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2011年2月12日土曜日

日本周遊紀行(78)松山 「日露戦争と秋山兄弟」

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 日本周遊紀行(78)松山 「日露戦争と秋山兄弟」  ,





秋山好古(兄)と秋山真之(弟)


明治期、日露戦争を勝利に導いた「秋山兄弟」

小生が数年前、病床において(大腸ガン)読破した司馬遼太郎の大著に「坂の上の雲」がある。
明治期の日露戦争の名将・名参謀である秋山兄弟と歌人・正岡子規を軸に、四国・松山出身の三人の男達の友情と国家存亡の一大叙事詩である。 
日露戦争のおいてロシアの名高いコサック騎兵を破った秋山好古(あきやま・よしふる)、日本海海戦の参謀・秋山真之(あきやま・さねゆき)兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、明治の群像を描いている。

この陸海軍に分かれた二人の兄弟が、まだ当時東洋の一小国であった日本を、亡国の悲運から救ったと言っても過言ではない。
弟の真之と子規とは、東京の下宿の一室で起居を共にした程の親交であった。


秋山兄弟は、松山藩士の子として松山市歩行町2丁目に生まれている。
兄・好古は日露戦争の「黒溝台の戦い」では30kmにも及ぶ最左翼を守備し、僅か八千の兵で十万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。 
コサック騎馬隊は単銃なのに対し、好古の申し出によって日本陸軍で初めて機関砲(騎兵砲)が配備され、この戦いで大活躍をした。 

好古は、身だしなみには全く無頓着で、下着もろくに着替えず、天気の良い日にはよくシラミ退治をしていたという。
しかし、時計の様な几帳面な面もあり、晩年、中学校の校長時代には毎日、馬で登校し、一日も欠勤や遅刻をせず、きっかり二十分前には出勤するので、沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であったという。 後の陸軍大将、勲一等章


弟・真之は正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊し、俳句や和歌なども学び、文学的才能にも秀でていたという。 
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節に、『 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 』や、Z旗(国際信号旗の一つ)の信号文の『 皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ 』は参謀・真之の有名な一節であり、子規より得た文学的才能が開花した名文として歴史に残った。 

兄同様、身なりなどを気にしない性格であったが、日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における東郷平八郎の訓示(連合艦隊解散の訓示)の草稿を秋山が作成したもの。 この文章に感動した、時の米大統領ルーズベルトは、全文英訳させて米国海軍に頒布したともいわれる。
東郷平八郎は、真之を「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と評価した。 海軍中将。


日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から、今年(2005年)は100周年に当たる、奇しくも五月であった。
日本海軍の旗艦であり、司令長官・東郷平八郎、参謀・秋山真之が乗った戦艦「三笠」が神奈川県・横須賀港の三笠公園に停泊している。(横須賀の項で記述あり)

松山市は、「日露戦争100周年」、「21世紀の新しい町造り」として、司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」をモチーフした「坂の上の雲・まちづくりチーム」を発足させたという。
正岡子規と秋山兄弟の三人の生き方を通して訴えている「夢」や「理想」や「目標」を持って、前向きに行動していく素晴らしさを市民みんなで共有し、「松山らしさ」を演出し、その情報を全国に発信にすることにしている。 
内容は、「坂の上の雲・記念館」(建築構想)を中核施設として、松山全域を一つのフィールドミュージアムとし、主人公にまつわる事物を探索・発見・収集・再現しようととするものという。

又、NHKは平成19年度(2007年度)以降の放送に向け、司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」を原作として、21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」の制作を開始している。 
放送は、平成21年度 (2009年度)に、総合テレビやハイビジョンなどで1回・75分の枠で、20回程度を予定するらしい。
 

道後を辞して、一旦、松山市内へ向かう。
市街の中心に緑豊かなお椀を伏せたような小高い丘がある、丘といっても標高130m程度であるから小山といったほうがよい、山の名前は「勝山」というらしい。 その山頂に、華麗な天守閣が見えている、松山城である。 松山という地名は、秀吉の頃(戦国期)、賤ヶ岳の合戦で有名な七本槍の一人・加藤嘉明が拝領し、お城と城下町を築いたときに周辺地域の赤松の見事さに感嘆し、城下周辺一帯を「松山」と名付けたという。
正岡子規や夏目漱石が居た頃は、町並みと松並とが調和して美しかったに違いないが、今の街にその面影は無い、緑の松山は、勝山だけになってしまった感もある。 
子規がこの故郷の町に帰ったとき城山に登って・・、

『 春や昔 十五万石の 城下かな 』 

と、のびやかに詠っている。

この山上、中腹、麓からなる城構えを平山城と呼び、姫路城、和歌山城とともに松山城は日本三大連立式平山城と称され、我が国最後の完全な城郭建築といわれる。 創設者は、豊臣秀吉の重臣、賤ヶ岳の七本槍の1人でもある加藤嘉明である。 
初め伊予・松前六万石の城主であったが、「文禄・慶長の役」(豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮を侵略した戦争)等の活躍により10万石に加増された。 

1600年の「関が原の戦い」の戦功により伊予半国20万石に加増された嘉明は、初めて「松山」と雅称し、松山城の築城にかかる。 
堅固にして壮麗な連立式五層天守の松山城がほぼ完成したのは、26年を過ぎた後のことであった。 ところが嘉明はその完成を喜ぶ暇もなく、同年、奥羽の要の会津若松(福島県)40万石に転封されている。 
永い歳月を費やした一大牙城を、いくら倍の会津40万石への栄転にしても、完成直前(9割以上)の城を後にしなければならなかった加藤嘉明・主従の心境はいかばかりであったろうか・・ ?。 入れ替わりに名将・蒲生氏郷の孫・忠知が入城している。 
蒲生氏は、奥州藤原氏の系統に属する鎌倉時代からの名門であり、奇しくも戦国期の雄・蒲生氏郷自身は以前、30数年間会津藩主であった、これも因縁であろうか・・?。

次回は「菊間



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2011年2月11日金曜日

日本周遊紀行(78)松山 「正岡 子規」

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 日本周遊紀行(78)松山 「正岡 子規」   、




正岡 子規の旅姿



余りにも有名な、 

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』  

松山出身の「正岡子規」の句である。   


本館の至近、湯築城址でもある道後公園の緑が映える。
湯築城(ゆずきじょう)は、中世、松山を拓いた河野氏が築城し、当時は松山の中心でもあった。
今では公園になっていて道際に、大きな「子規記念博物館」があった。 
子規は慶応3年、松山市花園町3番地(松山市駅から徒歩3分位、現在は石碑のみで生家は“子規堂”に移る)に生をうけている。 
俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である。 
中でも舶来したばかりの「野球」に心底熱中したことは先に記したが、尚且つ、旅に遊んだ。 

子規の徒然の旅の途中、奈良路では・・、

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』 

は誰でも知ってる子規の代表的な句である。


鎌倉路での・・、

『 大佛の うつらうつらと 春日より 』 も良い。


14、5歳の頃から機会あるごとに未知の自然風土や古跡に接して詩情を養い、見聞をひろめたという。 
明治の頃、鉄道がようやく普及しはじめた頃、東北・陸奥の「芭蕉」の足跡を訪ねている。 
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規はいとも気楽だった・・!、
  
『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』

、と芭蕉顔負けの秋田まで脚をのばしている。 


この時に、芭蕉の『奥の細道』にちなんだ「はて知らずの記」を残している。 
紀行文集の一編に「旅の旅の旅」というのもあり、日本周遊を終えた今、こうしてペン・・?をとっている小生には一端(ひとは)通じるのを感じる。

