2011年3月2日水曜日

日本周遊紀行(91)姫路 「国宝・姫路城」

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 日本周遊紀行(91)姫路 「国宝・姫路城」  、



写真:天下の名城・「姫路城」



日本で最も美しいと言われる「姫路城」は別名「白鷺城」ともいう・・、

この大幹線道・国道2号線は早朝というのに、交通量が多く神戸、大阪方面へ向かう流通大型トラックが目に付く。 
30分程して姫路市街に入り、国道2号線をそのまま東へ進むと、やがて姫路城の天守閣が遠望できるようになる。 

大手前通りからお城の方角へ向かうと、お堀端に沿って幅広い道路が東西に走っている。
その中央に大手門があり、ここから入園(入城ではない)する。 
まず、広大な三の丸公園が目の前に広がる。 
早朝のせいか観光客は少ないが、中年の夫婦や各グループがウォーキング、ジョギングを楽しんでいる。

正面中央に丸く囲まれた園地の中心に、巨大石で「世界遺産・姫路城」の刻印が刻まれている。
そしてその背後に遠く、高く姫路城・天守閣が聳えていた。 城郭へは、正面管理棟の「菱の門」辺りから入城するのであるが、現今は、時間外で入ることはできない、入城は600円とか・・!。

通りすがりの人と、話をする機会があった。 
和歌山の人で「全国の名城」を見物旅行しているという。 小生自身のことも若干話し多いに納得されたようである。
一週間ほど前に小生の地元「小田原城」を訪門されたといい、旅行の目的とは色々あるもので、小生も大いに感心させられた。


園内より東の方角へ行き、出来るだけ本丸・天守閣に近ずくと、朝日に照らされて白く輝く五層の大天守閣が天に突き上げ、その威容を誇っていた。 
この大天守は、三つの小天守を白壁の渡櫓が結んでいる。 
空に向かって建ち並ぶ天守群と白く美しい白壁の広がの様は、天を舞う白鷺のように譬えられ、姫路城は別名「白鷺城」(しらさぎじょう・はくろじょう)ともいわれる。



姫路城は、鎌倉末期の元弘三年(1333:鎌倉時代終焉)に、播磨の守護職・赤松則村(南北朝時代、湊川の合戦で楠木正成を破った)がこの場所に砦を築いたのが始まりと言われる。
」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もあるが・・?。

山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には黒田氏や戦国期・天正八年(1580)羽柴秀吉が西国支配の根拠地として入城し、翌年三層の天守閣を築いているる。
関ヶ原の合戦後、徳川家康の女婿・池田輝政(秀吉の仲介によって家康の次女督姫・とくひめを娶る)がその戦功により姫路城主となり、戦国末期から江戸初期の慶長年間から八年の歳月をかけ大規模に城域を拡張し、姫山に五層七階の天守を築いたのが今の城郭である。

輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたりもした。
本多忠政が嫡子・忠刻とその妻千姫(徳川秀忠の長女)のために西の丸に化粧櫓を築き、1618年頃、今日の名城としての全容を完成させている。  
その後、榊原氏や酒井氏などのを経て明治維新後陸軍省に引き継がれ、明治末期に荒れた城の修復をし、昭和30年代から八年の歳月を費やして天守閣群を解体修理し今日に到っている。 


現在、大天守と三つの小天守およびこれらを結ぶ渡櫓(以上は国宝) をはじめとし、化粧櫓などの櫓27棟、門15棟、土塀およそ1km(以上重要文化財)と内濠、外濠の大部分は当時のまま残っているという。中濠より内は、特別史跡に指定され、また1993年(平成5年)、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

尚、上記の「昭和の大修理」により「50年は保つ」といわれていたが、今日、大修理から45年が経過し漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の白漆喰の塗り替え、瓦の葺き替え、耐震補強を重点とした補修工事が予定されているという。
2009年(平成21年)度着工、2014年(平成26年)度竣工予定としている。

事業費は30億円弱と見積もられ、工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部の公開は続け、大天守を覆うように素屋根を設置するため天守からの展望や外観の展望は望めないが、修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討されているという。



