2011年7月9日土曜日

日本周遊紀行(147)知覧 「特攻平和会館」

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 日本周遊紀行(147)知覧 「特攻平和会館」    、





写真:整然とした「特攻平和記念館」




今の平和は、過去に知覧で起きたような犠牲の上から成っている・・! 、

知覧の街中を貫く主要道路の県道23号は、空中に電線が1本も張られてない開放感のある道である。
両側には程よく剪定された槙(まき)の木と花壇を設けた造りで飾ってあり、真に雰囲気が良い。 


暫く行くと今度は道の両側に石灯篭が等間隔に配されている。 
これは知覧町内から少し外れた薩南工高から平和公園までの凡そ2kmの区間に連なっていて、実はこの石灯籠は全国から寄せられた浄財で作られ、目標を壱千参拾六基、建立する計画であるという。 

1036個という数字は知覧基地を中心とする主に陸軍の特攻隊員の人々のことで、沖縄特攻で散華された若者達の御霊(みたま)の数であり、現在でも建て続けているらしい。


緑の園地が広大に広がるここのエリアは知覧平和公園と称し、この中心に「特攻平和会館」がある。 

桜並木の一直線が遥かに続き、奥の一角に数件の茶店が並ぶ。 公園の中心にこれだけ御土産屋が並ぶのも珍しい、実は「特攻記念館」という国内でも極めて稀な記念館なので見物に来る人々が耐えず、連日大型バスが連ねるという。


記念館周辺で先ず目に付くのが、当時使用されていたと思われる戦闘機のモデルが2機展示してある。 
家族連れの子供らが「わあ、飛行機だ カッコいい・・」などといいながらはしゃぎまわっている。 
両親も「おお、いいねえ、写真撮ろう・・」と言ってニコニコ顔である。 

若い両親には過去に日本で戦争があったこと、尚且つ、戦争末期、若者が特攻隊などの肉弾戦で戦ったことなど認識の外であろう。 

これらの親子の姿が平和というものであろう・・?、
でも、一体「平和」とは何であろうか・・? 

少なくとも戦争実感者の小生としては、安堵感の中に少々の歯痒さも感じられるのであるが・・!。


他にも隊員や平和観音堂・実母の銅像、鎮魂の歌碑や慰霊記念碑、特攻英霊芳名、そして、右手奥に三角兵舎などがある。
これらの建立者は何れも遺族や関係者であったり、戦没者の会であったり、戦友会だったりと様々のようである。 

三角兵舎は特攻隊の兵舎を復元したもので、敵の目を欺く為に杉木立の中に半地下壕を作り、地上には三角の屋根しか見えない作りになっているという。 
出撃の前夜、ここで鉢巻姿の若者たちが壮行会を催し、酒を汲み交わし、隊歌を歌ったり、最後の手紙や遺書を書いたりして最後の夜を過ごしたという別れの宿舎でもある。

園内、歌碑の中にこんなのがあった。

『 アリランの 歌声とほく 母の国に 
         念(おもい)いを残し 散りし花花
 』


当時、日本の属国であった朝鮮半島の出身の外国人も、知覧から日本という国の為に特攻隊員として出撃していったという。 
韓国の「反日」の一因は、このあたりにも起因するのかもしれないが・・!。


500円の入場料を払って記念館の中に入ってみた。 
丁度、入口部の広めのスペースに数十人の若き自衛隊員が床に腰を下ろして、館内の案内人の説明に聞き入っていた。 
やむなく特攻に発進していった英霊たちの事例を、写真や文例を見せながら訥々と語りかけ、聞入る隊員の真剣な眼差しが印象的であった。


展示品は主に、若くて逝った隊員たちの遺影写真や貴重な遺品や資料、そして肉筆の文面等である。
そこの一文を読むだけでも胸が熱くなるのを覚える。 

未だ、うら若き二十歳前後の諸君が、もう二度と戻らないであろう死出の旅立ちに当たって両親に感謝し、現在の状況下を素直な思いで述べ、祖国日本を後世に託す願いを“万感の想い出”を込めて切々と書き連ねているのである。 
この文面を渡されて実際に読む、肉親や恩師らの胸中はイカばかりか、これまた察するに余りあるのである。

ただ、時勢下とはいいながら、並みの若人が「爆弾を抱えて敵艦に体当たりする」これらの自殺行為自体、上司の命令であったとしても、本人達は些かの疑問を生じなかったのか・・?、
このことが文集の文面には一切無かったように思ったが・・?。 

これは、若者の余の純粋さゆえか、検閲によるものか、はたまた館内への非展示によるものか・・?、 察しはつかないが。 

ただ言えることは、この犠牲的精神は、次世代の人々へ託して“逝った“ことだけは確かであろう。

フロアーの一角には、日本でただ一機現存する陸軍三式戦闘機「飛燕(ひえん)」や陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」、海から引き上げられた零戦(海軍零式戦闘機)、そのほか戦闘機や戦争関係資料が展示されていた。


引続き、「知覧特攻」について・・、





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2011年7月8日金曜日

日本周遊紀行(147)知覧 「外城・武家屋敷」

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 日本周遊紀行(147)知覧 「外城・武家屋敷」   ,




写真:清楚な知覧武家屋敷


知覧型といわれる「二つ家式住居」




知覧麓の薩摩郷士も知覧茶を栽培した・・?!