子規は、35歳の若さでこの世を去っている。
辞世の句、絶句になった・・、

『 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな 』 享年34。


この句は、自分の死を既に仏に成るまで達観し、冷静に見詰めている。
子規の忌日の9月19日を(1902・明治35年)「糸瓜(へちま)忌」としている。 これは「秋の季語」でもある。 
又、子規自身、自分のことを「獺祭亭主人」と号していたから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。 獺(かわうそ)は獲物を集め、巣の周りにたくさん並べて置いておく、それを称して「獺祭」といい、子規の生きようとする意欲が食へのこだわりにつながり、看病する母や妹が枕元へ常に食物を並べて置いていたという。



子規は、死を迎えるまでの約7年前から結核を患っていたという。
病床の中から「病床六尺」を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録であると評される。 
反面、闘病日記である「仰臥慢録」は、読む人をして、心が痛んで、とてもまともには読めないともいわれる。

本名・常規(つねのり)であるが、雅号の「子規」とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。 
そのとおり子規の文学は、その病と切っても切り離せないものであった。
子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の、鎌倉旅行の最中であったといい、医師に肺結核と診断される。 当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なくなり、この時、子規は「ホトトギス」の句を作り、はじめて自分を「子規」と号するようになった。

『 新年や 鶯鳴いて ホトトギス 』


ホトトギスは、カッコウとも呼ばれ杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑などカッコウ科に分類される鳥である。 
特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵(たくらん)して育ててもらう習性で知られている。托卵とは、ある鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛させることで、仮親の卵より早く孵化し、本親の卵を巣外に排除してしまうという、特殊な習性をもつ。


俳諧雑誌「ほととぎす」は明治30年(1897)、正岡子規の友人・柳原極堂の手により刊行された。
発行部数は当初は300部程度であったが、出版が東京に移ってからは読者は全国に拡がり、名実共に日本俳句派の機関紙となった。 
和歌や新体詩が入り、幅広い文芸誌となり、38年からは夏目漱石の小説「吾輩は猫である」を掲載、これが大変な人気となって文芸誌としての道を歩んでいく。 
「坊っちゃん」も、「ホトトギス」が初出版している。
子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった、1895年3月3日、新橋をたち中国の大連に向っている。 

新橋からの出発に先立ち・・、

『 雛もなし 男ばかりの 桃の宿 』 と詠んでいる。


むろんこの日は3月3日で桃の節句だった。それなのに別れを惜しんでくれる女性もいないとスネているのである。 だが心中、戦地に赴く「心意気」も感じられる。 
しかし、中号・大連に着いた頃は、既に事実上の戦争は終わっていたのである。 
帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院して須磨で保養した後、松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友「夏目漱石」の下宿でしばらく静養していたという。



序ながら、俳人・正岡子規は幼少時代から「秋山真之」とは親友であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊、和歌や俳句などを教えたともいう。
その影響からか、秋山は軍人ながら名文家としても知られており、後に「秋山文学」と称せられるほどの文章家であったという。
秋山兄弟と正岡子規の物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で日露戦争を背景として描かれている。

次回は、その「秋山兄弟



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2011年2月10日木曜日

日本周遊紀行(78)松山 「霊場・石手寺」

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 日本周遊紀行(78)松山 「霊場・石手寺」   、




伊予随一の51番霊場・石手寺本堂と「マントラ洞」入場門



『 伊予の秋 石手の寺の 香盤に 
       海のいろして 立つ煙かな
 』 与謝野晶子


小一時間、本館の由緒ある温泉に入浴し、施設、周辺を見学して退出した。
奥道後のNTT保養所「拓泉荘」へ戻り、宿の朝食を格別美味しく戴いて、改めて本日の行程へと出発する。
先ず、本館のすぐ近く、昨日も今朝も門前を通過しながら車中より一見しただけの第五十一番霊場・「石手寺」である。 
入り口に大きな御影石に刻印された石柱に「熊野山・石手寺」とあった。

小川に架かる小さな狐狸橋を渡ると両側に、未だ開店前の土産物屋などが軒を並べている。 参道を進むと荘厳な堂々たる仁王門(国宝)が建ち、巨大な「わらじ」が通路の両脇に置かれてあり、その横に霊場巡りのお遍路さんであろうか、願掛けの小草鞋が多数吊るしてあった。
この門は鎌倉時代の造営で、両側内の仁王像・金剛力士像(阿ア形像、吽ン形像)は同時代の代表的彫刻家・運慶の作といわれ、これはもう完全に国宝クラスの像物である。 

門をくぐると右手に均整のとれた華麗な三重塔がそびえ、それと 並んで鐘楼が建っている。この鐘楼前の歌碑(冒頭)は道後を訪れた時「与謝野晶子」が詠ったものという。 正面一段高いところに緑に囲まれて本堂があり、並んで大師堂が建っていた。

今も尚、四国霊場第五十一番の札所では伊予地方随一の名刹として松山地方の大師信仰の中心であり霊験あらたかなところから、善男善女の参詣は後をたたないという。
建造物の大半は国宝、重要文化財となっており、四国霊場の中でも由緒ある寺の代表的な一つである。
又、小高い山の上に一際大きな弘法大師像が立つ、それは像体は中国を、顔はインドを向いているともいわれる。

地元出身の正岡子規もお堂の多さに・・、

『 石手寺や 何堂彼堂 弥勒堂 』 

と面白可笑しく詠んでいる。


この寺は、聖武天皇(奈良初期)、伊予国司・「越智玉純」(おちたまずみ)が天皇の勅願を受け、鎮護国家の為に伽藍を創建して、はじめ「安養寺」として名を付けた古寺であったという。
寺院境域は66000平方メートルという広大な敷地を持つ。奈良中期に、「衛門三郎」と弘法大師の縁起から「石手寺」と名を変えたという。 

この衛門三郎こそ、「元祖、四国巡礼者」であったとも云われる。 
ある日、伊予の住人「衛門三郎」が、托鉢(修行僧が、各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けてまわること。乞食・コツジキ)で訪れた大師に向って「帰れ、このくそ坊主」と悪行をなした。すると忽ち一家は破滅的天罰が下り、その原因が托鉢の僧にあったことを知る。 三郎は大師に一目会って懺悔すべく旅立ち、伊予から讃岐へ、更に阿波、土佐を経て大師の後を追い、四国の道を二十周して力尽き、息をひきとる間際、大師に会うことが出来たという。 大師は懺悔を聞きながら手に石を握らせた。 次の年、伊予国司、河野家に「左手に石を握った男子」が誕生し、安養寺の住職は「衛門三郎の再来」として、寺の名を「石手寺」と改めたという。 衛門三郎の善行を聞いた人々が、四国を巡る遍路に出るようになったともいわれる。
遍路行者達は、古刹・名刹に巡拝し心を清め、更に、名湯道後で身体を洗い流して明日への活力としたのであろう。

『 西方を よそとは見まじ 安養の 
          寺に詣りて 受くる十楽
 』 御詠歌




石手寺の本堂前に展開する華麗な建築物は謂わば、大師の教えを貫く精神世界である。 表の顔という人もいる。 
ところが、この石手寺は珍しく別な顔を持つもう一つの世界があるという。 
本堂裏手にある「マントラ洞」というのがそれで、怪しげな部分を代表するシロモノは「裏の顔、常ならざる陰の世界」とも云える世界を演出している。
先ず、入口は「曼荼羅」として木造の普通の門に相当する造りであるが、周辺の飾り物はイカにも奇妙な代物なのである。

曼荼羅とは、本質を有するものの意で、特に仏界では悟りの世界を象徴するものとされる。 この奥に洞窟があって異次元の空間が広がっている。その洞窟も幾つかあって「都卒天洞」(とそつてんどう)、「地底マントラ」、「大仙窟」等の名称がついていて、これらは人間の苦しみ、人間のむごさ、人間の痛みなどの苦しい人生模様を現しているともいわれる。

