2011年6月25日土曜日

日本周遊紀行(144)隼人 「熊襲と隼人」

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 日本周遊紀行(144)隼人 「熊襲と隼人」   .




神話と歴史の主要地、大隈隼人の「隼人」とは・・、

霧島神宮を後にして、国分、隼人方面に下る。
この地方は名称からして、往時の薩摩地方の中枢部といえるのではないか・・? 
西の川内から入来、姶良、牧園、霧島、そして、この地の隼人、国分、都城、西都、日南、その他の周辺地域も古代日本の歴史が表舞台に現われている地域でもある。


古代の九州の南部地方は「日向の国」(ひむか、ひゅうが)と言われて「日向:ひゅうが」、「薩摩:さつま」、「大隅:おおすみ]の三つに分けられたは、律令国家が成立した奈良朝以降のことである。 

この隼人、国分は薩摩(地域)半島と大隈(地域)半島との付け根、中間に位置しているが、どちらかと云えば大隅地域に属している。 


この地に「大隅隼人」という人種が根拠を持っていて、これらの部族を「隼人族」とも称している。 

古代の隼人族は北方系の民族であるとか、沖縄経由の南方ルートからやって来た(隼人・ハヤヒトのハヤはハエ・南風で東南アジア方面を指すとも、国分市上野原遺跡〉民族と関係があるとか伝説、史実入り混じり諸説あるようだ。 

又、この辺り「熊襲」という名も目に付く。 
熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する一族名で、南九州に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗した一族名であろうが、地域名をも意味するとされる語でもある。 
日本書紀には「熊襲」と表記され、古事記には「熊曾」と表記されてるという。


有史の初めのころは熊本の南部の広い地区を「球磨」と呼び、現在の宮崎県の日南海岸から鹿児島県大隅半島の志布志湾以北を「曽於」とよび、総称として球磨と曽からいつの時代からか熊襲と呼ぶようになったとされている。 
その熊襲が、隼人のルーツであり対象ともされるともいわれる。


熊襲というと、北海道・東北の蝦夷(エミシ)を連想する・・?。 
蝦夷については、アイヌ民族とのかかわりで歴史上の様々なできごと、とりわけ何世紀にもわたるヤマト政権つまり天皇制国家との紛争を通してある程度のイメージを描くことできる。 

これはアイヌ文化と伝来の弥生文化(稲作における)の抗争でもあるとされるが、しかし熊襲・隼人は、蝦夷にくらべて早いうちからその独自な人間集団としての存在を失い、まったく過去の存在となってしまっていた。 


一般に、蝦夷地は日本古来のアイヌ民族の地であり、大和朝廷に属さない東北以北の原住民であったが、朝廷に服属した後は俘囚(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷・アイヌで、同化の程度の浅いものは夷俘・イフと呼んで区別)と呼ばれた。 

熊襲は隼人族の地であり朝廷に属さない南九州の原住民であったが、朝廷に服属した後は熊襲とは言わず隼人と呼んだようである。 

いずれにしても熊襲、蝦夷の共通するのは縄文期における日本の原住民であったことである。 


西日本は大陸人(いわゆる弥生渡来人系)による開発が早くから進んだため「熊襲」は、ほぼ7世紀頃までに駆逐され、その頃の弥生人の武勇伝が古事記に盛んに記録されている。 
しかし、東日本は8世紀はおろか10世紀頃になっても、まだまだ未開地(朝廷の統一国家以前)が多く、そのため縄文人の駆逐が遅れ、弥生人の進出が出来なかったことから古事記などの記録には東日本はあまり登場しない。 

古事記に東日本があまり出てこないからといって、東日本に人が住んで無かったわけではなく、多数の縄文人の天国だったからである。 
ただ、「蝦夷」というのは当時(14世紀以前)は東北に限定されていたのではなく、中部山岳を挟んで東日本全域が蝦夷だったとも言われる。 


熊襲や隼人についての一般的な文献も、蝦夷に比べて目にすることが少ないと言われ、目下、調査、研究がなされているという。

ただ、熊襲つまり隼人族は、現在の薩摩隼人に繋がっていることは確かで、熊襲につながる地名として、現在も肥後国球磨郡、大隅国贈於郡が残されている。 



2005年7月には曽於郡の末吉町、財部町、大隅町が合併し「曽於市」(そおし)が誕生している。 
この三町は、古代から熊襲(曽・くまそ)と呼ばれた人々が住む曽の国であって、「曽於」の名は昔から人々に親しまれているとし、この歴史ある地名を後世に残したい願いが込められて付されに違いない。