その226号線で指宿温泉方面を目指す。 暫く、鹿児島の喧騒の街中を行くが、やがて、錦江湾の海べりへ出てホッとする瞬間である。 
程なく「平川」という大きな交差点に至ると標識に指宿・知覧とあった。 

知覧とは、あの大戦中の「特攻の知覧」というのは記憶にあったし更に、地図を見ると「知覧麓武家屋敷」とあった。
先ずそちらに向かおう。 


丘陵地のジグザグの道を暫く行くと、指宿スカイラインと交差する。 
スカイラインは鹿児島市内より(九州道に直結)錦江湾を望みながらの、丘陵山地を薩摩半島南端の池田湖へ至る。 いわば観光道路であろう。


知覧I・Cを横目にながら手蓑峠を超え、知覧町内へ近ずくに従って目に鮮やかに茶畑が見渡す限りに広がる。 

我々東国の人間は「知覧茶」というのはめったに耳目にしないが、何でも鹿児島県のお茶の面積・生産量は、静岡県に次いで日本第2位を占めてるという。 
中でも全国茶品評会で連続日本一を受賞、皇室献上茶の栄光を得るなど品質についても折り紙つきだといわれる。 


知覧茶の起源については、平家の落人が北部山間地の手蓑地方においてお茶の栽培を始めたという古い言い伝えが残っている。 
本格的な栽培は明治の初年頃で、標高200m~500mの山麓に拓けた山間冷涼の地が適した生産地といわれる。 
昭和20年代頃までは林業と組合わせた茶業経営であったが、30年代になってからは生産も拡大され、緑茶の製法は技術的には京・宇治茶を伝習して生産拡大に努めたという。


知覧の町へ入った。
清楚で美風な町並みであることが先ず印象に残った。 

一直線の道路の両側に清流が流れる大きな側溝を配し、その清水に錦鯉が悠々と泳いでいる。そして、この広い表通りを一歩中へ入ると「薩摩の小京都」呼ばれる武家屋敷群が広がっているのである。 

先刻、出水の武家屋敷群を拝見したが、屋敷群造りの目的は同じである。
知覧・島津公の時代(18世紀中頃)に整備された武家屋敷群は、薩摩藩の本丸・鶴丸城を中央拠点として113ヶ所の外城を設け、薩摩藩は武士を郷村に集住させた。

平静は農業に従事させながら武道を訓練し、一朝事ある時は、戦場に向かわせる武農両道の郷士制度を推進したという。 その郷士の居住する地区を「」と称し、知覧もその一つである。


苔むす石垣に、緑の生い茂る垣根が見事な造作美の屋敷群であるが、こちら知覧の特徴の一つに、戸別の垣根の内側にはこれまた美しい庭園が築かれていることであろう。 

庭園自体も実に繊細で美しく、小振りながら京都や鎌倉の庭園と比べても遜色がないように思われる。 
ただ京都や鎌倉の庭園のように“侘びとか寂び”とか、枯れた幽玄の世界ではなく、南九州という土地柄もあってか南方系の植物が青々と生い茂り、更に、高低、奥行きの立体感を表し、力強い生命の躍動の世界を表わしているともいう。 

これらの庭園を「知覧麓庭園」と称し、主なもものは国指定の名勝にもなっているという。 
知覧麓は、一種の庭園都市と言うべき貴重な街並みを、今日に伝承しているようである。


知覧屋敷群の一つに、建築手法としては珍しい「知覧型二つ家」というのがある。 
藁葺き屋根がL形(直角形)の平面構成を成しているのが特徴で、出入り口が「おとこ玄関」、「おんな玄関」というのが二箇所ある。 
これは琉球の民家と共通するものというが、二つの屋根の間に小棟があるのが知覧型二ツ屋とも言われるようである。(国指定文化財)


尚、これらの屋敷は一部見学用を除いて、現在でも子孫の方々が住居として利用されている。やはりというか、武家屋敷から裏手の一角は名産・知覧茶の畑が無際限に拡がっていた。 

平穏静寂なこの町並みに時折、平日にも関わらず大型バスの団体客がゾロゾロと来場し、中でも外国人グループ(中国、韓国人・・?)が大声で嬌声を発している様は、一寸頂けない・・!。


次回は、知覧の「特攻記念館




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2011年7月7日木曜日

日本周遊紀行(146)鹿児島 「鹿児島市内」

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 日本周遊紀行(146)鹿児島 「鹿児島市内」  ,






写真:市内目抜き通りにある鶴丸城址と照国神社



市内・加治屋町界隈は歴史上まれにみる一角で、幕末から明治時代にかけて近代日本の創世に携わった多くの偉人たちが生まれ育ったエリアである・・、



再び、国道(R10)へ戻る、そのまま城山の麓を行くと、まるで歴史街道とも思える史跡や記念館、神社がずらっと並んでいる。 

薩摩義士碑、鶴丸城址(鹿児島城)、黎明館、私学校跡、西郷隆盛像、護国神社、照国神社等々・・。


鶴丸城は「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城された。 
この城は、一般に知られる戦闘に備えた高い石垣の上に、天守閣の聳える堅固な防備の城郭とは異なり、天守閣のない屋形造りの居館であった。 
関が原以降の江戸初期、島津家久が築城、幕末まで島津家の居城となっていた。


島津家は、鎌倉幕府の創立以来700年間変わることなくこの地を収めている。
藩内は鶴丸城に一極集中して藩経営を行うのではなく、その周囲に「(ふもと)」や「」といわれる武士集落を構成し、地域の行政を執り行わせるための外城(とじょう)制度というのを設けていた。 

薩摩藩は77万石といわれ、加賀藩102万石に次ぐ雄藩であったが米高に直すと37万石程度であったともいう。
また、総人口の4分の1が士族であり、この比率は全国平均の6倍にあたり財政的に非常に苦しかったという。 


その鶴丸城館は、数度の火災で焼失している。 
征韓論に破れて下野した西郷隆盛は、この焼け跡に「私学校」を設立した。 
それは薩摩王国の行政機関のようでもあり、軍事調練所でもあった。 現在は、西南戦争の弾痕が目立つ石垣と内堀が残っている。


市街通りの中心部といえる市立美術館のすぐそばに、樹木に囲まれて西郷銅像がスックと立つ・・!。 
台座とあわせると高さ8mの巨大銅像であり、軍服姿で凛々しく天を仰いでいる。 
顔の感じも上野の銅像に比べる服装も異なり毅然としていて、西南戦役時の緊張感と城山での最後の男の魂の覚悟が表情から読み取れる。


因みに東京上野のシンボル・西郷銅像は筒袖に兵児帯(へこおび)を締めた着流しで、犬を連れていることは周知である。 
銅像の作者は、詩人で彫刻家でもあった高村光太郎の父、高村光雲の作で明治31年12月竣工除幕した。 

こちらは、男の仕事をやり終えた満足気な表情であるが・・?、
除幕式に参列した夫人のイトさんは「全然似ていないし、うちの人はこんなみすぼらしい格好をしてなかった」と嘆き、二度と上京はしなかったともいう。 

