google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-11-06

2011年11月12日土曜日

日本周遊紀行(181)湖陵 「グリーンピア」

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 日本周遊紀行(181)湖陵 「グリーンピア」   、



温泉津から大田までは前項の「世界遺産・石見銀山遺跡」という内容で記載してます。

名称・世界遺産・「石見銀山遺跡」 
URL: :http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-1330.html




国民年金保養センター・湖陵荘  、


神西湖からの湖陵荘



「グリーンピアとは」、大規模年金保養基地のことで、リゾートホテルとしての性格を持つが・・、

銀山跡の大森地区を後にして、銀山川に沿って大田市(おおだし)に至る。 
相変わらずの赤屋根と近代ビルが渾然とした静かな町並みである。 

この地域は石見文化と出雲文化が混在する文化の共有性を持ち、中世から近世にかけて石見銀山の盛衰に大きな影響を受けた地域でもある。


9号線から海岸へ出た辺りの高台に「手引ヶ浦台場公園」という休憩所があって、異相なのが海に向かって大砲が一門据え付けてあった。 
木製の開示版によると、幕末の頃、松江藩は外国船に備え海辺の要地に唐船番という兵団を置いて監視を行っていたという。

その要因の一つとして、1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航、そして翌月にはロシアの軍艦が長崎に入港して通商を求めてきたこともあり、幕府は急遽兵備を整え、海防をかためるよう各藩に指令を出した。 

その時期、当地では田儀湾の東、この手引ヶ浦の高台(現在の場所は新宮氏宅敷地)と湾口に台場(砲台)を築いて大砲を其々三門ずつ配備し守備したという。 だが、実際、使用される機会はなかったという。


島根路を国道9号をさらに西へ走ると、北欧風の外観をした道の駅「キララ多伎」があり、すぐ下には、視界いっぱいに広がるマリンブルーの世界が広がっている。 
珍しい建物なのでカメラに収めて先を急いだ。


湖陵町に入って間もなく、美しい神西湖(出雲大社の西の意味・・?)が現れ、この湖に沿った近くに先刻、予約しておいた「年金保養センター・湖陵荘」に到達した。 
神西湖は出雲市と湖陵町にまたがって位置している汽水湖で、ヨシやアシなどに囲まれた湖岸の景観は穏やかである。 
古くから魚貝類が豊富で、ヤマトシジミやウナギが名産であり、野鳥の宝庫としても有名であるとのこと。 

湖の西側には温泉も在り、「湖陵温泉」といって近年発見された良質の天然温泉が地下1100mから湧き出しているという。
こんな温泉の湧き出る風光明媚な湖畔に、ひと際目をひく近代的な白色基調のセンターが、グリーンピア・「国民年金保養センター・湖陵荘」である。


因みに「グリーンピア」というのは、厚生年金保険及び国民年金等の受給者が、有意義な老後生活を送るための場所を提供するもので、そのための有効な余暇利用を目的として設置したものである。 

しかし、昨今、社会保険庁などによる保険料流用や計画性のない無駄な資金を投入して建設されたことが問題になり、しかも、これらの保養所が大赤字で自治体へ超安値で売却する騒ぎまでおきている。 

それでなくともとかく問題の多い社会保険庁の評判は悪く、何れ近い将来、このような保養所は消えて無くなるという不安もあった。 
現に、特殊法人の合理化計画(閣議決定)において、「2005年度までに廃止、特に赤字施設についてはできるだけ早期に廃止する」と決定されたようである。


到着するなり何はともあれ温泉である、展望のよい、明るい大浴場へ駆け込む。 
何時ものことであるが、温泉の大きな湯船に首までドップリ浸かっていると、今日一日の緊張した疲れがスーと抜けていくようである。 

風呂を満たす湯は美肌に効くアルカリ泉だというが、そのわりにサラサラしてて気持ちが良い。 
窓から覗える神西湖の面は鏡の様に静まり返っている、その向こうに「出雲大社」が鎮座しているのであるが。
10km足らずの近距離なので、お天気によっては明日早朝お参りする予定である。




翌朝は、豪奢な部屋とフワフワした羽毛布団の中で目が覚めた。
朝日が神西湖にも反射して、カーテン越しにウッスラと入り込んでいる。 
それにつられる様に窓を開けて朝の新鮮な空気を取り入れる、相変わらず今日も天気は良さそうである。
今朝は、いつもの朝食は勿論、恒例の朝風呂も省略して、先ずは「出雲大社」へ出掛けた。


次回は、「出雲大社





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2011年11月11日金曜日

日本周遊紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)

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 日本周遊紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)  .