古代大和朝廷の起源は不透明ながら、「 大和朝廷や天皇家の起源は百済人の子孫である 」と言うのはほぼ定説となっていて記・紀等にも記述がある。 つまり北方系の人種といえる。 

渡来人である新進大和族は、鉄器文明や稲作文化を同時に北九州地域に上陸させている。

やがて、中央(畿内)に拠点を得た大和朝廷は中央集権化を計るが、九州南部の地・熊襲・隼人族は大和の中央政府に対する抵抗を繰り返す。 

記・紀の中では日本武尊(ヤマトタケル)が九州南部の熊襲を攻めた話は有名であるが、史実においても大和朝廷に刃向ったことは知られている。 

この時、隼人は大隅・日向(当時は“ひむか”とも称した)に7ヶ所の城をかまえて抗戦し、国府などを襲撃したりするが、この時、万葉集で有名な歌人・大伴旅人が率いる大和朝廷の遠征軍に敗れている。 

更に、大宰府の反乱(朝廷の中枢にいた藤原広嗣・ひろつぐが大宰府に格下げ左遷され、広嗣は大宰府の手勢や隼人などを加えて朝廷に対し反乱を起こす)のときも、中央政府軍に鎮圧されている。

初め隼人のゲリラ戦法に手を焼き、激しい戦いが1年数ヶ月も繰り広げられたが、兵器と兵力に勝る政府軍によって敗れ去っている。
この時の犠牲者は1000人以上の隼人たちが首を切られたり、多くの者が捕虜になったという記録も残っているという。

奈良時代も半ばになり、大和朝廷による支配力が強まってくると隼人族の抵抗は弱まり、隼人の国も分裂し、隼人の族長の中には県主(あがたぬし・大和朝廷時代の県の支配者、当時の大県や小県)や国造(くにのみやつこ・「国の御奴」の意、古代一郡の地方長官)になる者もいて、こうして隼人の国は大和朝廷の支配、構造の中に取り込まれてゆくことになる。


次回は、更に「薩摩隼人


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2011年6月21日火曜日

日本周遊紀行(143)霧島 「高千穂」

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 日本周遊紀行(143)霧島 「高千穂」   、




高千穂峰
写真:霧島山系の「高千穂峰」(手前は御鉢)


霧島神宮
煌びやかに佇む「霧島神宮」



高千穂峰への「天孫降臨」について・・、

古事記も日本書紀も、葦原中国(アシハラノナカツクニ)が平定された後に、ニニギノミコトが三種の神器を授けられ、神々を率いて降臨したと書かれてている。 
その場所においては、いずれもの記・紀にも「日向の高千穂の峰」と記されているが・・?。

しかし、降臨の場所についての記述は、解釈によって一定ではないとも言われる。 
ともあれ「神話」が語られていくとき、その時代設定や背景は明らかに稲作が展開する弥生時代を想定、意識して書かれているともいう。 


高天原でのスサノオの乱暴な行動の中に、田の畦を踏み壊したり、田に水を引く溝を埋めたりすることが出てくる。 
ニニギにつては先に記したが、その名はアマツヒコホノニニギノミコトという。アマツヒコは天津神の子の意味であるが、ホノニニギは稲穂が豊かに実ったことを意味しているとされ、高千穂に降臨する神話は、豊かに実っそた稲を高く積んだところに穀霊を象徴する神が降臨することを意味しているという。


神話の中のニニギは、高千穂に降臨した後、不毛のやせた土地から平地を拓き、太陽の輝く土地にしたとされている。
そして、大山祇(オオヤマズミ)の娘の木花咲耶(コノハナサクヤ)に出会い、その出会いの神話を伝えているのが木花神社(宮崎市)であり都萬神社(つまじんじゃ、西都市)であるという。 
どちらの社宮も付近から高千穂峰を遠望することができ、神話は、自然の景観と一体になって語られているのである。