ところで江戸時代の初期には全国に大小180ほどの城があったとされるが、その殆どが、明治維新の際の取り壊しや、戦災によって滅失し、名城・名古屋城や熊本城も例外ではなかった。
その中で、姫路城は幾多の危機を乗り越え、奇跡的にも往時の姿をよく残しているという。
そして現在、その建築物のほとんどが、国宝や重要文化財に指定されいる。
日本三大国宝城の一つ(他に松本城、彦根城)に数えられ、築城以来の姿をよく残していることもあって時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」とも言われる。 
現在、国宝に指定されている城は、松本城、彦根城、犬山城と、そしてこの姫路城の4つのみである。



姫路城の勇姿を何枚かカメラに収めて姫路を後にした。
今度は山陽道を西に向かう。備前I・Cより岡山ブルーラインへ、瀬戸内海が深く入り込む片上湾の入江を跨ぐ片上大橋を渡る。 
青空の下、紺碧の海が光る。 周囲は、たくさんの小島が海に浮かび、湾では無数の筏が浮かぶ素晴らしい景観である、牡蠣の養殖が盛んなようである。 
「道の駅・黒井山グリーンパーク」で小服を入れる、ここは、子供たちのための楽しい施設が盛りだくさんで、家族連れで一日中遊べそうである。

ブルーラインを邑久(おく)インターチェンジから、県道39号を南下して「牛窓」に向かう。
牛窓は、海沿いのリゾート地として知られる。 
オリーブが生い茂った小高い丘から見える瀬戸内の小島や、ヨットハーバーなどがかもし出す雰囲気から、「日本のエーゲ海」とも呼ばれているが、実際、目にしたのは、きらめく海に長く延びる防波堤があるわりには、船の姿も見あたらない不思議な港の風景である。 

謳い文句とは裏腹に、普通の港のようで特に観光地らしい景観は見られなかったようであるが・・?、
場所を間違えているのか、名に言う美風の景観地は他にあるのかもしれない。

次回は、 岡山西大寺 「裸祭りの西大寺

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2011年3月1日火曜日

日本周遊紀行(90)相生 「ペーロン」

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日本周遊紀行(90)相生 「ペーロン」 ,



相生湾では例年、賑やかな「相生ペーロン祭」で盛り上がる・・、

純中華風の真っ赤な建物は白龍城、ペーロン城といい、1階がその名のとおり中華料理店で2階が温泉になっていてペーロン温泉という。 
650円の入浴券で、黒御影石の浴槽にドップリと身体を漬かる。 浴室は落ち着いた雰囲気で朱色が目立つ建物の外観からするとかなり落ち着いて見える。 
温泉は、無色透明で海岸のせいか薄い塩味がする、他は特に変わった浴感はないが、湯上り肌がサッパりすべすべになったようである。 
露天風呂は、表のベランダらしきところに浴槽があった。この露天からは、運河のような湾を挟んで、IHI ・石川島播磨重工業(株)の巨大工場が見えている。



この運河のような湾で、日本でも数少なく有名な「相生ペーロン祭・相生ペーロン競漕」が行われるのである。 そう、この露天風呂から見物できちゃうかも知れない。

ペーロン」は、西暦の紀元前300年頃の中国の戦国時代、湖南地方で「楚」(春秋戦国時代の国)の宰相・屈原が身を投げ、鎮魂のために龍船(白龍・パイロン)を浮べて競漕したのが始まりであると伝えられてる。 

日本へは、1655年に長崎港へ伝えられたとされ、ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンが訛ったものといわれている。
日本国内でのペーロン祭は、相生、長崎、沖縄で行われている。

相生のペーロンはやはり長崎から伝わったようで、1922年(大正11年)に長崎県出身の播磨造船所従業員によって伝えられ、相生港祭りとして始まったという。 
相生湾で開催されるペーロンは艇長1名、舵取1名、太鼓1名、銅鑼(ドラ)1名、漕手28名の計32名が乗り組み、4隻のペーロン船が競漕する競技で、1レースは片道300mのコースを往復し、600mでタイムを競うという。
相生湾に沿って、ペーロン祭の見物用にもなる相生ボート公園があり、コーナーにはペーロン艇のモニュメントが建立されている。

