2011年2月18日金曜日

日本周遊紀行(83)伊予三島 「三島神社」

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 日本周遊紀行(83)伊予三島 「三島神社」   、



伊予三島に鎮座する「三島神社」



伊予三島と駿河三島の両神社は兄弟神であるが、行政地域として縁は無いようだ・・?

予讃線・伊予寒川駅あたりで国道11は沿岸部を行く。 
「寒川」とは懐かしい名前で、我が在住の地・神奈川県にも寒川町がある、
「さむかわ」と読むが、こちらは「さんがわ」と読むらしい。 もっとも、香川県の東部にも寒川町があるが、こちらも「さんがわ」と称するらしい。 

その香川県・寒川町と神奈川県・寒川町は、親戚関係(親子関係)にあるらしい、とは云っても太古の神代の昔のことで、国土とか、川とかに関係ある神社同士(「大蓑彦神社」と「寒川神社」は親子関係にある)の話である。 
伊予三島市の地域である寒川は、両町とは何か因縁・由緒があるのであろうか・・?。
寒川八幡宮が当地に鎮座しているらしいが、由緒は・・? 小生が些か調べてみたが全く不明であった。


ところで、こちら伊予三島市は、瀬戸内の「しまなみ海道」が走る大島、「大三島」とは親子の関係にあるらしい。 
現在の伊予三島市は製紙の町で、大手の製紙メーカーの工場が林立している。 

市内に入ると何となく工場から出る化学性の臭が感じる。 
その市内海岸近く、その名も宮川に沿って「三島神社」が鎮座している。 
一方、沖合い「魚島」より西方15kmに瀬戸内海を塞ぐように「しまなみ」の群島があり、その中央に「大三島」がある。 この大三島に、全国で一万を越すと言われる三島神社の総鎮社にあたる「大山祇神社」が鎮座している。 無論、伊予三島・三島神社の本社に当たる。
祭神は、何れもわが国建国の大神・天照大神(アマテラス)の兄神に当る大山祇命(オオヤマズミノミコト)を祭っている。

縁起によると養老4年(720)、時の国司・越智玉澄(おちのたまずみ)が、大三島の大山祇神社より当地に勧請し、三島神社(伊予三島市中央と伊予三島市宮川に二社鎮座あり)を創建したといわ、その名に因んで当地を「伊予三島」の地名が付いたという。
越智氏は、伊予国・越智郡に勢力の中心をもっていた氏族であり、奈良時代以降、越智郡の郡司としてこの地方に勢力を張っていた。
越智氏は、大三島に大山祇神社を奉祭してきた氏族でもある。


「三島」という地域名は、明治22年の町村制実施により正式に三島村となり、明治31年に三島町に昇格したらしい。 
昭和29年に6ヶ村が合併し、現、「伊予三島市」が発足した。 
ところが、所謂、「平成の大合併」で2004年4月 、川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町・宇摩郡新宮村などが合併し、「四国中央市」という。 何ともミョウチクリンな名前の市が成立、誕生している。 
又、この市名が将来、道州制が導入される場合の道庁所在地の州都に成る事を目指して命名したというから、チト早合点しすぎじゃありませんかと思う次第であります・・?。


ところで小生の知るところ、駿河の国、静岡の三島市にも、その町の中心に「三島大社」が鎮座している。
この神社の祭神は、やはり大三島の大山祇神を祀ってあり、大山祇神社を分祀したものであるとのこと。 
伊予三島と駿河三島は両神社に因んで、さしずめ兄弟都市に当たるのかもしれないが、特に、行政地域としては繋がりはないようである。
尚、明日、広島・尾道側から「しまなみ海道」を渡る予定なので、この時に大三島の「大山祇神社」について若干詳しく述べるつもりであるが・・?。


三島から「川之江」の市街地を通る、市街地といっても産業地、工業地帯であるが。やや時代を経た・・?工場群と近代設備を誇る新鋭工場群が混在して立ち並んでいる。
特に目立ったのが、大王製紙、愛媛製紙、伊予段ボール、丸住製紙など紙、製紙に関した産業・企業が多く、盛んなようである。

やはりというか、川之江を中心とする当地域は、製紙、紙加工業において日本屈指の生産量を誇り、その他を含めた製造品出荷額は年間約6000億円にも達し、製紙工業の出荷額は全国一を誇るという。 
工業出荷額は、四国では西条市に次いで二位を占める。

宇摩地方(旧宇摩郡のことで、現在の川之江市・伊予三島市・宇摩郡をいう)の製紙業は江戸中期頃、駿河の国(静岡)から伝わり、手で紙を漉く(すく)ようになったのが始まりという。 
宇摩郡の村々は、稲作に適した平地が少ないため、副業としてこうした紙漉きが次第に広まっていき、そこから次第に紙漉きを専業とする業者も増加した。 
明治維新後,製紙工場は更に増加し,紙の販路拡大や製紙技術の革新への努力により、今日の当地域の製紙産業の隆盛の基礎が築かれたという。