その霧島山系一帯は古代から山岳信仰の対象となっており、中世においては修験道の霊山であった。
10世紀中頃に性空(しょうくう・平安中期の天台宗の僧)が修行に訪れ、山中の様々な場所に分散していた自然、山岳信仰を天台修験の体系としてまとめ、霧島六社権現(宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山の周辺にある以下の六つの権現寺社の総称)として整備した。
しかし、各寺院は明治の廃仏毀釈で霧島六社宮(筆頭が霧島神宮:当時の別当院は「華林寺」・・、等々)で統一され、いずれの社宮も日本神話に記される日向三代(ニニギの他、ホデミ、ウガヤフキアエズの三代、おいおい記載します)の神々が祀られている。



神々の秀峰を見ずして帰還するのは無念であるが、自然の営みも神の成せる業で致し方なく戻りことにする。 
丸尾の観光協会で適当な「立寄り湯」を案内して頂いた。
小さな部屋の事務所に三十半ばの面長美人・・?が独特の香化の香りを漂わせながら、親切に語って呉れる。 

「こちら、初めてですか・・?」、 
「初めても、初めてで九州自体がお初ですよ・・、日本一周の途中で・・・」、 
「わあ・・、いいなあ・・」

案内図を見ながらお互い頭を寄せ合い、会話の中の笑顔の様子にも世俗的な色香を感じたのであった。 
何か得した様な気分で事務者を出、角のファミリマートで若干の食料を調達して案内の「関原温泉」へ向かう。 
温泉場は少し行った右手に、先ず鉱泉販売所とした在った。

関平温泉は1832年、原田丑太郎という武士が霧島山南麓の国有林の渓谷内で発見し、以来こんこんと湧き続けているという。 
ミネラルを多量に含んでいるので、浴用だけでなく飲用にも適しているといい、「健康の水」としても販売されているようである。 麓にある佐藤酒造という造り酒屋は、関平名水仕込で醸造しているとか。 
霧島温泉郷に来て温泉に浸からない手は無い・・!。

その裏手を100メートルほど行くと関平温泉の共同湯がある。 
浴室は、大きな窓で明るく石張りの浴槽が2つあり、ここの温泉は別々の源泉2ヶ所からお湯をひいていて、関平温泉と「新床温泉」と称していて、二つの湯を楽しむことができる。 

浴室の中に入ると、新床温泉の湯船の方が関平温泉の湯船より大きく、主客転倒といった感じもする。 
どちらの湯船も石造りで、新床温泉の湯はちょっと黄みがかった透明であるが、関平温泉の湯は無色透明である。 
どちらの湯も癖が無く、これといった特徴もなかったような気もするが泉質は単純泉、効能は胃腸病、皮膚病、等々に良いという。



面長美人を想いながら国道223から霧島六社権現の一つ、「霧島神宮」へ向かった。
国道より離れた専用道路らしき車道を進むと立派な駐車場があり、鬱蒼とした緑陰に囲まれた参道と石段を登ると壮大で壮麗な社殿が現れた。 

広い敷地と樹齢何百年という巨木な杉に守られた緑豊な境内で、後には高千穂峰を従える。 霧島神宮は、多くの神社が一種古色蒼然とした「枯れた」印象を持つのに対して、唐様式の朱の色華が「西の日光」とも称せられており、絢爛たる朱塗の本殿、拝殿、登廊下、勅使殿等の配置も妙を得ている。
華麗な美しさを醸し出しす、この神社の主祭神は既に述べている「ニニギノミコト」を祀っている。

社務所の近く参道正面に「龍馬とお龍」と像がある。 
龍馬夫妻は1866年(慶応2年3月)、高千穂登山をし、その日の宿泊地に「華林寺泊」と道中記に記載してある。
先にも記したが、華林寺は当時霧島六社権現の一つであり、霧島神宮の神宮寺(別当寺)であったので同一と見なされていたのである。

社宮は、奈良期・六世紀頃に造られたとされているが、霧島山の大噴火による火災などで数回焼失し、1715年、時の藩主・島津吉貴公の寄進によって建てられたのが現在の社殿といわれる。 創建当時は高千穂峰の西麓の「高千穂河原」付近にあったのが、焼失と再建を繰り返して今の場所に再建されているという。 
煌びやかな霧島神宮は、平成元年5月19日、国の重要文化財に指定されている。