大森代官所跡近くにある「井戸平左衛門正明」を祀る井戸神社





序ながら、「いも代官」と言われた大森代官の逸話を一つ

石見銀山」の代官所は大森町に設けられ、幕末まで59人の奉行・代官が交代で赴任したという。
無論、当地の代官は銀山は勿論、同時に村方の支配をも行っていたとされる。


1731年(享保16年)、大岡忠相(ただすけ:越前守)の推挙により、第19代代官に「井戸平左衛門正明」(いどへいざえもんまさあきら)が任ぜられた。 
彼は、60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、銀山奉行のかたわら、領民から「いも代官」として慕われたという。 

その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(カライモ:さつまいも)を導入し、普及させたとされ。 
又、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、更に、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免したという。


普通、代官といえば私服を肥やし、領民を苦しめる悪代官のイメージがあるが、こちらは善政の見本の如くの人物である。 
しかし、これらの所業は幕府の知られるところとなり、1733年、平左衛門は大森代官の職を解かれ、備中国・笠岡(現在の岡山県)の陣屋(代官の居所)に謹慎を命じられた。 

平左衛門は幕府の正式な処分がくだる前に、自らの責任をとって腹を切り、62歳の生涯を終えたと云われている。 
井戸平左衛門を祀った「井戸神社」が大森町に鎮座している。


境内の顕彰碑には・・・、
『 時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。 』

平左衛門の死後、彼の功績をたたえる頌徳碑は490ヵ所にも及んでいるといわれ、島根県の外に鳥取県や広島県にも建てられていりという。




引き続き近世の「石見銀山史」であるが・・、

幕末の1866年(慶応2年)6月、第二次長州戦争において幕府は石見国に近隣藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)隊の進発を食い止めることができず、その1ヶ月後、浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出し落城している。

これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に、家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。


以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方(大森本陣)によって支配されることとなり、1868年(慶応4年)1月に長州藩預地となった後、1869年(明治2年)8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。
この後、石見銀山は大正末期の頃には産出微小となり閉山している。 


こうして鉱山としての生命は途絶えたが、日本の鉱業の先駆的役割を果たした石見銀山の産業遺跡としての価値は高く、遺跡の保存・整備が進められてきた。

昭和44年(1969)、代官所跡・要害山・山吹城跡、各所の間歩、それに各所の墓・霊所・神社、大久保長安墓が国指定史跡となり、その他、県指定・市指定遺跡が多数存在する。 

又、大森代官所跡に「石見銀山資料館」を開館し、「熊谷家住宅」等が重要文化財に指定され、現存の大森集落が、町並みの「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

そして、2005年9月、政府は世界遺産に推薦することを正式に決定している。


世界遺産の産業遺産としてはアジアでは皆無で、鉱山遺跡は、欧州や中南米にあるが、18世紀以前の所謂、産業革命前の鉱山遺跡としては「石見銀山跡」は稀有の遺産といえるのである。  

尚、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。



【付記】  .

世界遺産に指定された大森地区は山間の狭い地域のために、観光目当ての自動車等が通るスペースが無く、「パーク&ライド方式」がとられている。
パーク&ライド方式とは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自動車等を郊外の駐車場に停車させ、そこから公共交通の鉄道や路線バスなどに乗り換えて目的地に行く方法である。 こちらでは、石見銀山駐車場に車を止め、ここからバスを利用して各要所に移動することになる。
因みに、2007年(平成19年)7月の世界遺産登録後、来訪者が急増し、8月は1カ月間で63625人が来場し、又、今年(2008年)は11月21日現在で、昨年の3~4倍となる32万7533人が訪れたという。(協会発表)

本稿で、世界遺産・「石見銀山」は終了いたしました。 

関係書物は下記アマゾン検索・「石見銀山」
「世界遺産石見銀山を歩く」 穂坂 豊
「石見銀山 四季 暮らし ものづくり」 いなとみ のえ
「石見銀山 (別冊太陽)」江田 修司 田中 琢
「出雲と石見銀山街道 (街道の日本史)」 道重 哲男 相良 英輔
「石見銀山を歩く」―ガイドブック
「江戸幕府石見銀山史料 (1978年)」 村上 直
「石見銀山の港町温泉津紀行」 伊藤 ユキ子

  
次回からは再び日本周遊を辿ります。 先ず、湖陵から出雲大社




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2011年11月10日木曜日

日本周遊紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」

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 日本周遊紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」   .