西郷像は彰義隊のお墓に尻を向けて立っていて、彰義隊の怨霊、上野戦争の亡者が悪さをしないように、沈める為に建てられたという説もある。



国道10号線と3号線の境目の交差点には、広々とした境内に照国神社がある、島津斉彬を祭神としてまつる神社である。 
薩摩藩主28代・島津斉彬は僅か7年の藩主のあいだ、先にも記したが西洋文明の吸収に努めて工業を興し(集成館事業)、西郷隆盛や大久保利通らを育て、近代日本の基礎を築いた名君である。 

境内には斉淋、久光、忠義三候の銅像が立っている。

更に、1km先、鹿児島中央駅前の、台風時の洪水でも有名になった「甲突川」(こうつきがわ)界隈は加治屋町といって、歴史上まれにみるユニークな一画である。 幕末から明治時代にかけて近代日本の創世に携わった多くの偉人たちが生まれ育ったエリアであり、 周辺は西郷隆盛、大久保利通をはじめ、少し歩けば大山巌、村田新八、東郷平八郎など、余りにも有名な偉人たちの生誕の碑が残る一画なのである。

なぜ、このエリアから偉人たちが多く育ったのか・・? 
薩摩藩特有の外城と言われる一角の武士達は「郷士」と呼ばれ、西郷隆盛と大久保利通は、たまたま同じ界隈に暮らし、お互いがいいライバルだったといえる。

西郷は島津斉彬に、また、大久保は島津久光に登用されたが、そんな二人の大先輩を慕って大山巌や東郷平八郎など多くの偉人たちが次々と育っていったのである。 
人をもって城となす」半農半士の武士を住まわせ、それぞれの外城での郷中教育が徹底していたともいう。



ところで、城山山麓には薩摩藩にちなんだ史跡や神社が多く存在し、併せて神社仏閣といって、大抵の場合それらに伴った寺院が存在している訳だが、その寺院仏閣が見当たらない。 

調べてみたら一箇所在った。
JR線と国道10号が交差するところに、一寸モダンな「高野山最大乗院」という真言宗の寺が。 島津氏縁(ゆかり)の場所に建つ寺院として歴代の藩主の尊崇が厚い寺院であったが、しかし明治2年の廃仏毀釈の時、最初にターゲットとされ破壊された寺であり、現存するのは明治29年に創建したもので比較的新しいという。


ところで、仏教王国の日本は各地に名刹・古刹と呼ばれる寺院が残され、「京都八百八寺」と言う様に、異なる空間を散策できる楽しさがあり、昨今ブームの和辻哲郎や五木寛之の《古寺巡礼》の世界などが体験できる。 

しかし、ここ薩摩の地、鹿児島県に関しては千数百年の時間を超えた静寂なる風情を味わえる寺院が皆無といっていいほどないという。 
特に仏教寺院に関してはこれが顕著だという。
今は「○○院跡」という碑や破壊をまぬがれた墓石や仁王像が微かにあるのみと。


明治維新の歴史の中の暗い一面として、「神仏分離」併せて「廃仏毀釈」の政策があり、全国に嵐のように飛び火した時である。 
薩摩の地では、顕著にその傷跡が各地に散見されるという。

薩摩での廃仏毀釈運動は、既に江戸期の末頃には始まっていたとされている。 
江戸期に林羅山などの朱子学(権力支配の正統性を説く)が盛んになり、元々、薩摩には薩南学派と呼ばれる筋金入りの朱子学の伝統があり、この思想が国学へ転向していく。 

国学は国体を維持する。 所謂、富国強兵が基本になっている教えであり、長い間の伝統で寺院を軽視する思想の土台が用意されていたのである。

幕末の薩摩藩にとって何よりも富国強兵が必要で、そのためには、寺院勢力からも経済的助成が必要になり、従って、いち早く神仏分離政策を推し進め、藩内の寺院の僧侶は兵に、梵鐘を徴発して武器製造に充当したとされる。 

名君の誉れ高い島津斉彬もその意志は受け継がれ、島津久光もその藩全体の意志を奉じる形で、神仏分離政策を推進していった。 

維新を迎えた薩摩では、新政府の財政難を支える意味からも、寺院の財産没収と僧侶の兵士への転職の一石二鳥政策が進められ、この結果として藩内の寺院1000程度が廃寺となり、3000人の僧侶が失職、結果として多くが軍人となり薩摩藩が得た財源は、寺領合わせると約10万石にも達した言われている。



ところで、本州終着の地・鹿児島は各国道の終着、始発にもなっている・・! 。
照国神社の前の左右、正面の広い通りは、海岸に向かって左は10号線、右が3号線、そして正面が薩摩半島の沿岸を一周している226号線である。(実際は225であるが市内で226に引き継ぐ)

国道3号線は大江戸・日本橋の1号線より発し、大阪駅付近梅田より2号線、福岡県北九州市門司より3号線となって鹿児島に至っている。 

3号線は主に九州の西側の主要都市を通るのに対して、同じく北九州市門司より発して東の主要都市を巡って、同地点へ至っているのが10号線である。

そして、すぐ横の西郷銅像の正面の道は、国道58号線で海岸に向かっている。 
市内では、たった700メートルの短い国道で「朝日通り」との愛称があるが、驚いたことに、この国道は実は沖縄まで延びていたのである・・!!。 

途中、種子島、奄美大島を経て沖縄本島に達する。 所謂、海上区間が大部分を占めているのである。 
小生もそうだが、沖縄を訪れた人は、この58号線が沖縄本島の大幹線道路になっているのである。 

そして、その距離であるが・・、
陸上距離では255kmで、海上区間を含めた場合だと総延長は約857kmとなり、日本国内の最延長である国道4号(東京・日本橋から青森の全長739km)を抜いて日本最長の国道となっているのである・・!。 いやはやである。


因みに、東海道に相当する路線が国道1号、山陽道に相当する路線が国道2号、そして、主に九州西海道である国道3号線は北九州市から鹿児島市を結んでいる。 
大江戸・日本橋より薩摩・鹿児島の照国神社前までの総延長距離は1490.7kmである。

序ながら、小生の日本周遊の出発点:神奈川県厚木市から本日、鹿児島・指宿までの車での総走行距離は4904kmであった 。


次回は、「知覧




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2011年7月6日水曜日

日本周遊紀行(146)鹿児島  「西郷南州遺訓」

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 日本周遊紀行(146)鹿児島  「西郷南州遺訓」  .



