2011年11月4日金曜日

日本周遊紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」

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 日本周遊紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」  .




石見銀山の尾道銀山道
( このMAPは、筆者・西国君から拝借したものです。
詳細URL; http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/49iwami-ginzan.html ) 



龍源寺間歩より先は、車では行けず山道となる。 

先にも記したが、この山道こそ石見銀山と温泉津を結ぶ、所謂「銀山街道・温泉津・沖泊道」であり、街道の中でも最重要の銀山ルーとで、しかも一番の難所と言われている。 

降路坂」と呼ばれる頂上部には「妙法蓮華経」という名号が彫られた石塔や石碑などが各所にあり、約1時間で麓の西山部落へ達する。
現在は「中国自然歩道」となって整備されている。

沖泊道は、主に16世紀後半の毛利氏の時代、約40年間にわたり銀の輸送や石見銀山への物資補給、軍事基地としても機能した港である。

沖泊道よりの北側、大森町の西側に「鞆ヶ浦道」が山間を貫いている。
沖泊道より更に古く、16世紀前半から中頃の大内氏の時代、銀鉱石を鞆ヶ浦から博多に積み出した港である。

二つの街道には、通行を容易にするための道普請の跡がよく残っているという。
道中には運搬に関係した伝承の地跡、通行者や周辺住民が通行安全や病気平癒を祈った信仰関連の石碑・石仏などが多数点在して残っている。



当初、銀の搬出は日本海側の温泉津港を使用し、海路により輸送されていたらしいが,海上輸送は危険を伴うため、江戸時代には陸路を通じ、今の広島県尾道へ運ぶルートが整備された。

慶長5年(1600年)9月、関ケ原の戦いが終わると石見銀山は徳川幕府の支配下に入り、初代の銀山奉行として大久保十兵衛長安(石見守長安)を重用し、積極的に開発をすすめた。
長安は、慶長中期(1608年ごろ)以後、銀の輸送は海上輸送から陸路輸送に切り替え、新たに広島県尾道までを結ぶ銀山街道を整備した。

近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道は、天領である大森銀山で産出された銀を山陽の港町・尾道まで運ぶために設けられた街道で、難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。 
尚、この街道は江戸時代には出雲大社道としても往来があったようで、大いに盛んであったという。

大森を出発した銀は、荻原から険しい「やなしお道」(現在の国道357号線の南側、中国自然歩道;平成8年に文化庁の「歴史の道百選」)を抜けて粕淵、九日市、酒谷を経て赤名峠を越え、広島・安芸に入って三次、甲山から尾道まで運ばれた後、瀬戸内海路で大坂や京の「銀座」に集められたという。

この道中、「」の集積中継地として安芸・上下町(じょうげちょう;現、府中市上下町)に代官所が置かれ、幕府直轄の天領として政治的にも経済的にもこの地域の中心となっていた。
陸路の終着である尾道をはじめ豊かな商人が多かったこの宿場町は、現在でも商店街を中心に賑わいを見せており、奥行きの深い白壁の町屋など、文化財的建物が数多く残っている。


尚、大森銀山する生産する精錬された「灰吹銀」は、その都度代官所脇の御銀蔵に貯蔵され、百姓が動員されやすい農閑期に入った時期を見計らって年1回尾道に運ばれた。
尾道からは船で瀬戸内海を通って大阪に運ばれ、大阪銀座か大阪御銀蔵に一旦納められた後、京都の銀座に移され、そこで幕府が発行する銀貨に鋳造されたという。


次回は、 「銀山の歴史






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2011年11月3日木曜日

日本周遊紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」

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 日本周遊紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」   .






石見銀山の守神・「佐比売山神社」




写真:石見銀山遺跡・「龍源寺間歩」入口


龍源寺間歩の内部




落ち着いた雰囲気の「安養寺」からは道路は山峡の地へ入り、車がやっと一台通れるくらいの道幅である「新切間歩」や「福神山間歩」などがあり、間歩までは約1.5kmの坂道を緩やかに登って行くと最奥に「龍源寺間歩」があった。 
尚、間歩(まぶ)とは、明治以前は坑道(こうどう)のことを指していた。


この「龍源寺間歩」の近くには、前述した「佐比売山神社」があり、鉱山の神様をまつる神社として知られている。
社は参道、鳥居、山裾の階段を登った先、鬱蒼とした木立の中に鎮座している。