白龍城・ペーロン温泉のフロント奥には軽食コーナーと休憩用のお座敷があり、軽めの夕食と一日のまとめを記録した。 


明けて、車内で何となくムッ・とした暑さで目が覚めた。
早朝のやわらかい陽光が車内に射し込む、潮の香りが鼻を撫でる、相生の朝は清々しかった。未だ朝の5時半であるが、頭をスッキリさせて先ずは待望の姫路へ向かうことにする。

戸内海特有の穏やかな気候風土に恵まれている「相生」は、西播磨テクノポリスの副都市として、産業・経済の発展途上の都市でもある。 
又、交通の要衝で、山陽自動車道、国道2号線、国道250(はりまシーサイドロード)、それに国道373(上方往来道)、鉄道では山陽新幹線、山陽本線、赤穂線が其々合流か、近辺を往来している。

天下の国道2号線は関西主要部を結ぶ幹線で、大阪の梅田新道から北九州の門司までの国道である。
門司では、九州を縦断し鹿児島方面の国道3号線に連絡する。
むろん梅田新道では、東京日本橋からの国道1号線が2号線を引き継ぐ。沿道には、神戸・姫路・岡山・福山・広島・下関などの関西の主要都市を通貫する。東京日本橋から九州・鹿児島まで1,2,3号線の各線が結んでいる。
因みに、国道1号線の所謂、「旧東海道」は大江戸・日本橋から京都の三条大橋までであるが、いずれも、この大幹線道路の基点は、東京都中央区日本橋の「日本橋」である。 又、主要地方へ向かう幹線道の基点も、この日本橋である。


余談になるが・・!、
ここで東京近郊に住む小生でもあるので、チョッと「お江戸日本橋」について記してみよう。
お江戸日本橋七つ立ち」(現代で言うと「午前4時」頃に旅立って、「初上り」、つまり初めて東海道を京へ向かうという情景を歌にしたもの)の歌で知られるこの橋は、江戸時代から現在に至るまで文字通り日本を代表する橋として、わが国の歴史とともに歳月を重ねてきた。 

その最初の架橋は1603年、関ヶ原で徳川方が勝利した3年後であった。
江戸幕府(家康)は、江戸に到る五街道を定め、この橋を起点として整備を進めた。更に明治になってからは日本の道路元標をこの橋の中央に据え、各地の道標との距離を測定する基点とした。

現在使われている橋は、明治建築界の三大巨匠の一人、妻木頼黄(つまき・よりなか)のデザインで、構造設計は当時の東京市主任技師だった米元晋一が担当し、1911年(明治44年)に完成したものという。 
ルネッサンス様式を取り入れた二連アーチ式であり、欄干の前面には東京の繁栄を願って麒麟の像が、また中央には、その守護を願って獅子の像が据え付けられている。
なお、この橋の門柱に彫り込まれた「日本橋」という文字は、最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫(きごう:毛筆で文字や絵をかくこと)によるものという。

往時の初代橋は当然、木造の橋だった。 
この辺りは江戸の中でも最も賑わっていた所で、浮世絵による名所絵(風景画)に描かれる日本橋には背後に富士山が描かれることが多く、江戸の象徴とも言えた。
この橋の袂には橋と川の織り成す景観を楽しむために水面近くまで階段で下りることができ、橋と流れの調和や上り下りの行き交う渡し船をみることができるスペースが設けられていたという。 

その一つは「瀧の広場」と称し、ナイアガラ瀑布のように壁面を水が流れ夏には涼しさを誘い、目を楽しませてくれたというる。 
この豪勢で美しい橋は、これまでの歴史から見ても、またその美観から言っても、日本における第一級の橋としての威容と、親しみやすさを兼ね備えていた。 
このような経歴とその風格から1999年には、橋の米寿を祝って国の重要文化財にも指定された。
現在の「日本橋」は、花崗岩製の第十九代のものであり、承知の如く上部に首都高速道路が被さっていて、圧倒的悪観を呈している。 

昨今、日本橋に被さる高速道路の移設が話題になっているという。 
以前から東京の景観破壊の元凶として首都高はしばしば槍玉にあげられていたが、それを、除くことはあくまでも理想論でしかなかった。
しかし、環境時代と言われる今日(こんにち)、小泉純一郎首相が日本橋の首都高を移設する一大事業に号令を出し、私的な有識者懇談会が発足している。 
当の石原都知事は、慎重姿勢を見せているらしいが、果たして・・?。