『南洲翁遺訓』は、旧庄内藩・藩士が作ったものであった。それは何故か・・? 、

『 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。 』


『 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。 』


南洲翁遺訓」の中の一節である。
この小冊子は鹿児島とは程遠い、山形・庄内藩士が出稿したものである。


それは何故か・・? 。

庄内藩(今でいう山形県米沢)は、鳥羽・伏見の戦いの契機となった江戸薩摩藩邸焼き討ち事件や戊辰戦争では薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。 
そのため、戦後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。 

しかし、実際は温情ある極めて寛大もので、これには陰で「西郷隆盛」が指示したもの言われている。
西郷の考えは、敗戦者といえども新しい時代の同胞である・・と。 

そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に甚く(いたく)感激、感謝し、後日、人知れず筋道をたてて西郷を訪ね、教えを請うようになったという。 

旧藩士76人を引き連れ、明治3年(1870年)に、鹿児島の西郷を訪ね教えを請い、薩摩の人材教育を学んだ。 
後年、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたのが、明治23年発刊された「南洲翁遺訓」である。


尤も、西郷の寛大な処分については、もう一つの理由も有ったとされている。 
それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 
本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて勉学を重ねながら、一方では経済面においては藩の御用向き等を株式組織にするよう提案している。 
西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか・・、とも言われている。



城山の北東約1キロメートルの所、鹿児島駅裏手の錦江湾と桜島を望む丘に、西郷隆盛をはじめ桐野利秋、村田新八など西南戦争で戦死した2023名が葬られている。

南洲」とは勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 
その整然と居並ぶ墓石群は異様な迫力に満ちているといい、それは東京へ向って今まさに進軍しようとする薩摩隼人の隊列を思わせるという。 
この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、中でも目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌が設えてあるという。 

西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、壮絶な戦死をしているのである。 

墓地の両側には西郷隆盛を祭る南洲神社、西郷南洲顕彰館などがある。
そして、山形県酒田市の飯森山にも「南洲神社」が鎮座している。 

戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を指導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、かの地、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。



西郷を観るとき、多くの歴史家の間で倒幕までの西郷は評価するが、維新後の彼は保守反動的で旧武士階級、つまり薩摩士族の既得権益を守ろうとする守旧派だったと切り捨てる向きもある。 
政治家として死に場所を求め、故に戦争を想定して朝鮮への使節を自ら望んだと。 


西郷を記した「翔ぶが如く」の司馬氏も「西郷には維新後の国家設計の青写真はなかった」と述べている。

しかし、西郷は藩政において一時期、税徴収など積極的に藩の仕事をこなし、農民達の苦渋の有様を見聞して回っている。 
又、藩主・島津斉彬に見出され、欧米列強から守るため近代技術を導入しようとした藩主の手助けをしているのであり、この西郷が将来の国家像を描いてない訳はないのともいう。 

明治の思想家、内村鑑三は「西郷は常に“私捨公人”の人で、彼ほど人生に欲得の無い人物を知らない」と感嘆している。


西郷隆盛はどんな人物であったのか・・? 
なぜ多くの人が西郷を慕い、戦いに従い、庶民がその死を悼み、肖像画や銅像を造られたのか・・?。 

権力のトップに上り詰めても人間のあり方、モラルや道義を重視し、政治や外交の場でもその人間性を貫こうとした。

児孫に美田を残さず」の如く、地位や金銭、名誉には淡々として、権力には驚くほど執着が薄く淡白であった。 

維新が達成されて明治以降西洋的な近代的、合理主義が導入される中、日本人らしく大儀に重んじ、「道義の巨人」ともいうべき人物が西郷の人格そのものであったのである。


次回は、「鹿児島市内」



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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2011年7月5日火曜日

日本周遊紀行(146)鹿児島   「西郷南州遺訓」

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日本周遊紀行(146)鹿児島  「西郷南州遺訓」 .



『南洲翁遺訓』は、旧庄内藩・藩士が作ったものであった。それは何故か・・? 、

『 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。 』


『 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。 』


南洲翁遺訓」の中の一節である。
この小冊子は鹿児島とは程遠い、山形・庄内藩士が出稿したものである。


それは何故か・・? 。

庄内藩(今でいう山形県米沢)は、鳥羽・伏見の戦いの契機となった江戸薩摩藩邸焼き討ち事件や戊辰戦争では薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。 
そのため、戦後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。 

しかし、実際は温情ある極めて寛大もので、これには陰で「西郷隆盛」が指示したもの言われている。
西郷の考えは、敗戦者といえども新しい時代の同胞である・・と。 

そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に甚く(いたく)感激、感謝し、後日、人知れず筋道をたてて西郷を訪ね、教えを請うようになったという。 

旧藩士76人を引き連れ、明治3年(1870年)に、鹿児島の西郷を訪ね教えを請い、薩摩の人材教育を学んだ。 
後年、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたのが、明治23年発刊された「南洲翁遺訓」である。


尤も、西郷の寛大な処分については、もう一つの理由も有ったとされている。 
それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 
本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて勉学を重ねながら、一方では経済面においては藩の御用向き等を株式組織にするよう提案している。 
西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか・・、とも言われている。



城山の北東約1キロメートルの所、鹿児島駅裏手の錦江湾と桜島を望む丘に、西郷隆盛をはじめ桐野利秋、村田新八など西南戦争で戦死した2023名が葬られている。

南洲」とは勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 
その整然と居並ぶ墓石群は異様な迫力に満ちているといい、それは東京へ向って今まさに進軍しようとする薩摩隼人の隊列を思わせるという。 
この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、中でも目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌が設えてあるという。 