佐毘賣山神社は、鉱山開発の祖神である益田の同社・佐毘賣山神社から分霊、勧請したもので石見銀山の主神であり守り神である。 
主神は鉱山の神とされる「金山彦命」を祀る。


面白いのは石見銀山の主神・佐毘賣山神社と同名の神社が、同地域の大田市内の三瓶山の麓にも鎮座していることである。
この社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山の旧山名)山麓に池を穿ち、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたので神徳を仰いで、この地に祀ったという。 
所謂、米造り、金属の神とされる。 

配神として鉱山の神である「金山彦命」を祀ってはいるが、直接の鉱山の神ではないらしい。


だが、新羅(朝鮮)からの伝承をもつ三瓶山であり(国引き伝説)、元より稲作技術、金属精錬、鉱山開発の技術、それらの集団は朝鮮半島より伝わったものとされている。
これらの意味をこめて三瓶山の麓に、自身の山名でもある佐毘賣山神社を祀ったことは道理なのである。

出雲地方に共通した社名が付くのは決して偶然ではなく、神社としては珍しいことに三瓶山の佐毘賣山神社をはじめ、益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の三社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。

佐毘賣山神社の各社は、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生して鎮座している。



さて、「間歩」のことである。

小さな受付小屋があって、「変な・・おじさん・?」が居座っている。 
山蔦に覆われた坑道の入り口に「史跡石見銀山遺跡龍源寺間歩」とあり、現在唯一内部を見学できるのが、この龍源寺間歩のみであるという。 

龍源寺間歩案内板より・・、
『 江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、「御直山」と呼ばれた代官所直営の創業地にあった坑道で、中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。 坑口の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木を組み合わせて坑口としています。坑道は、ほぼ水平に約600m掘り進んでおり、高さ1.6~2m、幅0.9~1.5m、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはのみ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の「永久坑」へ降りる垂直の竪坑も残っています。  坑道は入り口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開している坑道は、156mまでで、そこから新しく掘った116mの連絡通路で栃畑谷へ通り抜けるようになっています。床面の高さは入坑しやすいように一部で掘り下げたところもあります。 』


銀を掘るために掘った坑道を間歩(まぶ)というが、石見銀山に500余り存在するとも言われる間歩の中で、現在一般公開されているのは「龍源寺間歩」のみとう。  
しかしその龍源寺間歩にしても、見学できるのはほんの一部分であり、その奥にアリの巣のように掘られている坑道は見ることができない。 

龍源寺間歩よりもっと大きな坑道もあったようで、 近年までは電動のトロッコ列車なども使用されたようである。


間歩入り口は小さな洞窟で、古い坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残ってている。最盛期の頃は間歩の掘削は1日5交代の24時間フル稼働であったそうで、縦1m・幅60cmの横穴堀は大変な作業であり、当時の技術では熟練の堀子(ほりこ・鉱山労働者)でも1日に掘り進める距離は凡そ30センチがやっとであったと言われている。 

因みに、掘子の賃金は熟練の者で銀2匁(1匁=3・75g)で、今のお金で5000円位であったとか。(江戸・慶長年間) 
壁面に残る当時のままのノミ跡が堀子たちの過酷な労働を想像させる。


龍源寺間歩は、石見銀山に掘られた500ほどの坑道のうち、江戸時代の中頃に開発された坑道で、代官直営坑道「五山」の一つである。 
「御直山五ヶ山」とは、「龍源寺間歩」、「永久間歩」、「大久保間歩」、「新切間歩」などを五ヶ山と呼んでいる。


次回は、「銀山街道




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2011年11月2日水曜日

日本周遊紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」

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 日本周遊紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」  .