川之江地方の紙製品は、お札と切手と収入印紙・証券類(金札)以外は何でも揃うと言われ、伝統産業の手漉き和紙や水引製品にはじまり、機械抄(きかいすき)製品や各種の紙加工製品・その他、最近の不織布(糸の形態を経ずに、繊維シートを機械的・化学的・熱的に処理し、接着剤や繊維自身の融着力で接合して作る布、裏地・壁材・医療用など)や機能紙に至るまで生活の多様化に伴い新しい製品が生み出されている。

主な紙製品を種目別をあげると・・、
水引細工
元々、元結(髪を束ねて縛る糸紙)の生産が盛んであったが、明治初期の断髪令により急減産、生産工程の類似している水引に転換を図り、現在では全国2大産地を占める。
手漉き和紙
小判紙・大判紙・書院紙・障子紙・コピー紙・典具帖紙・奉書紙等々18種類ほどあるが、現在は書道半紙の産地として、需要家に支えられる。
機械抄紙
新聞用紙、印刷用紙などの洋紙で、豊富な良質の水が必要である。銅山川・疎水事業の完遂による工業用水を確保した。
加工紙
日常生活に深く係わった紙製品、家庭用から趣味工芸の分野、衛生・医療用製品から産業用に至るまで。
不織布
「織らない布」の様な感じで、合成繊維の出現によって、天然繊維や化学繊維等を科学的、物理的な方法によって結合させたもの。 現在、あらゆる産業分野に進出している。
機能紙
ハイテク紙のことで、従来の紙には無い新たな機能を持った紙である。 テレホンカードからリモコン機器・液晶電算機からテレビ画像まで、数えれば枚挙に暇がないほど日常生活に深く係わっている。

次回、讃岐・「讃岐うどん



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2011年2月17日木曜日

日本周遊紀行(82)西条 「石鎚神社」

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 日本周遊紀行(82)西条 「石鎚神社」   、



国道に面して堂々と立つ「石鎚神社・神門」



「日本100名山」の石鎚山は、日本三大山岳修行・修験の山でもある

国道11号のすぐ左横を予讃線が並行している。その伊予氷見駅からすぐに「石鎚山駅」が在る。
さすがに石鎚神社駅とは言わない、石鎚山は関西一の高峰、四国一の名峰であり霊場でもあり、その名を尊崇の念をもって称したのであろう。 

国道を挟んだ反対側に、大きな鳥居と銘柱があった。車を正面に進めるとすぐに、狛犬を従えた巨大な二層の神門が構える。
その奥まったところの高台に華麗な石鎚神社の本殿がお目見えする。
付近には豪奢な神社会館や神社を総括する社務所、神社森の神苑が控えている。
特に、本殿までの両脇には四国、九州、近畿と多方面から寄せられた石柱が目を引く。 
本日は晴れていて下方の町並みや瀬戸内海が見渡せるが、山域の方は濃い霞がかかっていて石
鎚山はおろか前衛の山々も姿は無い。本来なら石鎚の山並みが見て取れ、特に本社から見る頂は荘厳さを感じるという。

石鎚山は神が鎮まる山として山全体が御神体とされ、ここJR石鎚山駅近くに本社(里宮)と石鎚山北の中腹に在る「中宮・成就社」、山頂に頂上社(奥宮)、東南の山稜に在る土小屋遥拝殿、この4社をあわせて「石鎚神社」と称しているようである。祭神は、イザナギとイザナミの第二子とされる石鎚毘古命 (イシヅチヒコノミコト)を祀る。

石鎚山は、1300年余り前、役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、弘法大師も石鎚山で修行したといわれる霊山で、皇族や武将の信仰も厚く、桓武天皇、文徳天皇、武将として源頼朝、河野家一族、豊臣家一族の篤い信仰があった。
特筆されるのは慶長15年、豊臣秀頼が福島正則を普請奉行として中の宮・成就社が御造営されたという。
 

『 わすれては 不二かとぞ思う これやこの 
             伊予の高嶺の ゆきの曙
 』  西行法師
 


石鎚山は標高1981m、四国のみならず西日本最高峰の名山岳で、深田久弥氏撰する「日本100名山」の一つでもある。
わが国で最も古くから讃えられた名山の一つであり、太古から信仰の山としても知られ、釈迦岳(奈良県)、大峰山、大山(だいせん)、白山、富士山とともに日本七霊山の一つにも数えられている。