西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、壮絶な戦死をしているのである。 

墓地の両側には西郷隆盛を祭る南洲神社、西郷南洲顕彰館などがある。
そして、山形県酒田市の飯森山にも「南洲神社」が鎮座している。 

戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を指導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、かの地、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。



西郷を観るとき、多くの歴史家の間で倒幕までの西郷は評価するが、維新後の彼は保守反動的で旧武士階級、つまり薩摩士族の既得権益を守ろうとする守旧派だったと切り捨てる向きもある。 
政治家として死に場所を求め、故に戦争を想定して朝鮮への使節を自ら望んだと。 


西郷を記した「翔ぶが如く」の司馬氏も「西郷には維新後の国家設計の青写真はなかった」と述べている。

しかし、西郷は藩政において一時期、税徴収など積極的に藩の仕事をこなし、農民達の苦渋の有様を見聞して回っている。 
又、藩主・島津斉彬に見出され、欧米列強から守るため近代技術を導入しようとした藩主の手助けをしているのであり、この西郷が将来の国家像を描いてない訳はないのともいう。 

明治の思想家、内村鑑三は「西郷は常に“私捨公人”の人で、彼ほど人生に欲得の無い人物を知らない」と感嘆している。


西郷隆盛はどんな人物であったのか・・? 
なぜ多くの人が西郷を慕い、戦いに従い、庶民がその死を悼み、肖像画や銅像を造られたのか・・?。 

権力のトップに上り詰めても人間のあり方、モラルや道義を重視し、政治や外交の場でもその人間性を貫こうとした。

児孫に美田を残さず」の如く、地位や金銭、名誉には淡々として、権力には驚くほど執着が薄く淡白であった。 

維新が達成されて明治以降西洋的な近代的、合理主義が導入される中、日本人らしく大儀に重んじ、「道義の巨人」ともいうべき人物が西郷の人格そのものであったのである。


次回は、「鹿児島市内」



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




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日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷と城山」

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 日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷と城山」 





写真:南州洞に立つ「西郷南州像」(南州は西郷の愛称)



 戦争を嫌った西郷は、その戦争で城山の地に散った・ ・、

鹿児島市街に入って、先ず、「城山」へ向かった。
案内に従って鹿児島本線沿いに進むと、中腹に「南州洞窟」というのがあり、石柵に囲まれて数個の洞窟は暗く沈んでいるようだ、すぐ横に大きな西郷隆盛の像もあった。  

西南戦役で敗れた西郷が、各地を転戦し最後に郷里のこの地・城山で自決するまでの5日間をすごしたという。 

更に、進むと頂上の展望地へでた。城山は高さ107メートルの小高い台地で、クスの木や多くの植物が青々と茂り、展望台からは市街地を眼下に、錦江湾を隔てて雄大な桜島が眺められる。 

城山は元々南北朝時代の豪族の山城跡だそうで、この地を有名にしたのは明治10年の西南戦争の際に西郷隆盛が自刃した最期の地ということで、史跡・天然記念物に指定されている。


鹿児島・城山に来たからには西郷の最後を語らねばなるまい。 

太政官政府の参議を辞して故郷の鹿児島に帰った後、西郷隆盛が兵をあげてから7ヶ月、九州各地を転戦の末、城下の城山に西郷軍が立てこもり、最後を迎えることになる。

そして、奇しくも今年は(1877⇒2007年)西郷が亡くなって今年で130年目にあたるという。



日本の近現代史には国の命運を決定ずける分かれ道がいくつかあったが、中でも130年前の西郷の死は、とりわけ大きな分かれ道であったとも言われる。 
西南戦争は、1877年(明治10)におこった西郷隆盛を中心とする明治期最大の内乱であって、そして西郷の「征韓論」は破れたのである・・?。


征韓論」について・・、
海を隔てた隣国・朝鮮は李王朝の時代で、鎖国排外を国是とする執政期であった。 

日本は、国内事情も含めて再三にわたり国交・通商を要求をしたが、ことごとく拒否されてしまう。
その結果日本では朝野(朝廷と民間)をあげて征韓論がおこり,これを期に武力を背景とした威嚇によって目的を達しようとした。

西郷は閣議において朝鮮への出兵論に反対し、平和的道義的交渉による日韓国交の正常化を力説し、自ら朝鮮に赴くことを決意する。 
実は、西郷は公的な場で武力による「征韓」を主張したことは一度もなく、それらを示す史料にしても現在まで発見されていないという。 

ところが、同郷の大久保利通や岩倉具視の政治的陰謀によって西郷の非戦の悲願は葬られてしまう。
これが、征韓(明治六年政変)の是非をめぐる政争であり、真相であるともいわれる。 

現に、非征韓派とされていた岩倉らが主導する明治政府は、西郷が野に下ったわずか2年後、朝鮮に軍艦を派遣、武力を背景にした「江華島事件」を起している。 

結果は日本側の勝利に終ったが、この時、かって欧米が日本に行ったように、朝鮮との間に無理やり修好条約を結ばせ、所謂、不平等条約を結んで開国させたのである。 

これは平和的開国を求めた西郷の「王道」に対して、当時の政府が覇道(武力・権謀を用いて国を治めること)を進み始めたことを意味することになる。


江華島事件(こうかとうじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件であり、日本側の死者2名に対して朝鮮側の死者は35名と言われている。

この事件が朝鮮政府にあたえた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対を抑えて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されている。



平和的征韓論の西郷、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らは参議を辞して下野(げや:官職を辞して民間に下る)した。 
西郷の下野帰国とともに、西郷に同調して鹿児島出身の近衛兵や官吏数百人が辞職して帰国してしまう。 
郷里での西郷は「私学校」などを設立して、国難に殉ずべき子弟の教育をめざした。 
県令(県知事)・大山綱良も西郷に協力し、私学校の経費を県費から捻出し、また県内各地の区長や警察官に私学校徒を当てた。

この様子を察した政府・総裁局顧問(実質的な初代宰相)の木戸孝允(長州・桂小五郎)は「鹿児島県は半独立国の観あり」と非難したという。

明治10年に至るまでの国内情勢は廃藩置県から地租改正、更には徴兵令・廃刀令・秩禄処分(明治政府の華・士族への家禄支給の廃止政策)を施行した。 

これに対して武士の名誉や生活権を奪われたとして、旧士族の反感が全国に漲って(みなぎって)いた。 
このような世情の中、江藤新平は遂に「佐賀の乱」を起し、つづいて熊本の「神風連の乱」、「秋月の乱」、前原一誠の「萩の乱」等が各地で起こった。