山襞に苔むして一人寂しく眠る 「大久保石見守長安」の墓



人家も疎らになった山間の地をゆっくりと車を進めると山裾の緑陰の地、古き石段を少々登ったところの静謐の地に「大久保石見守長安」の墓地があった。

石柵に囲まれた一段上部に供養塔を左に配して中央に墓柱が立てられてあり、後背は竹林になっていて、爽やかな雰囲気でもある。
単一のみの墓地なので寂しさは免れず、忘れられた様にヒッソリとしていた。 
しかし、どことなく手入れは行き届いているようであり、何処かに篤志家がいるのだろう。 


長安の孤独の墓地が銀山跡とは言いながら、一基のみで寂しく祀られているには、それなりの理由があったのである・・!!。


大久保長安については、若くして読んだ山岡荘八の歴史大編「徳川家康」の中で、詳しく登場しているので印象に残っている。


大久保長安」は、最強の戦国大名と謳われていた甲斐の武田信玄に見出されている。 
信玄は、長安の優秀な経理の才能を見抜いて、若くして武田領における「黒川金山」などの鉱山開発や税務などの行政官として務めている。

甲斐武田家を数年で藩内政を再建したと言われているが、武田氏滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。 

家康重臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、その庇護を受け、この時に姓を「大久保」に改めている。 

関東250万石の内、100万石は家康の直轄領となったが、このときに長安は関東代官頭として家康直轄領の事務采配の一切を任されている。 


1600年、関ヶ原の戦いの後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になり、長安は1600年9月に大和奉行、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、8月に再び石見奉行、9月には美濃奉行など、錚々(そうそう;多くのもののなかで傑出している)たる略歴に任じられている。 

同時に幕府年寄(のちの老中)に列せられ、長安は家康から全国の金銀山の統轄や、これらに付随する一切の奉行職を兼務し、長安の権勢は次第に強大になったと言われる。



長安が石見銀山の初代総奉行に任じられたのは江戸開府の時期で1601~1603年の間とされ、彼は直山制と呼ばれる公費投入による「間歩」(まぶ)の開発を行なうなど、様々な改革を行い「」の増産に務めた。

しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量が低下するに従い、それに合わせるように家康の寵愛を失って代官職を次々と罷免され、1613年、脳卒中のために死去している。

享年69歳であった。


長安の事柄は、ここで終わらないのである・・!!。

長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に、不正蓄財をしていたことが発覚、その理由で長安の遺児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあっている。 

更に、こともあろうに家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にするという行為をやってのけている。 

だが、長安が不正蓄財を行っていたという証拠や見解は殆ど無く、これは近年では幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・本多正純父子の陰謀とも言われているが・・?。 

又、彼の財力と権勢を警戒した徳川家は、粛清や不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。 


一説には、長安は家康より政宗(伊達政宗)のほうが天下人に相応しいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたとも言われ、ある種、謀反の疑いを懸けられたともされてるが・・?。


一般的評判として、権勢をかさにした長安の立居振る舞いは、死後の風評を含めて決して芳しいとは言えず、その後の調査でも事件の有無に対して名誉回復がされたという記述、意見などは無いとされる。 

このような理由で、大久保長安の石見銀山の墓地は、今も銀山史跡の華やかさとは裏腹に、かけ離れた山裾の野辺の地に、ただ一人で静かに眠っているのである。


尚、大久保石見守の墓は「大安寺跡」に建てられている。
大安寺は慶長10年(1605年)、大久保長安が自分の氏名から2文字をとって建立した寺で、墓はいわゆる逆修墓(ぎゃくしゅぼ)の墓とされている。

逆修とは、「生前に自分の法名をつけて墓を建立すると大きな功徳を得られる」との当時の謂れにちなんで建立した墓である。 
ただし、現存する墓石(五輪塔)やその横の石碑(紀功碑)は寛政6年(1794年)のもので、おそらく長安自身が建てた逆襲墓は家康の仕置き直後には当然ながら壊されていた。

紀功碑(きこうひ;功績を記した碑の碑文)を起草したのは、石見銀山第39代代官となった「菅谷弥五郎」であった。
銀山が凋落の一途をたどる時勢のなか、代官・菅谷弥五郎は石見銀山の再興再来を願い、碑文をしたためたのだろう。
寺地内には創建当時の年号が記された墓石など100基以上がある。



次回は、 銀鉱山・「間歩





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2011年11月1日火曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(7) 「銀山の街・大森地区」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(7) 「銀山の街・大森地区」  .