神変大菩薩(諡号・しごう、生前の行いを尊び死後に贈られる称号)・役小角(奈良時代の山岳修行者。修験道の祖。多分に伝説的な人物で、大和国葛城山に住んで修行、吉野の金峰山・大峰などを開いたという)が初めて山に登り、開創したと伝えられる。
山岳信仰の時代は4ヶ所の鉄鎖を手で繰り、頂上に登ることを許される者は水垢離(みずごり、神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)と禁欲など厳しい戒律をクリアした敬虔な信者だけであったという。
現代の今日でも毎年、7月1日のお山開きには白装束の信者達がご神体とともに山頂を目指すという。
石鎚山頂に登るには、2つのコースがある。 一つは、面河渓の関門から土小屋まで石鎚スカイライン(12月~3月は閉鎖)を利用して車で行き、そこから徒歩で登る(約2時間)方法。もう一つは、西条市側から石鎚ロープウェイとリフトで成就社まで行き、徒歩で登る(約3時間)方法である。

山頂付近の絶壁には三カ所に太い鎖が架かり、下から一の鎖(33m)・二の鎖(65m)・三の鎖(68m)と呼ばれ、この鎖を伝って攀じ登る。(迂回路有り)
主峰天狗岳山頂からの眺めは雄大で、遠くは中国・九州そして四国の山並みが一望できるという。
「石鎚山」とは、その山系を指し、山頂は特徴的な天を指す鋭鋒で「天狗岳」と称している。関西在住の登山愛好者の人気No1はこの「石鎚山」といわれ、全国の山愛好者による「あなたが選ぶ100名山」(私的・ネット投票)では第9番の人気を博している。



国道11が、「西城」の北を流れる「加茂川」の加茂川大橋を渡るとき、大きく広がる河原には水流が無く、干からびて殺風景なのに気がついた。 
加茂川は、西条市を育んでいる「母なる川」とも云われアユ、アマゴ、ニジマスが泳ぎ、その上をカワセミが飛び交うという清流であるはずだが。西日本最高峰である石鎚山を源流とし、名水百選「うちぬき」の水源にもなっている。 それが、水面が無くなっているのである。

四国は、今年(2005年5月)に入ってしばらく雨が降らず、渇水状態であることはニュースで聞いていたが、四国最大の吉野川水系である早朝浦(さめうら)ダムの水位が0に近いとも知らされていた。 
加茂川の中流部には黒瀬ダムがあるようだが、ここも干上がっているのだろうか・・?これ以上渇水がすすむと、いよいよ(伊予伊予・・?)霊山・石鎚に雨乞いの儀式、神事でもせねばなるまい・・!。
平安中期、伊予の国司・藤原範国が四国地方の大旱魃にあたって、「能因」をして雨乞いの歌を詠ませ、一宮である大山祗神社(オオヤマズミ・大三島)へ上奏させたという。

このとき能因法師(平安期の歌人、100人一首、三十六歌仙の一人)は・・、

『 天の川 苗代水に せきくだせ 
           天降ります神 ならば神
 』

の歌を残しており、この祈願により伊予の国中に、三日三晩にわたって雨が降り続いたという。

「祈り・・、四国に雨を乞う・・!!」


新居浜市の北側山系は別子(べっし)といって、小生にとって懐かしい名称である。
若い頃、窯業関係(金属精錬のための炉の設計)の仕事に従事していて、この住友別子鉱山や瀬戸内・直島の住友鉱山に関連した銅精錬の溶解・精製炉の設計作業をしていた。
ここ別子は、太古の昔から、とてつもなく巨大な鉱脈が眠っていた。
人跡未踏の赤石山系の、その名も銅山峰(1291m)・南斜面(現、別子山村=新居浜市)で、1690年(元禄3)、銅鉱露頭が発見されたという。(現、遺跡の「歓喜坑」が第一発見地といわれる)

大坂の豪商・泉屋、住友吉左衛門友芳により巨額な資本を投下して、この地域を「別子銅山」として開発し、備中(岡山県)の吉岡銅山、出羽(山形県)の幸生銅山(日本三大銅鉱山)に続いて、わが国では三番目の開鉱であった。 
開抗からわずか8年の元禄11年には、年間産銅量1500トン以上を記録するなど、当時世界最高の産銅量を誇る銅山であった。
その後、明治26年には日本初の山岳鉄道(現在、松山で記念に走っている・坊ちゃん列車と同形といわれる)を導入、産銅量は一挙に5000トンに達し、別子の山中には12000人もの鉱山関係者が住んだと言われている。 坑道の総延長約700km、採鉱場所は海面下1000mにも達したという。

明治以降は、西洋の近代的採鉱技術その他を導入して採掘を累増させ、外国貿易の重要な輸出品としてわが国の経済を支え、産業の近代化、事業の多角化に貢献した。
この銅の生産量は、栃木県の足尾銅山に次いで日本で2番目に多いという。「別子銅山」は、住友巨大財閥の原点・源流とも言われ、わが国唯一の民間鉱山としても、その役割を果たした功績は大きいという。

