google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-10-23

2011年10月29日土曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」

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日本周遊紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」 ,





石見銀山の守神・「佐比売山神社」



さて石見三田・世界遺産大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜や四季を通じて楽しめる国立公園・「三瓶山」(大山隠岐国立公園)など自然が豊富に揃っている。

大田市街の南に聳え立つ三瓶山は、室の内(むろのうち)と呼ばれる低地より、主峰の「男三瓶」(1126m)に寄り添うように並ぶ「女三瓶」、「子三瓶」、「孫三瓶」などを主として、計六つの峰が環状に連なっている山である。

元より、石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引き神話」に登場する。
国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。

佐比売山として出雲国風土記に出てくる民話「国引き神話」では、八束水臣津野命という神さまが出雲の国を見て
『 ずいぶん小さいな国じゃから、土地を引き寄せてきて大きくしよう 』
そして、『 くにこくにこ(国来国来)と引き縫える 』と言いいながら新羅の国から引っ張ってきた土地を杭につなぎ止められたという。
その引っ張ってきた国が今の島根半島で、其の時の一つの杭が佐比売山・三瓶山だそうだ。


『 出雲の国を造ったとされる「八束水臣津命」(やつかみずおみつぬのみこと;大国主命と同一とされる)は、その国が細く狭かったため、海の彼方にあった国のあまりに綱をかけて引き寄せ、つなぎ止めたというもので、引き寄せた国は日御碕から美保関へ続く島根半島(支豆支の御埼、狭田の国、闇見の国、三穂埼)、綱は大社湾岸の「園の長浜」と美保湾岸の「夜見島」。そして、「堅め立てし加志は、石見國と出雲國との堺なる、名は佐比賣山、是なり」。すなわち、三瓶山(佐毘売山)を杭としてくにびきの綱を止めた。(一方の夜見島の綱を留めたのは火神岳(鳥取県大山)ともされます。) 』  出雲風土記より


「出雲国風土記」では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。
また、「佐比売」の名は、1954年(昭和29年)に大田市に合併するまでの地名が「佐比売村」として残っていた。

神亀3年(726年)ときの朝廷は、全国の山の名や土地の名を「三字名なら2字名」に、凶音をもつ名は好文字の名に変えるように命令した。
佐比売山(さひめやま)という古名をもっていた三瓶山は、このときに改まったと言われている。
(古代の三瓶山は、実は佐比売と三瓶の2つの名を一緒に使っていた。恐らく三瓶は愛称であり、その愛称が正式な名前になった)


三瓶山の山頂には佐比売山神社山頂祠、そして山麓には佐比売山神社の山麓社鎮座している。 御祭神は大己貴命 少彦名命 須勢理姫命など、配祀として「金山彦命」が祀られている。
ただ、三瓶町の「佐毘賣山神社」は、直接、鉱山を祀る神社ではないらしい。


三瓶地区に伝わる物語では、朝鮮・新羅から渡った狭姫「さひめ」が赤雁(益田市に赤雁町というところがある。地名は佐毘売命の神話にある、古代朝鮮から五穀の神を背に飛来した赤雁の伝承によるという)に乗ってきて三瓶へ移り住み、やがて、狭姫(さひめ)を祀ったことから佐毘賣山神社となったといわれる。

更に、朝鮮から狭姫が渡ってきた際、併せて製鉄やタタラ(古代より鋼の製法)の技術を持ってきたとされ、これを契機に、山伏などが製鉄を営んでいたので「さび山」といわれ、サビが転化して「サヒメ」になったともいわれる。

元より、「出雲国風土記」にもあるように、古代出雲ではすでに鉄が生産されていた。 
この鉄の原料は砂鉄で、奥出雲での生産が有名である。 
原料の砂鉄は出雲の海岸では容易に目にすることができ、それも、白い海岸を真っ黒に覆うように砂鉄があるといわれる。
「ヤマタノオロチ伝説」は、最先端の技術であった製鉄、鉄剣の逸話ともいわれる。