霧島神宮の直ぐ東側から霧島道路が山麓づたいに周遊していて、その途中に高千穂河原があり、チョット賑やかな山麓登山基地でビジターセンターなどもある。
この地が、かつての霧島神宮の所在地であり、今は古宮址として現存している。 
ここから見上げると、赤褐色の登山路から火口御鉢(おはち)やその奥に三角錐の高千穂峰が雄大に聳え立っている。

いかにも神話の伝説を秘めた天の逆鉾が立つ高千穂峰の霊峰にふさわしく屹立している。

次回は、「隼人




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2011年6月20日月曜日

日本周遊紀行(143)霧島 「韓国岳」

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 日本周遊紀行(143)霧島 「韓国岳」   、



渡来人の故郷の山・霧島山系・「韓国岳」(からくにだけ)とは・・ 、

国道223号線は小鳥のさえずりが聞こえそうな森の中を走る一本道で、つい止まって大きく深呼吸をしたくなるような快適な道路である。 
それもその筈で、この道は基本的には霧島山系の観光ルートであり、全体的に路面は走り易く良好なのは当然でもあった。 

屈曲を繰り返しながら高度をかせぎ、「まほろばの里」や緑の中に「国民休暇村」などを見過ごして、丸尾地区という霧島温泉郷の中心・・?へ来た。 
霧島探勝の好基地になっているようである。


霧島国際ホテルの白亜の建物を左に見ながら、「えびの高原」への標識に従って、霧島山系の中枢部を目指してみた。 
道路沿いには既に霧島温泉の源泉が噴出し出し、道端に「立入禁止」の表札もある。 
そこは集湯施設であり、噴煙の合間に縦横に延びている配管施設でもあった。

次には、硫黄谷温泉とあって、巨大なリゾートホテルの様な霧島ホテルがあった。
ホテルの敷地内に20ヶ所以上の泉源があり、そこから湧き出る膨大な量の温泉はすべて自噴しているとのこと。

案内によると霧島山系の中腹に位置する一軒宿の温泉ホテルで、このホテルのユニークさは自前で発電能力をもち、ホテルの電気を賄っているらしい。 
自噴の温泉井、温泉熱を利用して設置された地熱発電所で、その時、蒸気分離器で分離された熱水は温泉としてそのまま利用しているという。

その温泉は千人が一度に入浴できるという庭園大浴場や巨大な体育館のような施設の中には自噴泉の大浴槽を中心に10を超える大小様々な風呂があって、しかもこれらは混浴であるとか。 
湯質は単純酸性硫黄泉・54度、明ばん泉・50度、鉄泉・62度、塩類泉・49度とあった。 入浴料は1000円とあり家族一同、行楽で一日中利用することが出来そうである。 
ただ、一人身の旅の途中の“おっさん”には、どうも向いてないようである。

更に霧島山を目指したが、既に、濛々たる霧のガスが吹き上げてきていて視界は全く効かない、つまりホワイトアウトである。
仕方なしに戻ることにした、残念である。 



ところで、九重山系に九重山という山は無い様に、こちら霧島山には霧島山という山はなく韓国岳、獅子戸岳、新燃岳、中岳、高千穂峰などの総称で、所謂、霧島山系である。

標高1700mの韓国岳がその主峰であり、韓国岳は「からくにだけ」と読み、天気が良い日は頂上から韓国が見える・・?(実際は見えるわけない)ぐらい眺めが良いので名付けられたという。


実際、この山の名前の由来については・?、
古代、朝鮮半島からの渡来系(百済系統)の人々が豊前の国の宇佐に大量に入り込んできたとされる。 
その後、8世紀始め頃、宇佐の稲積から現在の国分隼人(霧島市)を中心に移住してきた人達がいて、この地の郷名を稲積郷、豊国郷と名付けて住みついたといわれる。

国分隼人から見える霧島連山の秀麗な山々の姿が、故国(朝鮮半島)の山々を連想させるものであったろうし、彼らは、この霧島連山最高峰の山に故国への追慕を寄せて、「韓の国」を起想しながら「韓国岳」と表記したのではないかと推測される。
又、その氏神に現在の霧島市国分に「韓国宇豆峯神社」と名づけて鎮座させ総鎮守としたという。 

宇豆峯神社の宇豆はウズと読み、これは明らかに「太秦・ウズマサ」のウズを意味しているといい、峯は韓国岳を現している。 
太秦は朝鮮から渡来した秦氏(はだし・百済から帰化した中国系住民)の居住した地域をいい、有名な京都の映画村「太秦」がそうである。 
その人たちの大半はそのまま大隅に住み着いたと言われ、そして示すように、この地域は日本で最初に「漢字」が使われた可能性もあるという。