これらに合せるように全国の不平士族は西郷の蹶起を待望したが、彼は逸る(はやる・心がせく)私学校生徒らを抑えることに専念し、立とうとはしなかった。 

ところが政府は旧薩摩藩士らで組織された警視庁巡査を郷里・薩摩に派遣し、私学校徒と郷士族の離間を計り、県下の政情視察しながら一方、薩摩にある政府所管の弾薬武器を大阪に移転しようとした。 
警視庁巡査達は県下の政情視察を理由に、真の狙いは西郷暗殺をもくろんでいると私学校徒にうけとられ、憤激した私学校徒は運搬中の武器、弾薬を強奪してしまう。 

事態が緊迫する中、遂に西郷も私学校の生徒達を抑えきることが出来ず、事ここに及んでは「おはんらにやった命」と一言いい、私学校徒と行動をともにすることになる。


西郷はついに立ち上がり『政府に尋問の筋、これあり』と唱えて、部隊の編成が開始され、正式に薩軍を整えて出兵を決定し、途中、九州各地の不平士族も加わり遂に、明治10年西南戦争へと突入したのである。
西郷の兵力約3万のうち、1万3千が私学校員で占められた精鋭であった。

西郷は、先ず政府熊本鎮台のある熊本城を攻めた。 
国民皆兵制度によって誕生した農民・町民兵士が守る熊本城を、薩摩の士族で組織された正式軍隊が攻めるのだから、早々に城は落ちると思われた。 

しかし、熊本城は持ちこたえ、二ヶ月後には有栖川宮熾仁(たるひと)親王を征討総督に陸軍卿・山県有朋を首領とした政府軍が入城、兵力・武器・弾薬の補給に優った政府軍が優勢になった。

薩軍は熊本城、田原坂、山鹿での激戦の後、次第に劣勢に立たされ、西郷軍は退却を余儀なくされる。 政府軍に追われた薩軍は鹿児島に戻り「城山」に布陣する。

この時、城山に向って惜別の演奏をしたのが海軍軍楽隊、楽長・中村裕康ら23人であったという。 

日本の本格的な西洋音楽は、薩英戦争(1863年)で英艦の軍楽隊を聞いた薩摩藩から始まったとされるが、中村はこの軍楽伝習隊の一人だだったという。 
城山最後の夜、薩摩軍はこの世に思い残す事無く、「西郷どん」との別れの宴を開いた。 

この時、城山周辺には詩吟、薩摩琵琶、フルートやギターが響きわたったという。


政府軍の攻撃に追い詰められた西郷は城山の岩崎谷に本陣を構え、最後の五日間を西郷洞窟で過して、1877年9月24日に自刃した。  
享年49才(51歳の説もある)であった。

西南の役』 漢詩から  

偶感」 西郷南州
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉砕愧甎全
吾家遺法人知否
不為児孫買美田

偶感」(詠み)      
幾たびか辛酸を歴(え)て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全(せんぜん )を愧(は)ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず

偶感」(現代訳)
幾たびか困難を経て意思も強固になり 
不業不屈の精神は養われる
男子たるものは たとい玉となってくだけるとも、
瓦となって身の安全をはかるのを羞とするものである
我が一家の遺訓を人は知っているだろうか
児孫のために立派な田地を買い残すことはしないのである 
(大久保利通に当てた書簡でもある)

城山」 西 道仙(明治期のジャーナリスト・政治家・教育家・医者)
孤軍奮闘破囲還
一百里程塁壁間
吾剣既折吾馬斃
秋風埋骨故郷山

城山(詠み) 
孤軍奮闘 囲みを破って還(かえ)る
一百の里程 塁壁(るいへき)の間
吾が剣は既に折れ吾が馬は斃(たお)る
秋風(しゅうふう)骨を埋(うず)む故郷の山


次回は、「南州遺訓




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《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




2011年7月4日月曜日

日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷と城山」

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日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷と城山」





写真:南州洞に立つ「西郷南州像」(南州は西郷の愛称)



 戦争を嫌った西郷は、その戦争で城山の地に散った・ ・、

鹿児島市街に入って、先ず、「城山」へ向かった。
案内に従って鹿児島本線沿いに進むと、中腹に「南州洞窟」というのがあり、石柵に囲まれて数個の洞窟は暗く沈んでいるようだ、すぐ横に大きな西郷隆盛の像もあった。  

西南戦役で敗れた西郷が、各地を転戦し最後に郷里のこの地・城山で自決するまでの5日間をすごしたという。 

更に、進むと頂上の展望地へでた。城山は高さ107メートルの小高い台地で、クスの木や多くの植物が青々と茂り、展望台からは市街地を眼下に、錦江湾を隔てて雄大な桜島が眺められる。 

城山は元々南北朝時代の豪族の山城跡だそうで、この地を有名にしたのは明治10年の西南戦争の際に西郷隆盛が自刃した最期の地ということで、史跡・天然記念物に指定されている。


鹿児島・城山に来たからには西郷の最後を語らねばなるまい。 

太政官政府の参議を辞して故郷の鹿児島に帰った後、西郷隆盛が兵をあげてから7ヶ月、九州各地を転戦の末、城下の城山に西郷軍が立てこもり、最後を迎えることになる。

そして、奇しくも今年は(1877⇒2007年)西郷が亡くなって今年で130年目にあたるという。



日本の近現代史には国の命運を決定ずける分かれ道がいくつかあったが、中でも130年前の西郷の死は、とりわけ大きな分かれ道であったとも言われる。 
西南戦争は、1877年(明治10)におこった西郷隆盛を中心とする明治期最大の内乱であって、そして西郷の「征韓論」は破れたのである・・?。


征韓論」について・・、
海を隔てた隣国・朝鮮は李王朝の時代で、鎖国排外を国是とする執政期であった。 

日本は、国内事情も含めて再三にわたり国交・通商を要求をしたが、ことごとく拒否されてしまう。
その結果日本では朝野(朝廷と民間)をあげて征韓論がおこり,これを期に武力を背景とした威嚇によって目的を達しようとした。