本堂前の華麗な世界は、精神が昇華する願いを込めた世界であり、一種、願望と理想を描いているが、反面、裏の洞窟に広がる暗欝な世界は、現実的な不屈の精神界を表現しているようでもある。
この苦しみに負けず、生きるものは幸福へと進もう」とする不屈の呼びかけであろうか。
石手寺は、二つの世界が体験出来るのである・・!!。

次回は、「正岡子規



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2011年2月9日水曜日

日本周遊紀行(78)松山 「道後温泉」

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 日本周遊紀行(78)松山 「道後温泉」  ,



道後温泉本館


本館浴槽・「神の湯」




「道後温泉・本館」は、やはり日本一の公衆浴場であった・・、

華やかな道後温泉から車で,約15分ほど山あいに入った所に道後の奥座敷・奥道後温泉があり、この山ふところに抱かれた静寂の地にNTTの奥道後保養所「拓泉荘」があった。
宿へ着くなり、先ずは湯に浸かるのが慣わしである。

お湯は、奥道後の源泉らしく、肌ざわりの良いツルツルしたお湯である。
浴槽の縁(ふち)に木の枕があり寝湯を楽しめるようになっている。慌しかった今日一日の心労を、この瞬間に垢と一緒に洗い流す、至福の一時である。泉質はアルカリ性単純硫黄泉で、かすかに硫化水素臭が感じられ。泉温・42度 、効能・神経痛・関節リウマチ・痛風・貧血など。
源泉は当館地下800mから湧き出ている豊富な湯量で、道後温泉よりも良質であるといわれる。 
聞くところ、すぐ近くに巨大な温泉レジャーランドと称するホテル奥道後があって、なんと500円でジャングル温泉など、温泉三昧で一日遊べるらしい。暇があれば覗くんだったけど。



今朝は、よく整頓された小奇麗な部屋のフカフカ布団で眼が覚めた。
今日も窓から差し込む明かりは良天気が約束されたようで、時計の針は午前5時半を指している。
未だ、睡気が覚めやらぬまま、着替えもせずに浴衣のまま「道後温泉本館」へ向かう。

本日最初の目標、早朝の本館入湯にで出かけるのである。
本館は未だ6時だというのに、浴衣着の浴客で既に賑わっている、中には記念写真組も。 
外観は圧倒的な和風建築で道後温泉のシンボルに相応しく、木造三層楼の風格のある建物で屋上に振鷺閣(しんろかく:ギヤマンを張り巡らせた太鼓楼があり、朝に夕に時を告げる刻太鼓が温泉情緒を漂わせている)というのが取り付けられている。
明治27年に建築され、共同浴場としては初めて国の重要文化財に指定されている。

“道後温泉”と刻んだ由緒ありそうな看板を潜り、入湯料300円を払って入場する。 
広い桧板張りの更衣室で、ガラスの引き戸を隔てた浴室は明るく広々している。
浴槽は、御影石て造られ特徴的な湯釜から給湯されている。 
浴槽は大きく20~30人程入れる大きさであるが、もう既に満員状態であった。小生と同じく観光記念客が殆どであろう。 
男風呂には「神の湯」という浴室が二ヶ所(東室、西室)あり、同じ大きさであるが、壁飾りの陶板焼壁画が異なる。 

女湯は、楕円形の浴槽が一つあるのみらしい。 
48℃の源泉は無色透明、無味無臭の綺麗な湯で松山市で一括管理され、適温で配湯されているらしい。
早朝、人いきれのなかで、ゆったり手足を伸ばして名湯に浸かるのは、実に良い気分である。睡気を洗い流し、身も心もスッキリさせて今日一日の活力を生む。


この温泉本館は夏目漱石が松山を舞台にした自伝的小説「坊ちゃん」でもお馴染みである。この浴室、浴槽で、主人公で数学教師の坊ちゃんが泳いだことで、生徒に見つかり、冷やかされ、悶着を起こした、という下りがある。

夏目 漱石は、「吾輩は猫である」、「こころ」などの作品で広く知られ、森鴎外と並ぶ明治時代の文豪である。 
東京帝国大学時代に、ここ松山出身の正岡子規と出会い、子規は同窓生であった漱石に多大な文学的、人間的影響を与えたという。
この時期に、初めて「漱石」という号を表した。
漱石28歳の時、子規の推薦があったかどうか定かでないが、松山の松山中学(現、松山東高校)に教師として転勤赴任している。
坊ちゃん」の主人公は漱石自身とされているが、教頭の「赤シャツ」だとする説もある。 写真の容貌から察すると、「赤シャツ」似かな・・?。

文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任したのは、本館の完成した翌年のことである。 漱石はその建築に感嘆し、手紙や、後の彼の作品「坊っちゃん」の中で「温泉だけは立派だ」と絶賛している。 

実際に、頻繁に通ったともいう。
手紙によれば、八銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また三階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである。
小説の中では「住田」の温泉として登場する。あまりにもこの印象が強いため、本館は別名、「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。


余談だが、松山市内を走るチンチン電車(路面電車・伊予鉄道)に、今、「坊っちゃん列車」とやらが走っているという。 明治期の模擬SLが牽引しているミニ列車のことで、小説「坊っちゃん」の中で、軽便鉄道時代の伊予鉄道が「マッチ箱のような汽車」として登場しており、四国・松山中学に赴任する坊っちゃんがこれに乗ったことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになったという。


湯上りに様子を伺いながら・・?、浴室内の様子をカメラに収めることにした。
「スンマセン・・写真一枚撮らせてください」、
「オ・・、イイヨ・・」と気兼ねのない返事が返ってきたので早速、パチリ・・!。 
途端に係員の女性に見つかって
写真は遠慮してください・・!」、
「スンマセン」当り前である、非常識である、判ってます・・はい・・!!。 


湯上り散歩に館内をぶらつく。
中央廊下の突き当たりから階段を上がると、二階には大きく仕切られた大広間の休憩所があり、更に三階には、老舗の旅館の客間を思わすような落ち着いた雰囲気の部屋休憩所がある。さらに奥まったところは「坊っちゃんの間」というのがあって、夏目漱石ゆかりの記念の部屋らしい。

館(やかた)を出て建物を一周してみる。城郭式の木造建築で、裏側という俗っぽい概念は無いらしく、四方が、それなりに意味をもった造りになっていた。 
華やかな本館正面から見ると、左に今入浴した三層の神の湯、右手に二層の洒落た造りの棟があり、大小の建物が連結されている。 
反対側(東側)から見えるのは、三段屋根がある「又新殿」という皇族専用の浴場及び部屋で、やはり格式のある造りになっていて、明治中期に完成したものとか。この皇室用の各間は、さすがに優雅な造りで「武者隠しの間」などの特別仕立ての部屋も在り、明治から昭和まで皇族の御入浴は十回程あったという。 
北側の一階にある三つの入口は、往時当初の出入り口だという、振鷺閣の上で羽を広げるシラサギも、北を向いている。
 

古事記」や「万葉集」にも登場し、3000年の歴史を誇る日本最古の道後温泉は、日本三古湯の一つとされる。  
神話の時代、古事記に大国主命(オオクニヌシノミコト・大地創造の神)と少彦名命(スクナヒコノミコト・大国主と協力した国土の神)が出雲の国から伊予の国へと旅して、当温泉に浸たったと記されてる。 聖徳太子が病気療養のため道後温泉に滞在したのをはじめ、奈良期には天皇や多くの皇族方が行幸したとされてる。

因みに、「道後」の名の由来は国府が伊予国(現在の今治市)に置かれた頃、京から見て国府よりも遠い地域を「道後」(道前、道中)と呼び、名残が道後及び道後温泉の名前の起こりとされている。


日本三古湯は一般的には、道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)と言われ、何れも今回の周遊で立ち寄って来た温泉である。
小生の田舎(実家)の「いわき湯本温泉」(福島県浜通り地方)も古く、奈良時代には開湯されてて道後、有馬とともに三古湯とされる場合もある。 
いずれも神話の時代からの長い歴史を有する温泉である。