可憐でも、その広がりは天空の絨毯と称せられる「ミヤマキリシマ」は、今は濃霧にかき消されて一望だに出来ない。ミヤマキリシマは「深山霧島」のことで、この地からその名が付いたことは周知である。

鹿児島・宮崎両県にまだかる霧島連山は、古代より信仰の対象として崇拝されてきた山々で、その秀麗な姿は全国でもまれに見る美しさといい、日本で最初に国立公園に指定されている。 
1934年(昭和9年3月)、「霧島国立公園」として日本で最初の国立公園に指定されたが、その後、1964年(昭和39年)には錦江湾(桜島)と屋久島が「霧島屋久国立公園」として追加指定されている。


霧の街・都城市から霧島連山を見ると霧に浮かぶ島々を連想させる。 
霧島」の名前は霧に浮かぶ島から命名されたと言われている。
霧島は当然活火山であり、新燃岳は昭和34年に噴火し、お鉢から今も噴煙が活発に上がってる。 

尚、霧島屋久国立公園のうち「屋久島」は、九州最高峰の宮之浦岳(みやのうらだけ、1935m 九州最高峰、日本100名山:)や縄文杉をはじめとする熱帯植物相や希少な動物が見られ、自然環境の特異性、重要性から、平成5年12月に世界遺産条約に基づく「世界遺産」として登録されている。


霧島山系の東南に位置する秀麗な山「高千穂峰」は標高1594mで、連山とされているが遠方から眺めると独立峰の山容にも見える。 
中央に高く角錐の頂が見え、その左右に一段下がって肩を張ったように稜線が際立ち、やがて雄大な裾を引く秀麗な山で、お馴染み古事記、日本書紀にも出て来る「天孫降臨」の山地であり、この山は裾野から見てもその優美さは見飽きないという。

高千穂峰は、二つの寄生火山といわれる二ツ石と御鉢(おはち)を従え天に立ち、山頂にはニニギノミコトが降臨した際、逆さに突きたてたという鉾「天の逆鉾(あまのさかほこ)」(鉄あるいは銅製、長さ138cm、周囲26cm霧島東神社の社宝)が立てられており、日本の創始の地である事を物語っているとされている。 

ご当地出身の歴代の力士の四股名「逆鉾」は、“天の逆鉾”から名付けたものであり、最近では井筒部屋所属の元力士で、本名が福薗 好昭が井筒部屋の親方となって後進の指導に当たっている。実弟に「寺尾」がいて、年寄・錣山(しころやま)として部屋の指導にあたっているのは周知である。

次回は、霧島・「高千穂




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2011年6月19日日曜日

日本周遊紀行(142)牧園 「竜馬と清麻呂」

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 日本周遊紀行(142)牧園 「竜馬と清麻呂」   、



竜馬像
写真:塩浸温泉に立つ「龍馬夫婦の新婚像」




「牧園」は、日本人で初めて「龍馬とお龍」の新婚旅行の地、そして「和気の湯」とは・・!  、

街中の川内駅前を通って串木野方面へ。 
串木野の町・「いちき串木野市」は、2005年10月11日に串木野市と市来町が新設合併して発足した新市名である。 
尚、六文字の市名は国内最長であり、茨城県「かすみがうら市」、同県の「つくばみらい市」と並ぶといい、更に、漢字と平文字の組み合わさった地域名は珍しいのでは・・?。


串木野町の南端から近年開通した南九州道へ乗る。 
鹿児島で九州道とI・Cで直結しているものと思ったが、そうではなく一旦一般道・国道3号線へ出て、その後、九州道へ乗るようである、どうして直結しないのか不思議な気もした。 走行中、錦江湾に浮かぶ「桜島」を始めて見たが、特に途中の「桜島SA」からの眺めは圧巻であり、遂に鹿児島まで来たんだなーという実感が沸々と湧くのを覚える。 

