があり、又、自分の反省、懺悔にて心身が洗われることをより強く祈願することだという。
 この女性には如何なる願いがあるのやら、神仏に百回(数多くという意味もある)お参りする行為に見とれながら、満願成就することを願うのみである。


更なる御神域に囲まれた、本殿・拝所は一段高いところに本社(ほんやしろ)がある。 その至近正面にあるのが「八足門」といって、一般の参拝はここまでである。 
本殿と八足門との間にあるのが本殿・楼門で、この門は二階づくりになっており、階段の一番上(15段目)、つまり二階の部分が本殿の床のと同じ高さになっているという。
 尚、階段の下の部分を「浜床」といい、昔は浜の近くに本殿が建てられていたらしく、この名前がついたともいう。

次回は、「大社・本殿






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2011年11月14日月曜日

日本周遊紀行(182)出雲 「日本人と藁」

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 日本周遊紀行(182)出雲 「日本人と藁」   、




引き続き、注連縄に絡んだ「藁」(わら)について・・、

序ながら、昨今、都会では「」を見かけなくなったが、それでもお正月になると注連飾りなどで、藁に接する機会がある。 

注連縄を作るために、農家では秋の収穫の時に茎の長い青い藁を蓄えておくという。 
藁(わら)とは稲の米をとったあとに残る葉や茎の部分の乾燥したものを言い、古来より、藁は日本人の衣食住の全てを、その温もりで包んできた。 

その水田や藁葺(わらぶき)屋根は、安らぎを感じる日本の原風景でもあろう。 
藁葺屋根をはじめとして、日本全土で受け継がれてきた藁細工には草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、俵(たわら)、蓑(みの)、雪長靴 お櫃(ひつ)などの各種保温材、そして藁人形など様々な種類があり、それらは地域によっても形が異なるが。


鰹(かつお)どころ土佐では、タタキ造りに [藁焼き] が一番とされ、藁は火力が強く、しかも藁の燃える時の香りはより一層、鰹の風味を引き立たるという。

藁は筒状で中が空洞になっているので燃え易く、藁の強い炎は鮮度のよさを示す「鰹の肉色」を損なう事無く、表面のみを瞬時に焼き上げ、藁が燃える時に発する「けむり」や「におい」には、魚の脂の酸化を防止し、尚且つ、殺菌効果のある成分「フェノール類」が含まれているという。 

又、茹でた大豆を藁づとに包み、藁についている納豆菌で自然発酵させたものが納豆である。 
最近でも季節になると報じられて見られるのが、風物詩ともいえる金沢・「兼六園」の藁縄による雪釣りの風景である。 
芯柱と呼ばれる棒を立てて、縄を渡す「りんご吊り」というらしい、芯柱は高いもので16mにも及ぶと言う。


藁は、我々現代人が考えている以上に強いといい、湿れば伸び、乾くと縮む性質がある。 
この性質を上手に利用したのが藁で編んだ「」である、縄で物を縛る時(祭屋台など・・)、湿らして縛ると後に乾く時にきつく締まるのである。 

藁といえば幼少だった頃、故郷田舎で牛舎の藁小屋で、藁まみれになって遊んだのを思い出す。
日本人と藁は、今でも切っても切れない関係に有るのである。


藁は単に米をとった後の残り物などではない・・、! 
燃料であり、様々な生活の道具を作る素材であり、新たに息を吹き込まれるべきものである。 
今、日本人の生活からどんどん失われようとしているものが多数あるようで、藁文化もその一つであろう。 
先人達の暮らしを知って、それらを残し、更に回帰・復古的にも行使、実施してゆくことは、環境問題にも一役かうかもしれない。

最近では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にあるという。
特に、或る研究機関は「バイオマスエタノール」(バイオマスとは生物から発生できるエネルギー量で、これをエタノールに変換し、内燃機関の燃料としての利用)の製造実験も発表されている


ところで、都会では米が白い状態のまま田んぼに出来ると思っている子供達がいるという。
そして、米のとぎ方も知らない若い母親もいるという。
冗談のようで何とも切なく悲しいな話である。 

故郷は遠きにありて思うもの」も結構だが、米のできる日本の田舎、田園、故郷、古里をもっと知らなければならない。


次回は、「出雲大社・社殿




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2011年11月13日日曜日

日本周遊紀行(182)出雲 「出雲大社」

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 日本周遊紀行(182)出雲 「出雲大社」   、




写真:出雲大社の神楽殿を飾る日本一の「大注連縄」



先ず、出雲大社の日本一の大注連縄について・・、

午前6時を回った頃の早朝、国道9から国道431にて大社方面へ向かった。
国道は、それなりであったが大社の町は未だ朝の静けさの中であった。 

歴史を感じる古い家並みへ入ると、国道は急に狭くなってきて、老舗とおぼしき旅館なども目に入る。 右横に大きな駐車場があったが、早朝であまり人の気配が無いので、おもいっきり車を奥まで進めてみた。

左に祖霊社(信徒祖霊を祀る、法事なども行う仏寺院のようなもの・・?)と言われる社宮の参道が延びていて、右側には大社殿に一番近いと思われる門前横丁の商店街が並んでいる。 広い通りのお土産物商店街は、無論未だシャッターが下りていて、こちらの外れの方に車を置かせてもらった。