国道2号線は、いよいよ姫路に達した。 そして、天下の名城、国宝・姫路城は国道にほぼ接していた。

次回は、待望の「姫路城」



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2011年2月28日月曜日

日本周遊紀行(89)赤穂 「忠臣蔵」

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 日本周遊紀行(89)赤穂 「忠臣蔵」  ,



赤穂城の傍らに、四十七士の像が整然と並ぶ「大石神社」



「忠臣蔵」という言い方は、史学・学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという・・、


四国と別れて、瀬戸大橋から中国・山陽道へ到る。
高松自動車道の善通寺I・Cから坂出JCTを経て、瀬戸内三橋の中央、瀬戸大橋を行く。所謂、「児島・坂出ルート」である。
迫力のある巨大大橋は、ある種の人工美を誇り、余りの圧倒的美観に車を路上で止めてカメラに収める。
首都圏ならともかく、地方ではさすがに車の量は少ないからチョッとの駐車は安心である。 

途中、与島PAで景観を楽しむ、そしてランプ橋といわれるループ状の道を下りる。 与島PAは海面近くであり、瀬戸中央自動車道(いわゆる瀬戸大橋)の橋自体が航路上を跨ぐため、水面からの高さが非常に高い。
このため、島との高低差が大きいため、ループ橋で高度を稼いでいるのである。
この辺りの海域は瀬戸内航路の主要部になっていて、時折、大型船も航行しているようである。 
倉敷方面の岩黒島、櫃石島に架かる「斜張橋」といわれる富士山形をした橋形が並ぶ。これまた美観である・・!!。 

この坂出、倉敷を結ぶ瀬戸大橋は、六つの長大大橋が三種類の橋形で架かっている。 
斜張橋の他に、長い距離に適している「吊橋」が南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋、下津井瀬戸大橋、三角形を組み合わせて安定した形の「トラス橋」の与島橋である。
いずれも世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観である。因みに、下津井瀬戸大橋が、香川県坂出市と岡山県倉敷市との県界に当たる。

時折、ゴーという走行音が聞こえるのは鉄道電車の音であろう。 
そう、この橋は道路と鉄道の併用橋で、上部が自動車道(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(瀬戸大橋線)になっている。
鉄道で四国へ渡る場合は、岡山駅から南に進み茶屋町、児島を通って瀬戸大橋を通り、宇多津(うたづ)に至る路線である。
宇多津~高松の予讃線を合わせて瀬戸大橋線と呼んでいる。

瀬戸大橋線を走る特急は岡山発松山・宇和島行き特急「しおかぜ」、高知・中村・宿毛行き特急「南風」、特急「南風」に併結されて運行される徳島行き特急「うずしお」、そして東京発高松行きの寝台電車特急の「サンライズ瀬戸」などが走る。
サンライズ瀬戸は、現在東京発22:00⇒高松到着07:26・乗車時間9時間26分・乗車券14,670円(普通乗車券11,010円, 特急券3,660円)・走行距離804.7kmである。(2005年 現在) 
瀬戸大橋は、道路鉄道併用橋としては世界一の規模を誇るそうだ。

橋の構成から岡山・鷲羽山トンネルは、世界初の二階建で四つ目のトンネルになってる。
上の二つは車、下の二つは鉄道専用になっている。 
6つの橋と4つの高架橋の総延長12.3kmで、鉄道併用橋では世界最長だという。 総工費・1兆1,200億円で、工事の期間は9年半、1978年(昭和53年)10月10日に着工して1988年4月10日に開通している。 
強度は、秒速66mの風(家が倒れたり、ビルが崩れる)が吹いても大丈夫な様に設計されているそうで、また100年に一度起こるかも知れない様な大地震(マグニチュード8)が、土佐沖 100kmの場所で起きても大丈夫な様に造られているという。
瀬戸内の島々も合わせて雄大な眺めを堪能し、尚かつ、人間の底知れない科学の力に驚嘆しつつ、出発することにする。  この四国を離れ、岡山・倉敷のJCTより逆戻りする感じで山陽高速道を行く。