昭和48年、多種要因にて別子銅山は閉鎖するに至り、栄光の歴史に幕を閉じた。 
新居浜市から別子山村に至る、標高1000m大山岳地に残る広大な銅山の多くの遺跡は、今ゆっくりと自然に還りつつある。
煉瓦造りの巨大な貯鉱庫や建築物、索道基地跡などの遺構景観は、別子銅山を「住友のインカ帝国」とか「四国のマチュピチュ」(マチュピチュ:ペルー南部にあるインカ帝国の都市遺跡。海抜2400メートルの高原に位置し、石造の神殿・宮殿・水路などが残されている、古代の空中都市とも言われる。世界遺産)と形容し、紹介もされている。
新居浜のすぐ北側、別子銅山跡地に、「マイントピア別子」という鉱山の歴史や当時の生活風景を紹介する歴史資料館や鉱山鉄道、貯鉱庫跡などの鉱山遺跡がある。

次回は、伊予三島市・「川之江



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2011年2月16日水曜日

日本周遊紀行(81)今治 「今治の霊場と巳正月」

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 日本周遊紀行(81)今治 「今治の霊場と巳正月」  ,



第59番・国分寺

第62番・宝寿寺、


第63番・吉祥寺、



自家祭壇の前で「あんころ餅」を食べるという奇妙な祭事(今治)

今治の郊外、国道196号沿いを訪ねた。 
田圃の中に今までの霊場とはやや異なった様子で、高く石垣を組み白い壁塀をめぐらせて台地に「泰山寺」は建っていた。
石垣を上り境内に入るとすぐ 左に鐘楼、庫裏、奥に本堂と大師堂が概ね横一列に並んでいる。

背後にある山は山号になっている金輪山で、寺はもともとこの山頂に建っていたという。
弘仁6年(815 年)、天災・災害の多かったこの地に大師は、これを鎮めるために地蔵尊を刻んで本尊とし寺を建立した。 
寺名を延命地蔵経といい、お経の中の第一「女人泰産」からとって泰山寺と名付けたという。
境内の「不忘の松」はこの時、大師が記念にと植えられた松であると伝えられている。

更に、泰山寺から車で10分ぐらいの市郊外のち、海岸に近いとこの平坦地に第59番霊場・国分寺があった。 
奇麗に植栽された数十段の石段の上、立派な石塀と石門の正面に堂々たる本堂があり、右手に大師堂、左手に 金比羅堂、その一段下ったところ に庫裏がそれぞれ堂々たる構えを見せている。 


「巳正月」とは

伊予の国分寺を中心とするこの辺りには、 600年以上も続いている珍しい「巳正月」という行事があるらしい。 
これはその年の1月から11月までの間に亡くなった人の家族、親戚で行われるささやかな催しで、12月の第一巳の日に行うので、「巳正月」とか「巳午(みうま、みんま)」と呼ばれるそうである。
お正月めいた事を家族身内で行われる行事である。 
家には祭壇を飾り、その年に亡くなった新仏を呼んで巳の刻にお墓参りに行くが、その時の行き帰りには口をきかず、焼いたお餅を引っ張りあって食べ、更に、家に帰ると祭壇の前で「あんころ餅」を食べるという奇妙な祭事である。

その謂われについて・・、
巳正月は国分寺の武将・脇屋義助公が亡くなった命日にあたるという。
当初は秘密であったため、家来達が義助公を偲んで人に知られないように、夜中にお墓で正月の餅をついて、無言で食べたのが由来だという。
今治の国分寺周辺は伊予の中心で国府があったとされるが、今治の何処にあったかは定かでないという。
その位置に関して様々な説があげられているが、当地の地名にもなっている「国分・古国分」の近辺であることは確かだといわれる。



国道196号線を南下しながら車を走らせると、道の駅「今治湯ノ浦温泉」があり、ここで一休み。 
これ幸いと記念に一浴しようと思ったが、ここには温泉は無く、源泉の湯けむりを石でイメージしたモニュメントのみであった。 ただ、温泉スタンドがあり、100リットルが100円で提供している。 
後方の小高い丘陵地にいろいろと温泉施設が点在する事を教えてもらったが・・思案!。 
石のモニュメントは時折、間欠泉のようにドドーっとお湯が湧き出している。

湯浦温泉は、四国で始めて国民保養温泉地(温泉の利用促進を狙い、温泉法第14条に基づいて環境省が指定をした温泉地のこと)に指定されましたところ。 
温泉の有る湯浦地区内には数件のホテルや旅館、日帰り入浴の出来る「四季の湯」がある。 温泉は弱アルカリ性・ラドン含冷鉱泉、源泉25℃、効能、神経・痛筋肉・痛関節・痛五十肩



湯浦温泉を出立すると、直ぐに小松町に入ったつもりであるが、2004年に西条市に吸収合併され、新たな西条市となっているようである。
この先、R196道沿いには幾つかの霊場・札所が並ぶ。
第61番・香園寺、第62番・宝寿寺、第63番・吉祥寺、第64番・前神寺等がある。 このうち先ず、宝寿寺、吉祥寺へ向かうことした。