市街地に広がる温泉街は、例によって巨大なホテルや旅館が並ぶが、一方、古き良き湯の町の情緒も、そこそこに感じられ残っている。
駅前には新名所として、本館100周年を記念して造られたという人気のスポット、「坊ちゃんカラクリ時計」がある。1時間毎に漱石の小説「坊ちゃん」に登場する人物をモチーフした人達がユーモラスに登場し踊りだすという。

次回は、五十一番霊場・「石手寺



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2011年2月8日火曜日

日本周遊紀行(78)松山 「野球王国」

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 日本周遊紀行(78)松山 「野球王国」  ,




伊予松山に野球王国を作り上げた大元は、「正岡子規」であった・・、

松山道は、松山市の南端で西よりへ向かい、瀬戸内の西条市からさらに高松へ延びている。
松山ICより、待望の松山市内へ入ったようであり、一旦、国道33号線へ出る。
この国道は土佐の高知から内陸部を通って松山に到るもので、松山側からは「土佐街道」、高知側からは「松山街道」と称しているようである。 

次に、松山のほぼ市街に入ったところで、国道11号線と合流する。こちらは阿波の徳島を起点として讃岐の高松を経て、伊予小松と、ほぼ瀬戸内沿岸から松山に達している。通称、松山側で「伊予小松街道」、この先を「讃岐街道」と言っているようだ。
小生、20代後半、仕事で瀬戸内の直島(岡山県玉野市のすぐ前にありながら四国・香川県所属=香川郡直島町)で半年間、出張勤務してた時期があった。作業勤務が終了して、本社(東京)へ戻るとき、休暇をとって四国の主要都市を巡る一周の旅をしたのが、この二つの国道ルートであった。


松山市街は夕刻時でもあろうか、車の往来も激しく、人の行き来も気ぜわしく感じる。 
しかし、首都・東京周辺の気違いじみた渋滞や喧騒は無く、やはり、田舎の都会なんだなあ・・、と実感する。 
石手川の立派な橋を渡って間もなく、都会の真中に「松山商高」があるのに気がついた。 
四国は高校野球が盛んで全国的にもレベルが高い、愛媛県はその筆頭だろう。
その中で松山商高は歴史、伝統ともに抜きん出ていることは、高校野球ファンならずとも大衆が認めるところであろう。
 

高校野球ファンの小生には、この松商の試合で強烈に印象に残っているのが二試合ある。
一つは昭和44年・夏の大会決勝戦の試合である。
この時は小生、勤務を早引きして近所の公民館でテレビ拝見した時の事である。相手は青森県・三沢高校である、通のファンなら「ああ、やっぱりあの試合か・・」と思うに違いない。
優勝経験が豊富な甲子園常連の伝統校と、本州最北端の文字どおりの田舎チーム。 
戦前からこのような試合展開を予想した人がいただろうか。 松商といえば、全国2,500余校の野球部が目標とするには申し分のない、日本高野連も太鼓判を押す模範校である。 
一方、青森県東方・田舎の都市の代表・三沢高校は、高校野球不毛の地として定着していた。陸奥から突然変異的に現れたポッと出の無名チーム、ハナから勝負にならないだろうと思う人がいても無理はない。

投手は、松商・井上明、三沢・大田幸司。 
試合は両投手とも好投して0対0のまま譲らず、遂に延長15回を迎える。 松商は、無得点で、その裏、三沢の攻撃である。 今まさに、この田舎チームは伝統的な日本野球そのものみたいな松山商業に対してとんでもないことをしでかそうとしていた。 それは、陸奥(みちのく)の人々の誰もが見た「全国高校野球の頂点」という夢に、史上最も近づいた瞬間であった。
先ず、5番菊池からの攻撃。粘った菊池が5球目を左前に運んで出塁。 6番高田は2球目を三塁前にバント、三塁手谷岡が猛然とダッシュしてくる、これを名手谷岡がジャックルして一塁も二塁もオールセーフだ!両軍を通じてこの試合初めてのエラーが、何と鉄壁の守りを誇る松山商業に出て、無死一二塁である。 三沢高校はサヨナラの走者を得点圏(2塁上)に置いてなおノーアウト。 7番谷川は、プレッシャーの中で初球のバントを失敗し、続く2球目を投手前へバント。 井上が猛ダッシュして一塁に送球、アウトで見事送りバントが成功・・!、松山商業は1死二三塁という重大なピンチに立たされた。 8番滝上、9番立花は今日ノーヒットで当たりが出ていないのでスクイズも十分考えられる。 球場全体が異様なムードに包まれる中、滝上への初球、井上は外角に外してボール。 松山商業の一色監督はバッテリーに敬遠策を指示したようで、滝上は敬遠の四球を選ぶ、これで1死満塁・・!、9番立花が打席に入る。 井上-大森バッテリーはスクイズを警戒しながら、立花への初球、さらに2球目も、外し気味に流れる外角のカーブで0-2。 三塁側アルプスの三沢高校応援団は大歓声だ。 井上は暫し間をおいて、立花に対してカーブを続けた0-2からの3球目は直球、コースは決まらずストライクを取りに行った球が内角高めに外れるボールだ。

その瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。1死満塁、カウントは0-3!大変なことになった。井上が絶体絶命の危機に立たされ、3球続けてストライクを投げないと押し出し!無常にもこの試合は終了し、陸奥の地に初めて深紅の大優勝旗が渡る、その瞬間が迫っているのである。 
小生もこの瞬間を固唾お呑み、手に汗を滲ませながら食い入っていた、気がつくと、TVの前は初め数人であったが、いつの間にか黒山になっている。公民館の職員も、はたまた近所の勤め人も、一時仕事を放り投げて、この場所に詰め掛けたのだろう。
小生も東北出身(福島県・いわき市)のはしくれであり、深紅の優勝旗が白河の関を越えることは、東北、北海道人にとって永年の悲願であった。今だから書けるが、小生の出身母校である磐城高校は、この年の来々年の昭和46年、第53回夏季大会の決勝戦で神奈川県・桐蔭学園に1対0で敗れ、悔しくも、惜しくも優勝を逃しているのである。その後も、宮城の仙台育英、東北高校が夏の決勝戦に臨んだが、いずれも敗退している。

さて、こうなった以上、決着はついただろう、この様子を見守る誰もが、そう信じたに違いない。 どうする!井上・・!!、 後日談だが、この時、松商ナインはカウントが0-3になった時点で負けを覚悟したという、しかし井上は違ったらしい。 4球目、渾身で投げた球は真ん中低めのストライクで1-3。 問題の5球目は更にドロンとした低めの真ん中である、この瞬間、我々傍(はた)では、「よし、決まった」、と思ったに違いない。 打席の立花も、背番号10の主将で三塁コーチャーをしていた河村も低いと思ったはずだ。 「やった!」三沢ベンチに座っていた太田が腰を浮かせた次の瞬間、ひと呼吸おいて郷司球審が右手を上げてストライク・・!、球場内の至るところから「アーッ!エーッ」」という歓声とも悲鳴とも聞こえる声が上がった。 この時、試合中だというのに、この判定に対する抗議の電話が全国から大会本部に殺到したという。

以下、攻守交替するまで、1球、1投、1打すさまじいドラマが連続するが、ここでは割愛する。 松山商業は絶体絶命のピンチを井上の決死の粘投で奇跡的に切り抜け、井上投手にとっては、まさに15回裏・奇跡の25球であった。試合はその後、両者得点無く延長18回終了で翌日再試合になり、結局、松商が4対2で勝ち、優勝しているのは周知である。
次には平成8年・第78回夏季・決勝戦で松商は熊本工と対戦、延長11回、やはり奇跡的とも言える粘りの試合で全国優勝をものにしているのである。