赤穂ICを下りて旧赤穂城を目指す、ご存知、「忠臣蔵」の赤穂城である。
I・Cから凡そ3km、海岸近くに赤穂城址があった。
その石垣跡は風雨に晒されながらも、昔の面影をしっかりと残している。そこに、丸みを帯びた石碑に「赤穂城址」とあり、すぐ横に説明用の看板があがっている。 

看板には『 赤穂城は生保2年(1645年)、浅野長矩の祖父・長直が常陸国・笠間から入府し、近藤三郎三衛門正純に築城設計を命じ、実に13年の歳月を費やし、寛文元年(1661年)完成したものである。 城郭の縄張りは・・、 昭和46年3月、赤穂城址は国の史跡に指定され、本丸等の整備が進められている 』とあり、城郭境内略図が記されている。 図によると、ここは「塩屋門」にあたるところのようだ。

奥の敷地には当時の赤穂藩士の屋敷跡になっていて、「片岡 源五右衛門」、「間瀬 久太夫」、「磯貝 十郎左衛門」、「大石 瀬左衛門」等、御馴染みの赤穂浪士の屋敷が点在する。更に奥の方に「大石神社」が在った、参道両側には大石良雄(内蔵助)を筆頭に四十七義士像が整然と並んでいる。 

城郭跡周辺には本丸表門、三之丸への大手門、三之丸に連なる二重の隅櫓等、整然と復元されている。
赤穂城周辺では、現在でも発掘調査が行われているという。
そして赤穂城(城址および復元城)は2006年には、財団法人日本城郭協会の選定する日本100名城に選ばれている。

この本丸表門から1701年(元禄14年)、家老・大石内蔵助を先頭に浅野家家臣団の一行が、播州赤穂・浅野家五万三千石の城を無血開城にて退出していったのである。 幕藩体制が安定しつつある元禄の世、突如として起こった大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士による主君の仇討ちは、ここから始まるのである。


元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、江戸城・殿中松の廊下で高家筆頭(江戸幕府の職名、幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼をつかさどった家)の吉良上野介義央に刃傷に及び、即日切腹、播州浅野家は断絶となった。 その後、元禄15年12月、大石内蔵助を始めとして47名が、吉良邸に討ち入り吉良上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭の仇を討った。 いわゆる「忠臣蔵」の物語である。
この元禄15年末に起きた赤穂浪士の討ち入りは、二つの意味で世を動かす大事件であったと言われる。一つは無論、名家の当主、吉良上野介暗殺という刑事事件として。 
もう一つは武家政権の徳川幕府が開かれてから凡そ一世紀、時代は泰平を謳歌する元禄の世に、「武士道とは・・?」という根源的な問いを突きつけた事にある。

辱めを受け、無念の思いを残して切腹した主君・浅野内匠頭の仇を晴らしたのは、成る程武士として「あっぱれ」である。 しかし、内匠頭に即刻切腹を命じる一方で、吉良に「お咎めなし」としたのは幕府であった。 その幕府は、開祖の徳川家康以来、朱子学(儒学、おおまかには大義名分論のうち 何が正で、何が邪か、と言う事の根本思想)を根本理念とし、「臣下は分を守るべし」を強調し、所謂、戦国期よりの「非道」を戒めてきた。
赤穂浪士事件は「義挙」かもしれないが、幕府にすれば守るべき「分」を越えていたとも言えるのである。 然るに、これは皮肉なことで朱子学者の間では「浪士の仇は、内情は吉良であるが、実質は一方的な裁定を下した幕府ではないのか」という声も上がっている。 
官学者の筆頭とされる林大学頭(信篤のぶあつ・幕府の行政学者、儒学社))は、「天(幕府、将軍)は、忠義の臣を助けなかった」と嘆いたのは知れるところである。 
一方、武士道の根本を書した「葉隠」(宮本武蔵の愛読書)を著した肥前藩士・山本常朝は、「主君が死んで、仇を討つまでが長すぎる。(1年9ヶ月)肝心の吉良殿が死んでしまえばどうにもならぬ。上方のものは世間の覚えをめでたくするのは上手だが、無分別ではないのか」と評している。 要するに、「江戸城で浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ時、何故、成否をかえりみず、即刻行動しなかったのか・・、それが武士道ではないのか」と批判しているのである。