中山川の大橋を渡り、JR予讃線を越えると大きな三角交差点に出る。
この道は、松山へ向かっている国道11号で、今度はこちらを走るようになる。 
伊予小松駅のすぐ近くに第62番霊場・宝寿寺が住宅で囲まれるようにあり、山 門の前に巨大な文字で「一国一宮・宝寿寺」と刻 んだ古い石標が建っている。 
宝寿寺の「宝寿」の文字は複雑な旧漢字で表され、その古さを感じる。 
門 をくぐると、緑に覆われながら正面に本堂、右に大師堂が建ち、境内参道の左側には枯山水を思わす石庭が趣きを添えている。

奈良期・天平年間、聖武天皇が 諸国の国府に一の宮を造られた時、この近くに伊予・一の宮神社が建てられ、その別当寺として創建された。 
弘法大師が四国巡行の際、この地に留まれ、十一面観音像を刻み本尊として第62番の霊場に定められた。ところが大正10年に予讃線が計画されたため境内を駅へ譲って、現在の地に移転したという。


次に、予讃線の伊予氷見駅そばの第63番霊場・吉祥寺(きちじょうじ)へ参る。 
このお寺も宝寿寺同様R11号線沿 いにあり、庶民の寺という感じがする。 
本来、立派な山門から参道入堂しなければいけないのが、珍しく、広い境内のほぼ本堂の横まで車が入れるようになっている。 
門の正面に本堂、左手に大師堂が建ち、右手に庫裏が ある。
本堂には、四国霊場の中で唯一体の「毘沙門天」が本尊として祀られているという。

戦国期、天正年間の豊臣 秀吉の四国征伐(長宗我部氏)の時、この辺りの殆どの寺院は戦乱に巻き込まれて焼失しているが、当山も例外ではなかった。往時は、寺域も広く、塔中二十一坊を有する大伽藍であったという。 
毘沙聞天の脇仏である「吉祥天」(毘沙門天の妃また妹ともされている)は富をもたらすとして、境内にある「くぐり吉祥天女」の下をくぐるとご利益があるとか、又、本堂の前に高さ1.2mもの「成就石」と呼ばれる穴の空いた岩があるが、この穴に目を閉じて金剛杖を通すことができれば願いが叶うともいわれている。
ほかに、長宗我部元親が難破したスペイン船を救助した際、船長から託されたマリア観音という秘仏も所蔵されているという。

次回は、西条・「石鎚山



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日本周遊紀行(81)今治 「地域合併と村の意義」

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 日本周遊紀行(81)今治 「地域合併と村の意義」   、



珍しい海水掘の「今治城」



先ず、暗渠で繋がっている海水掘が特徴の「今治城」について

奈良時代の後期に伊予国が誕生し、この国の中心として国府(今の県庁)が今治におかれた。市史には、「国府在越智郡」という記述があり、国分寺(国ごとに建立された政治的に影響のある官寺。奈良の東大寺を総国分寺とした。)も近くにある。 

平安期、菅原道真の父・是善公が伊予の国司として今治に派遣されていたことは余り知られていない。 その関係からか道真公が京・府内の騒動で九州太宰府に左遷されたことは、西国・伊予に国司として父の在任があったからともいわれるが、道真が途中、父に会いに伊予の国に立ち寄ったかどうかは定かでないという・・?。



今治(いまばり)は戦国末期、藤堂高虎がこの地を統治する際に「今からこの地を治める」の意を込めて「今治」と命名したという。 実に単純明快である・・!、 
高虎については前にも記したが、近江国(滋賀)の生まれ。 浅井長政、羽柴秀吉らに仕え、姉川の合戦、賎ヶ嶽合戦、文禄の役(朝鮮の役)などで戦功をあげ、宇和郡7万石を与えられ宇和島城を築いた。 
その後も、戦功をあげて伊予国20万3千石の大名として唐子山の今治・国分城に入城し、後に海に面した今治城を築城した。 城郭は20万石にふさわしく堂々とした建築で、本丸には五層の天守閣が聳え、城門が九カ所、約20の櫓があったという。

今治は、目前に瀬戸内海最大の難所・来島海峡を望む海上交通の最重要拠点であったことは先に記した。 
瀬戸内水軍の動き、海峡や島々を挟む対岸の安芸国(現在の広島県)の情勢を警戒し、それらに即応対処する事が求められていた。 
高虎の発想は水軍の将としても一流で、城は海岸線の砂浜に海と一体になるよう築かれ、強固な海上要塞として完成し戦略的効果をも演出したという。
濠には、舟溜まりが用意され、水軍基地としての運用も可能となっている。当時は、内濠・中濠・外濠から成る三重の濠が造られ、常に海と繋がっていてその幅もかなり広い。特に、内濠の幅は60mにも及んでいた。
因みに、三大海水城は、他に高松の玉藻城、大分の中津城などである。

現在の今治城の外郭堀は築港や陸上交通の観点から埋めたてられ、外海と断絶してしまったようだが、暗渠にて濠の水は海と繋がっているという。
そのため海水が流出入し、潮の満ち引きで水位も変化し、堀には鯛やヒラメも泳いでいるらしい。 
海の水を湛えた堀に映る今治城の姿は、築城の名手が手がけた美しさを今の世に残している。 