因みに、この記憶に残る大試合から実に35年後、悲願の深紅の大優勝旗は昨年(2004年)、白河の関はおろか津軽海峡を越えて、一気に北海道の地へ上陸した。東・北海道代表「駒大・苫小牧高校」が全国制覇したのだ・・!!。 くしくも、この時の相手が愛媛県代表の済美高校である。 更に驚くべきことに本年(2005年)の大会も駒大・苫小牧高が連続優勝している。
小生、2004年の秋、東日本周遊の際、全国優勝したての駒大・苫小牧高校を訪れて見た。 正門の前に立ち、大きく張られた横断幕「祝い・全国制覇・・・」を感慨深げに拝見したのが記憶に新しい。
 

【追記】
平成18年(2006年)の 第八十八回夏季大会に於いて、何となんと・・!、駒大苫小牧が3年連続、決勝へ「駒」を進めたのであった。 相手は早稲田実(西東京)・・、
決勝戦は8月20日、早稲田実・斎藤投手、三回途中から救援の駒大苫小牧・田中投手の両右腕が冴え、息詰まる投手戦は1対1のまま延長戦となり、十五回両者譲らず、驚くことに引き分け再試合となった。(大会規定)
決勝戦・再試合は翌日行はれ、早稲田実が4―3で勝利し、27回目の出場で初優勝を果たした。 早稲田実は1回、2死一、三塁から船橋の適時打で先制し、2回にも川西の適時二塁打で1点を追加。6回、7回には、四死球で得た好機を生かして加点した。準々決勝から4連投の先発・斎藤は、140キロを超える速球と鋭い変化球で13三振を奪い、無四球で完投した。 駒大苫小牧は6回、三谷のソロ本塁打で1点を返した。9回には中沢の2点本塁打で1点差に迫った。主戦の田中は、先制を許した直後の1回2死一、二塁から登板し、後続を断った。その後も連打を許さず投げ続けたが、無念ながら、駒大苫小牧の史上2校目の大会3連覇はならなかった。

それにしても、今年の高校野球は、中盤から接戦・熱戦で盛り上がり、決勝戦に至っては近年、稀な程の熱気で、そのピークに達した。無論、北海道の駒大苫小牧が3連覇なるかにあったことは言うまでもないが、早稲田実の斎藤投手が「ハンカチ王子」と持て囃され、一種のヒーローが出現したことにもよる。そのため、少女から中年のオバサンまでもが甲子園に足を運び、大騒ぎで大盛況であった。

因みに、今年のプロ野球で、パ・リーグは北海道・札幌に根拠を持つ「日本ハム・ファイター」が優勝している。高校野球も、プロ野球も今年の野球は大盛況であり、特に北海道民の野球ファンは、堪らない年であったはずである。


さて四国、そして愛媛は野球王国と知られているのは衆知である、それはプロ野球の出身者を見ても判る。
野球発祥の地・アメリカに倣って「野球殿堂」というのが有る。
日本のプロ野球などで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ、また野球の発展に大きく寄与した人物に対して、その功績を称えるために創設された殿堂である。 
この殿堂に現在160人が居て、その内の9人が愛媛出身であり、さらにその内の6人が松山商高の出である。
この中で目を引くのが、最近(2002年)に殿堂入りした松山出身の「正岡子規」であろう。
正岡子規については次項にも記すが、この子規は上京して野球を知り、熱中するようになった、合わせて、愛媛に野球を伝えたという。
幼名は升(のぼる)、この名に因んで野(の)球(ぼーる)を野球と命名し、四球、死球、飛球、打者、走者といった、今も使っている訳語をつくり出し、定着させたという。
この正岡子規によって愛媛の野球が盛んになり、古豪・松商の存在があるとも云われる。

『 夏草や ベースボールの 人遠し 』 子規



松山商高のすぐ近くを走る国道11より、道後温泉へ向かう。
「勝山」という、国道同士が交差する大きな交差点より、松山の路面電車が並行するようになる。都市型の乗り物の代表格であった市電(又は、都電)も、今では交通事情によって次々と姿を消し、珍しい存在になりつつある。 
明治36年開業し、東京都内を縦横に走っていた都電も完全に姿を消したようだが、北海道の札幌、函館では今でも現役で、今朝の高知でも、その姿を拝見したが。 
失礼、都電は1972年以降は、荒川線(荒川区・三ノ輪橋駅から新宿区・早稲田駅、12、2km)のみは運行されている。 

市電とは市営電車の略称で、市営の路面電車のことである。 ただし、市営でない路面電車のことまで市電と呼ぶこともある。 この場合は市街電車・市内電車の略と思われる。松山の市電は伊予鉄道(株)という民間会社が経営する路面電車、所謂、市街電車のようである。 
松山駅前から来たのであろうか、「道後温泉」行きの市電とすれ違う、このまま路線を辿って行けば道後温泉に着くようである。 

上一万」の交差点を右に行くと、間もなく温泉地へ着いたようである。 
奥まった旅館、ホテルや土産商店街が並ぶ中心に、あの夏目漱石の「坊ちゃん」で知られる「道後温泉会館」が貫禄たっぷりに在った。 周囲を、ほんの少々ブラツイテ・・、温泉会館の情報を伺うと早朝6時より営業していると聞いた。 小生の今夜の宿場は「奥道後」で、これより更に4kmほど奥まった所であり、時間も迫っているので本館入浴は明日早朝と腹に決めた。
こんもりした道後公園、子規記念館から、第51番霊場の「石手寺」の前を通り、石手川に沿って山あいを行くと、目指すNTT保養所「拓泉荘」が判りやすく在った。

次回は、松山・「道後温泉



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2011年2月7日月曜日

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 日本周遊紀行(77)宇和、大洲 「おはなはん」   、



完成ホヤホヤの「大洲城」



古風で教育熱心だった宇和地方の小都市・「宇和」 、

南伊予の海岸は山並みが海岸線にまで押し出し、これが複雑に重なり合っている所謂、リアス海岸を形成している。 従って、そこを走る道は山間を縫う様に、曲折しながら延びている。
吉田町は、こんな沿岸山地の一角にある。 

陸奥・仙台から赴任してきた宇和島藩主の伊達秀宗の五男・宗純が三万石を分与されて吉田藩を創立、居館をこの吉田の地に定めている。
今でも武家屋敷や豪壮な商家など風格ある家並みが、往時の姿を留めている。


トンネルが連続する中、法華津トンネルは宇和町と吉田町の町境にあたる。
近世まで、南伊予・宇和島あたりは街道の行きつく果てと云われた。
旧道の峠は、かつては宇和島街道最大の難所といわれ、この最後の道程に「羊腸の小径」(箱根八里の歌詞から引用)たる法華津峠(ほけず)を越さねばならない。 

仙台の伊達秀宗一行の小勢が、瀬戸内海を渡り、遥々この地まで来て法華津の峠に立ち、宇和海と行き着く土地柄を眺めた時の感慨は如何ばかりであったろう・・?、
今では、名勝とも言われる法華津の峠である。 

頂上に立つと、眼下にリアスの入り組んだ海岸と紺碧の宇和海が織りなす、伊予屈指の大展望が開けるという。現在、この下を立派な国道が峠を刳り貫いて法華津トンネルが通貫している。 

峠を下ると田園文化の町・宇和町に達する。藩政時代・宇和島藩に属し、純農村地帯として藩の米倉の役目を果たしていたらしい。
又、宇和町の国道を右に、古風な中町の町並みが整然としている。 
幕末から明治初期、宇和島街道の宿場町として栄えた面影を残している。
その北の一角に、外観洋式の「開明学校」がある。 
明治15年に建築された西日本最古級の現存する小学校舎で、モダンな校舎は国の重要文化財に指定されている。
尤も、明治5年の学制発布以前に、開明学校の前身である「申義堂」というのが、既に開かれていたという。