この後、一先ず高千穂でも有名な霧島山系・温泉郷へ向かいことにする。

加治木JCTを北上して鹿児島空港I・Cで下り、広大な空港の北端から県道56号を右折して霧島方面へ向う。 
空港北端の平地部より山間の低地を下ると清流・嘉例川(かれいがわ)の袂をローカル豊かな肥薩線が走っている。 
肥薩線(鹿児島本線)は熊本県の「八代」を起点に、あの球磨川に沿って人吉まで走り、さらに山間をぬって鹿児島県の錦江湾に臨む「隼人」に至る全区間非電化のローカル線である。 

車社会の到来とともにローカル線が次々と廃止されるなかで、どうにか生き延びてきた路線であろうか、直ぐ先に「嘉例川駅舎」があった。 
木造瓦屋根の鄙びた駅舎は100年以上の歴史を刻み、スタルジックでどこかに温かみを残し、人々の静かな人気を集めているという。 
天井が高く、漆喰壁の待合室には嘉例川駅で撮影された竹下景子や桃井かおりの出演のポスターが貼られ、又、黒木瞳が嘉例川駅を訪れるシーンがあった。

トンネルを潜ると間もなく国道へ出た、「天降川」(あもりがわ)といかにも意味ありげな名称の清涼な河川が流れる、なんでも天降川の名称は、その水源が天孫降臨説話において天孫天降の地とされる霧島山にあることに由来するともいう。 

左折して天降川の支流をゆっくり上ると、高原の町「牧園町」のいかにも牧歌的な町名に至った、町名からして「牧場の園」である。


霧島山系の山麓に位置するが、町域は北東部の霧島温泉郷、霧島連山の韓国岳、大浪池、新燃岳、中岳、高千穂峰などの霧島火山群が含まれる大町域でもある。 
歴史的にも太古の昔、縄文時代前期、中期の土器、石器が発掘されていて、これは今から7千年も前この地に人類が生存していたことを証するものよいう。 
後には、この山野は勇猛果敢な熊襲族の活躍した舞台であったということが幾多の伝説からも知られている。 

又、牧園町は、島津氏の領地下になる(1562年)まで幾多の変遷を経ながらも、近世の初めごろから明治の町村制実施までは「踊郷」という珍しい地域名称で呼ばれていたという。 
踊(おどり)郷は踊馬といわれる良馬の産地であったともいい、やはり牧園町であった。



合流した国道223号のところに塩浸温泉があり、「坂本龍馬新婚湯治の地」という看板が立つ。 
ご存知竜馬は、慶応2年1月23日に京都の寺田屋に潜伏していたところを襲われ、辛くも一命を取り留めたが、その後、薩摩藩に庇護されつつ西郷隆盛に勧められ、3月10日に薩摩の地に入ったとされている。
そして、この地の温泉に浸かり傷を癒していたと言われている。 

龍馬とお龍」は秀麗な霧島山の登山や温泉を楽しみながら、暫しこの鄙びた温泉宿で幕末の動乱から離れ、二人だけの世界に遊んだのであった。 
龍馬とお龍は、新婚旅行をした初めての日本人としても知られているが、その新婚旅行先がここ塩浸温泉だったのである。


坂本龍馬の「寺田屋事件」は、慶応2年(1866)1月23日薩長同盟の締結した翌々日に、薩摩藩士を装い宿泊していた龍馬を、伏見奉行配下の捕り方が寺田屋を急襲する。 
異変にいち早く気づいた婚約者のお龍は、入浴中にも関われず素っ裸に近い状態のままで裏階段より龍馬たちに急を知らせ、龍馬は所持したピストルを利用して多数の捕り方相手に大乱闘となり、手傷を負いながらも屋根伝いに逃げ川端の材木屋に隠れた。 
その知らせを聞いた薩摩藩邸では濠川(ほりかわ)沿いに舟を出し、龍馬を援護すると共に救助して伏見薩摩藩邸に匿っている。

それを聞き及んだ幕府の伏見奉行所側は再三にわたり、伏見薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求したが、これを「知らぬ、存ぜぬ」で押し通し、龍馬たちの鹿児島への脱出の機会を窺わせた。


その後、龍馬とお龍は西郷隆盛の援護を受けて、鹿児島へと旅に立つ。
龍馬は襲撃で負った刀傷を霧島の温泉で治すなど、激動する時代やその後に起きる悲劇の狭間で、お龍と二人で水入らずの一時を鹿児島で過ごすことになる。