今治市は、2005年 (平成17年) 1月、越智郡11町村(朝倉村、玉川町、波方町、大西町、菊間町、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、大三島町、関前村)の大型合併が施行され、新しい市となっている。
この結果、唯二の朝倉村、関前村が消滅してしまい愛媛県から村が消滅したという。 
因みに、2005年後半現在で村の無い県は、石川県、静岡県、三重県、滋賀県、兵庫県、広島、香川県、愛媛県、長崎県である。 
    

ここで市町村合併と「村」について
因みに、近年の「平成の大合併」での市町村の数の推移を見ると、合併前の1995年4月期には市の数663、町の数1,994、村の数577で市町村数3,234であった。ところが合併で変化した市町村の数は2008年11月現在で市の数783、町の数806、村の数193で市町村数1,782までになっている。
       
21世紀は、「帰郷の時代」(Uターン又はIターン)とも言われる。つまり村・田舎の時代が到来するといわれている。  
古里の自然や人の繋がりは、懐かしいものである。 「」という字を、漢字源で調べてみますと、村は『木+寸』で、「寸」は手の指をしばし押し当てること、つまり人々がしばし腰をおちつける木のある所を表すという。 

「村の風土」は人が育つために欠かせない要素で、人間は地上で生まれて死んで地に帰るものであって、つまりは地から離れるわけにはいかないのである。 だから、人は地の徳(地の恵み)をよく考えるべきであると。
我々は、その地で採れたものを食べ、身体を成長・維持させ、そして、死んでやがて地に帰る。 地の恵み・「風土」に育まれて、活かされながら生きている。

身土不二」(しんどふじ)という言葉がある。
元々は仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せないという意味である。
昨今は、食養運動のスローガンとして「地元の旬の食品や伝統食は身体に良い」とされ更に、「人と土は別のものでなく一体である」、「人の命と健康は、食べ物で支えられ、食べ物は土が育てる。 故に、人の命と健康は、その土と共にある。」という捉え方で、「医食同源」という言葉と根っこは同じである。 

明治時代の人は、四里四方(16km四方)でとれる旬のものを正しく食べようという運動のスローガンに掲げた。 現代の日本でこれができたら先ずは最高の贅沢といえるし、出来る条件は何処かといえば、それは村であり、農村地域のあろう。

昨今、話題になる「帰郷の時代」はもっと具体的で現実的である。 
それは一つに「団魂の世代」(一般に1947年~49年生まれの世代)、二つに「少子化問題」、三つに「環境の時代」が要因になると言われる。
この世代の人口は700万人位といわれ、来年、再来年(2006、2007年)の定年退職者が4~500万人相当が対照になるそうで、「2007年問題」と呼ばれる。 
これらの人々の5割以上は、都会から田舎に移って、(所謂、Iターン、Uターンと言われる現象)第二の人生を田舎でのんびり・・?、暮らしたという願望があるそうだ。

又、今年(2005年)あたりから、日本は少子化時代に入ったようで、2006年の1億2700万人をピークに、日本の人口は減りつづけると予想されている。 
この人口減少は、地方や田舎では特に深刻で、過疎化や高齢化では現実の問題になっている。 
地方の行政当局者は、如何に人口減を無くするか、いかに人を増やすか、その為にはどうするかが第一の大きな職務と言われている。 
現在は、産業育成の成長時代から環境、又は自然保護の時代と言われる。 
人間生活の基本は衣・食・住であるが、ここに環境が加わり、これが意外と大きなウェイトを占めているという。 

その原点は田舎にある
経済的にも中流となった人々は、精神的にも安定した生活を求めようとしているはずであり、これは一種の田舎への回帰現象とも言える。
現実に、「三位一体」、「地方分権」の施策が進みつつあるようで、これからの21世紀は地方の時代、田舎の時代に移りつつある象徴のようでもある。
 

序に、「村」についての最近の話題を一つ・・、
岡山県に新庄村(しんじょうそん)という極小さな地域がある。 人口約1300人足らずの村で、県の北西部に位置し鳥取県と境を接する。
2005年3月に、周辺地域・上房郡北房町、勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村ら5町4村が合併し「真庭市」が発足している。
ここで真庭市は面積は県下自治体の中で最大になったという。 
又、同年・同月に隣接する新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町・哲西町の1市4町が合併により新たな「新見市」が発足している。

その新庄村は大地域となった真庭市、新見市との間に挟まれ、今にも押し潰されそうな存在になっている。 
当初は当然両市から合併話はあったようであるが、新庄村は敢えて単独で存続することを選択したのである。 
1990年より就任4期目となった村長の小倉 博俊氏は 「小さいからといって合併しないといけないということはないし、財政問題のみで合併してはならない。合併したとしてもメリットが無いと予想されるし、夢やビジョンも見えない。又、新庄の村民には歴史や文化を大切にしていて、自分たちのことは自分達でやるという主体性がある」との強い意向を示している。 
村民はそんな村長の意向を全面的に支持してきたという。 