シーボルト(ドイツの医学者、動、植物学や民族学者、出島のオランダ館長、日本に深い理解者)の弟子蘭学者・二宮敬作と彼に師事した高野長英(陸奥・水沢出身、江戸後期の医者・蘭学者)、村田蔵六(山口・周防出身、後の官軍総督・大村益次郎)、シーボルトの娘・お稲などが学んでいたといい、明治以前から学問が盛んな土地柄であった。 
現在は教育資料館として私塾時代の教科書など数千点を展示している。

因みに長野県松本市の松本城(黒城といわれる国宝)近くにある日本最古といわれる校舎・「開智学校」とは親善友好、文化財保護、教育文化等の進展に寄与し合おうと、「開明学校」とは姉妹館提携を結んでいるという。
宇和の町外れ北部に、昨今、松山道も開通している、その松山道に乗る。南海の僻地も今では近くなった。


大洲と長浜・・
松山道を一旦「大洲」で下りる。
トンネルを抜けると突然、大洲(おおず)の町並みが広がる。
清流の一級河川・肱川(ひじがわ)の肱川橋付近、すぐ左に美しく華麗な天守閣が見えている。
平成16年、豊富な資料をもとに木造で復元したというピカピカの「大洲城」である。

初期の築城は鎌倉末期、伊予の守護として赴任してきた宇都宮氏が築いたという。 
宇都宮氏の本家はご存知栃木・下野の国で、鎌倉戦国期、源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた武家本流の家柄で、伊予・宇都宮氏はその庶流(分家・本家から分れた家柄)といわれる。

戦国期、脇坂安治(近江出身戦国時代の武将、豊臣秀吉の部将賤ヶ岳の七本槍の一人、小田原征伐)が関ヶ原戦後は伊予大洲に封じられた時、現在の近い姿に改築された。
お城の天守は通常は三層か五層の奇数階であるが、こちらは珍しく四層四階の天守構造に成っていて、更に複連結式天守(大小の天守が繋がっている様)と呼ばれる構えでもある。 
大洲城はその後戦乱に合うこともなく、明治維新後、政庁布令によって天守は取り壊された 。 しかし、城下町は今でも、その古い佇まいを残しており、武家屋敷や臥龍山荘、赤煉瓦館といった名所等、伊予の小京都と言われる風情をみせている。 

昭和41年のNHK朝のテレビドラマで明治中期の大洲市を舞台にした樫山文枝、高橋幸二らが演じた「おはなはん」のロケが行われたことから、「おはなはん通り」という名称もあり、市民に親しまれているという。


河を渡った大洲の街並みも静かな落ち着いた佇まいである。 
肱川(ひじかわ)が、この地区で大きく湾曲していて、そのため古くは河湊としての「津」(湊、港)があり、克っては大津と呼ばれていた。 
ところが、赴任してきた脇坂安治が出身地の近江・大津と紛らわしいので「大洲」としたといわれる。
この湾曲した川州を利用して城下への交易、流通を盛んにし、商家として大いに発展した。
更に上流(現在の肱川町あたり)からは筏流しや川船で木材や木蝋などの特産品を水運していた。


肱川の河口に架かる、跳ね上げた状態の長浜大橋(赤橋;長浜町)


愛媛県を代表する川でもある肱川の河口に長浜町(現大洲市)があり、この河口に珍しい橋が架かっている。 
長浜大橋、通称「赤橋」と呼んで地元民は親しんでいる。 
架橋当時の旧長浜町は、秋田・能代(秋田杉・・)、和歌山・新宮(熊野杉、桧・・)とともに日本三大木材集積地として繁栄。上流から運ばれる木材を機帆船で京阪神地区へ出荷していた。 その際、上流に造船所や木材等の物資を運ぶ機帆船が航行することから、開閉式の橋が建設されたといわれる。 
この橋は一部が動いて船を通す可動橋であるという。

一般に、可動橋の方式には三種類あって、一つは橋桁が跳ね上がる「跳開橋」で、赤橋はこのタイプである(バスキュール式)、二つ目は橋桁が旋回する「旋回橋」(日本三景の一つ「天橋立」に架かる小天橋回旋橋)、三つ目はエレベータのように上下に動く「昇開橋」である。 
跳開橋には、東京の勝鬨橋(かちどきばし)のようにハの字型に開く橋もあるが、赤橋は片方だけが跳ね上がる。

昭和10年、待望の長浜大橋が完成している、現役の道路可動橋では日本最古となるという。
日本の代表的な開閉橋である勝鬨橋(※、東京都中央区にある隅田川に架かる橋)より5年早いという。
一時、撤去の話しも出たたが、地元の強い熱意で保存が決まり、生活道路として利用されているという。大戦中には米軍機の機銃掃射を受け、その痕が今も残っている。
1977年(昭和52年)、河口寄りに国道378号のコンクリート造の橋梁(新長浜大橋、長さ333m、幅10m)が架かり、幹線道路としての役割はそちらに譲ったが、現在でも生活道路として地元の車や通学の児童生徒によく利用されているという。1998年には国の登録有形文化財になっている。 過日、サンケイ新聞で1頁全面カラーで、この橋のことを記事にしていたのを思い出した。
伊予の小京都」と呼ばれる大洲市は、2005年(平成17年)1月、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併し、新しい大洲市となっている。

※、因みに、小生初めて東京へ出て銀座見物した折、偶々(たまたま)、勝鬨橋を通ろうとして、その開閉に出会ったことがあり、その時の迫力に圧倒されたのを覚えている。隅田川の第一橋梁である勝鬨橋は、昭和15年に竣工している。
しかし、残念ながら昭和45年以来「あかずの橋」になってしまったようである。完成当時は、東洋一の規模をほこり、わが国最初のシカゴ式二葉の跳開橋として知られてうたという。 
戦後、アメリカ軍がこの橋を見たとき、日本人が設計・施工したことを信じなかったそうで、近代史としても技術史としても大変価値ある橋である。
この「動く橋」を再起動させて、定例行事にすれば,東京の活性化,隅田川国際観光の大きなシンボルになり、動態保存にもなるということで、保存運動が盛んだというが、果たして・・?。 


再び、松山道を行く、もう陽がだいぶ斜めに落ちてきた。
内子町の街並みが山々に囲まれて、押しつぶされそうに佇んでいる。
平成17年1月に、内子町、五十崎町、小田町の3町が合併し新内子町が誕生している。
この先、松山まで重畳たる山波が連続する。 もっとも今までもそうだったが、大洲盆地を含む喜多郡、伊予郡もみな波濤とような山並みが浮き沈みしているのである。 
大洲の東、保内町で、その大山脈の片割れ片鱗が、東へ大きく大洋に向かって細長く伸び、佐田岬へ達している。
佐田岬は、付け根から先端まで「岬十三里」と呼ばれて50kmを超す「日本一長い岬」だそうだ。 豊予海峡に突き出ていて、大分県・佐賀関までの海峡は直線でわずか15kmまで接近している。 天気が良ければ九州の山並みが見ることが出来るという。
「さたみさき」は、九州本島最南端である佐多岬(さたみさき)があり混同し易い、「漢字の”た”」の字が異なる。 この後、訪れる予定でもあり楽しみにしている。

次回は、先ず野球王国・「松山



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 日本周遊紀行(77)宇和、大洲 「おはなはん」   、



完成ホヤホヤの「大洲城」



古風で教育熱心だった宇和地方の小都市・「宇和」 、

南伊予の海岸は山並みが海岸線にまで押し出し、これが複雑に重なり合っている所謂、リアス海岸を形成している。 従って、そこを走る道は山間を縫う様に、曲折しながら延びている。
吉田町は、こんな沿岸山地の一角にある。 