古代の製鉄技術や鉱山技術は出雲地方と古代朝鮮の関わりから始まったといっても過言ではなく、その象徴たる神が「佐毘賣山神社」であった。 
ただ、先にも記したが三瓶山の佐毘賣山神社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山)山麓に池を築き、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたという伝承から祭祀されているらしい。
しかし、稲作技術には鋤や鍬が必要なように、製鉄技術と同時に始まったとされ、これが弥生文化の創年の事象ともされている。

三瓶山の佐毘賣山神社には配神として「金山彦神」が祭られているように、製鉄、鉄鉱(砂鉄)そして鉱山の神の一面が明らかに見得ているのである。


佐毘賣山神社の創祀年代は不詳とされている。 
社伝によると天武天皇の頃、また、寛平三年(891)という説もある。 
何れにしても祖神は有史前後にも遡る、古い古い神であることが創造できる。


ところで、益田の鉱山神である佐毘賣山神社の創建も不詳とされている。
社伝によると寛平5年(893年)、美濃国南宮大社より鉱山の神・「金山彦命」を勧請して創建されたらしい。

序ながら、美濃国一ノ宮の南宮大社は別名・仲山金山彦神社ともいわれ、美濃国(岐阜県)でも有数の壮大な社殿を誇る。 全国の鉱山、金属業の総本宮として古くから信仰を集めているという。
南宮大社は、金気一切を司る神として公権力より認知され、金山彦神は金属精錬の神々として、関連した多くの神々の集積したもので、強いて言えば新しい製鉄の神と言える。
元より、銅鐸とのつながりをもったより古い祭神で、鉄山を管理しながら製鉄神となって、各地に分遷されていったとされている。


歴史と伝承の三瓶山の佐毘賣山神社、鉱山開発の祖神である益田の佐毘賣山神社、更には石見銀山の主神・佐毘賣山神社と出雲地方には共通した社名が付く。
何れも、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生している。

尚、三瓶山の佐毘賣山神社は定かでないが、神社としては珍しいことに益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の両社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。


次回から実際の「石見銀山遺跡」を巡ります。





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2011年10月28日金曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」  ,




引続き「石見地方」のことである。

石見国(いわみのくに;石州:せきしゅう)は、東西に長いため東から大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び三分されていて益田市、浜田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。

また、浜田の西には「江津」の港があり「江の川の港」を意味する地名で、江の川は中国山地を唯一越える一級大河で、瀬戸内の安芸国との結びつきも強い。

江の川は基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していた。
そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所が置けれている。



その石見地方の中心都市「浜田

新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。
すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。


奈良時代、天平年間の聖武天皇の御世、国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国の国府に国分寺・国分尼寺が造られた。
浜田は古代・石見国の国府があったところとされ、律令時代の石見国の中心地でもあった。

日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に「金蔵寺」という古刹があり、近年、この境内に国分寺跡が発見され塔跡が一部発掘調査された。 
ただ、古跡は塔の跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていないという。
国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っている。

鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの浜田を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。



銀山史跡より些か遠い「益田」と石見銀山の意外な関係



『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 
        ながながし夜を ひとりかも寝む
 』  柿本人麻呂(百人一首)

( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )


西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 
その中心に益田の市街地が開けている。
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 


冒頭は、皆さんご存知の有名な歌である。
この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
この歌は、飛鳥時代という古い時代に詠まれた歌であった。

柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

柿本人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向し赴任している。
人麻呂は地元の女性と結ばれ、子々孫をもうけている(妻・依羅娘子の他に側女もいたとされる)。
そして、その終焉の地が、現在の島根県益田市であるという。

人麻呂自身はこの地で没したが、その子孫も石見国の郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を名乗り石見国人となったともいわれる。

以後、益田氏は石見地方の権勢を束ねながら、石見一国を束ねるようになる。
近世の益田氏は長州藩の家老として毛利氏に仕え、幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執ったともされる。 
無論、現在の「益田」の名の起こりでもある。


さて、益田市の市街地の東側にある比礼振山(権現山:標高358メートル)の麓に「佐毘売山神社」ざ鎮座している。
この神社は、鉱山の護り神であり、別名を「山神社」とも言い、鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれていた。