写真:代官所跡の建物7は、現在は「石見銀山資料館」


写真:大森の町並みと「五百羅漢」



仁摩の町へ入って間もなく大きな石見銀山への案内が目に付く、その案内に従って内陸山地へと向かった。 
暫く、潮川に沿って進むが、やがて、大森トンネルを抜けると間もなく「石見銀山史跡」のセンターとも思しき施設へ到着した。 

大きめな駐車場の正面には重々しい門構えの御屋敷(長屋門)がドーンと控えていて、門脇の石碑に「史跡石見銀山遺跡代官所跡」」とある、現在は銀山資料館になっているようである。 


元々、石見銀山の行政を取り仕切る代官所(大森代官所)の在ったところで、江戸幕府の初代長官は、あの「大久保石見守長安」であった。  

あれから数えて59代目となる幕末、代官は鍋田氏の時代であったが、慶応2年(1865)の幕長戦争で浜田藩が落ちると同時に早々と逃げ出し、長州藩は労せずして石見国を掌中に治めることになる。
その後、短期間ではあるが、長州藩による石見支配が明治4年の廃藩置県まで続いた。


現在の代官所跡の建物は、石見銀山資料館として、鉱山で使った道具や生活道具のほか、鉱石の資料や石見銀山地方支配に関する歴史資料などを展示している。

案内書を戴いてざっと拝見すると、この先は武家屋敷、町屋、寺社などが混在する町並みで、その山あいの奥のほうが間歩(まぶ)といって鉱山や坑道の遺構が見学できるようである。


町並みの裏手には自動車用の新道が走っているが、こちら街中は歩行者専用ともいえる歴史の町並みが静かに息づいている。
この町並みが、周囲の山に埋もれるように佇んでいるのが大森町である。 
町並み一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

町並みの最初に町内でも最も異彩を放っているのが、白の漆喰が光る巨大な「熊谷家住宅」であろう。 広大な敷地に、木造2階建ての主屋、付属屋と共に多数の蔵が建ち並び、部屋数も30以上あるという大規模な豪商の邸宅である。 

町の代表的な商家で、酒造、金融など大森代官のご用達でもあったようであり、代々町役人(年寄職)を勤め、銀山経営、代官所御用達を勤めた有力商家であった。 総漆喰塗りの建物は国の重要文化財に指定されている。


次に「旧河島家」がある。
建物は地役人まで昇進した上級武士の屋敷の構えを良く伝えているという。
切り妻造りの平屋建て、平入様式(長辺側の玄関、あるいは屋根の棟・むねと平行な面を平(ひら)という。直角な面を妻入・つまいりという)で、赤味の少ない石州の桟瓦葺きで、道路に面して土塀の小さな門がある。

1800年代初め、代官所銀山方役所に勤務した附地役人・河島氏の居宅として 建てられた武家屋敷で、復元された母屋には当時の生活用品などを展示し、一般公開している。 
地役人というのは、現地役人のことで上級から下級までの役割があるとか。


細い路地には、他にも風格ある大型の町人住宅や旅籠が並ぶ。 
町人といっても公用人を相手にする商人で、泊まる宿は「郷宿」とも言われ、家屋は大きくて重厚である。 

家並みの中ほど、路地の角に位置する格子戸に縁側付の古風な家に、自販機が設置してあり、これが木造りの小屋の中に納まっていて何とも風雅なのである。


右側の山裾の道よりチョットヘこんだ所に「栄泉寺」がある。
このお寺は石段の上に中華風の一風変わった山門が特徴であろう。 

1596年(慶長元年)創建の寺院で、石見銀山における禅の修業道場であったという。 
別称「お芋発祥の寺」ともいわれる・・?。(このことは後程)


町並み一帯は、300年前の面影を残す穏やかで、心が休まる地域であるが、難が一つだけある。 
街中に露骨に電柱が立ち、その電線が縦横に張り巡らせてあり、折角の美的景観が台無しになっているのである。 
通常の都市空間においても無計画に張られた電線は美観を損ね、視界、視野を狭くしている。 

小生は別にカメラマンではないが、野外で写真を撮影する時、電線の張り具合には気を使い、一枚の写真に電線が一本通っているだけで、どんなにいい構図でもその価値はゼロに成ってしまうのである。 
普通、数多くある「建造物群保存地区」の指定群には、これらの醜い造作物は大抵の場合、地下に埋設されるか、見えないように適当に工夫処置しているはずである。
世界遺産になった今日、改善は観られるであろうか・・??。


町外れの左手の山際には、山と一体になった「五百羅漢」がある。
苔むした岩肌に石柵や石段が施してあり、岩屋にはが彫り物が多数造ってあり、歴史の風雪の中にも威厳と風格と美観を備えていて、特に境内に通じる石造の「反り橋」は実に見事である。 