陸奥・仙台から赴任してきた宇和島藩主の伊達秀宗の五男・宗純が三万石を分与されて吉田藩を創立、居館をこの吉田の地に定めている。
今でも武家屋敷や豪壮な商家など風格ある家並みが、往時の姿を留めている。


トンネルが連続する中、法華津トンネルは宇和町と吉田町の町境にあたる。
近世まで、南伊予・宇和島あたりは街道の行きつく果てと云われた。
旧道の峠は、かつては宇和島街道最大の難所といわれ、この最後の道程に「羊腸の小径」(箱根八里の歌詞から引用)たる法華津峠(ほけず)を越さねばならない。 

仙台の伊達秀宗一行の小勢が、瀬戸内海を渡り、遥々この地まで来て法華津の峠に立ち、宇和海と行き着く土地柄を眺めた時の感慨は如何ばかりであったろう・・?、
今では、名勝とも言われる法華津の峠である。 

頂上に立つと、眼下にリアスの入り組んだ海岸と紺碧の宇和海が織りなす、伊予屈指の大展望が開けるという。現在、この下を立派な国道が峠を刳り貫いて法華津トンネルが通貫している。 

峠を下ると田園文化の町・宇和町に達する。藩政時代・宇和島藩に属し、純農村地帯として藩の米倉の役目を果たしていたらしい。
又、宇和町の国道を右に、古風な中町の町並みが整然としている。 
幕末から明治初期、宇和島街道の宿場町として栄えた面影を残している。
その北の一角に、外観洋式の「開明学校」がある。 
明治15年に建築された西日本最古級の現存する小学校舎で、モダンな校舎は国の重要文化財に指定されている。
尤も、明治5年の学制発布以前に、開明学校の前身である「申義堂」というのが、既に開かれていたという。

シーボルト(ドイツの医学者、動、植物学や民族学者、出島のオランダ館長、日本に深い理解者)の弟子蘭学者・二宮敬作と彼に師事した高野長英(陸奥・水沢出身、江戸後期の医者・蘭学者)、村田蔵六(山口・周防出身、後の官軍総督・大村益次郎)、シーボルトの娘・お稲などが学んでいたといい、明治以前から学問が盛んな土地柄であった。 
現在は教育資料館として私塾時代の教科書など数千点を展示している。

因みに長野県松本市の松本城(黒城といわれる国宝)近くにある日本最古といわれる校舎・「開智学校」とは親善友好、文化財保護、教育文化等の進展に寄与し合おうと、「開明学校」とは姉妹館提携を結んでいるという。
宇和の町外れ北部に、昨今、松山道も開通している、その松山道に乗る。南海の僻地も今では近くなった。


大洲と長浜・・
松山道を一旦「大洲」で下りる。
トンネルを抜けると突然、大洲(おおず)の町並みが広がる。
清流の一級河川・肱川(ひじがわ)の肱川橋付近、すぐ左に美しく華麗な天守閣が見えている。
平成16年、豊富な資料をもとに木造で復元したというピカピカの「大洲城」である。

初期の築城は鎌倉末期、伊予の守護として赴任してきた宇都宮氏が築いたという。 
宇都宮氏の本家はご存知栃木・下野の国で、鎌倉戦国期、源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた武家本流の家柄で、伊予・宇都宮氏はその庶流(分家・本家から分れた家柄)といわれる。

戦国期、脇坂安治(近江出身戦国時代の武将、豊臣秀吉の部将賤ヶ岳の七本槍の一人、小田原征伐)が関ヶ原戦後は伊予大洲に封じられた時、現在の近い姿に改築された。
お城の天守は通常は三層か五層の奇数階であるが、こちらは珍しく四層四階の天守構造に成っていて、更に複連結式天守(大小の天守が繋がっている様)と呼ばれる構えでもある。 
大洲城はその後戦乱に合うこともなく、明治維新後、政庁布令によって天守は取り壊された 。 しかし、城下町は今でも、その古い佇まいを残しており、武家屋敷や臥龍山荘、赤煉瓦館といった名所等、伊予の小京都と言われる風情をみせている。 

昭和41年のNHK朝のテレビドラマで明治中期の大洲市を舞台にした樫山文枝、高橋幸二らが演じた「おはなはん」のロケが行われたことから、「おはなはん通り」という名称もあり、市民に親しまれているという。


河を渡った大洲の街並みも静かな落ち着いた佇まいである。 
肱川(ひじかわ)が、この地区で大きく湾曲していて、そのため古くは河湊としての「津」(湊、港)があり、克っては大津と呼ばれていた。 
ところが、赴任してきた脇坂安治が出身地の近江・大津と紛らわしいので「大洲」としたといわれる。
この湾曲した川州を利用して城下への交易、流通を盛んにし、商家として大いに発展した。
更に上流(現在の肱川町あたり)からは筏流しや川船で木材や木蝋などの特産品を水運していた。


肱川の河口に架かる、跳ね上げた状態の長浜大橋(赤橋;長浜町)


愛媛県を代表する川でもある肱川の河口に長浜町(現大洲市)があり、この河口に珍しい橋が架かっている。 
長浜大橋、通称「赤橋」と呼んで地元民は親しんでいる。 
架橋当時の旧長浜町は、秋田・能代(秋田杉・・)、和歌山・新宮(熊野杉、桧・・)とともに日本三大木材集積地として繁栄。上流から運ばれる木材を機帆船で京阪神地区へ出荷していた。 その際、上流に造船所や木材等の物資を運ぶ機帆船が航行することから、開閉式の橋が建設されたといわれる。 
この橋は一部が動いて船を通す可動橋であるという。

一般に、可動橋の方式には三種類あって、一つは橋桁が跳ね上がる「跳開橋」で、赤橋はこのタイプである(バスキュール式)、二つ目は橋桁が旋回する「旋回橋」(日本三景の一つ「天橋立」に架かる小天橋回旋橋)、三つ目はエレベータのように上下に動く「昇開橋」である。 
跳開橋には、東京の勝鬨橋(かちどきばし)のようにハの字型に開く橋もあるが、赤橋は片方だけが跳ね上がる。

昭和10年、待望の長浜大橋が完成している、現役の道路可動橋では日本最古となるという。
日本の代表的な開閉橋である勝鬨橋(※、東京都中央区にある隅田川に架かる橋)より5年早いという。
一時、撤去の話しも出たたが、地元の強い熱意で保存が決まり、生活道路として利用されているという。大戦中には米軍機の機銃掃射を受け、その痕が今も残っている。
1977年(昭和52年)、河口寄りに国道378号のコンクリート造の橋梁(新長浜大橋、長さ333m、幅10m)が架かり、幹線道路としての役割はそちらに譲ったが、現在でも生活道路として地元の車や通学の児童生徒によく利用されているという。1998年には国の登録有形文化財になっている。 過日、サンケイ新聞で1頁全面カラーで、この橋のことを記事にしていたのを思い出した。
伊予の小京都」と呼ばれる大洲市は、2005年(平成17年)1月、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併し、新しい大洲市となっている。

※、因みに、小生初めて東京へ出て銀座見物した折、偶々(たまたま)、勝鬨橋を通ろうとして、その開閉に出会ったことがあり、その時の迫力に圧倒されたのを覚えている。隅田川の第一橋梁である勝鬨橋は、昭和15年に竣工している。
しかし、残念ながら昭和45年以来「あかずの橋」になってしまったようである。完成当時は、東洋一の規模をほこり、わが国最初のシカゴ式二葉の跳開橋として知られてうたという。 
戦後、アメリカ軍がこの橋を見たとき、日本人が設計・施工したことを信じなかったそうで、近代史としても技術史としても大変価値ある橋である。
この「動く橋」を再起動させて、定例行事にすれば,東京の活性化,隅田川国際観光の大きなシンボルになり、動態保存にもなるということで、保存運動が盛んだというが、果たして・・?。 