西郷は閣議において朝鮮への出兵論に反対し、平和的道義的交渉による日韓国交の正常化を力説し、自ら朝鮮に赴くことを決意する。 
実は、西郷は公的な場で武力による「征韓」を主張したことは一度もなく、それらを示す史料にしても現在まで発見されていないという。 

ところが、同郷の大久保利通や岩倉具視の政治的陰謀によって西郷の非戦の悲願は葬られてしまう。
これが、征韓(明治六年政変)の是非をめぐる政争であり、真相であるともいわれる。 

現に、非征韓派とされていた岩倉らが主導する明治政府は、西郷が野に下ったわずか2年後、朝鮮に軍艦を派遣、武力を背景にした「江華島事件」を起している。 

結果は日本側の勝利に終ったが、この時、かって欧米が日本に行ったように、朝鮮との間に無理やり修好条約を結ばせ、所謂、不平等条約を結んで開国させたのである。 

これは平和的開国を求めた西郷の「王道」に対して、当時の政府が覇道(武力・権謀を用いて国を治めること)を進み始めたことを意味することになる。


江華島事件(こうかとうじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件であり、日本側の死者2名に対して朝鮮側の死者は35名と言われている。

この事件が朝鮮政府にあたえた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対を抑えて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されている。



平和的征韓論の西郷、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らは参議を辞して下野(げや:官職を辞して民間に下る)した。 
西郷の下野帰国とともに、西郷に同調して鹿児島出身の近衛兵や官吏数百人が辞職して帰国してしまう。 
郷里での西郷は「私学校」などを設立して、国難に殉ずべき子弟の教育をめざした。 
県令(県知事)・大山綱良も西郷に協力し、私学校の経費を県費から捻出し、また県内各地の区長や警察官に私学校徒を当てた。

この様子を察した政府・総裁局顧問(実質的な初代宰相)の木戸孝允(長州・桂小五郎)は「鹿児島県は半独立国の観あり」と非難したという。

明治10年に至るまでの国内情勢は廃藩置県から地租改正、更には徴兵令・廃刀令・秩禄処分(明治政府の華・士族への家禄支給の廃止政策)を施行した。 

これに対して武士の名誉や生活権を奪われたとして、旧士族の反感が全国に漲って(みなぎって)いた。 
このような世情の中、江藤新平は遂に「佐賀の乱」を起し、つづいて熊本の「神風連の乱」、「秋月の乱」、前原一誠の「萩の乱」等が各地で起こった。

これらに合せるように全国の不平士族は西郷の蹶起を待望したが、彼は逸る(はやる・心がせく)私学校生徒らを抑えることに専念し、立とうとはしなかった。 

ところが政府は旧薩摩藩士らで組織された警視庁巡査を郷里・薩摩に派遣し、私学校徒と郷士族の離間を計り、県下の政情視察しながら一方、薩摩にある政府所管の弾薬武器を大阪に移転しようとした。 
警視庁巡査達は県下の政情視察を理由に、真の狙いは西郷暗殺をもくろんでいると私学校徒にうけとられ、憤激した私学校徒は運搬中の武器、弾薬を強奪してしまう。 

事態が緊迫する中、遂に西郷も私学校の生徒達を抑えきることが出来ず、事ここに及んでは「おはんらにやった命」と一言いい、私学校徒と行動をともにすることになる。


西郷はついに立ち上がり『政府に尋問の筋、これあり』と唱えて、部隊の編成が開始され、正式に薩軍を整えて出兵を決定し、途中、九州各地の不平士族も加わり遂に、明治10年西南戦争へと突入したのである。
西郷の兵力約3万のうち、1万3千が私学校員で占められた精鋭であった。

西郷は、先ず政府熊本鎮台のある熊本城を攻めた。 
国民皆兵制度によって誕生した農民・町民兵士が守る熊本城を、薩摩の士族で組織された正式軍隊が攻めるのだから、早々に城は落ちると思われた。 

しかし、熊本城は持ちこたえ、二ヶ月後には有栖川宮熾仁(たるひと)親王を征討総督に陸軍卿・山県有朋を首領とした政府軍が入城、兵力・武器・弾薬の補給に優った政府軍が優勢になった。

薩軍は熊本城、田原坂、山鹿での激戦の後、次第に劣勢に立たされ、西郷軍は退却を余儀なくされる。 政府軍に追われた薩軍は鹿児島に戻り「城山」に布陣する。

この時、城山に向って惜別の演奏をしたのが海軍軍楽隊、楽長・中村裕康ら23人であったという。 

日本の本格的な西洋音楽は、薩英戦争(1863年)で英艦の軍楽隊を聞いた薩摩藩から始まったとされるが、中村はこの軍楽伝習隊の一人だだったという。 
城山最後の夜、薩摩軍はこの世に思い残す事無く、「西郷どん」との別れの宴を開いた。 

この時、城山周辺には詩吟、薩摩琵琶、フルートやギターが響きわたったという。


政府軍の攻撃に追い詰められた西郷は城山の岩崎谷に本陣を構え、最後の五日間を西郷洞窟で過して、1877年9月24日に自刃した。  
享年49才(51歳の説もある)であった。

西南の役』 漢詩から  

偶感」 西郷南州
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉砕愧甎全
吾家遺法人知否
不為児孫買美田

偶感」(詠み)      
幾たびか辛酸を歴(え)て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全(せんぜん )を愧(は)ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず

偶感」(現代訳)
幾たびか困難を経て意思も強固になり 
不業不屈の精神は養われる
男子たるものは たとい玉となってくだけるとも、
瓦となって身の安全をはかるのを羞とするものである
我が一家の遺訓を人は知っているだろうか
児孫のために立派な田地を買い残すことはしないのである 
(大久保利通に当てた書簡でもある)

城山」 西 道仙(明治期のジャーナリスト・政治家・教育家・医者)
孤軍奮闘破囲還
一百里程塁壁間
吾剣既折吾馬斃
秋風埋骨故郷山

城山(詠み) 
孤軍奮闘 囲みを破って還(かえ)る
一百の里程 塁壁(るいへき)の間
吾が剣は既に折れ吾が馬は斃(たお)る
秋風(しゅうふう)骨を埋(うず)む故郷の山


次回は、「南州遺訓




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日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷どん」

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  日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷どん」   ,



写真:鹿児島市内を見守る「西郷どん」、市民(特に男性)は常にこの姿を見ながら暮らしている。



西郷隆盛は一度死んでいる・・!?