つまり、吸収合併して大地域となったとしても僻地には変わりなく、行政においても僻地地域ということで取り残される恐れもあるし、尚且つ合併によって自主性が失われ、独自の政策が執りにくくなるというのである。
一郡一村となった新庄村は、行政と地域住民が一体となった村造りを真っ向・正面から取り組んでいるといわれ、この様な村は、現代の理想郷とも言うべきもので、当然、Uターン者、Iターン者も多いのではと想像される。

平成14年度に、新庄村のPR用に制作した「健康で元気な村づくり」と題するテレビ30秒CMが、2002年度ACC(全日本シーエム放送連盟) CMフェスティバルにて銀賞並びに審査員特別賞を受賞したという。 
国内のラジオ・テレビのCMコンクールとしては最も権威があるものとされていて、新庄村のような自治体の作品が上位入賞することは全国的にも珍しく、岡山県においては民間会社のCMも含め、初めての快挙だという。

次回は、今治・「泰山寺



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2011年2月14日月曜日

日本周遊紀行(80)波方 「村上水軍」

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 日本周遊紀行(80)波方 「村上水軍」   、


来島海峡大橋


来島海峡は海賊大将・村上水軍の発祥地

大西町から波方町の半島付け根を横断して今治に入り、程なく今治・尾道ルートと言われる「瀬戸内しまなみ海道」へ通ずる西瀬戸道と交差する。
近くに今治I・Cがあり、中国・山陽地方の尾道へ抜けることが出来る。
小生は四国一周をするつもりなので、当然、このまま国道196を行くことになる。 

この時、偶然にも「大三島」において山火事が発生している。 とカーラジオが報じていた。
大三島は、この瀬戸内しまなみ海道の中間にあたり、大小の島が連なる内の最大の島である。
「瀬戸内しまなみ海道」(本四連絡道路・今治―尾道ルート、西瀬戸自動車道)は、愛媛・今治市と広島・尾道市間を来島海峡大橋や多々羅大橋など十本の橋で結ぶ、文字通りの「海の街道」(全長約六十キロ)である。
すべての橋が徒歩や自転車で渡れるといい、珍しいのは四国側玄関の今治市にある世界初の三連つり橋の来島海峡大橋(愛称・くるくる橋ともいうらしい)といわれる。 
急流で名高い来島海峡は「海の大名」といわれ、室町から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した「村上水軍」ゆかりの地でもある。


瀬戸内海は太古から、九州はむろん大陸や朝鮮半島から畿内に向けてのルートとして、重要な交通の要所である。 
然るに、この内海を堰堤のように大島、伯方・大三島、生口・因島などが阻んでいる。
海流や船舶はこれら島々の間を縫うように流れるのであるが、特に、南端の来島海峡は瀬戸内海の主要航路のようで、大小の主な船舶はこの航路を通過するようになる。

この今治と大島(吉海町)の間にある来島海峡は、「内海では一に来島、二に鳴門、三にくだって馬関瀬戸」と詠われたように、鳴門海峡、関門海峡とともに日本三大急潮として知られる。
潮流が10ノット(時速18.52キロ、1時間に1海里〔1852メートル〕)にもなる所もあり、特に動力の無い時代には、船を操作するのに特殊な技術が必要であった。 
この辺りの海難の地が、往時、海賊を発生させる要因になったのかみしれない、

海賊」とは、陸の山賊と同じで、武装した略奪者集団というものであり、「海賊」という言葉のイメージは恐らく昔も今もこれと変わることはない。 
だが史上遡って室町から戦国時代になると「海賊」は盗人的蔑称でなくなり、「海賊大将」などと誇らしげに自称する軍事勢力であり、それらを統率する首領も現れてくる。 
海賊は、軍事力を備えた戦術を行使する「水軍」と呼ばれるようになったのである。


60年程続いた南北朝の時代に、南朝の後醍醐天皇の懐良親王(かねよししんのう・後醍醐天皇の第11皇子)を助けたとされる「村上義弘」が頭角を現し、村上水軍の基盤を確立した。
一時は、瀬戸内全域を制する海賊大名であったが、織田水軍(和歌山・九鬼)と2度戦い、2度目の戦いで織田水軍が仕立てた鉄甲船(紀伊の九鬼水軍)の前に大敗し、次第に勢力を弱めていった。 
更に豊臣秀吉の時代になり、海上の権力を警戒した秀吉によって海賊禁止令が出され、次第に衰退してゆくが、中世の歴史を語るのに村上水軍を外して語れないともいわれ、晩年、朝廷より義弘公は正五位を賜っている。