再び、松山道を行く、もう陽がだいぶ斜めに落ちてきた。
内子町の街並みが山々に囲まれて、押しつぶされそうに佇んでいる。
平成17年1月に、内子町、五十崎町、小田町の3町が合併し新内子町が誕生している。
この先、松山まで重畳たる山波が連続する。 もっとも今までもそうだったが、大洲盆地を含む喜多郡、伊予郡もみな波濤とような山並みが浮き沈みしているのである。 
大洲の東、保内町で、その大山脈の片割れ片鱗が、東へ大きく大洋に向かって細長く伸び、佐田岬へ達している。
佐田岬は、付け根から先端まで「岬十三里」と呼ばれて50kmを超す「日本一長い岬」だそうだ。 豊予海峡に突き出ていて、大分県・佐賀関までの海峡は直線でわずか15kmまで接近している。 天気が良ければ九州の山並みが見ることが出来るという。
「さたみさき」は、九州本島最南端である佐多岬(さたみさき)があり混同し易い、「漢字の”た”」の字が異なる。 この後、訪れる予定でもあり楽しみにしている。

次回は、先ず野球王国・「松山



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2011年2月6日日曜日

日本周遊紀行(76)宇和島 「和霊神社」

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 日本周遊紀行(76)宇和島 「和霊神社」   、




写真:和霊神社本殿




宇和島・和霊神社は一藩士が神霊として祀られている・・、

宇和島城の北・須賀川畔に高さ12mの石造りの大鳥居と夏祭りで名高い「和霊神社」が鎮座している。 
この神社は宇和島・伊達家に縁起するものであり、伊達家のみならず宇和島の守護神でもあるという。

南伊予(宇和島地方)の中世・守護(鎌倉、室町期)の時代は闇だったという。 
京の都から「西園寺」という食いつめ公卿一族が流れてきた。
一部の例外者を除けば、白粉を塗った中央官庁の役人が、南西の果てに流されてきて、土着の国、民に善政を施せる訳はなかった。 
鎌倉初期から室町末期(戦国時代)の凡そ350年間、西園寺氏から長宗我部氏の時代のことである。

戦国期、短期間ながら藤堂高虎が赴任した頃は築城もさることながら、まずまずの善政を執いたといわれるが、この前後の戸田氏や富田氏は、同様にいけなかったらしい。 領民は長年の悪性に荒(すさ)み、疲弊しきっていた。
戦国期も終わり、世は江戸期の安定期を迎えた頃の1614年、欧州の覇者・伊達政宗の嫡子・秀宗が、宇和郡十万石として赴任してきた。
宇和の疲弊し、荒みきっている事情を話に聞いて知った伊達政宗は長子・秀宗の宇和島執政に当たり、仙台・伊達家家老団の一人・民生・財政に詳しく、正宗の信任厚い「山家 清兵衛」(やんべ せいべい)を抜擢し伴わせた。 

清兵衛は藩財政の苦慮する中、藩内には厳しく、領民には善政を施した。特に農民に対する徴税を出来るだけ安くし、租税能力のない者は機に応じて免除したともいわれる。
この時期、日本史上でも民政家・山家 清兵衛ほど一地域の民衆の間で、深く尊崇されている例は絶無であろうといわれる。

藩主・秀宗が入部する際、本家仙台より相当額の借金をしてきた。
その返済の時期が迫り、本家よりの返納督促もあった。 この時、清兵衛は領民には藩事情は一切知らせず、藩内藩士の給金を一部返上(半額という説もある)して、その処置を行おうとした。 
この事が一部藩士の恨みをかい、政敵・桜田一派との確執のなかで政争に敗れ、1620年ついには暗殺されるにいたった。 領民は深く嘆き悲しみ、藩主に清兵衛の霊を慰むべく社を建てるよう懇願した。願いは叶って小さな社ができ、民衆はこぞって御参りしたという。  

藩主・秀宗は民の意を悟って数年後、この社を土俗神から京都の正使・奉幣使(ほうへいし:勅命によって幣帛〔へいはく 供物〕を山陵・神宮・神社に奉献する使者)を呼んで御祓いを上げ、正規に神社とし一社を改たに建立した。
これが和霊神社の起こりであり、 民意によって、しかも一藩士のための神社を起こした例は日本では皆無であろう。
清兵衛という、領民のための政治を行った江戸初期では珍しい行政家が、一藩の中心的「」に成ってしまった為、この藩の行政体質がその後引き締まったことは想像に難くない。
そのことは江戸末期、伊達宗城(だて むねなり)という名君が生まれたのは、無関係では無さそうである。

因みに、土佐・高知の龍馬の祖先である才谷屋(現「南国市才谷」出身で、高知城下で質屋を営んでいた。
幕末は土佐藩の家老や中老の家禄を抵当にして金銀の融通を行う商家。
坂本家の祖先に当たる)が、この社の事情に感じ入って和霊神社を坂本家の守り神として宇和島から分霊し建立している。 
幕末、脱藩の決意を固めた龍馬は、この和霊神社(高知市神田)に立ち寄り、同志・沢村惣之丞とともに水盃(別れの杯)をしたと伝えられている。 
高知・和霊社は、脱藩して大きく飛躍し新しい日本をつくった坂本龍馬の事跡を讃え、後世に伝えていくことを目的に例年、「龍馬脱藩祭」が行われているという。
 

宇和島・和霊神社は海上守護神としても信仰を集め、地元では「和霊さま」の名で親しまれているという。
境内には「和霊土俵」といって宇和島の代表的な闘牛場があり、宇和島最大の祭り、和霊大祭と相まって名物の闘牛大会が例年の時期に行はれる。

宇和島の闘牛は全国的に知る人ぞ知るで、当地方の代表的行事である。 
人間の相撲と同様、前頭から横綱まで番付があるが、闘牛は横綱は横綱、大関は大関、同じ格付けで闘う。もし仮に横綱と前頭を対戦させたとしても勝負にならないという。
闘牛は、八百長なしの真剣勝負の世界なのである。 
相撲には賞金が出るが、闘牛では「給金」とよばれるファイトマネーが支給されるという。 しかも敗けた方の牛に多く支払われるといい、勝牛4割、負牛6割と決まっているという。これには敗けた方の牛主に対する慰めの意味があり、宇和島ならではの麗しき伝統でもある。

闘牛の歴史は鎌倉時代に遡るという・・、
農民が農耕用の強い和牛をつくることから自然に野原で牛の角を突き合わせ、これを娯楽にしていたとの説もある。 
明治・大正期や戦後のGHQ(連合軍総司令部)により、一時期、規制や禁止されたが、庶民の闘牛熱はきわめて盛んで愛媛、隠岐、越後(新潟地震で大被害を被った、あの山古志村)の闘牛関係者等から陳情が繰り返され、2年後には解禁となった。 
今では正月場所と夏の和霊大祭場所は特に賑わい、客席は手弁当や一升瓶を提げた観客であふれ、2時間に及ぶ大勝負にやんやの喝采を送る。 和霊神社のほか、駅東方の丸山山頂に、ドーム型の宇和島市営闘牛場がある。

平成10年8月、島根県隠岐郡西郷町の提唱により「全国闘牛サミット協議会」が発足、関係市町村において「全国闘牛サミット・全国闘牛大会」が開催される運びとなり、宇和島市は築城400年祭記念事業として、平成12年には「第3回全国闘牛サミット・全国闘牛大会」を盛大に開催した。

海岸沿いにR56のバイパス新道が走っているが、市内の旧道をそのまま前進させる。 
賑やかな栄町の五差路を過ぎると、和霊という町名や建物、施設がやたらと目に付く。 
緑濃き和霊公園の須賀川を挟んだ向こう側に和霊神社が鎮座している。 
和霊の交差点を左折して須賀川を渡り過ぎると、すぐに街の喧騒からも離れる。

次回は、宇和から大洲方面へ、



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