討ち入りの時、大石蔵之助が山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らして志士を鼓舞するが、その山鹿流の始祖「山鹿素行」直伝の浅野家・家臣たちは、殆どが「無条件開城」を主張したといい、これらも葉隠や山鹿流の教えには無い行動であるという。 時は元禄であり、時流と時代背景がそうさせたのかもしれないし、「武士道」も個人差が出る程度の哲学になっていたともいう。
尚、旧赤穂藩士の吉良邸討ち入り事件の元禄赤穂事件を題材をとった、歌舞伎や演劇・映画の分野での創作作品である「忠臣蔵」という言い方は、赤穂浪士方を善、吉良方を悪とし、赤穂浪士に対する賞賛の意をこめた呼名であり、客観性がなく非歴史的であることから、学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという。


赤穂城は「海平城」といわれる。
今でこそ発電所、施設、企業が沖合いに並ぶ産業地であるが、往時、お城の前は広大な砂浜が広がっていて、塩田開拓が盛んであったという。
浅野長直(初代赤穂藩主、浅野内匠頭長矩の祖父)は、赤穂城築城と平行して城下町の整備に取り組むとともに、入浜式塩田の開拓と塩の流通にも力を注ぎ、赤穂浅野家の繁栄の礎を築いた。 
一方、三河の吉良家も三河湾での製塩が盛んであり、この塩の製法、流通が浅野家、吉良家の間に若干の確執を生み、赤穂事件の遠因になったとも言われる。


『 あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる 
            浮世の月に かゝる雲なし 』

大石内蔵助が見事本懐を遂げて、晴れやかな胸のうちを残した歌である。




国道250で姫路へ向かう、途中、道の駅「あいおい」が在った。
相生湾の最奥の海に面したところに、「白龍城」とかいう中華風のカラフルで豪奢な建物があり、ここが道の駅で、その名の通り中華料理が自慢らしい。 
又、ここには何よりの温泉があった、ペーロン温泉という天然温泉らしい、すぐ近くには飲食店も並んでいる、時間も頃合だし、温泉に浸かり、食事を摂って、この地に車泊としよう。

次回、相生の「ペーロン



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2011年2月27日日曜日

日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」

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 日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」  ,




寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、

若かりし頃、瀬戸内の直島で半年間仕事をしていたことは先に何度も述べたが、その頃、高松には青春の捌け口として、よく遊びに来たことがあった。 
こんな思い出多い「高松」ではあるが、今回は残念ながら寄らないで四国を離れることにする。



その前に四国・讃岐に関して最後に一筆だけ書き加えたいことがある。 
高松の南西地域、南北に細長い「大川郡寒川町」がある、「さんがわちょう」と読むらしい。

ところで話はチョッと飛ぶが・・、
小生の住む神奈川県厚木市の南隣接した所に小さな地域で「高座郡寒川町」が在る、こちらは「さむかわちょう」と称するが。 
この小さな町の中央に地域でも有名な「寒川神社」が鎮座していて、小生、家族一同は正月の初詣や何かの祈願が有るときは必ずと言っていいほど参拝をする神社である。

寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。
歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。 
祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)、寒川比女命(サムカワヒメノミコト)と兄妹神で、いずれも水の縁のある神様である。

水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河・相模川が流れる。 昔はこの相模川は、かなり大きな川幅で流れていたか、或いはもっと東の方角で流れていたかのいずれで、 この辺りは広範にわたる低地帯であったことが想像できる。 
現在の相模川に架かる馬入橋(国道1号線)より東凡そ1kmのところ、神社より南へ4kmほどのところに、鎌倉期に建造された「旧相模川架橋脚」の遺跡が発掘されている(国指定史跡)。

因みに鎌倉期創世の頃、この辺りは鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋であり、交通の要衝でもあった。この地区に源頼朝の家臣・稲毛重成が建造した相模川架橋の完成祝賀に主君・頼朝が招かれ、その帰り道、馬入川(当時は馬入川といい、現在も平塚地区では馬入川の愛称がある)のたもとで落馬し、これが元で頼朝は死去したと伝えられる。
尚この時、頼朝の乗ってた馬が驚いて川へ突入したため、川の名前が「馬入川」と自然発生的に付いたというらしい・・?。