「石見銀山」が、何時、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないという。
ただ、「銀山旧記」という説話古文書にはは以下のように記されているという。

『 室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋氏が3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った・・』 とある。


日本を代表される銀山として知られる石見銀山は14世紀には発見されたと伝えられ、その後、本格的な開発は貿易商人・神谷寿禎 ( かみやじゅてい )氏によってなされていたという。 

寿禎は先ず、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功する。
さらに天文2年(1533年)には「灰吹法」(金や銀を鉱石などからいったん溶融鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する精錬法)と呼ばれる精錬方法を導入し、大量の銀を生産するようになったといわれる。 

寿禎の開発後、銀山の位置する石見国周辺では山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。 
とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は、毛利氏と尼子氏の争いとなり、結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定し、銀山と温泉津を直轄地とした。

その後、天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の一大名として中国地方を知行し、採掘した銀は豊臣氏へ納めることになる。 
以降、慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで豊臣、毛利氏の支配が続くことになり、秀吉が朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる「石州銀」が今も現存するという。


次に、関が原の戦いに勝った徳川家康は、その僅か10日後には石見地方を直轄化(天領)している。
慶長5年(1600)11月、家康の重臣・大久保長安が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のあった大久保石見守長安が初代の奉行となった。
この時期、銀は海路運行から、より安全な陸路を通ることになり、その尾道までの陸上搬送においては製品管理を徹底したという。 

石見銀山街道の主要路となった「尾道ルート」は、近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道で、現在の石見街道とは異なり地名で言えば邑智町(おおちちょう)、赤来町、広島県布野町から三次市に至り、出雲街道の吉舎町(きさちょう)、世羅町を経て尾道に達している。

天領である大森銀山で産出された銀は、陸路の難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。


以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領として支配され、全国の天領に代官所が設けられたのと同様に、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたっていた。 
徳川天下において全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握が重要な政策の一つであり、「石見」の場合の所領は、銀山を中心とする約5万石相当で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。


先に記したが、石見銀山の様子を記したものに「銀山旧記」というのがある。
この「銀山旧記」は現在、「生野書院」(生野史料館;朝来市生野町口銀谷)に展示してあるという。
生野は「生野銀山」として石見銀山同様、大量の国内銀産出地として有名。



ただ、「銀山旧記」といっても、一様のものでなく数種あったとされているが、その中に、馬路町の「波積屋広平」という人物によって作成された「銀山記」なるものもある。 
本は、必ずしも状況を詳細に記した教書、史書ではなく、江戸期に流行した写本(手で書き記した書物、写は書き記すという意味)や一般の読み物として流布したものとされている。 

時代が下って銀山が衰退する中、山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」を編纂して幕府への貢献をアピールすることも行われたという。 
従って、誇張した表記も多く、真実性にはやや乏しいともいわれる。

その一つの「銀山旧記」によれば、この頃、安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3600貫(13,500kg)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜ったとある。 又、この頃の様子を「慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数20万人、一日米穀を費やす事1500石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り」と記している。 

如何にも大袈裟に、誇張されて記されているが、ともあれ、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったことは確かであろう。



一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算がある

16世紀後半から17世紀前半の石見銀の最盛期における産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1が日本の銀が占めていたといわれる。(世界生産量の平均は年間200トン程度)  

そして、その石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていたことは、戦国時代後期のポルトガル人によって石見が「銀鉱山王国」と照会されたことでも判る。 

石見銀山は灰吹法の導入からわずか35年後にして、その存在がヨーロッパに伝えられ、石見銀をはじめとする日本の銀が大量に海外へ運ばれていたのである。 


石見銀山の最盛期の頃は世界史でいう大航海時代にも当たり、西洋では日本とも交流をもったポルトガルやスペインを中心とした航海時代に突入した時代でもあった。 

海上交通や貿易などで人々が地球規模で交わり始めていた中、貨幣価値は世界的にも「」とされていた時代である。 

日本に伝わったとされる「ポルトガルよりの鉄砲伝来」や「スペイン人のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教活動」(いずれも16世紀頃)などにおいて、彼らの本来の目的は日本の「」にあったともいわれている。


石見が引き金になった日本の銀生産は、単に国外に銀を流出させただけではなく、人々の往来により、海外から新しい技術や産業などを含め、驚くほど多様な情報や文物が伝わり、当時の庶民生活を豊かにしたともいわれる。


次回は、引き続き「銀山史




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01. 15.

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