1766(明和3)年に創建された、その名も「羅漢寺」で、石見銀山の坑夫の霊を供養するために造られたという。 
江戸城大奥の女中などにも寄進を受けたという変わり寺で、25年の歳月をかけて刻まれた五百羅漢を守護するために堂宇も建てられたとか。



石見銀山では、江戸期の全盛期には20万人もの労働者が働いていたといわれるが、その平均寿命は30歳くらいだったと推定されている。 
又、4年ほどで塵肺を患う人が多かったという。 

境内の石窟には温泉津の石工、坪内平七(江戸中期の大阪の石工)とその弟子達に よって彫られた五百羅漢像500体は、まったく損傷無く当時の石工のノミ跡も鮮やかな石像として残っている。


17世紀初めの『銀山日記』によれば、人口20万人、家屋数約2万6,000軒を数え、石見銀山が日本有数の都市として栄えていたことが記されている。 
町は、生活の場であった「大森地区」と、銀を採掘していた「銀山地区」とに大きく区分されていたという。


次回は、 「大久保石見守




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2011年10月31日月曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(5) 「沖泊・鞆ヶ浦」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(5) 「沖泊・鞆ヶ浦」  、






写真:沖泊湾と鞆ヶ浦



入江で船を係留する岩・「鼻ぐり岩」





温泉津の北方先端、湯里から馬路の間のリアス形海岸入江に、石見銀山の銀の積出港であった「沖泊」(なかどまり)そして「鞆ヶ浦」(ともがうら)がある。  
この二集落は、平成17年に国指定史跡になったというが、何れも今では地図にも表示されない戸数10数件の小集落で、深い入り江が数層連なった鄙びた小さな港である。


温泉津からトンネルをくぐり北に一山越えると「沖泊」の港がある。
ここは、16世紀後半、約40年間にわたり石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

海辺に浜の井戸、集落奥に上の井戸と二つの共同井戸がつくられ、この辺り、山間の港ということで、水が不足していたことも伺える。 
沖泊港を取り巻く岩場には、自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」と呼ぶ船を係留する岩が多数残されている。

又、南に鵜丸城跡、北に櫛山城跡という二つの砦跡があり、大内氏や尼子氏それに毛利氏の戦国時代の拠点であり、港を確保し、銀を防衛するための要衝であったことも伺える。


因みに、その鵜丸(うのまる)城跡であるが・・、
温泉津の町並みの入り口から波止場沿いに進むと日村の港に着く。
その対岸から急な坂道を登ると、毛利元就ゆかりの鵜丸城跡である。

1562(永禄5)年、石見を手中にした元就は、勢いに乗じ宿敵・尼子氏の本拠地・月山富田城(安来市)に兵を進め、1566年、ついに出雲をも制覇した。
ところが、三年後、尼子再興を図る山中鹿介らが尼子勝久を擁して出雲に攻め込み、翌年に再び毛利と尼子が激突する。 

事態に驚いた元就が「石見を堅守すべし」と伊藤蔵之丞(温泉津町中の伊藤家の先祖)らに命じ、わずか一カ月で完成させたのが鵜丸城であった。 

標高59mの丘にある小さな城だが、鉄砲戦を想定した三段の帯郭(おびくるわ)が今もよく認められるといい、頂上に立つと、日本海がはるか遠くまで見渡せ、眼下に温泉津港や沖泊に入る船がよく見える。

又、標高38mに位置する櫛山城は更に古い築城で、1281(弘安4)年、元寇(げんこう)に備えて築かれた石見十八砦(とりで)の一つであったとされる。 
戦国時代は毛利氏に対抗した尼子氏の居城だった。


琴が浜に近い「鞆ヶ浦」(ともがうら)はもっと古く、沖泊が銀の積出港として使われる以前の16世紀前半、銀鉱石を博多に積み出した港町として発達したところである。
戦国時代の大内氏が石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

大内氏の次に銀山を支配した毛利氏の時代になると、銀の積み出し港は温泉津に移ることになる。
その最大の理由は、鞆ヶ浦が非常に水の乏しい地区であったという。 このことは沖泊と共通している。 

港は、やはり、深い入り江となっていて、ここ鞆ヶ浦にも自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」が多数残されている。
両港とも、東に延びる一筋の峻険な道が石見銀山へ通じている。  

昔の「銀山街道」で、山地を介して銀鉱山へ達する全長約7kmの街道(山道)であり、沖泊道、鞆ヶ浦道と称している。

その名残かどうか不明であるが、近くの地域に「馬路」という地名があり、山陰線駅に「馬路」駅もある。


次回は、 銀山の町・「大森町





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2011年10月30日日曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」  .