来島海峡大橋のすぐ西側に、周囲1kmほどの小島が「来島」である。(来島の南に実際に「小島」という島もある) 
往時、来島・村上水軍がここに根拠をもち、来島城の城塞が全島をめぐらしていたという。
しかし、水軍の将家・来島家も、徳川幕府の成立にともない豊後(大分県)に移封され、その後再び今治に戻ることはなかったという。 

こんな、村上水軍の古跡の地に、今でも、その精神、技術が継承されているのだろうか・・?、大西町、波方町(現今治市)には、造船で有名な来島ドッグがある。 
戦前は、軍艦などを建造していたが、現在は日本でも有数の産業用の造船所として伊予地方の経済を支えている。
戦後、経営難に陥った「来島ドック」の再建を引き受けたのが、伊予地方出身(松前町)の坪内寿夫であることは有名な話である。
社長に就任いらい伊予商人独特の月販方式(月賦販売、今で言うクレジットは伊予今治が発祥地といわれる)などをテコに急成長し、その後も佐世保重工業など造船会社の再建を相次ぎ引き受け、巨大な造船グループを築いたことで、業界では造船の神様、四国の大将とも称される。

次回は、「今治



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2011年2月13日日曜日

日本周遊紀行(79)菊間 「菊間瓦」

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 日本周遊紀行(79)菊間 「菊間瓦」  ,



菊間の町は、いぶし銀に輝く美しい「甍の波」が冴える

可愛らしい「坊ちゃん列車」を横目に見ながら、瀬戸内の北条方面を目指す。
国道196号を北上すると眩しいほどの瀬戸内海へ出る。久しぶりの内海の海で、風も無く、いつものように海は穏やかであった。 
西方・紺碧の海上にコンモリとした緑一色の島が浮かぶ、「鹿島」である、当地では別名「伊予の江の島」と呼ばれるらしい。

小生、地元の湘南・江の島を思い出すが、やはりこの地も四季折々の景観を呈する観光名所になっていて、島へ渡るには渡し舟で行くらしい。 
首都圏の二本も道路(江ノ島大橋)が架かる(車道、歩道の2本)湘南・江ノ島と違って、何とも優雅で結構である。 


北条の先に大浦という港があって、ここから波妻鼻(岬)が出ばっている。 
この付け根から見る海岸線もまた実に綺麗で、盛夏には海水浴客で一杯になることだろう。
この先、R196通称、今治街道は美しい海岸線をしばらく走る。 
交通量は結構多いので、窓の外の景色に見とれて事故など起こさぬようにと、自分に言い聞かせて車を滑らせる。



菊間町の民家の瓦が、いぶし銀に輝いていて美しい「甍の波」を見せている。 
菊間は、全国に誇る菊間瓦の産地であり、銀色に輝くことから別名「いぶし瓦」とも呼ばれている。 
700年の歴史を誇ると言われており一般の屋根瓦の他、独特の形状をした鬼瓦や飾り瓦なども生産されており、各地の名高い神社仏閣やお城の屋根などで見ることができるという。 

道後温泉本館や松山城、そして明治17年皇居造営に際しては菊間瓦が特選の栄誉を賜っているという。
昭和になって生産工程や燃料などが近代化され、瓦職人の数も最盛期に比べると少なくなっていが、こうした中、昔ながらの工法を続ける鬼師は伝統工芸として世襲家系に今なお続いており、各地の名高い神社仏閣にその名をと留めている。町の施設としては珍しい「かわら館」(瓦のふるさと公園内)があり、菊間瓦の歴史や伝統的な製造工程の模型をはじめ、様々な瓦作品が展示されている。瓦の製作体験実習もできるという。



菊間の町並みを過ぎ、太陽石油の大きな石油タンク群をを左に見る。 
菊間から大西町、予讃線が相変わらず山側を、ほぼ並行して走っているが、その丘陵というか山肌は濃い緑におおわれている。どうやら蜜柑の木であろう。
関東より以西は、みかんの木などは珍しくないが、その中でも愛媛県は全国一のみかんの産地であり、瀬戸内の温暖な陽光を浴びた、菊間、大西町は古くからのみかん農家が多いのである。

蜜柑は愛媛、和歌山、静岡が県別収穫量のベスト3と言われる。
その歴史は比較的新しく、愛媛の場合200年ほど前の江戸末期、南伊予の吉田町辺りが発祥といわれる。 
元々は中国浙江省の温州地方が原産地で、始め九州に伝わり、その後和歌山・有田地方で栽培が盛んになったといわれるが、同時期、伊予地方でも栽培されたという。
通常の小粒の愛媛みかんを「温州みかん」とブランドとして称しているが、愛媛県下ではその他にも多様な品種が生産されている。
その代表的なのが伊予柑であるが、その他にも主要なものでネープル、八朔、ポンカンなど20数種に及んでいるという。 
この辺りの越智今治地域はネープル、八朔が多いようであるが、菊間、大西町の蜜柑の種類は何であろうか・・?。

次回は、波方の「村上水軍



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