益田市美都の都茂地区に近年まで開鉱していた「都茂鉱山」があり、この鉱山は驚くことに世界で最初に発見された鉱山としても知られ、「都茂鉱」(主に銅と亜鉛、金、銀ほか)といわれる鉱脈の産出地で、既に平安時代の836年には採掘が始まっていたとされる。
そして更に驚くべきことに・・!、一時の休山を含めても1987年( 昭和62年 )まで採掘していたという。 実に1200年近い鉱歴を有するのである。

佐毘売山神社は、この都茂鉱山の守り神だったのである。


そして、「石見銀山」の中枢である大田市大森町銀山地区に、「佐毘売山神社」が山深く大鎮座している。 
一帯は銀山で最初に開発された場所とされ、地元・大森地域をはじめ石見地方の人々の信仰を熱く集めてきた。

この社は14世紀と15世紀に、益田市の同神社から分霊されたもので、祭神の移動は祭っていた技術者や鉱山物資の動きを示すものとされている。 
これは石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山に関連した人と技術が大森にもたらされ、石見銀山の銀の開拓、採掘に寄与されたものとして重要視されてるという。


そして、この勧請を奉った人物こそ益田氏であり、当時の彼は室町将軍に会えるなど国人領主の中でも破格の扱いを受け、鎌倉時代から安土・桃山時代にかけて益田を拠点に権勢を振るった中世益田氏であった。

益田氏は戦国後期には博多にも領地を所有し、銀を貿易に活用したとされ、更にはは技術が逆に都茂銅山もたらされ(現在でいえば逆輸入)、銀の生産をももたらしたという。


益田と大森を結ぶ奇縁はもう一つあった。
益田に進出した益田兼見(南北朝;益田宗家の惣領)が1368年ごろに築いた館は、関ケ原の戦の後、解体されて船などで大森に運ばれ、銀山奉行・竹村丹後の屋敷となり、後の大森代官所(現、石見銀山資料館)として利用された。

戦乱の時代、貿易と軍事に手腕を発揮して動乱を駆け抜け、中世の世に存在感を示した益田氏(兼見)は、石見国最大の武士集団と財力と権力を源に、石見の地に点在していた豊かな銅と銀の資源を掘り起こそうとしていたのである。



さて石見三田大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、四季を通じて楽しめる国立公園・三瓶山、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜など自然が豊富に揃っている。 
そして何より歴史・文化遺産の街(世界遺産石見銀山遺跡)である、

市域西部の大森は戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山とされた石見銀山の地で、1526年大内氏の支援によって博多の神谷寿貞が開発に成功したとされる。

その後、大内氏やその後継である毛利氏と出雲の尼子氏の間で銀山争奪戦が繰り返された。
江戸時代には幕府直轄領(天領)となり、石見銀山領が置かれた。
江戸期にほぼ掘り尽し、1920年代には完全に閉山した。

2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。


さて、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。


次回は、世界遺産・「鉱山の守神





祝い・・!!  平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 
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2011年10月26日水曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」   、




縄文の親玉を祀る・・?とされる出雲大社(最奥は御本殿、高さ24mで神社建築最大高;後述)



石見銀山」のことに触れる前に、「石見地方」について少々述べたい。

日本海に面した山陰の島根・石見地方に足跡を残したのは平成17年6月であった。
そして、「石見銀山遺跡」が世界遺産に正式に登録されたのが、2007年(平成19年)6月であるから丁度2年前のことになる。

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色彩が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしていることである。 
石見地方での代表的な色は、「赤と白」とよく言われるそうである。
赤は「石州瓦」のことで、白は「石見銀」のことのようである。 

本編は、この石見銀のことが主題であるが、これは当然この後詳しく述べるとして、その派手色の「」についてチョット触れておこう。


大阪の瓦職人の伝えたという「石州瓦」である。
日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・「飛鳥寺」建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 
山陰地方での石州瓦は、飛鳥時代の石見国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったという。
石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦といわれる。 

日本の代表的な瓦は、三州瓦(愛知・三河地方と兵庫県の淡路島)とされるが、 石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるという。
石州の粘土は、鉄分の少ない粘土(白土)を使用しているので、高温(1200度)で焼く事ができるため焼き締まって、硬く、水を吸いにくく、寒さに強い瓦ができ、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいという。 

山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。 
現在は、凡そ25社のメーカーからなり、生産量は年間約2億枚で、陶器瓦部門全国シェア第2位を占めている。


石見地方」とは島根県の西部地域を指しているようで、東部地域は無論、出雲地方のことであるが、日本海に面した東西に長い県であるが故、何かにつけて石見地方と出雲地方は比較、対象されるという。 

東部の出雲地方とでは、気候はもちろん人の気質までも大きく異なっていると。
人を指す時も、石見人とか出雲人と云われるそうで、真面目で勤勉といわれる出雲人気質と対象的に、石見の人々は何につけ豪快で開放的であるという。 

古代・飛鳥期の頃までは、石見は出雲地域の一部にすぎなかったが、奈良期の律令制度における地方行政区分として「石見国」が発足している。 
その後、石州とも呼ばれることもある。 

尚、石見地方を更に細分して、大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼ぶこともある。

地元、石見観光振興協議会では、「石見という言葉から何を連想しますか・・?」と問うと石見神楽、石見銀山、石見弁、豊かな自然や文化などと答えが返ってくるといい、全国的な知名度は決して高くはないというが・・?。


ここでチョット「石見弁」についても述べてみよう。
石見弁(若干異なると言うが出雲弁と共通)は、島根県地方特有の俗にズーズー弁といわれる。
これは東北地方に共通する方言でもあり、東北の田舎出身の(福島県いわき市)の小生も、当時は普通に使っていた言葉で懐かしく、今でも何かにつけて発する瞬間(とき)がある。


日本映画不朽の名作といわれる松本清張の「砂の器」(1961年)がある。
この映画の謎解きの重要なヒントの一つに「犯人と被害者がズーズー弁で喋っていた」という証言がある。 その結果、犯人像は東北出身者と考えられるのだが、捜査の進展の中で、実は東北弁とよく似た出雲の或る地方だけに今も残っていることが判明する。
この際、東北の捜査では秋田県・「岩城亀田」に出向いている。 
(余分だが、この岩城亀田藩は、これまた小生の田舎に縁のある名称で、江戸期の岩城藩(小生の実家、福島県いわき地方)が出羽の亀田に転封になり、初代の岩城亀田藩が創設されることになる。)
捜査は、秋田県・「岩城亀田」では手掛かりが得られず、後に、実際は出雲地方の亀嵩(かめだけ:奥出雲地方で木次線・亀嵩駅)であったことが判明する。 両者の方言が共通していることから起きた混乱が、捜査を困難にしてしまうという、物語の重要なポイントでもあった。


東北特有のズーズー弁は「縄文語」である、という説が一般化している。
ご存知「出雲地方」は、神話の世界では大国主の「国譲り」で知られる。

出雲王朝(大国主)は旧来の縄文人とも喩えられのである。 
大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が出雲地方にやって来て出雲を平定し、出雲の民である縄文人の一部の彼らが東北地方へ落ち延びたこととされている。

弥生人に駆逐された出雲の縄文人は、その中心を今の東北に移したとも考察され、従って、ズーズー弁である縄文語と呼ばれる言葉は、東北地方に広まっていても何の不思議もないのである。

ズーズー弁の元祖は、出雲地方(石見地方)の縄文人で、その親玉が「大国主命」だったという推論である・・?。


又、同質の説も可能である。
縄文太古の時代の東西の文化、物資の交流は日本海を中心に行われていた。
例えば、青森の「三内丸山遺跡」から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ;古代からの装飾物)が大量に発見されているという歴史的事実がある。 

記紀(古事記、日本書紀)には、大国主が「翡翠」を求めて能登地方を巡りながら越後へ達している。
この時、越後の女王・奴奈河姫と結婚して、かの建御名方(タケミナカタ:諏訪大社の大神)という一子をもうけている。
同時に、大国主は越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたといわれる。
この事は、あくまで考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の広がりが想像できるのである。