薩摩・鹿児島へ着いたら、先ずは「西郷隆盛」であろう。

西郷隆盛を喩えて、土佐の勤皇志士・中岡慎太郎は・・、

『 この人学識あり、胆略有り、常に寡言(寡黙)にして思慮勇断に長じ、たまたま一言発すれば、確然、人の肺腑を貫く 』 と言い、

又、同じく坂本竜馬は・・、

『 西郷は馬鹿である。 しかし、その馬鹿の幅がどれ程大きいか判らない、小さく叩けば小さく成り、大きく叩けば大きく成る 』と称している。 

西郷隆盛」の関係本は多々発刊されているが、中でも長編小説は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」は、NHKで1990年に放送された28作目の大河ドラマでもあり、薩摩藩と西郷を中心に、幕末から明治維新までをエネルギッシュに描いる。(全10巻・文春文庫・文藝春秋)

又、海音寺潮五郎の「西郷隆盛」(全14巻・朝日新聞社)、そして古くは林房雄の「西郷隆盛」(全11巻・徳間文庫・徳間書店)などが出版されている。 


歴史物の好きな小生はこの内、「翔ぶが如く」と林房雄の「西郷隆盛」を読んでいる。 
林房雄のはかなり若い時分で記憶が定かで無いが、先に記した人間味溢れる西郷と僧・月照の悲運のやり取りが今も記憶に残っている。 



この時、西郷は一度、命を亡くしている・・

江戸期、幕末に吹いた嵐は「安政の大獄」として大老・井伊直弼が進めた所謂、尊王攘夷派(天皇の権威の絶対化と封建的排外主義とを結合した政治思想をもつ)に対する弾圧である。 
安政五年(1858)年、滋賀県の彦根藩主から幕府の最高執政官である大老(老中の上の位)になった井伊直弼はスパイを方々に放ち、攘夷運動家を徹底的に弾圧する。


西郷の若かりし頃、西郷隆盛は生家の鍛冶屋町の「郷中」のリーダーとして、郷中頭となりその指導力を発揮する。
そして、当時の薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)の熱い寵愛を受け、西郷も斉彬に対して強い忠誠心を持っていた。 

島津斉彬は藩主に就任するや藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設等、科学技術開発の集成館事業などを興す。 
又、内政にも昂じ、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂とも交流をもち、幕末の四賢侯とも称された。

安政5年(1858年)大老に就いた井伊直弼は、地位を利用し強権を発動するが、斉彬は、その政治手法や将軍世継問題で真っ向から対立した。 
斉彬のことを「近世最第一なるべし」と評価したのは越前・福井藩の松平慶永(春嶽)であり、勝海舟も「えらい人だったよ・・!!」と語る。

斉彬と同じ時代を生き、辛口評価で知られる勝にさえ名君と言わしめ、物凄い迫力のある藩主と感じていたらしい。

西郷はこんな斉彬の事実上の私設秘書であった。

しかし、斉彬は練兵の最中に発病し、50歳の若さで急死してしまう。
その報(しらせ)が京都の西郷の元に伝えられると西郷は巨体を震わせて泣き、薩摩の帰路に腹を切って殉死(主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること、おいばら)を覚悟するのだった。 
しかし、清水寺・成就院の僧、西郷が最も信頼する友人である「月照」によって制止され、説得されて薩摩のために生き抜くことを決心する。 
だが、その深いつながりを持った月照と西郷との間には悲劇的な結果が待っていた。

安政の大獄を発した井伊直弼は尊皇攘夷派を徹底的に弾圧し、西郷も追捕されることになり、合せて月照も攘夷勤皇の僧として幕府のお尋ね者になる。 
先に鹿児島に戻っていた西郷は、追手に追われる月照上人を薩摩に迎えるが、しかし、斉彬の死後、次期藩主は久光の時代になっていて薩摩の事情は一変していたこともあり、西郷は月照の扱いに苦慮していた。 
更には藩主久光は西郷を毛嫌いするようになり、月照を匿うことはおろか国境で殺害する手はずとなってしまう。 

幕府に追われ、久光に嫌われた西郷は身の置き場がなくなり、月照暗殺の通達が出るに至っては薩摩藩の態度にすっかり失望し、また、月照の身を守れなかったことに悲観して死を覚悟した。 
そして遂に、月照と二人で錦江湾(鹿児島湾)に身を投げたのである、切腹しなかったのは相手が僧侶だったためであった。

ところが、二人のうち図体の大きい西郷のほうが助かってしまい、藩ではこの事態をどう扱うべきか迷う。
そこで、藩は「西郷は月照と自殺した」ということにし、幕府に報告したのである。 
本人には菊地源吾と名を変えさせ、奄美大島に隠遁させてもしものために罪人の死体を西郷の身代わりとして埋めていたという。 
「西郷隆盛」の苦難の時代であった。


その後の西郷は、既に周知のことであろうが・・、
大久保利通、小松帯刀(こまつたてわき)らと西南の僻地より明治の革命を成し遂げるのである。 

特に薩摩藩の代表になってから、坂本竜馬の仲立ちで、対立していた長州藩の木戸孝允と薩長同盟を結び、倒幕運動の中心人物になる。

薩長の新政府軍は、武力によって旧幕府軍を破ろうとしていたが、江戸城を攻める時には、新政府の代表として幕府側の勝海舟と話し合い、江戸の町を戦火から守った。 

その後、明治新政府の指導者の一人となってからは、廃藩置県、陸軍の整備などに尽力、改革を進めたが、朝鮮出兵を巡っての「征韓論」で、大久保利通らと意見が対立して政府を去ることになる。

次回は、西郷の最後・「城山




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01. 15.

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