この辺りは大社本殿の西側に位置しているようで、正面にはすでに「神楽殿」の一際大きな社殿が鎮座している。 
表面には出雲大社特有の大きな注連縄(しめなわ)が配されて人目をひく。 

長さ13メートル、胴回り9メートル、重さは3トンにもなるという圧倒的な量感に驚かされる。 この大注連縄は、「国引き神話」の出雲を象徴しているともいう。(国引き神話については後述)

下向きの三個の末広がりの注連下がりには、よく見ると、あちこちに硬貨が突き刺さっている、誰が言い出したのか、うまく刺さると願い事が叶うと言われるが・・?。

神楽殿は本殿と同じように朝夕のお祭りの他、時に応じて御神楽や御祈祷が奉仕される。
全国には出雲大社の分社、支社、講社や教会が各所にあるが、それらに属する人々が揃って本社へお参りすることを「おくにがえり」と言い、ここ神楽殿でそのお祭りが奉仕されているという。 

出雲では祭事を行い献納することを「奉仕」と称しているらしく、祭事は8月6日~10日、「おくにがえり」の神事として執り行われるという。



「注連飾り」について・・

出雲大社・神楽殿の大注連縄(おおしめなわ)は日本一の大きさを誇るという。 
その長さといい、重量といい他の神社を圧倒しているが、その何よりの違いは、撚り(ねじり)が左綯い(ひだりない)となっているのが特徴であり、出雲地方の神社は概ねそうらしい。 

この注連縄とは、〆縄とか七五三縄の字も当てられ、又、「注連飾り」とも呼ばれている。 
注連縄は神聖な場所を意味するもので、俗的な世界と神聖な世界とを区別する結界の意味もあり、日本神話の天の岩戸に張った「しめくりなわ」が元祖とされている。

その起源は古事記に、「天照大神が須佐之男命の乱暴を畏れ天の岩戸に隠れた時、この岩戸の前で天宇受売命(アメノウヅメノミコト)らの神々が賑やかな宴を催した。 これを怪しんだ天照大神が覗いたところ、傍に隠れていた天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)がその手をとり天の岩戸から引き出だした。 そして、布刀玉命(アメノフトダマノミコト)が尻久米縄(しりくめなわ・しりくべなわ)をその後ろへ張り渡し『ここより内に戻れませぬぞ』と告げた」と書かれている。


注連」をなぜシメと読むのか・・?、
中国では、人が死んで魂が外に出たとき、戻らないように水を注いで清め、縄を連ねることを注連(ちゅうれん)といい、その縄を注連縄と読んでいたらしい。 
日本神話における「しりくめなわ」が、中国での意味の「しめくりなわ」の意味となり新たな語彙が生じたのかもしれない。


又、注連縄の別の意味合いでは、古神道でいう大自然そのものを現しているという。
大自然そのものの中心になるのが太陽であり、天である、その自然現象を表したのが「注連縄」であるという。  

横に張られた縄の部分が「」、垂れた縄が「」、神垂(紙垂)が「」とされ、その奥にくるのが神様()となり、総じて自然現象を象徴しているといわれる。 
この注連縄を祭りや祭事に付けることにより五穀豊穣に感謝する春、秋祭りの意味を持つことになる。

又、注連縄には清浄・神聖な場所を区画するための境界線としても引き渡される。 
従って神社のみならず、巨大な岩や樹木、清浄な井戸、瀧(滝)、寺院などにも掲げてることろをよく見かける。 
正月、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、上述の意義により家の中に悪霊を入れず、穢れ(けがれ)を去り、無病息災・家内安全を願ってのことである。 

相撲の「横綱」は土俵入りの際、紙垂のついた注連縄を化粧まわしの上につける。 
相撲界では横綱が最上位であり、穢れてはいけない神に近い存在ともされている所以である。


注連縄は、左捻り(ひだりより)を定式として三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙垂(かみしで)を一般には4本下げる。 
紙垂は、御幣(ごへい)、幣束(へいそく)ともいい、ご神体(神様)を魔神、魔物から守る力があるという。

因みに、数本の藁(ひもや糸も同様)などを、より合わせて1本にするこのを捻る(よる・撚る)といい、普通、捻りと綯い(ない)は逆になる。

注連飾りには「大根締め」、「ゴボウ締め」、「輪飾り」など色々な種類の形式があるが、最も一般的な大根締めは両端がつぼまり中心部が太くなる形、そして、ゴボウ締めは片側が細太となり、一般に左側が細く右側が太くなるとされる。


又、古代、注連縄の材料である藁自体にも神が宿るといわれ、幸運を呼ぶ力があると信じられている。 
藁は神に奉げる米、稲穂を支えている芯でもあるからである。 

正月には、この藁で注連縄を飾り、小正月や孟蘭盆には藁火を焚いて先祖の霊を迎える。 
正月の注連縄は、その家が神の家であることを示し、注連縄のシメはそこを占める、占有するといった意味で、占有するのは神である。 

建物を建てる時の地鎮祭でも注連縄が張られるが、この地を神が占有し魔物を遠ざけることで、その建物も守られるという考えからきている。

次回は、「」についての考察





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01. 15.

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