薬師の湯
写真:温泉津温泉・「薬師の湯」


薬師湯
溶岩のように湯の華が付着した湯船




江津を出ると、すぐに山陰本線の山あいの「温泉津駅」に至った。 
やはり赤い屋根のチョット豪華な民家風の駅であった。

「温泉津」は、普通に読めば「おんせんつ」であるが、確かにさっと見て読み難い、実は温泉(ゆ)の津で「ゆのつ」と読むが、「温泉津温泉」とくると更に厄介なようであるが。 
昔の人は面倒臭いことは言わず、「湯の出る港」だから湯の津なのだ・・!、と言いたげである。 
駅より些か離れた旧銀山街道沿いの温泉街は、賑やかな歓楽街などが見られず、鄙びた和風旅館が両側にポツポツと並ぶする静かな街並みである。


世界遺産に登録された石見銀山の「温泉津」。
この温泉津は、かっては世界の銀の1/3を産出し、海外にも輸出していた津(湊)である。
発掘された銀は、周辺の数箇所の港から出荷されていたが、その内の一つが現在の温泉津港の先端にある「沖泊」であった。


中世末期(400年前位)、この地から石見銀山の銀が世界へと積み出され、戦国時代は毛利の水軍基地として、また江戸時代の初期は石見銀山の物資の陸揚げ港、そして江戸中期から明治時代までは北前船の寄港地として栄えてきた。 

17世紀初頭には銀山の支配体制を確立するため、柵を巡らして柵内と柵外を区分していたというが、温泉津はその柵内に位置していた。
銀山とこれらの港の間は道が良く整備され、鉱山があった町の大森から鉱石を牛馬に積んで険しい山道や街道を運んだ。この街道は、「銀山街道」(歴史遺産)とも呼ばれ、西部山地を経る全長約12kmの主要街道であった。


温泉津温泉は、銀山を背景とする温泉津港の繁栄と共に、港を利用する多くの湯治客で賑わった。 銀山採掘に関わった人夫や鉱夫、役人まで、この温泉湯に浸かり疲れを癒しながら、一時の風情を楽しんだものと思われる。 

街道に沿って小さな旅籠や問屋、商家の町並みが形成され今も、明治・大正の風情を多く漂わせている。主要な温泉津温泉街は、国の重要伝統的建築物群(町並み保存)にも指定されてもいる。


ひなびた温泉津温泉の中でも、ひときわ目を引くレトロ調で洋風建築物である震湯(しんゆ)、薬師湯(湯元)は、古くから石見銀山の玄関口として栄えた温泉津の町並みの中心地に位置し、日本温泉協会の認定で、中国・四国地域で唯一の最高評価を取得した薬効豊かな湯と共に建築学的にも重要な建物として、専門家の間でも高く評価されている。

ある温泉ライタ―が・・、
『 湯治場の風情を色濃く残す温泉街が、旧銀山街道沿いに500~600m続く。 大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みであり、狭い通りに赤い屋根・石洲瓦の小さな温泉宿が並ぶ 』と書いている。

ここ温泉津の温泉は、小さい頃に童話として聞かされた「いなばの白兎」でお馴染みで、大国主命が病気の兎を温泉に漬けて救ったことから始まったともいわれている。 
確かに古き良き時代の雰囲気を醸し出しており、「フーテンの寅さん」シリーズのロケ地の映画の舞台にもなっているという。  

昔は岩間から湧き出してはいたが、明治5年(1872年)の浜田大地震の時に地殻変動で湯水の如く、大量に噴出し始めたという。 


「源泉掛流し」は無論だが、自然の力で地底より湧き上がってくる温泉で加熱も、冷却も、無論循環もしない正真正銘の純温泉、これぞ本物といった感じであると。
泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉で源泉は49度と熱い。 
薬効として特殊なのが、ある大学の研究所で「原爆症」に対する効能が有るとも報告されている。

次回は、 「沖泊・鞆ヶ浦





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01. 15.

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