尚、寺田屋はもう一つの事件(薩摩藩の内紛)があった。これは薩摩藩士の急進派とこれを鎮圧する体制派の薩摩藩主(島津久光)側との内紛であり、龍馬の事件と併せて歴史上の重要な二つの事件が発生している。 
いずれも薩摩が絡んでいるのでチョット混同しやすい。



牧園町の国道223号線沿い近くには、更に安楽温泉、妙見温泉と鄙びた温泉郷があり、その妙見温泉の一つに「和気の湯」という森と清流に囲まれた風流な露天風呂が在る。 

こちらは貴人・和気清麻呂が浸かった湯とも言われ、その名が付いているらしい。
日本でも一番古い露天風呂だそうで、坂本龍馬も新婚旅行の際、この湯に浸かったともいう。 
こんなに歴史のある和気の湯であるが、このすぐ近くに一寸地味ではあるが「和気神社」と呼ばれている社もある。 因みに、この神社に沿う道を「龍馬ハネムーンロード」とも言う。


和気清麻呂に関しては山陽・岡山和気町の項で述べたが、冤罪でこの地の大隈・牧園の地に流罪になっているのである。 
清麻呂は岡山・和気町の出身で、奈良期から平安期の転換期、朝廷にて桓武天皇の信任厚く活躍した人物であり、この時期、「道鏡事件」という天皇継承問題という重大事件が発生する。

道鏡事件とは称徳天皇(女性)の寵愛を受けていた僧・道鏡が、天皇を利用して政界に入り法王、更には最高権力の太政大臣にまで昇りつめ、最後には天皇の位を望むようになる。 

奈良後期の769年、豊前国の宇佐八幡宮の宮司が朝廷に「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)をもたらしたと天皇に告げる。 
しかし、このことは道鏡の偽装工作によるものであるが、それでも天皇は驚き、神意を確かめるために勅使として清麻呂が選ばれ、九州に下り宇佐八幡宮にこもって新たに御神託を得る。 
それによると「 皇位は神武天皇以来からその皇孫(皇男子)が受け継ぐべきものであり、皇孫でないものが皇位を継ぐことはならない 」と切り捨てている。 
道鏡のいう内容とは真っ向からに反対し、道鏡の野望を阻むという事件である。 

和気清麻呂はこの神託事件で称徳天皇や道鏡の怒りをかい一時、大隅の牧園の地に配流の身となるのである。 
称徳天皇が崩御し、次に桓武天皇が即位すると道鏡は失脚し、大隅国に遠島されていた清麻呂は京に戻されて復権する。 

その後の清麻呂は側近として各種事業を行い、如いては平安京遷都にも尽力する。 
清麻呂が「平安遷都」の立案者であったことは史上有名であり、京都・神護寺は平安京遷都を祝って清麻呂が建立したものという。


明治期には「皇位を守った」として護王神社にまつられ、東京にある皇居の庭園には「銅像」が建てられている。 

この万世一系の思想は(継承権は永遠に同一の系統がつづくこと、多くは皇統についていわれる)清麻呂が英断をもって発起したもので、皇室・天皇の継承問題を明確化したものであった。その意味で、「道鏡事件」は日本の皇室・天皇継承の歴史において大きな危機だった。

事件を教訓に朝廷はその後、皇位継承について一段と正統たる「男系」の原則を守るようになり、女系どころか江戸時代初期の明正天皇まで、女性天皇は900年近く実現していないし、それは現代にまで受け継がれている。

昭和憲法下でも皇位継承は世襲のものであって、皇室典範によって細かく定められている。
皇室典範第1条では「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と記され、現代では清麻呂の思想以上に具体的であるといわれる。今、皇位継承で女性天皇が取沙汰されているが、如何なものかと新たな問題提起もある。

尚、当時、秦氏系統・辛島氏の本拠がこの地に在ったとされる。 
秦氏は中国・秦の始皇帝の末裔だとされ、辛島氏は豊前・宇佐神宮を本拠としていた。 
和気清麻呂がこの地に配流されたとき、影で支えたのが辛島氏であり、清麻呂が豊前の宇佐に参り、さらに大隈のこの地に配流された背景は辛島氏との繋がりが有り、更に辛島氏の援護、協力で、この地の開拓、開発をしたともされている。

牧園町は、和気清麻呂の出身地である岡山県和気町と姉妹都市提携をしている。

次回は、「霧島




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