出雲王朝は東北の縄文以来連綿と続いてきた文化と同じで、端的に言えば古代出雲王朝は東北地方まで広がる巨大な王朝であったと考えられ、つまり、同質の文化圏を有していた。
縄文語であるズーズー弁は、出雲から東北に至るまで標準語だったのである・


ところで、ズーズー弁の出雲弁は、現在でも出雲地方の山間の一部地域に残っているとも云われる。
何故孤立しているのか・・?、

ズーズー弁が縄文人たちの言葉とすれば、関西弁は弥生人の言葉かもしれない。 
大和王朝の勢力拡大に伴って、日本海沿岸を中心に栄えていた出雲王朝、出雲文化圏の人々の勢力圏を圧迫した。
そして遂には王朝の首都であった出雲を囲むように分断し、出雲弁が孤立するようになったと・・?!

これは歴史の面白さであろう・・!!

小生の「日本一周記」より、
出雲大社:「石見銀山」の後に記載します。 

奴奈川姫と翡翠: 
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-27-7.htm 


次回も引続き「石見地方




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2011年10月24日月曜日

.日本周遊紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」

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 日本周遊紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」   、




写真:世界遺産の「龍源寺間歩」、公開中の坑内



世界遺産・石見銀山遺跡(1) 「はじめに」

2007年(平成19年)6月末、「石見銀山史跡」は世界遺産に正式に登録された。
正式名称は『石見銀山遺跡とその文化的景観』としている。

年当初、一旦は綿密な調査が必要などとして「登録延期」(事実上の凍結、落選)の勧告を受けたが、6月末のニュージーランド(クライストチャーチ)で開催されている第31回世界遺産委員会において、更に審議の結果、階級特進の「世界文化遺産」(産業遺産)として正式に登録のはこびとなった。

石見銀山は16世紀以降のもので『産業遺産』としては世界の遺産の中で最も古く、勿論日本では始めての登録となる。 
世界遺産についてのエリアは一般にコアゾーンといわれる核心(中心)部分とそれらを取り巻くバッファゾーンの緩衝地帯に別れている。



「石見銀山遺跡」の核心部分

一つ目に、「銀山柵内」(江戸時代初め柵で厳重に囲まれていたことからこの名がある)といわれる主に大森地区で、16世紀前半から本格的に開発され20世紀まで操業された銀鉱山遺跡の本体、銀の生産活動における生活、流通、信仰、支配に関わる遺構、遺物などなど・・名称として代官所跡、宮ノ前地区銀精錬工房跡、文化遺産的建造物、羅漢寺五百羅漢、それに石見銀山を防御するための山城遺構として石見城跡、矢筈城跡、矢滝城跡などがある。

二つ目に、石見銀山街道といわれる二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物資の輸送路で「温泉津・沖泊道」や「鞆ヶ浦道」で、何れも16世紀前半から銀、銀鉱石を博多への積み出しや銀山への物資補給、軍事基地として機能した街道である。

三つ目に、それらの港と港町・・、銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾とこれに隣接して発達した港町および港湾集落で、「鞆ヶ浦」や「沖泊」、両港は船を留める「鼻ぐり岩」などが往時を偲ばせる。
それに温泉のある港町・「温泉津」(ゆのつ)は、江戸時代以来の町割りをよく残し、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物である。

平成16年、温泉町としては日本で唯一の「国選定」(重要伝統的建造物群保存地区)を受けている。


それに、これら中心部分を取り巻くバッファゾーンといわれる緩衝地帯で、約3600haの周辺地域、山域である。


因みに、現在まで日本にあるユネスコ世界遺産は、知床、白神山地、屋久島の自然遺産が3物件。
日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財、古都奈良の文化財、法隆寺地域の仏教建築物、紀伊山地の霊場と参詣道、姫路城、原爆ドーム、厳島神社、琉球王国の城(沖縄では城をグスクという)及び関連遺産群の10物件の合計13物件である。


ユネスコについては次のように記されている。
ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationといい、頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している。


次回は、「石見地方




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祝い・・!!  平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 
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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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