丹沢山系を水源とする急流・相模川は、大昔は相当の暴れ河であったらしく、周辺地域に度々大水害をもたらしたという。
相州・寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様らしい。



では話を戻そう・・、

寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、
ここで、讃岐・四国の大川郡寒川町が関連登場してくるのである。 
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「 水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし 」とある。

大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命であるとして、どちらも水に関係する神様だと判る。
そして郡名は寒川としてあり、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった。

地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。 又、このあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できるのである。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい。

治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んでいる。
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く。
つまり、国家風水技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解でき、国家風水としての役目を終えた神社は、後には民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。


では相模・寒川町と讃岐・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?、
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 
古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 
房州は、古くから関西との関係が強い。因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。
そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。

又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くないのである。


ところ変わるが、神代の地・伊勢市の西隣、玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。 社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。
この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる、伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 
倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる。 だが、直後に再び田丸町に復しているという。 

御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 
寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。
地理的には、この地域は外城田川、宮川、櫛田川の上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地・水郷地帯であるようだ。
いずれも克っては水難の地相と想像できるのである。 

斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「御船神社」、「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹神を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったとも想定できるのである。
斎宮・倭姫命が外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥であるとも想像できるのである。

詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」に、その古縁を求められることができるのである。
伊勢の地から讃岐へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう。
いずれも、水難治水、水防治安のために勧請されたものと想像できる。


これらは、あくまでも仮説であるが・・、
歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう。

尚、伊勢神宮周辺には別宮、摂社、末社などが多数鎮座していて、人々の生活に密着した多数の神々が祀られている。
因みに、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(下宮)の其々の数は、正宮(内1、外1)、別宮(内10、外4)、摂社(内27、外16)、末社(内16、外8)、所管社(内30、外4)、別宮所管社(内8、外0)で内宮合計92、外宮合計33、合わせて125の各種社宮が鎮座している。(伊勢神宮・宮社の一覧表より)




ところで、2002年(平成14年)4月大川郡津田町、大川町、志度町、長尾町そして寒川町の5町が合併して市制施行し「さぬき市」となっている。 
今回、縁あって大川郡寒川町を記述したが、歴史的町名が又しても消滅していくのは残念である。 
しかも、新市名が”かなもじ”であることは、これまた如何なものか大いに疑問を生ずる次第である。
又、東に位置する香川県大川郡引田町、白鳥町、大内町が2003年4月1日に合併、市制施行して「東かがわ市」となってる。
やはり仮名文字であり、更に「東」の方位文字は深い意味合いは無いらしい。

この結果、大川郡という由緒ある古名は消滅した。
この辺りの大部分の地域は明治期まで千年以上もの間「大川郡」と呼ばれてきたらしく、地域住民、行政担当諸氏は1000年以上もの由緒ある歴史的地名を、あっさり捨てたのである。 
部外者で大きなお世話であろうが、せめて、さぬき市は堂々と「讃岐市」、東かがわ市等は古名に則って「大川市」(福岡県に既に有るが)、又は、「讃岐大川市」などとしてみては如何であったろうか・・?。 

地域の名称は、必ずと言っていいほど歴史的意味を持つものである。 
新名称を付与するに当っても、最近の流行や感情に流されず、歴史を顧み、その事実を尊重して可能な限り未来へ残したいものである。 
過去に付与されている漢字の地域的名称は、独特の歴史的意味合いをもつものであろう。

「かな文字」は元来、漢字から発生、派生したものであり、平仮名文字に変換された時点で漢字の持つ意味は、半減または無意味なものにしてしまうのである。 
四国全般を見ると、平仮名文字で表した市町域が、その他にも「まんのう町」(香川県)、「東みよし町」(徳島県)など六カ所にも及んでいるようであるが・、如何なものであろうか・・?。 
尤も、小生の実家、田舎も福島県の「いわき市」といって「かな」表示であり、これも重々不納得であるが。

次回からは「四国」を離れて・・、



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01. 15.

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